錦林多摩記
2009年10月
10月1日
陰暦 八月十三日

 ここ一週間ほど仕事がとても忙しかったのですが、やっと一息つきました。

 もうちょっと絵が上手になりたいなあ。もーちょいで何かつかめそうな気がするんだけれどそれが何か分からない。寝入りばなとか夢の中でたまに目指す絵が見えることがあります。ある日脳裏に浮かんだ絵は、いずれ描けるようになります。これまではそうでした。絵が上達する前には必ず絵が見えました。

 欲が出てきたというのでしょうか、これまでは自分の満足のいく絵であれば十分だと思っていたのですが、今は人から評価される絵を描きたいという気持ちが強いです。けれども流行の絵が描きたいというのとはちょっと違います。でももうちょっとでなんとかなりそうな感じがします。

 今年中にはその夢で見た絵をものにして、来年はレベルアップしたマンガが描けるようになりたいです。何千何万人を酔わせたいだなんて大それたことは考えていません。本を買ってくれた人に値段分は楽しんでもらえる、そんな絵描きになりたいです。

 こうしてみると、やはり僕は絵に恋をしているのかもしれないな、そんな気がしてきます。なかなか女性とも縁がなかったり、仲良くなれた女性とも前に進まないのは、別のものに心が奪われていることに向こうも感づいているからなのかもしれません。

 この前好きな人ができたら一緒に料理がしたいという夢を語ったことがありましたけれども、その人の絵を描いて捧げたいたいというのがもっと強い願いです。

 明日からちょっと旅行へ行ってきます。



10月4日(日)
陰暦 八月十六日 【望】

 無事帰ってきました。

 写真をいっぱい撮ってきましたので、明日以降整理して旅行記にまとめます。

 今日はもう遅いですのでご報告まで。



10月5日(月)
陰暦 八月十七日 【達磨忌】

 暑さ寒さも彼岸までとはよくいったもので、急に冷え込んでまいりました。ストーブを出そうかと思うくらいです。今日の夜は毛布は必須でしょう。

 昨日は急に新幹線の中で友人から連絡が入り飲むこととなり、帰りが遅くなったので寝るのが遅くなってしまいました。しかも今週は身体検査があるのに、夕食を二回食くはめになってしまいました。体重が戻っていたらやつのせいにしよう(笑)

 とはいえ、今回の旅は余裕を持ったスケジュールにしましたので、そんなに疲れることもなく、今日も順調に仕事をこなすことができました。今回は写真の枚数が多いので整理に多少時間がかかりそうです。



 とりあえず、きれいに撮れていた一枚。土曜の朝に降りた北陸本線糸魚川駅の車庫です。戦前の建築物なのでしょうか?煉瓦に趣があって良いですね。



10月7日(水)
陰暦 八月十九日

 地火明夷という卦があります。正しい者が不遇の時を託つことを表した卦とされています。その爻辞は殷周革命の顛末を記しているのだという解釈もあります。

 しかし、かなり難解な爻辞でして、伝統的解釈もほとんど当を得ていません。この卦が殷周革命を表していることだけは伝わっっているもの、爻辞についてはさっぱり分からないというのが正直なところであるようです。

 しかし良く読んでみれば第五爻に「明夷はこれ箕子なり」と答えが書いてあります。つまりこれは箕子のことだと素直に解釈するべきです。まず先にいつも通り爻辞の解釈を述べ、そしてなぜ箕子が明夷なのかを名前の意味から解き明かし、次いで各爻の細かい解説をしていきましょう。(旅行記は写真の整理が大変なので来週に回します)

(36)地火明夷
卦辞
伝統的解釈
セラフィー解釈
 明夷は艱を貞って利あり  明るい太陽が地中に沈んで暗闇が覆うように、(文王や箕子のような)有徳の人が不当な迫害をうけている状態。
 艱難を自覚して、苦しみつつ正道を歩むとき吉である。
 基本的に伝統的解釈と一緒。
 しかしより具体的に箕子の生涯を称賛した卦と考えられる(後述)。
爻辞
伝統的解釈
セラフィー解釈
上六不明は晦、始めは天に上りて、後には地に入る 暗愚な者が最高の位をしめている。
 今は最高の位にいるが、道理に逆らうことばかりしているので、そのうち引きずり下ろされて地面の底に埋められるだろう。
 最初は上って最後に地面の底に沈むのは太陽。
 太陽が隠れる日蝕は不明の最たるものである(殷周革命の時期と推測される紀元前十一世紀中期の支那では日蝕が頻発している)。
六五箕子はこれ明夷、貞って利あり 箕子は紂王を諫めたが受け入れられなかったので狂人のふりをして難を逃れた。
 韜晦(自分の才能を隠す)して苦難を逃れるべし。
 箕子は明夷である(要するに爻辞の種明かし)。
六四入は左腹なり、明夷の心を獲て、門庭に出たり 暗愚な君の腹の内を読めるので被害を受ける前に逃げ出すことができた。 微子啓は王の知恵袋。
 箕子の信頼を得て、三監の乱で荒廃した宋の君主として朝廷に推薦された。
九三明夷南に狩りする、其れ大首を得む、貞ひて疾くすべらかざるなり 暗愚な君主に忍耐の限度を超えて、討伐の軍を起こす。大いに革命を成功させるであろう。
 けれども拙速であってはいけない。
 牧野の戦いと三監の乱で箕子が挙兵していれば、王位を得ることも不可能ではなかっただろう(けれども自制して挙兵しなかった)。
六二夷は左股なり、拯として用いられし馬壮なり 左の腿を傷つけられるが(伝統的解釈では夷を"傷つく"と読む)、馬の助けを借りて逃れる。
 ひどい難儀に遭うが、迅速な対処で抜け出せる。
 箕子は王を助ける股肱の臣である。
 丞相として用いられた騎士である。
初九明夷は飛ぶ
其の翼を垂れ
君子は行く
三日も食はず
有攸往
主人に言うこと有り
 被害が小さいうちに危険な国から逃げ去る。
 しかし飢えに襲われるなどの苦難が待っている。
 翼のような明智を持った箕子が紂王を諫めに行く。
 国の行く末を案じてもう三日も何も口にしていないほどである。


 まず箕子の説明から。箕子とは商の王族で、商王朝最後の王である帝辛(紂王)の伯父だったといわれています。箕子は仁徳があり、帝辛からも庶民からも信頼されていました。けれども帝辛が政治に倦み、奢侈に流れ、世が乱れ始めたのを憂いて帝辛に直言をしますが不興をかこって遠ざけられてしまいます。

 時あたかも西方の周は力を蓄え、文王と武王は諸侯からも慕われていました。商の命運が長くないことを悟った箕子は、身体に入れ墨をして狂人を装い、封地に閉じこもりました。やがて周の武王は帝辛討伐の兵を挙げ、商王朝は呆気なく滅びてしまいます。武王は箕子の徳を高く買い、師として教えを請い、強いて服従の礼を取らせませんでした。

 その後箕子は遼東に封じられたとも、朝鮮の祖となったとも言われています。

 さてその箕子ですが、諱(いみな、本名)を「胥余(しょよ)」といいます。余は商の王子に与えられる尊称ですので、「胥」が名前の本質と言うことになります。「胥」は「疋」の繁字です。意味は全く同じです。では「疋」の原義は何であるかというと字統によるとこれは「足と脛」であるということになります。

 足だなんて変な名前だと思うかもしれませんが、古代の日本の人名には「タラシヒコ」というのが良く出てきます。これは「足彦」ですのでおかしくはありません。漢字の「足」には「助ける」という意味があります。「補足」「満足」にその意味が残っていますね。即ち胥余とは王を助ける王子という意味になります。分家の王子だった箕子に相応しい名前です。

 さて胥余がなぜ箕子と呼ばれるようになったか、箕という土地に領土を持っていたからと言われていますが、本当にそうでしょうか?字統で「箕」の意味を調べますと、竹で編んだ"み"(種籾と籾殻をふるい分ける道具)という意味からの派生として「足を伸ばして座る」という意味があることが分かります。

 つまり 胥余→足→足を伸ばして座る→箕子 という連想なのです。

 東アジアでは諱は他人には絶対に明かさず、普段の生活では字(あざな)を使います。字は諱に近い意味、あるいは逆の意味の言葉を使うことが一般的でした。ですので、箕子とは胥余の字ではないかと考えられます。

 ではなぜ箕子が明夷なのか、これも分かってしまえば簡単です。

 夷とはかがんで座る(蹲踞・・・うんちんぐスタイル、ヤンキー座り、体育座り)ことを表す漢字です。

 最近ではあまり言われなくなりましたが、二十年くらい前までは「日本人はすぐに蹲踞をするからみっともない」とよく言われました。支那人や欧州人は人前では決して蹲踞はしないからです。

 蹲踞は支那の南部の民族や東南アジア人そして日本人の習慣です。いわゆる照葉樹林文化、海人族に伝わる習慣です。これは屈葬にも関連があるかもしれません。甲骨文字を生み出した古代支那人は、東方の民族を表す言葉として"夷"を使いました。

 もう分かりましたね、箕子→足を伸ばして座る←→足を曲げて座る→夷 となるわけです。即ち明夷とは箕子を指す暗語と言うことになります。



10月8日(木)
陰暦 十月二十日 【寒露】

 それでは地火明夷の内容を初爻から解釈していきます。

 初爻は一見して分かるように韻を踏んでおり、詩から抜き出してきていると推測できます。

  明夷于飛 垂其翼
  君子于行 三日不食
  有攸往  主人有言

 翼と食は漢和辞典によるとyi(第四声)で共通です。時代と土地によって漢字の読みは音は変わっても、平仄はあまり変わりませんので、翼と食は足韻を踏んでいることになります。更に辞書によると、古くは食と言も同じ読みだったことがあるらしいので、この詩は三聯とも韻を踏んでいることになります。

 この中で一つだけ意味不明な部分があります。有攸往です。これは易経には何度も出てくる表現です。詩経にも出てきたような気がします。伝統的解釈では「いくところあり」と読みますが判然としません。

 そこで「字統」を引いてみますと、有はお肉を神様に捧げること、攸は禊ぎ(水で身体を浄める)をすること、往は王の安全を祈願する魂振りの儀礼とあります。

 さらに漢和辞典で音を調べると、有(you第三声)、攸(you第一声)、往(wang第四声)であり、音が似ています。

 即ちこれは神様を敬う方法を三つ並べたわけで、「わっしょい」とか「よいしょ」というような一種の掛け声でないかと思います。

 以上のことから初爻の意味を解説しますと、

  翼のような明智をそなえる箕子が飛んでいく
  君子が行くよ、世の乱れを憂いてもう三日も何も喉を通らないほど
  有攸往、王様に直言することがある

 となるでしょう。西周の時代には箕と其は区別がありませんでしたので、垂其翼にも箕子が隠れていると言うことになります。


 第二爻です。

  明夷 夷于左股 用拯馬壮

 古来難解とされた句です。特に左股の解釈に皆苦労しています。左という字には「助ける」という意味があります。左大臣や補佐という言葉に痕跡が残っています。股(また)は信頼する身内という意味に使われることがあります。股肱の臣です。したがってこれは明夷は王の股肱の臣という意味でしょう。

 字統によると「拯」は穴に落ちた人を抱えて助け出すという形象文字です。そこから丞相(大臣)という意味が派生します。「壮」の解釈には白川先生も苦労しているのですが、商の青銅器には王族の紋章に壮のへんである「爿」が多用されており、身分を表す標識ではないかと推測しています。ですので「馬壮」とは「馬に乗る王族、騎士」という意味ではないかと思います。

 したがって第一の意味は

  明夷は王の股肱の臣
  大臣として重用された騎士である

 ではないかと思います。

 しかしこの句には裏の意味があると私は考えています。股のつくり「殳」は「發(発)」に通じます。発というのは武王の諱です。武王の名前は姫発です。そして「拯」には救い出すという意味があります。したがって第二句の裏の意味は、紂王に冷遇された箕子を武王が助けた、そして箕子も武王に協力したと言うことになるのではないでしょうか。

  箕子は武王(姫発)を助けた
  箕子を苦境から救い出して重用したのは武王(馬壮)である


 第三爻です。

  明夷于南狩 得其大首
  不可疾貞

 狩りは軍事行動のことです。支那では南は上位ですので、南に狩りをするというのは主君を攻めるという意味になります。またここでも「其」即ち「箕子」が出てきます。大首というのは頭目というような意味です。

 箕子は周の武王が商の紂王討伐の兵を起こしたときに静観しました。これが商の滅亡を後押ししました。

 武王は紂王を滅ぼしたあと、紂王の王子の武庚に商の土地を継承させ、自分の弟たち(管叔・蔡叔・霍叔)に武庚を監視させました。しかし彼等は武王の死後に武庚とグルになって反乱を起こします。これを三監の乱と言います。

 三監の乱はかなり大規模だったらしく、執政の周公旦は鎮圧に苦労します。その時にも箕子は動いていません。商の人々に最も信頼されている箕子が動かなかったことによって周は最大のピンチを切り抜けることができました。

 以上のことから第三爻の意味は

  箕子が挙兵をすれば紂王や周を倒すこともできただろうに
  (けれども自制して反乱に加わるようなことはしなかった、
   あるいは自ら進んで身内の紂王に反旗を翻すような破廉恥な真似もしなかった)

 となるでしょう。不可疾貞は前の句とは漢字の使い方が違っていますので、後からの付け足しだと思います。

 後半は明日にします。



10月9日(金)
陰暦 八月二十一日 【亥の子餅】【世界郵便デー】

 第四爻です。第二爻と対句になっていることはすぐに分かります。読み方も同じでなければなりません。

  入于左腹
  獲明夷之心
  于出門庭


 「入」は文頭に来ていますので主語とみなすべきです。このような語順の場合通常「于」は主語を表す助字となりますので、その観点からも「入」は主語です。

 この時期の歴史的人物で「入」で表される人はいるでしょうか。これがいるのです。

 微子啓です。

 微子啓は帝辛(紂王)の庶兄もしくは同母兄(呂氏春秋)です。三監の乱の後、周公旦は商の故地を衛と宋の二つに分けて弱体化させた上で、宋を微子兄に与えました。これが春秋の有力諸侯の一国に数えられる宋の濫觴です。

 数年前に日中の発掘隊が河南省の殷周移行期の古墳である長子口墓を発掘し、微子兄の墓であることを特定しました。殷周革命期の人物としては初の実在確認となります。

 なぜ長子口墓というかというと、その墓から発掘された遺物に「長子口」という銘が多数刻まれていたからです。おそらく墓の主だろうと推定されましたが、誰のことかはずっと不明でした。

 毎日新聞の記事によると古代では「微」は「長」と書かれることがありました。さらに微子兄は庶兄とはいえ紂王の兄で長子です。呂氏春秋には微子啓が「長」という土地に封ぜられたという記事があります。そして「啓」と「口」も古代では区別がついていませんでした。これらのことから「長子口」とは「微子啓」のことであろうということが特定されたわけです。

 啓=口→入 です。説明の必要もないでしょう。

 したがって第四爻は、三監の乱の後、微子啓が箕子の推薦によって宋の君主になったことを表しています。ちなみに「腹」には「博識」という意味があります。微子啓は博識であったという記録が残っています。

  微子啓は王を助ける知恵袋
  箕子からの信頼をうけて
  宋の君主として朝廷に推薦された


 第五爻は種明かし、だめ押しです。

  箕子之明夷
  利貞

 箕子はこれ明夷、貞って利あり

 周はよっぽど箕子に恩義があったことが窺えます。まだ安定しない商や東方諸侯を治める上で箕子の助言に負うところ大であったのでしょう。しかも箕子はそれに対して報酬を求めた形跡がなく、遼東もしくは朝鮮まで流れていったとされています。富貴に興味がなかったのでしょう。その進退の鮮やかさが西周の人々の心を打ったのではないかと思います。


 上爻です。

  不明晦
  初登于天
  後入于地

 字統によると「晦」とは日中に太陽が隠れて暗くなることとあり、白川先生は日蝕のことではないかと推測しています。後の二文は太陽のことを表しています。殷周革命があったと推測される紀元前十一世紀には支那で日蝕が頻発しており、それが易経の作者にも印象に残っていたのでしょう。あるいは箕子が死んだときに日蝕でも発生したのかもしれません。

 商は太陽の運行を重視していました。日本を含めた東夷や江南や四川の照葉樹林文化は太陽を崇拝しています。それに対して周は太陽と言うよりは天を重視しており、太陽も天体の一部という醒めた見方をしています。これはメソポタミアの影響ではないかと思います。

 むしろ周以降の支那は二十八宿(白道、月の通り道の星座)や歳星(木星)、流星など夜の天体の方に興味を傾注させていきます。上爻は太陽を崇拝する文化が商の滅亡と共に支那では廃れたことを表しているのでしょう。日蝕の頻発がその一助となったのかもしれません。古代の支那人の目には太陽の弱体化と映ったのではないでしょうか。これ以後、戦国期までの数百年間、支那では乾燥寒冷化が続くのです。

  不明の最たるものは日蝕である
  (太陽は)初めは天に登り
  (太陽は)最後には地に沈む




 前にもどこかで書きましたが、私は漢の高祖の妻の呂后は秦の権臣呂不韋の親族ではないかと推測しています。そうでも考えないとただの盗賊の親玉に過ぎなかった劉邦が急激にのしてきた理由が分からないからです。劉邦は漢中、要するに秦の中心部に封じられます。これは劉邦を恐れた項羽が劉邦を遠ざけたからだとされていますが、そんなことはなくもともと劉邦の基盤が秦にあったからその地が与えられたのでしょう。それにそうとでも考えないと、咸陽に一番乗りできた理由も分かりません。

 急に呂不韋なんて名前が出てきて面食らっている人もいるかもしれません。呂不韋は戦国末期の商人で、趙の国に人質となって冷遇されていた秦の公子の異人に目をつけ「奇貨おくべし(これは儲け話の種になる)」としてスポンサーになってあれこれ世話をしました。

 やがて秦の政変と呂不韋の工作によって異人はあれよあれよという間に秦の王様となります。荘襄王です。呂不韋は秦の宰相となり、文化事業に尽力しました。この時期秦は征服事業を小休止させています。さて異人が王となる数年前に異人は呂不韋の愛人に目をつけて、妻とします。その時彼女は既に身籠もっていました。こうして生まれたのが政、即ち秦の始皇帝です。呂不韋は始皇帝の実の父親なのです。これはどうやら漢の時代には天下公然の秘密であったようです。史記にも堂々と記述されています。

 さて呂后が呂不韋の親族であると推測した学者は何人かいるようですが、状況証拠(劉邦の急速な発展)はあるものの、今ひとつ証拠不足です。

 ここでまた字統に登場してもらいましょう。字統によると「韋」には「西方の風」という意味があるそうです。「不」には「おおいなる」という意味もあるそうです。というわけで呂不韋は「大いなる西方の風」ということになり、もしかして呂氏は西域との貿易で富をなしたのかもしれません。

 劉邦の妻の呂后の諱は「雉」といいます。支那では雉は風の神様です。これにより呂不韋と呂后はつながります。確証とは言えませんが、傍証にはなるでしょう。呂后は始皇帝の従兄妹ぐらいにはなるのではないでしょうか?劉邦は秦王朝に婿入りしたのです。

 もう一つ余計な推測をしますと、藤原氏の実質的な始祖である藤原不比等(不人)は変な名前なのですが、これはおそらく呂不韋を意識したのではないかと思います。私は兄の定恵(諱は真人)だけではなく不比等もおそらく天智天皇の息子だったのではないかと思っていますが、呂后と違ってこっちの方は全く証拠がありません。

 あるとすれば、壬申の乱の後に上総國の久留里に大友皇子が匿われていたという伝説くらいでしょうか。久留里は忌部氏の根拠地であり藤原氏は忌部氏の一派とも言われています。しかし大友皇子はさすがに考えにくいので、これは不比等ではないかと思います。不比等→違→韋というつながりがあるんですね。持統天皇と藤原不比等は異母姉弟だったのだと思います。そうでも考えないと持統天皇の藤原氏への傾注と、藤原氏の持統朝への執着が理解できないのです。

 始皇帝の場合、家臣の呂不韋の実の子であったわけですが、不比等の場合逆に主君の天智天皇の実の子であったのだと思います。

 韋→違→異人 という連関もあります。呂不韋が異人に縁を感じたのは、彼が自分の諱と同じ字を持っていたからでしょう。



10月10日(土)
陰暦 八月二十二日 【マグロの日】

 今週の「皇室アルバム」は天皇皇后両陛下の国体観戦であった。こりゃ選手がかわいそうだと思ったのが一つだけありました。なにかというと重量挙げの観戦,しかも正面から(^^;これは緊張するわ、目が合うし。

 ダイエットが成功して、ここ十年間で体重が最低水準まで下がりました。我ながら顔が引き締まったような気がします。頑張ってもうあと2kgくらい落としたいです。

 今日はdragon_suplexさんに「出雲國譲りの真相」の第三巻を、MAGICARUさんに「しゅごキャラ!」のDVDと「不思議遊戯」の漫画などを宅急便で送った後、昭和記念公園で写生をしてきました。途中美味しい中国料理屋を発見できました。その後に八王子の古本市に行き漫画の資料になりそうな「日本の美術」の「装身具」「正倉院の金工」「髪結いと髪飾り」を購入。

 賞味期限を二年過ぎたひじきを戻して煮物を作りました。乾物だから大丈夫でしょう。ひじきと干し椎茸を戻しておき、鳥肉と油揚げとニンジンを細かく刻んで炒めてから、ひじきと干し椎茸と戻し汁に調味料を混ぜて煮込みます。ひじきを使った料理は初めてでしたが美味しくできました。

 そろそろ観念してお見合いしようかな。なんかお袋の友達が会わせたいといっている人が一人いるらしい。



10月11日(日)
陰暦 八月二十三日 【下弦】

 北信越旅行記(一)

 なんか急に大糸線や飯山線の乗り潰しをしたくなったので、三日ぐらい前に思い立って二泊三日の旅行に行ってきました。出発の二日は御茶ノ水で友達と軽く酒を飲み、上野駅から寝台特急北陸号に乗って出発。


 ふつうの金曜日だというのにてっちゃんが群がっています。それを撮影する私も同類(笑)

 前日に買ったので入り口横の寝台上段でした。車輪の真上なので揺れる揺れる、上越線(三国峠を走るのでカーブだらけ)を走っている間はほとんど寝られませんでした。北陸線に入ってやっと寝られたと思ったら4時半にはもう糸魚川です。

 早朝の糸魚川駅では、北陸号に続いて急行能登号、そして大阪発の急行北国号が続けてやって来ます。


北陸号を見送る


急行能登号

 北国号が来たときにはホームのベンチで寝ていたので気がついたときには発車していて写真は撮れませんでした。夏ならば近くの撮影スポットに待機してまとめて撮影ができるなと思いました。逆方向へ進む寝台車が撮影できる場所なんてもうここぐらいしかないのではないでしょうか?この日はもう十月だったので4時ではまだ暗く、きれいに撮影はできませんでした。

 糸魚川市は新潟の西の端にある町で、長野県と富山県に接しています。北アルプスから流れ落ちる姫川という渓流沿いを大糸線は走っています。単線のローカル線です。姫川では縄文時代から翡翠(ヒスイ)が採集され、縄文から古代にかけて姫川の翡翠から作られた勾玉は広く流通しました。あんまり詳しくはないのですが、大国主命と地元の女神様ヌナカハヒメの恋の物語が古事記にあるそうです。



 そんでこれがキャラクター化されたそのヌナカハヒメ。鉄道のヘッドマークになっています。可愛いですね。抱っこしているのは勾玉です。ヌナカハヒメは翡翠を神格化した神様ではないかといわれています。

 今回の旅の第一の目的は、糸魚川の郊外にあるフォッサマグナパークの見学です。フォッサマグナ、名前ぐらいは聞いたことがあると思います。日本は東西に分ける大断層で、この断層を境に岩石の種類もできた年代もがらりと変わります。フォッサマグナは100kmの幅を持つ広い断層帯で、多くの断層が走っていますが、糸魚川はその西端であり最も顕著な断層の露頭(地面に出ている場所)を見ることができます。明治時代にナウマンなどの地質学者がフォッサマグナを発見したのも糸魚川の断層がきっかけでした。


雰囲気漂う国鉄色



 糸魚川市郊外の根知駅で下車し、その露頭が見られるフォッサマグナパークに向かいます。この時朝の六時半です。(つづく)



10月12日(月)
陰暦 八月二十四日 【体育の日】【芭蕉忌】

「北信越旅行記(二)」

 日本はフォッサマグナを境に東側が北アメリカプレート、西側がユーラシアプレートに属しています。地質的には北米がここまでつながっているんですね。

プレート図

 根知駅から十分くらい歩いたところに整備された遊歩道があります。これがフォッサマグナパークです。遊歩道から駅方面を眺めると谷が見えます。これがフォッサマグナです。



 フォッサマグナは地溝帯と言うくらいでして、ここだけは日本アルプスの中にありながら谷がつながって低くなっています。その谷の底に断層が通っているのです。そもそも大糸線自体がフォッサマグナの断層をなぞりながら走っているわけです。

 日本列島がどのような仕組みで形成されたのかはまだハッキリとは分かっていないのですが、フォッサマグナのあたりは昔はかなり深い海底であったことが岩石から判明しています。日本列島では複数のプレートが押し合いへし合いしており、おそらく両側から海底が押されて盛り上がったのがフォッサマグナではないかと考えられています。近畿と四国と九州の中心部を東西に走る中央構造体も同じ地質構造をしています。



 このような遊歩道になっています。道の脇にはところどころ地質学の解説板が立っています。上のプレート図もその一つです。この解説板は非常に良くできています。説明も分かり易いし、イラストもきれいです。誰が作ったのかしりませんが、なかなかの物だと思います。


プレート境界

 プレート境界が露出している崖を見学できるようになっています。白線が境界線で、北を向いて右側(東側)が北アメリカプレートで、左側(西側)がユーラシアプレートです。

 左側の地層が形成されたのは2億5千万年以上前。まだ恐竜の時代が始まる前です。右側の地層が形成されたのは1,500万年前。形成時期の差が2億年以上あります。左側は数十キロの深さで作られた岩石で、右側は深海底で熔岩が噴出して作られた岩石です。できた時期も場所もこんなに差がある断層は世界でもなかなか見られません。

 露頭からしばらく歩くと、巨大なぼた餅型の岩石が現れます。枕状熔岩(まくらじょうようがん)です。


枕状熔岩

 あまりに大きすぎて何だかよく分からないかもしれません。もう少し歩くと、河原に降りられるようになっていて、枕状熔岩を遠くから眺められるようになっています。


枕状熔岩(遠景)

 この写真に写っている小山が一つの岩です。日本最大の枕状熔岩です。

 アイスランドやハワイの活火山の映像を見たことがあるでしょうか?真っ赤な熔岩が海に流れ込んで急激に冷やされます。熔岩の熱で海が沸き立ち畏敬の念すら覚えるような迫力があります。海水で急激に冷却された熔岩はぼた餅のような形になって固まります。これが枕状熔岩です。何でぼた餅の形で固まるかは、お湯の中に水で溶かした白玉粉を垂らすと丸く固まることを思い出してくれればいいでしょう(枕状熔岩と白玉の固化は化学的にいうと異なる現象ですが、表面張力によって丸い形となる点では同じです)。

 ここで枕状熔岩の絵を描いてから、もうちょっと先にある「塩の道」まで足を伸ばしました。これがこの旅行の第二のテーマとなります。次の目的地は信濃大町です。


つづく



10月13日(火)
陰暦 八月二十五日 【日蓮上人忌】

お知らせ COMITIA 90 11月15日(日)に参加します。
会場 東京ビッグサイト スペースNo.こ15a
 前回は体調不良でドタキャンしてしまい大変申し訳ありませんでした。「出雲國譲りの真相」の第一巻、二巻(第二版)、三巻を販売いたします。皆様のご来店をお待ちしています。


「北信越旅行記(三)」

 根知駅から一時間ほどでJR西日本と東日本の境界駅の小谷駅に到着。朝飯がまだだったので駅横の土産屋で軽食を買い腹ごしらえをしました。


東日本側は電化区間、西日本側は非電化区間です。ですので電車とディーゼル車が並んでいます。

 そこからさらに一時間ほどで少し広めの盆地に出ます。大町市です。大町は信濃の産物と越後の産物の輸送の中継点として栄えました。一番重要な輸送品だったのが塩です。日本には岩塩がありませんので塩は海水から作るしかありません。内陸国の信濃は、越後や駿河に塩を依存していました。

 北条に塩を止められて困った武田信玄に上杉謙信が塩を送った義塩の伝説は有名ですね(史実としては確認できないそうです)。

 そのようなわけで、大町にはかつての塩問屋を利用した「塩の道博物館」があります。これを見るのがこの旅の第二の目的です。


大町の庄屋で、塩問屋だった平林家の旧宅を利用した塩の道博物館

 近頃昔の日用品を調べるのに凝っています。歴史物の漫画を書いていると、どうしても「どんな家に住んでいたのだろう」「どんな着物を着ていたんだろう」「どんな髪型でどんな髪飾りをしていたのだろう」「どんな食器に何を盛って食べていたのだろう」「子供はどんな玩具で遊んでいたんだろう」というようなつまらないことが気になります。そしてこういうことは教科書や歴史の研究書や小説には全然載っていないのです。こういった地方にある資料館や、郷土史家がまとめた資料を丹念に追っていくくらいしか昔の人のふつうの生活を知る方法はありません。

 ではしばらく江戸の末期から明治にかけての商家の生活を覗いてみてください。
帳場(番台)

 いわゆる会計所です、ここ番台さんが座って支払い帳簿をつけます。昔はつけ払いの方が一般的でしたので(そもそもお金という物があまり出回っていなかったので現金の持ち合わせが少ない、さらに現金をジャラジャラ持ち歩いていると危険)、支払いは帳簿に記録するだけで、集金は月末や季節を区切って行いました。


茶箪笥(ちゃだんす)・・・階段にはめ込んで使います


行李(こうり)・・・普段着をしまっておく


長持(ながもち)・・・旅行の時に着物をしまう


ポッカ(人夫)・・・このようにして荷物を背負って峠を越えました。沿道の農家が小遣い稼ぎでやっていたそうです。


草鞋(わらじ)、かんじき


馬の草鞋

 こういう珍しい物を見るとワクワクします。日本では明治になるまで馬にはほとんど蹄鉄を履かせませんでした。時代劇に登場する馬が思いっきりカチカチ蹄鉄を鳴らしながら疾走していますが、あれは嘘です。本当は草鞋を履いていたのです。

 蹄鉄がなかったので、昔の日本の馬は長時間歩くことはできなかったはずですし、スピードも出なかったはずです。戦争の時も、戦場までは武将も歩行か輿で行き、馬に乗ったのは戦争をするときだけだったはずです。お城から戦場まで武将がずっと馬に乗って移動しているのも嘘だと思います。あるいは馬の爪が傷まないように、替えの馬をたくさん用意して、次々と馬を乗り換えて移動したはずです。ですので、日本で馬に乗って移動ができるというのは相当に身分が高くて財力がある証拠になります。


江戸末期の玩具


二階から中庭を臨む、時代劇の撮影に仕えそうな構図


塩の貯蔵庫

 塩は水を吸いますので、床から少し上げて保存しています。塩から垂れる"にがり"は溝を通して地下の瓶に集められ、お豆腐を作ったり染め物をするときに利用したそうです。

 他にもいろいろと面白い展示物があり、全ては紹介しきれないのが残念です。とても充実した民俗館だったと思います。なにより当時使っていた住居の中で展示されているのが良い。しかも倉庫の展示なんてほとんどありません。大町の人たちにはこれからもこの博物館を大切にしていって欲しいものだと思いました。

 明日は大町で食べた変な料理と長野から鹿渡温泉まで。



10月14日(水)
陰暦 八月二十六日 【鉄道の日】


 昼飯は、塩の道博物館の向かいにあった食堂で安曇の名物料理?ローメンなるものを食べました。


ローメン

 蕎麦と同じくらいの細さの四角い麺で、小麦のようですがラーメンほどは堅くありません。これに牛肉とレタスをからめてあります。塩味で、お好みに合わせてお酢をかけて食べます。結構美味しかったです。強いて言えばソーミンチャンプルーに似ているかもしれません。

 信濃大町駅に戻ると、なにやら怪しげな列車が停まっていました。



 485フリーザ様、もとい、北アルプスふれあい号です。新しいお座敷列車でした。信濃大町を走るのは今日が初めてだったらしく、NHKの取材が来ていました。


なかなか快適そうなシートですね、家族向けの個室もありました

 信濃大町から大糸線の終着の松本へ行き、松本からは篠ノ井線に乗って長野へ向かいます。姨捨山トンネルを抜けると眼前に長野盆地が広がります。

長野盆地(パノラマ)

 眼下に広い眺望が広がっていることからも分かるようにかなり急な坂道でしたので、途中にスイッチバックがありました。急な坂道を上り下りするためZ字状のつづら折り(ジグザグ)についている線路のことです。一時的に後ろ向きに進むことになります。

 長野駅にて目にした面白風景。


な・な・なんと姨捨号(おばすてごう)!!しかも終点が姨捨!

 後期高齢者は恐ろしくて乗ることができませんね(笑)


これが恐怖の姨捨号です

 長野市から千曲市まで走っている快速列車だそうです。昔芭蕉がここで句を詠んだのにちなんでこの名前にしたんだとか。終点姨捨と言うところがなかなかいかしています。JR東日本長野支社もなかなか話が分かるじゃないか(笑)

 長野から飯山線に乗り換え。長野から真北に、越後の魚沼郡へ向かうローカル線です。新潟に向かうメインルートの信越線は北東へ延びています。


月は東に日は西に、そういえばこの日は中秋の名月十五夜でした


越後鹿渡駅

 宿泊地の鹿渡温泉に着いたのは18時半、朝が早かったためいろいろ欲張った割りには早く着きました。駅前にある鹿渡館という旅館に泊まりました。ひなびたいい温泉旅館で(まあ女性には快適ではないかもしれませんが、そこは気軽な男の一人旅です)、美味しい料理に舌鼓を打ち、温泉にじっくりと漬かり、疲れを癒すことができました。前の晩ほとんど寝ていなかったので十一時には床に就きました。

 明日は十日町の博物館です。



10月15日(木)
陰暦 八月二十七日

 COMIC CITY SPARK 4 に参加します。
 日時 11月1日(日)
 場所 東京ビッグサイト 西1ホール
 スペースNo.G59b

 皆様のご来場をお待ちしています。

「北信越旅行記(五)」  朝八時、鹿渡を後にして十日町へ。目指すは十日町博物館。
十日町博物館、駅のほくほく線側出口から歩いて十五分くらいの場所にあります。

 なぜ十日町博物館かというと、国宝にもなった火焔式縄文土器が多量に展示しているからです。

 入ってみたら、なぜだかやたら充実している蝋人形。ここはマダム・タッソーか?


帰ったぞー、今日も疲れたわい


糸紡ぎや機織りに精を出す女たち


どうだ、父ちゃんすごいだろう
わーい今日は兎鍋だ!


はいはい、今炊けますからね

 ヒゲモジャのおっさんの登場比率が高いです(笑)なんだかヒゲ親父のユーモラスな表情に気を取られて本命を忘れそうになってしまいました。


火焔式時



 パンクなデザイン、なおかつ繊細な作り、さすがに実物は迫力がありました。

 縄文時代はドングリや動物が豊かな東日本から東北にかけての山間部の方が人口が多かったと推測され、遺跡もたくさん出土しています。十日町では立派な火焔式土器を始め、土偶や耳飾りが数多く出土しています。弥生時代以降は養蚕や畑作で人々は生計を立てました。博物館には古代の農作物、農機具、糸紡ぎや機織りの道具が展示してあり、勉強になりました。


かんじきおじさん、なかなかの男前です。演歌でも歌い出しそう


竹籠にちょこんと座る赤ちゃんがかわいいです


お蚕さんの一生


雑穀の標本

 昔の穀物は丈が高い種が多く、風水害で被害を受けやすかったことがよく分かります。収穫前に風でぽっきり折れたり、穂が水に漬かって腐ればそれでお仕舞いです。うろ覚えの知識ですが、戦後の稲の品種改良の目標の一つが丈の短い稲を作ることにあったと聞いたことがあります。

 一時間たっぷり見学し、民具を記録した本も買えました。大収穫でした。お昼まで飯山線がないので、そのあとぶらぶらと十日町の市街を歩き、高架を走るつばさ号を眺めたり、駅前で転ザルを食べたりしながら時間を潰しました。

 さて、今回の旅最後の目的は越後線の西半分の乗り潰しです。二年前のゴールデンウイークに磐越西線と只見線を乗りに行ったときには新潟ー吉田間しか乗れませんでした。今回は残る柏崎ー吉田間です。飯山線ー上越線ー信越線と乗り換えて柏崎まで着きました。

 途中の鈍行にかかっていたやたらとカバー範囲が広い路線図。新潟県と長野県と会津若松に坂田まで入っています。面積だけなら首都圏の路線図よりも広いかも(笑)


拉致・・・じゃなかった柏崎海岸、群青色の海がきれい


越後線

 あとはひたすら一時間とことこと列車に揺られ、車窓を流れる風景を眺めながら過ぎていきました。吉田から弥彦線に乗って燕三条、燕三条から上越新幹線に乗って帰りました。急に思い立った割りには充実した良い旅になったと思います。

 土日は日立に帰ります。それではみなさん良い週末を。





10月17日(土)
陰暦 八月二十九日

 神峰動物園に二年ぶりに行ってみたらいろいろと変化があって、びっくり。チンパンジー舎に鉄骨のジャングルジムができ、ビーバーが来ていたり、シマウマ舎に七面鳥が放し飼いになっていたり、ライオンが二十年ぶりに赤ちゃんを生んでいたりと面白くなっていました。

 そのせいかもう十年ぐらいずっと閑古鳥が鳴いていたのに、親子連れでにぎわっていました。動物園のファンとしては嬉しい限りです。

 サイとライオンの写生をしてきました。ライオン君はお父さんになってたてがみの色も濃くなり(ライオンのオスは子供ができるとたてがみの色が濃くなり、立派になります)心なしか誇らしそうでした。でも飼育員のおじさんとお話したところ、赤ちゃんのもらい先が決まるかどうか心配だといっていました。確かライオンは世界中の動物園で余っているんですよね。繁殖が上手くいったら上手くいったで苦労は絶えないようです。

 来春には象舎が新装開店するそうでとても楽しみです。かなり大規模な工事をしていました。バッファローやリャマの展示もついでに直しているみたいです。



10月18日(日)
陰暦 九月朔日 【靖國神社秋祭り】【統計の日】


神峰動物園のサイ

 お母さんサイです。赤ちゃんサイと一緒に草を食べたり、ゴロゴロして遊んだりしていました。神峰のサイとカバの夫婦はものすごく相性が良いのか一年おきくらいで子供を産んでいます。



10月19日(月)
陰暦 九月二日

 近頃棋譜を並べるのが楽しくて、暇を見つけては石を並べています。この前は八王子の古本市で藤沢秀行の棋聖戦を買いました。第三期の石田芳夫戦と第六期の林海峰戦です。藤沢秀行は一時期日本棋院とケンカをしていましたので、まだまとまった打ち碁集が出ていませんので貴重です。藤沢秀行の碁は難しくてよく分からないのですが、石の流れが美しいことだけは並べていても感じることができます。

 昨日は日立からの帰りに八重洲ブックセンターに立ち寄って前から気になっていた本因坊秀和の棋譜を買いました。幕末期から明治の始めにかけての名人です。江戸期の碁を大成した人と言われています。さらに武宮正樹の打ち碁集まで出ていました。昭和五十年代から平成十年くらいにかけての脂がのっていた時期です。百局以上掲載されています。秀和と合わせて一万円の出費でしたけれども良い買い物ができました。NHK杯準優勝、本因坊リーグ復帰と再び活躍が見られるからか、平積みになっていました。上巻は私が買ったので売り切れでした。さすがに人気があります。

 見合いはまだしていません。えっ!?誰も訊いてないって(^^;>

 まだ恋愛に未練があるもので、もうちょっと粘りたい。それに断られてしまったけれど、くだんの女性を想う気持ちもまだ変わっていませんしね。でもインターネットで交換日記は誤解が生じやすいのでもうこりごりですが(笑)



10月20日(火)
陰暦 九月三日 【皇后誕生日】【土用】【誓文払い】

誓文払い(せいもんばらい)
 昔から旧暦の十月二十日には、京都の商家や水商売の人たちは、四条寺町の誓文返しの神様である冠者殿にお参りをし、日頃商売上、やむをえず人を騙したり、嘘をついたりした罪を祓い、神罰が当たらないように祈願していた。これが関西各地に広まったもの。

 いや〜都合の良い風習があったものですね。


 古本屋で見つけた「麗しの皇妃エリザベト」を読んでいます。エリザベト(エリザベータ、エリザベス、イザベル、エカチェリーナ)という名前の有名な王族は何人かいるのですが、この本は19世紀後半のオーストリア・ハンガリア二重帝国皇帝のフランツ・ヨーゼフ一世の皇后エリザベトについてです。

 エリザベータはドイツのバイエルン王家のお姫様で、おおらかな両親の元で自由奔放に育ちました。そして十六の時に、姉のヘレナとオーストリア皇帝のお見合いの席に同席するのですが、フランツはエリザベトの方に一目惚れしてしまい、熱烈な求愛の末に二人は結婚します。

 しかしフランツの母親ゾフィー大公妃は保守的な女性で自由気ままな生き方を貫くエリザベトにことあるごとに辛く当たります。フランツは妻と母の間を取り持とうと努力はするのですが、帝国の統治に忙しくエリザベトを守り切れません。ついにエリザベトは精神の平衡を失い、ウィーンを離れて旅に生きるようになります。

 エリザベトの孫娘の皇女エリザベトの生涯、フランツ・ヨーゼフ一世の生涯を書いた本は既に読んでいますのでエリザベト皇后の生涯についても概要は知っていました。けれどもエリザベトがウィーンの宮廷を嫌いつつも、夫婦の間には生涯細やかな愛情が流れていたと言うことは今回伝記を読んで初めて知りました。

 人間の心理は複雑です。フランツ・ヨーゼフ一世は「帝国一の小役人」とあだ名されたくらい仕事熱心で倹約家の君主で、頭は見事にはげ上がり、性格も頑固一徹でした。それがどうして、絶世の美女で四十になっても二十代と間違われ、美容や旅にと浪費を続けたエリザベトと意気投合たのか不思議でなりませんが、フランツ・ヨーゼフ一世が仕事に打ち込むことができたのも、自分の半身とも言える妻が自由な生き方を代わりにしてくれていたからかもしれません。

 エリザベトのウィーン嫌いや旅狂いも無駄にはなりませんでした。彼女の美しさと真摯な性格は、朴訥なハンガリー人の心を動かし、分裂直前まで追い込まれていたオーストリアとハンガリーの統合を大いに進めました。行く先々で彼女は人々の心を魅了し、オーストリア帝国の好感度を高めました。エリザベトがフランツに強い影響力を与えていた期間、オーストリア帝国は大きな戦争に巻き込まれることもなく、マリア・テレジア帝以来の繁栄を謳歌したのです。

 今エリザベトが四十になったあたりまで読みました。この後彼女の身の回りには不幸が襲い、オーストリア帝国にも列強の干渉や民族主義の影が迫るのですが、それについてはまた後日。



10月21日(水)
陰暦 九月四日

 左隣と、後ろの席の人が風邪で高熱を出して休んだ。やばい、着実にウイルスが近づいてきている。土曜にはSLの撮影をしに行くつもりなのに。今日は石を並べるのはそこそこにして早く寝るとするか。

 えーっと、インターネットを使った交換日記はもうするつもりはありませんのでこれっきりにしますが、私に何かしてほしいことがありましたら、メールでも掲示板でも手紙でもなんでもいいですので直接に言ってくださいね。

 ある人から何かを求めるときには、きちんと直接(人を通してでも良いけれど)その人にそう伝えないと失礼に当たります。もしもあなたが自分の職業故に、そうしなくても人をコントロールしても良いんだと考えているのならばそれは失礼なことですので考え直した方が良いと思います。

 不特定多数に向けているうちは良いんですけれどね、明らかに私にしか分からないようなメッセージを込められても困ります。

 私は、私とあなたの間にそんなに越えがたい壁があるとは思っていません。だから対等に接してくださいね。でなければ私は二度とあなたの前には現れないつもりですので。



10月22日(木)
陰暦 九月五日 【時代祭】【鞍馬の火祭】

 やばいなあ、風邪をもらったかもしれん。
 熱は出ていないんだけれどやたらと眠い。会社から帰ってきてすぐに寝て今目が覚めたところ。なんかやたらとだるい。土曜は撮影に行きたいんだけどなあ・・・

 仕事は至極快調。こう快調だとそのうち落とし穴があるんじゃないかと心配になってくる。まあ暫くしたら人事異動があって、今の部署では二番目の古株になる予定で、今後は仕事が集中するのは目に見えているから、その嵐の前の静けさかもしれない。



10月23日(金)
陰暦 九月六日 【霜降】【電信電話記念日】

 やはり体調が悪かったようで、ものすごくだるかったので午前中は休みを取って寝ていました。午後は仕事に出ました。晩は出向の人が元の会社に戻るので送別会。気さくな方でもう馴染んでいましたので、盛大な会になりました。

 風邪ではなかったようなので予定通り撮影に行きます。明日は五時起きなので今日は早めに寝ます。にしても午前中の上越線下りは何だってこんなに使いづらいのだ・・・列車の本数少なすぎです。もうちょっとせめて一時間に一本走ってさえいればもうあと一時間寝られるのに。



10月24日(土)
陰暦 九月七日

 群馬県の水上まで行ってSLみなかみ号を撮影と写生してきました。あいにくの曇りだったので写真の方はイマイチだったのですが、蒸気機関車を堪能できました。やっぱSLかっこいいなあ。ロマンを感じますね。なんか客席はまばらだったので、今度は乗客として乗ろうかなと思いました。

 写真は明日にアップしますね。



10月25日(日)
陰暦 九月八日

 昨日は群馬県は利根郡まで行ってSLみなかみ号を撮影してきました。毎年春と秋にはJR東日本は高崎から水上までデゴイチを走らせます。一昨年の十二月にも撮影に行きました。この時は一枚だけ奇跡的にスーパーショットが取れたのですが、今回は天気が悪かったため、絵的にきれいな写真はあまり撮れませんでした。

 とはいえ、腐ってもSL、ピンボケでもかっこいいのだ。

 朝五時半に起きて、武蔵野線廻りで大宮に、宇都宮線が事故っていて影響も予測されたので上越新幹線を使って高崎に、津久田駅から降りて地図で目星をつけた撮影ポイントへ行こうとしたら、利根川があって歩いていくのは無理でした_| ̄|○ グーグルマップでは小川みたいにしか見えなかったのに・・・やっぱ田舎ではネットの地図はあてにならん。

 しょうがないので次の列車に乗って岩本駅に、新幹線で早周りしておいて助かりました。岩本駅から下流に五分ほど下った築堤の下で撮影しました。


ススキを入れてみました、秋らしく見えるでしょうか?

 この後駅まで歩く途中で駐車場からもっときれいに撮れることが分かったのですが、後の祭り。これは来月か来年に取っておくことにします。まあススキと山が入ったからこれで良しとします。

 水上駅まで追いかけて、駅前のラーメン屋で担々麺を食べ(これがなかなかうまかった、東京の店にも負けない味です)、そのせいでターンテーブルは見逃してしまったのですが、給水所に展示してあるデゴイチを堪能できました。


デゴイチ正面、横の人間との差に注目、大きいのです


このピストンのわけのわからん連携のギミックがたまりません


子供も大興奮

 帰りは一昨年に撮影したポイントの下で今度こそ鉄橋を渡るデゴイチを物にしようとしたのですが、曇ってしかも夕方でこれはちょっとさえない写真になってしまいました。



 それでも天気が良ければ非常によい写真になりそうです。有名なポイントらしく、他にも五人ぐらいてっちゃんが群がって写真を撮っていたのですが、横の兄ちゃんによるとよくコンテストとかにも入賞する写真がここで撮影されているんだとか。ここに集まったてっちゃんは割りと話が通じました。

 さてデゴイチの発車まで二十五分あったので、アップを取るために、全速力で2kmくらい走って渋川市街の反対側に出て田んぼで待ちかまえました。すると・・・



 おもわぬところでお座敷列車「やまなみ号」が撮影できました(暗いので色を補正しています)。この列車、今日八王子へ行くときに豊田車庫に繋留されているのを見ました。えらい遠くから引っ張ってきたもんだ。川越線経由かな?



 ライトつきで走る姿は貴重かも。SLは室内灯がないし、何せ黒いので夕暮れになると撮せない(^^;朝から晩までSL三昧の一日でした。帰りは疲れたので新特急に乗って大宮まで帰りました。今月は旅費にかなり金をつぎ込んでしまったのですが、楽しかったからいいや。



10月26日(月)
陰暦 九月九日 【重陽】【原子力の日】

 かっぽったと思っていたレイブンのサングラスが靴箱の中から出てきた、やれ嬉しや。にしても何で靴箱から出てきたんだろう(^^;
  ※「かっぽる」とは「捨てる」という意味を表す茨城弁です。

 昨日は掃除をして本やイラストの習作を処分しました。本は捨てたくはないのだけれども、この調子で本を増やしていったら部屋が本で埋まってしまいます。ああ早く金持ちになって書斎とアトリエが持ちたい。

 近頃インターネットが重たい。いよいよ動的メモリーが足りなくなってきたのかもしない。1GBといえば十年前はハードの容量だったのにそれでも足りないとは。絵やフラッシュをやたらと多用するのがいけないんだと思う。

 昨日家計簿をつけていて、出費が思ったほどではなかったので驚いた。デフレとダイエットのせいで食費が落ちているというのもあるが、アニメに金をつぎ込んでいないのが一番大きい。もう欲しいDVDはあらかたそろえてしまったからな〜、まあいいやこれからは鉄道に金を使うことにしよう。



10月27日(火)
陰暦 九月十日

 今日は年休を取って国立博物館の天皇陛下即位二十周年記念皇室の至宝展を鑑賞してきました。

 いやはや、若沖と応挙の絵には圧倒されました。若沖の絵の精密なこと、図鑑の挿絵みたいです。それでいて躍動感を失っていない。鶏と雁の絵が良かったです。応挙の絵もこちらも日本画としてはかなり写実的な方なのですが、落ち着いた感じで良かったです。

 それにしても若沖も応挙もあれだけベタベタ絵の具を塗ってでよくまあ紙がふやけなかったもんだ。若沖の絵にはスペインリアリズムの影響があるのではないかと思いました。多分西洋から静物画が入ってきていたと思うんですよね。それとお魚の絵も面白かったのですが、タツノオトシゴが開いていたので生きた魚は見たことがないのだなと思いました。そりゃそうか水族館なんてありませんし、スキューバーダイビングだってありませんでしたしね。

 明治以降の展示では絵よりも工芸品の方に見るべき物が多かったように思いました。ガラスの壺や象嵌、螺鈿がすごくきれいでした。以前に外国の王様が来たときに後ろに飾ってあった壺や人形も含まれていたように思いました。貞明皇后が注文されたという伊勢物語の女の子の絵も可愛いなと思いました。

 さすがは皇室だと思いました。美術品の質量ともに世界最高級です。

 それに我が国の象徴が外国に呼ばれて向こうの宮廷の調度品に気圧されるようではいけませんので、皇室の方々が本物の美に囲まれて暮らすことも国にとって必要なことではないかと思います。

 まさしく至宝と呼ぶべき美に触れた後、上野駅の常磐線の上のうどん屋で420円のけんちん汁に舌鼓を打ち、調べ物(仕事半分、個人的な趣味半分)のため国会図書館へ行きました。初めてだったのですが、これまた設備の巨大さに圧倒されました。それと従業員が丁寧でテキパキしていて好感が持てました。ここに来れば何でもデータがそろいそうな気がしました。良い休日になりました。


 それにしても日曜くらいから何で急に訪問者が増えたんだろう?特に面白いことを書いた覚えもないのだが。アニメは見てないし感想も書いていないし、女の子には振られたし、SLにしたってそんなに大した旅行記とも思えないし。誰かがリンクでも張ってくれたのかな。



10月28日(水)
陰暦 九月十一日

 落とし穴ありました、所得税の控除の申請書類をなくしてしまった_| ̄|○
 人事に再発行を頼まないといけません。かっこ悪い・・・
 忘れっぽいといいつつも、今まで書類をなくしたことはなかったのですが、今回は仕事が忙しくて、故紙と一緒に間違えて捨ててしまったようです。う〜ん、不覚なり。



10月29日(木)
陰暦 九月十二日

 年末調整の書類は再申請したらその日のうちに発行されました。お〜うちの人事もなかなかやるじゃないか。なくしたら嫌なので、そのまま提出しました。保険も確定拠出年金も会社を通してしか買っていないから、申告するようなことはないしね。

 棋譜を並べるのが楽しくてなりません。毎日並べています。もう20分で一つ並べられるようになりました。今は高木祥一九段の「囲碁名局百選」を並べているのですが、私は天保から明治にかけての碁が好みのようです。木谷実や呉清源の碁もきれいなんですが、それでもまだガリガリしているような気がします。江戸と明治の碁は典雅な感じがしていいです。それに現代の碁はまたこの時代の碁に立ち返っているように思えます。



10月30日(金)
陰暦 九月十三日 【十三夜】

 年末調整の書類が出てきた、しかも机の上の書類の山から_| ̄|....コロコロ...○

 そういえばあそこだけは調べるのを忘れていた。

 捜し物を見つけるのは苦手なんですよ、ほっといてください。



new 10月31日(土)
陰暦 九月十四日

 古本屋へ行って本を売り、八王子から高幡不動へ行って菊祭を見てきました。明日は同人誌の販売会なので今日は特に何も考えずにぶらぶらとして過ごしました。今日の護摩法要はやけに足が痺れました。法要の前にボランティアのお祖父さんのお話があったからか(ためにはなったけれど長かった)、あるいは人数が少なくてなかなかお不動さんへのお参りがスタートしなかった、からかもしれません。お参りの時に、足が痺れて立ち上がろうとしても立ち上がれず、こけてしまいました。

 そういえば暫く管首様を見ていませんが、どこか悪いのでしょうか。

 明日は本が売れるといいなあ。


 そういえばここ一週間くらい続けて印象的な夢を見ています。一つ目は銀杏を腹一杯食べる夢です。こんなに食べたら安眠できなくなりそうだと思いながらパクパクと銀杏を食べました。寝ているのに変な話です(笑)

 二つ目は父から車をもらう夢です。黒っぽい軽だったと思います。「いい車だなあ」といったら次の日(夢の中で)「お前にやるよ」と父がいいました。そしてそこで唐突に小泉元総理が出てきて車を使うように薦めてくれました。じゃあいただこうかなということになり「駐車場を用意しないといけないな」と思ったところで夢は途切れました。

 三つめはこれはかなり特異な夢なのですが両性具有者と性交をする夢を見ました。小柄で丸顔の女性(見たことのない顔)で、胸は女性の裸体の知識がなかった少年の頃に見た淫夢に出てきた女性のように丸いお茶碗のような形をしていました(十一歳頃から十六歳くらいにかけては頻繁にエッチな夢を見ていました、エロ本を読むようになって返ってそういう夢を見なくなりました)。さてその相手は最初のうちは女性だったのですが、いざ性交をする段になると男根が生えてきました。そして男根の先端に女性器があり、そこに私の男根を入れました。なぜか気持ち悪いとか異常だとは思いませんでした。男根の中に男根を突っ込んだので当然その両性具有者の男根がものすごく膨らみます、男根には血管が浮き出て色もどす黒くて見た目かなりグロテスクだったのですが、その相手はニッコリと笑っていて顔にも夢全体にも全然淫靡な雰囲気はなくむしろ清浄な空気に包まれていました。そのあたりで目が覚めました。

 この一連の夢はなんらかのプラスの内的変化を表現しているような気がします。セックスの夢は必ずしも性的欲求不満を表すわけではないそうです。ということはあの両性具有者は私のアニマだったのかもしれません。銀杏は豊穣を表すらしく車は行動力、駐車場は休息だとか。ということは心の燃料補給ができたので外に向かって羽ばたけというようなメッセージかもしれません。



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