アートの中のPlumperたち
◎フェリーニの映画に見る「2つの豊かさ」

Plumper嗜好の俺がフェリーニに走るのはごく自然な成り行きだったのかも知れない。だがあの名作「道」と妖しげな女性遍歴を描いた「カサノヴァ」の監督が同一人物であることにとまどう人は多いと思う。フェリーニの映画には回想録を基調としたものが多い。だから話の筋はしばしば現在と過去あるいは現実と空想といったものが複雑に交錯し合い時には見る側は作り手からすっかり取り残されてしまうことになる。例えばあるシーンから連想されたイメージが本人の中のみに存在するものであれば、それは第三者にとっては何の脈絡もないストーリーとなってしまう。だが、それらを自分で発掘していく楽しみもあるし、個々の場面ごとのストーリー展開はそれなりに楽しめるものになっているから、ひとつの作品のなかで複数の色んな要素を見ることができて得した気分になる。そのうち、この大きなお尻をしたお手伝いさんが鼻歌を歌いながら洗濯物をほしているところは現在進行形ではなく幼少時の追憶なんだなとか、女性が急に空を見上げるほど巨大になっていくのを見て、最初はなんだこの子供だましは、などと思っていたがここは実は本人の夢の中の幻想のシーンなんだと自分の中で理解できるようになっていく。それらが、何の前触れもなくまた切れ目がなくあたかも前の話と連続性があるかのような調子で進んでくるので、最初はとまどってしまう。だがその何の説明もないところが、かえって生々しさやはっとするような意外性を持たせているし、登場人物たちの一挙手一投足に目がはなせなくなることになるのだ。だが、それだけではおそらくここまで彼の作品を見ることはなかっただろう。例えば「ローマ」のなかで、ある若い男がにぎやかな野外のカフェテラスで夕食を取ろうと席を物色する。すると人の良さそうな中年女性が「一人で食べてると悪魔がつく」と言って強引にある一組の家族の間に座らせ、皿をとってやったりあれこれと世話をやく。そこには俺自身フィリピンで体験したことでもあるのだが、とにかく何でもみんなでシェアする(分かち合う)、異質なものも受け入れる、自由奔放な空気があふれかえっている。あるいは精神的豊かさとでも言おうか。とにかく俺の大好きなシーンだ。あるいは「女の都」のなかで電車の中で目の前に座っていた女性が急に電車を降り、そのあとを付けていく中年男性がその後めくるめく体験をするが、映画のラストでは我に返った男性が正面を見ると冒頭と同じように女性が電車に揺られて座っているだけだった、というような誰もが予想し得ないような展開も十分魅力的だ。
(写真は「アマルコルド」より)
◎比較対照物としての「下半身」

上半身のサイズでは男性が女性を包み込めるくらいに上回っているが、下半身だけだと女性が男性を完全に圧倒する。下半身というものがいわゆる情欲のシンボルであり、上半身がコントロールタワーだとすれば、(あくまで勝手な想定に過ぎないのだが)そのような女性は自分の肉体の大部分をコントロールしきれずにいるように見える。例えば、女性の絵に男性の絵を加えることにより、よりその女性の身体的特徴を際立たせることができるという効果がある。JAN SAUDEKという写真家(右図)もそんな俺の意図に通ずるような作品を多く残していて興味深い。彼の作品にも多くの「PLUMPER」達が登場するが、男性はどちらかというと筋肉質で何か意識的に両者の違いを際立たせようという意図が見え隠れしている。その色使いは写真というより絵に近くそれが作品自体に温かみをもたらしている。