09/07/05
昨日、録画しておいた裕次郎の23回忌特別放映作品である「富士山頂」を観た。
渡哲也をはじめ宇野重吉、市原悦子など、当然だが皆若い。
勝新太郎を初め、役者たちは皆男っぽく、今の俳優に感じる軽さのようなものも全くなく
洋画の俳優達にも一歩も引けを取らない。
裕次郎の全盛期は60年代だろうが、そのあたりになるとやはり時代的に遠くなりすぎてしまい
やはり70年代頃の作品が、自分の生きてきた時代にも重なるし俺的には観ていて一番心地いい。
結局、続けて以前に録った「男の世界」(これも71年の作品)も観始めた。
そのセリフ廻しの硬派で格好いいところは、クリントイーストウッドにも通じる。
今更ながら、さすがに大スターと言われる所以と納得もしたし、時代の流れが速すぎて、
今やこうした役者は望むべくもないだけに尚更貴重に思える。
自分の生まれた頃、子供だった頃の時代の作品を、こうして大人になった今、探し当てる作業は楽しいものだ。
というよりむしろ知らないことが勿体無いとすら思う。
今の作品はマスコミが取り上げる分話題性はあるだろうが、内容的にはマンネリズムを避けられないと思う。
これは映画に限らず、音楽でも小説でもそうだ。
俺が70年代にこだわるのは、そのあたりもある。
やはり、あらゆる娯楽の全盛期であり、豊穣の時代だと思うからだ。
そういう意味では、まだまだ楽しみはたくさんありそうだ。
その小説のほうも、Jフィンダーを一通り読み終わったあと、今はアーサーヘイリーに取り掛かっている。
企業小説というジャンルは意外と書いている人が少なく、探し出すのが一苦労で、このアーサーヘイリー
も全てがそういう内容ではない。だが時代的には日本で言えば城山三郎みたいなもので、その手の小説の
米国版パイオニアの一人ではないかと思う。
またこうしたビジネスものジャンルの特徴として、文明の利器の影響をモロに受けるという面白さがある。
70年代だと、当然メールも携帯も登場せず、トランシーバーやタイプライターが活躍する。
今、読んでいる「自動車」は、今や政府援助の対象と化してしまったビッグ3の往年の時代を工員、セールスマン
、デザイナーといった労使両面そして彼らの妻や恋人達の人間模様までを含めた様々な観点から綴ったもので、
非常に読み応えがある。
夜のTBSの新ドラマは、城山三郎の「官僚たちの夏」だったので、ちょっと観てみるかとチャンネルを合わせたが、
途中で観るのをやめてしまった。
裕次郎を見た後というのもあったかもしれないが、やはり昭和を今の演出で観てもなかなか満足できない。
どうも全般にキャラがスマートというか礼儀正しすぎるし、無骨さなど出そうにも特に若い俳優だと
演技臭くなってしまうし、見た目も小奇麗過ぎる。それと笑いを取るようなオチャラケキャラも
今風で、古い時代背景にそぐわない。
あのクリントの「硫黄島」も同じ理由で、冒頭でギブアップしたし。。
どうも日本人というのは西欧人に比べても、ここ数十年におけるキャラの変化が大きいように思える。
それだけ、周囲の環境に左右されやすいのだろうか。
まあある意味適応性の高い人種とも言えるかもしれないが。
ただ企画ものの2時間ドラマの場合は、連続ドラマと比べ前述した軽さのようなものがやや後退して
わりとシリアス路線で頑張ってくれるから嬉しい場合もある。
むしろ映画よりその点では俺の中では上かも知れない。
先日放送していた同じ城山作品で北大路欣也の「落日燃ゆ」がそのパターンで、とても良かったし
題材が素晴らしいせいもあるが「命のビザ」、これはだいぶ前に反町隆史が主演していたやつだが
昭和を題材にしたドラマの中では最も感動した作品のひとつで、これも2時間ドラマだった。
09/06/21
ついに「マリアの恋人」を入手!
DVDが廃盤で再発版も一切出てなかったせいか、ショップでも見かけないしアマゾンでも高値なため、
入手は難しいかなと半ば諦めていたが、最近何の気なしにヤフオクを覗いていてレンタルショップ流れのVHSなら
安価であっさり存在することを発見。何故、今まで気づかなかったのだろう^^;
とにかく以前見たのが公開間もない頃だと思うので、約25年ぶりということになろうか。
その間、ストーリーはもちろんあの切ない挿入歌もずっと耳から離れなかった。
そのメロディーは、時が経つにつれて微妙に記憶が薄れていき、いつの間にかイタリアのバンド、
ラッテ・エ・ミエーレの「パピオン」に変化してしまっていたのだが、今回改めて聞いてみて、確かに似ていた(笑)
ただ、あらためて本物のほうを聴くと感慨深い気持ちにはなったが。
内容のほうも、愛してはいるもののどうしても成就できないジレンマを抱えた恋人役の男とマリア自身の心の葛藤が
とても切なく、当然最初に観た当時と違って、今やそうしたことも実体験しているし、やはり映画にしろ小説にしろ
恋愛ものというのは、それを経験していなかった当時よりも、今の自分にとっては実に見ごたえ読み応えがあって
面白いものだなと思った。
ただ、当時観たものがこれだけ印象に残っているというのも、まだ少年だった自分の感受性が
それなりの免疫がまだない中で、ある意味今以上に強かったんだろうと思う。
ナスターシャキンスキーという女優は、美人ではあるのだが所謂欲情させられるタイプというのではなく
やはりヨーロッパの血というか、「テス」にしてもそうだがどこか古風で静的な魅力を感じる。
09/06/07
「巨人の星」や「あしたのジョー」が好きなら、絶対大丈夫!
こうマリ子に押し切られて、食わず嫌いな俺がシブシブ見たのが、あの「Rookies」だった。
野球部監督役の佐藤隆太は以前、キムタク主演のドラマ「プライド」の脇役でかろうじて知っていたものの
他の若いヤンキーどもは知る由もない。
ポスター写真を見る限り、女子供の好きな「ごくせん」あたりと似たようなイメージでしかなかった。
だが始まってしばらくすると、次第に彼らのストレートな人間味、熱血ぶりに心を動かされるようになる。
佐藤隆太は、いつしか往年の柳沢信吾あたりとオーヴァーラップしだし、
他の不良達も、現代の草食動物の真逆をいく熱さで迫ってくる。
何より、今時の若者たちがこういう演技をしてくれることが嬉しかった。
そして気がつけば、俺は眼鏡をはずしながら溢れる涙を抑えきれずにいた。
ピッチャー役の安仁屋(ネーミングは基本的に往年の阪神の選手名だ)が、一昔前に書店で並んでいた風俗誌
デラべっぴんならぬデラぜっぴんを読んでいるシーンなどを見ればわかるとおり、この映画の原作は
決して最近のものではない。監督が格言好きだったり、不良どもも変に冷めたところがないなど
キャラクター的にも確かに今風とは言えず、そのあたりも40男の俺の心にスムーズに入ってきた
要素のひとつだったかも知れない。それでもドラマ化されたりして少なくとも
閉塞感のある今のこの時代に、こうした作品がこれだけヒットすることは喜ばしいことだし
世の中のとっても一陣の清涼剤となることだろう。
携帯サイトの視聴者レヴューには、「ヤンキーものやこの種の映画は今まで全部スルーしてきたが、この作品だけは
感動した」といったものもあり、まさしく俺もそうかもしれないと思った。
今は、長女の誕生日にサプライズで本作のチケットをヤフオクで入手してやろうかとすら本気で
考えている。
感動を伝染させられる相手を見つけられる。それはその人間にとって思い入れが深ければ深いほど
そして、その相手を見つけるのが困難であればあるほど、それが成就できたときの喜びは半端なものではない。
何しろマリ子は、あのイ・ディクディクの俺のCDをipodにコピーして聴いてくれているのだ。
それと谷崎の「肉塊」も読んで持っている。
誰がこんな幸せを予感しただろうか。幸せのノックを。
Someone knocking at my door 〜 Wings
09/05/01
今年のGWも相変わらず映画、音楽、読書三昧だが、最近の状況を書いておきたい。
まずはクリント・イーストウッド(CE)の「グラントリノ」。
彼の最新作がいまだに見られる。こんな幸せなことはない。
人付き合いが悪く気難しくて頑固で不器用だが、根底には圧倒的な古きよき人間らしさに満ちている。
そんな老人の役が、彼にピッタリはまっている。
当然だろうが作品ごとに脚本家が異なるわけだから、やはりCEが自分の趣向に合うものをそれなりに選別しているということになるのだろう。
ガレージには古い国産車(これはCE自身一貫したスタイルでもある)、そして、その横にはアメリカ国旗という典型的なアメリカ郊外の住宅地。その広いポーチでビールを片手に無愛想な表情で何をするでもなく椅子でくつろぐ老人。その老人がCEと来れば、もう言うことないだろう。
映画というメディアでありながら、メディア全般に常につきまとう、うさん臭さ(お行儀の良さ)やコマーシャリズムといったどこか見る側を洗脳するような目障りな空気がこの俳優の周辺にだけは全く見られない。
時代が進化すると共にますますエスカレートしていく堅苦しい倫理観にがんじがらめになっている現代の日本人には、ちょっとアクが強すぎるんじゃないかと思うくらいの人種差別的、性差別的セリフが相変わらず出まくっているし、草食動物化している現代の若者とは似ても似つかない横暴極まりないギャングたちには、ある種人間味を通り越して郷愁すら感じてしまう。
ラスト、CEがめずらしく銃も持たずに(このあたりでかろうじて前述の倫理観が保たれているように思う)、半ば隣人の若者の身代わりみたいな形でギャングたちに殺られてしまうシーンには涙をさそわれる。
そして当初買うつもりのなかったCE特集のユリイカ(93年:メディアが手のひらを返したようにCEをちやほやしだした92年の翌年だ!、にも特集している)を帰り際、書店でついつい購入してしまった。
評論家のCE評ほどつまらないものなどないのに。。。
それと今年はイタリア映画際も見に行きたかったのだが、こちらはあいにく前売券を購入しようとしたら売り切れだった。
仕方ないので、7月になったら、同じイタリアを舞台にした邦画「アマルフィ
女神の報酬」を見に行くとしたい。
そして音楽のほうもここのところますますイタリア三昧だ。
ただ、20年以上の長きに渡り聴き続けてきたプログレ路線から、ここのところ少しずつ自分の趣向が脱皮しつつある。
ひとつはカンタトゥーレだ。
ボッテガやディクディクといったプログレとの橋渡し役を経て、先日ついにクラウディオヴァリオーニというバリバリのカンタトゥーレアーティストの作品(E
Tu)に辿り着いてしまった。
ロックでもプログレでもなく、まさに「歌」という表現がピッタリで、その中でローカルなテイストがプンプン漂ってくる、素晴らしい世界だ。
そして、いまひとつは、プログレ全盛期以降の巨星たちの作品。
これが意外と楽しめる。イギリスの場合、四天王を始めとするプログレバンドたちは70年代後半あたりからたちまちつまらなくなってしまう(Yesなどの例外はあるが)のだが、これがイタリアの場合、音は普通のポップなもの、あるいはデジタルなものへと変わってしまっても、そのなかで微妙に独特の芳香が残っていて、それがスパイスを与えている。
例えば、PFMの「SuonareSuonare(80年)」なども、曲が短くプログレではないというだけで、曲の質は全く落ちていないし、ニュートロルスの「FS(81年)」あたりも秀逸だ。
そんな訳で、俺の中でのイタリア熱は、当分収まりそうにない。
簡単な単語も、少しずつ耳に馴染んでくるにつけ、イタリア語にも興味を持ち始めている。
最後に読書のほうだが、年初にかみさんの母親から薦められた藤原伊織を数冊読み、その中で「シリウスの道」などははみだしサラリーマン的な面白さを堪能できたものの、他はヤクザものや空想小説っぽいのが中心で、それ以上ははまらず、そのあと、美人の太った女性が登場するのと、ちょっと冒険小説風の面白さがあったため、村上春樹の「世界の終わりとハードボイルドワンダーランド」を読んだくらいで、他はしばらく読みたい作家がいない状態だった。
そして、最近やっとこれだと思ったのが、ジョゼフ・フィンダーという、落合信彦ばりの企業小説や諜報ものを得意とするアメリカの作家だ。
まず「パラノイア(邦題:侵入社員)」で久々に泣いた。スパイの侵入を受けた企業のCEOの無垢な人間味に涙したつもりだったのだが、なんとそのCEO、最後にそのスパイ行為を全て把握していたというオチで、主人公の侵入社員と読者である俺ともども、見事に騙されてしまったわけだ。
騙されて泣くことなど、そうそうあることではない。
いまひとつの魅力は、登場人物が意外とセンシティヴなところだ。
他人と一緒だと緊張して小便が出ないのは、前述の侵入社員だ。(その点も俺と同じだ!)
他にも、手がブルブルふるえたり、心臓がドキドキしたりといった人間味溢れるキャラがとても好きだ。
恋愛シーンもなかなか魅力的で「モスコウ・クラブ」では、主人公とその彼女が初デート後、お互いにもじもじして別れられない葛藤と心の高揚感を実に見事に表現しきっている。
60〜70年代のロックバンド名がところどころ出てくるのも楽しい。
ダグラス・ケネディー以来のお気に入り作家になりそうだ。
08/08/03
ついに「南回帰線」を通読した。それまで、目を見張るような艶かしいシーンや、個性の塊のような自伝的挿話の数々が、その驚くべき豊富な語彙によって彩られ、それが他を圧倒する密度の濃い作品になっているという点は、部分的に読んで十分わかっていたが、途中いつも、その言葉の洪水がこれでもかというくらに難解に交錯し始めるあたりでギブアップしてしまっていた。だがバルザックや漱石の諸作を次々読破し、その勢いで今回改めてヘンリーミラーの渾身の作と四つに組んでみて、彼の唯一無比の凄さと言うものをさらに痛感した。
彼は、その強烈な個性にもかかわらず、サリンジャーと違って、とても社交的な性格であり、パンの為の職業というものの味も嫌と言うほど体験しているだけに、本意でなくとも周囲に合わせたり、愛想を振りまいたりといった、自己を消し去る我慢も相当経験しており、そのあたりも共感を呼ぶし、一方で既成の道徳や偽善を徹底して嫌い、人の死に対してすら、悲しむどころか笑い飛ばしてしまう凄さがある。それと何より女性に対する病的なまでの執着。これもぽちゃ女性病の俺には大いに溜飲の下がる部分だ。いずれも日本人的な生真面目さでは到底及びもつかないメンタリティーだ。それでも谷崎あたりに遡ればアリかも知れないが。とにかく現代の日本人の精神的なケツの小ささ、さらにそれに相反するような姑息な商業主義の跋扈(ばっこ)はミラーが嘆く、当事のアメリカの変貌に輪をかけて救いようがない。ミラーの好きだった日本人は今の平成の味気ない世には残念ながらほとんどいないだろうと思う。
余談だが石川好の「ストロベリーボーイ」というエッセイの中で、カリフォルニアに隠遁中の晩年のミラーのアトリエに著者が訪問するシーンがある。そこでミラーに「谷崎は知ってるか」と聞かれた著者が返事につまるというくだりがあるが、惜しむらくはその場にもし俺が立ち会っていたなら、という途方もない感想をいつも抱く。願わくは10年後、かの地でせめて「PlumpyDolls」の画廊を開き、ヘンリーを知る人に出会いたい、そして語らいたい。それが今の俺の夢だ。
08/07/19
ここのところ、恋愛を始めとする人生の恒久的テーマといも言うべき「男と女」に関わる事象についての心情模写を驚くべき深さ、きめ細かさで書ききっていることにかけては和洋の両横綱と言っていい二人の作家の世界にどっぷりとはまり込んでしまっている。「和」のほうは夏目漱石、「洋」はバルザックだ。いずれも自分のような40男が読むには充分な読み応え、いやそれ以上の圧倒的質感、精密さでもって応えてくれるだけのものを持っているのだが、やはり和洋の精神風土の違いは顕著で、冒頭のテーマには必ず絡んでくる不貞という共通の命題についても前者は倫理観を背景とする悲壮なまでの抑圧感、後者はカトリック的貞節感との葛藤はあるものの、やはりそこは時代なのかロココ調の驚くべき自由奔放さが見られ、なかなか興味深い。また、いずれも19世紀というまださほど物質文明やメディアという目に見えない自由な表現への圧迫感(まさに時代が逆行している!)に侵されていない時代、つまりその分まだ豊かな感受性が生きていた時代であり、現代に氾濫しているような安易な性的模写(これは一種の逃げ道である)に頼ることのない、むしろそれを何十倍も凌駕するだけの、とても現代の作家には真似できない精緻な心理描写がセックスをストレートに表現する以上の説得力となって心に迫ってくるわけだ。
余談にはなるがそうしたストレートな表現がヴェールを脱いだ当初、まあ日本で言えば昭和にはいったあたりだと思うが、強いて言えばそのあたりはまだラディカルで生々しかった分、それはそれで読み応えがあった。例えば日本なら坂口安吾(彼は漱石を批判しているが時代の流れの只中にいた本人とすれば致し方ない)、西欧ならヘンリーミラーあたり。今となれば、彼らを漱石やバルザックと同列に並べるのではなく、それぞれの時代の旗手として読めばいずれも偉大な作家達である事に変わりはない。言いたいのは、現代の性的模写というものが、あまりにも陳腐化してしまい、例えば推理小説や経済小説の中での一場面としてスパイス的役割でなら使えるだろうが、恋愛小説という枠の中でメインとして位置付けるにはその語彙の少なさ、感情の薄っぺらさからして荷が重いということだ。名前を出すのは気が引けるがあとは桜庭一樹のように登場人物を思い切った倫理上の悪者にしてしまうくらいしかない。それでもドギツさという点でヘンリーミラーの足元にも及ばないが。
10台の頃、大人が読むような文庫本というものを初めて手にしたのが実は新潮文庫から出ているバルザックの「ゴリオ爺さん」(昭和55年版)だった。何となく海外文学のほうが漢字の多い日本文学より食指が動いたようで、他にディケンズ、ドストエフスキー、モーパッサンといったところが親の本棚に並んでいた。当時の文庫本は今より字も小さく、おまけにバルザックの小説の出だしは細かい情景模写の雨嵐だから、その頃の俺にとって一冊読み終えるのは容易ではなかった。それでも当時の自分の感想文を読むと、ありったけの愛情を捧げた娘達の犠牲になって寂しく死んでいく可愛そうな老人、という設定に少なくとも子供心でも充分印象には残ったようだ。
そして40代になり、俺は再び当時読んだバルザックの文庫本(ややくたびれてしまっていたが)を手にしていた。くだんの印象は少なくともディケンズよりは上だったようで以前実家にあった本の中で唯一「ゴリオ爺さん」だけが今の俺の部屋の本棚にそのまま収まっていた。そして以前あんなに苦労したのが嘘のようにたった2日で読みきってしまった。まあ自分の中の読書力もその当時と比べれば相当進歩しているのだろうが。その読書力とは何かと言えばこれは自分の中でもかなり新鮮な発見だったのだが何にせよ自分の中の種々の「感覚」とも言うべきものがそれだけ磨かれたということに相違なかった。まず登場人物たちのほとばしるような情熱や感受性の強さに打たれた。老若男女を問わず「涙がこぼれ落ちる」頻度の多さには新鮮な驚きを禁じえない。「昔の文学特有の大げさな表現」として読み流すのは簡単だが、冷静に考えるとやはりそれは凄いことだ。Tウイリアムスやマッカラーズあたりにちらほら垣間見えた「ウブで熱のこもった会話」が彼の時代ではまだ全面に表現されているのだった。今ひとつはこれまた「違う国の違う時代の話」と言われればそれまでだが、妻帯者の家に堂々と出入りし夫婦以外の男女がお互い愛を語ったりすることのできたいわゆる王政復古時代(そうした言葉も当時のフランス史への興味を否が応にも高めてくれるのだが)の貴族たち(に限らないと思うが)のすさまじいまでの自由奔放さについても、これまた無意識に読むか、意識して読むかで大きく違う。
こうなると他の作品も読みたくなるのが近頃の俺の常だ。学生時代は同じ新潮文庫から出ていた「谷間の百合」や「従姉妹ベット」を街の古本屋(当然まだブックオフはなかった)で購入したものの、最初の一作を読むだけで精一杯だったのか、結局は本棚に小さなバルザックコレクションとして並んでいるのを楽しんだだけで読むこともなく処分してしまったのを思い出す。もしかしたら一作目ほど面白くなかったのだろうか、という危惧もないではなかったが、たまたま最寄のブックオフで昭和42年版の河出書房世界文学全集(当時そういう全集ものの全盛期だったようだ)として取り上げられていた「谷間のゆり(平仮名だ)/ウジェニーグランデ」を見つけたので買ってみることにした。今では考えられないような立派なカラー挿絵や「谷間」の周辺図付きの懇切丁寧な解説がついた豪華本が現在の価値でたったの105円なのが悲しいが、俺の生まれた年でもある当時の時代の雰囲気が存分に味わえて、それが読書熱を後押ししたし、主人公と彼の恋焦がれる年上の人妻という設定がバルザック自身の女性遍歴そのものと知り、さらに興味をそそられたということもあって、(10代の少年には確かにまだ早かったようだ)「ゴリオ」以上の長編も難なく読みきってしまった。率直な感想から言えばこれは間違いなく恋愛小説の名作だ。特に家族愛と恋愛の狭間で苦しむくだんの人妻が基本宗教心の強い貞節な女性なだけに、その格調の高さは際立っている。これは本作に限らないが「宗教」という存在がいかに登場人物の人間的魅力を増幅しているか、つくづく思い知らされた。これは恋愛に限らず、精神の純粋無垢さについても同様で、無宗教国である日本人の「軽さ」の大きな要因を見た気がした。宗教が背景にあるからといって、人間が堅苦しくなるわけではない。むしろ逆だ。悪い人間、放蕩な人間もいるわけで、彼らの不道徳さはむしろ日本人以上だ。だが、全体を覆う人間らしさ、それは不完全さであり、現代の効率主義の対極にあるような気がする。俺が常日頃憧れつづけている西欧の精神風土の根本を見た気がした。「谷間」は主人公が現在つきあっている(?)女性へ綴った回想の手紙という形をとっているのも興味深い。俺のホームページの交遊記を目にしてそれまでなびいていた女性が気を悪くするのと同じで、その文章を読まされた女性も「そういうことを知らせないことが女性への思いやり」だと非難する。代表作のひとつとは言え今となっては入手が難しい「ウジェニー」が含まれていたのもラッキーだった。ここではバルザックのもうひとつのテーマである「金銭」への執着が描かれているが、このあたりになるとバルザック節にも慣れ、読み進めるのもすっかり楽しい。
さて、このあたりになるとバルザック本の出版状況にも大分関心が行く様になるのだが、大きな本屋さんに行くといわゆる藤原書店のものが大分幅を利かせている。ただ対談式になっている巻末の解説など読むと、彼の金融小説をナニワ金融道になぞらえるのはいいのだが「人間喜劇」がモチーフとしている人間模様というより商売やカネといった部分にばかり終始して幅がないし、高価なわりにはカバーの寄せ書きが全巻全て同一だったりどうもその編集ポリシーが好きになれない。(とは言え、最終的には買うハメになってしまうかも知れないのが悔しいが)いっぽう神保町などの古本街では東京創元社のバルザック全集(全26巻・昭和50年)なるものがドーンと構えており、全巻揃いでウン万とこちらもさすがにそこまではという感じだ。そんな時、便利なのがやはりインターネットだった。ヤフオクでやはり世界文学全集(こちらは中央公論)の中の上下巻に分かれていない「従妹ベット」(昭和43年版)を発見。こんなものは絶対古本屋では見つからないだけでなく意外に安価でもある。カラーではないがやはり挿絵が入っている。結果的には本作が一番面白かった。彼の作品は、良く言われる事だが周りを犠牲にしてまでひとつのことを徹底的に追求する「情熱の権化」的な人間が大抵登場する。アマゾンの読者レビューなどを読むと、そうした狂信者たちをむしろ反面教師とし、中庸の精神を是とする考え方を再確認させてくれる本という意味での肯定論が主流で日本人らしい捉え方だなと苦笑してしまうが、バルザック自身は情熱家であり、決してそうした中庸を説いているとは思えない。ならば成功者としての情熱家を書いてほしかった気もする。そうした情熱肯定論者の俺だが「ベット」に登場する究極の放蕩老人・ユロ男爵の前ではさすがに「いくら何でもひどすぎる」と一時は途中で(読むのを)放り出そうとしたくらいだった。これはある意味凄いことだ。どんな本でもここまで俺を呆れさせたものなどなかった。ブコウスキーですらそうだ。そのくらいちょっとやそっとのことでは愛想をつかしたことなどなかった。だがこの小説の本当に凄いところ、それはそこまで酷い男爵をどこまでも許し続けるユロ婦人の健気さだった。男爵が少しでも反省の色を見せると「帰ってきてくれた」と涙を流して抱擁してやる。これにはやられたと思った。正直涙が出た。まさに宗教心の成せる慈悲の心そのものだ。最後、これはそれこそ楽しんだのは俺だけだろうが、婦人亡き後、男爵は誰からも相手にされないようなぽっちゃりと太った給仕女と一緒になったのだった。この展開は谷崎潤一郎の「肉塊」を彷彿させる。最後まで懲りない、年齢も関係ない、「節度」と呼ばれるキレイごとに徹底的に逆行している。だが作風に別にアナーキーぶったところなど微塵もない。そこが何よりも凄い。この毒を含んだ、赤裸々な人生のごった煮感が本作の最大の特徴だ。中央公論社の聖書のような装丁とのギャップも何だか面白い。
「ルーベンスのモデルのような」太った女は次に読んだ「従兄ポンス」にも登場する。ここまで読むとさすがに予期せぬ出会いもあるものだ。「ベット」同様、前述のチャラチャラした藤原書店でも読むことはできたが、新しいものが嫌いな俺はあくまでアマゾンで探してまで昭和47年版の地味なビニール装丁(実家の本棚にはよくあったっけ)の岩波文庫の絶版本で購入。これも昔、街の古本屋で見かけたことがあり懐かしかった。さらに同じ岩波文庫から「知られざる傑作」と「絶対の探求」を読了し、一応一通り入手可能な代表作は網羅できた。いずれも表題からも分かる通り情熱家たちの物語だ。ラストで主人公が叫ぶ「見つけたぞ!」というのが青土社の雑誌「ユリイカ」と同じ意と知ったのも発見だった。「知られざる」では理想の女性美を追求する老画家が登場し(老人が多いなあ)まるでPlumpyDollsを描く俺のようだ。バルザック本人の「初恋は年上の既婚女性に限る」との言葉もジュンコを知る俺にとっては充分説得力がある。俺の後半の人生の指針となるべき彼の「女にも金にも執着し続ける」生き方はますます俺の中で大きくなっていきそうだ。もはや「平成のカサノヴァ」ではなく「平成の(痩せっぽっちな)バルザック」を自称したほうがよさそうだ。
08/02/09
3週間ぶりの休日、まずは数日前にBS2で録画しておいた「カッコーの巣の上で」を見る。精神病院に送り込まれたジャックニコルスン扮する主人公の見せ掛けの秩序や道徳といったものに収まりきらない真の人間らしさに感動。久しぶりにいい映画を見た。こんな映画がメジャーなアカデミー賞を取れた当時ってやっぱいい時代だったんだなと実感。続いては棚のビデオラックから「ダーティーハリーT」を取り出す。実は先日ラロシフリンの当作品のCDを聞いてビックリした。CDに収録されている「ハリーズホットドッグ」という曲が俺がいつも営業の移動中に聞いているニッポン放送の「ショーアップナイターネクスト」のオープニング曲そのものだったのだ。そういうわけでホットドッグ屋のシーンをもう一度見てみようと思ったわけだ。だが発見はもうひとつあった。ハリーの服装だ。俺はいつもカチっとした濃紺のスーツより、グレーや茶系のツイードジャケット風のスーツが好みなのだがそれは半分はハリーを意識しての事だった。だが今回さらに俺と同じVネックのセーターを着ていることにも気がつき嬉しくなってしまった。サソリ(犯人)を追いかけるあたりでそれ以降の筋は大体覚えているのでビデオを止める。前半のディテールについては割りと記憶が曖昧だったので結構楽しめた。なお前述のCDの収録曲の中でのお気に入りはやはり映画の冒頭でかかるメインタイトル。後期クリムゾン風の緊迫感溢れるリズムセクションがカッコイイ。その後は英文読書タイム。マッカラーズのThe Heart Is A Lonely Hunter に取り組んだ。「黄金の〜」を何とか読破し、その勢いで読み始めたがここのところちょっと息切れ気味だ。TIMEも買ってメイン記事は大体読んだが、こちらは学生時代の英和辞典には載っていない単語が結構あって、携帯サイトの辞典が役に立った。例えばcellular などのモバイル用語などが載っていないのは当然のことだ。マッカラーズと言えば「針のない時計」はなかなか良かった。古い邦訳なので訳文のぎごちなさも手伝ってか、特に若い登場人物たちのテネシーウイリアムズ風のナイーヴで純粋な会話が今の無感動な若者と好対照だ。それこそリウマチが悪化して一日に一行しか書けなかった頃の作品で俺が注文したのを最後にアマゾンではとうとう品切れになってしまった。
07/12/02
「これ、いい本だよ」と加島祥造の「求めない」という本をある人が見せてくれた。あらゆる角度から「求めない」ことの素晴らしさを散文調に書いたもので、なるほどなかなか面白い視点だなと思った。でも何でも求めすぎる今の世の中は確かに異常とは言うものの、やはり何かを求めて生きていくことは人間避けられないような気はする。モノとか快適さばかりではなく、その本人にとって本当に価値のあるものなら求めたっていいのではないか、と。まあ、ただ今回書こうと思っているのはこの本のことではないのだが。実はこの加島祥造というおじいちゃん、俺が昔読んだカーソンマッカラーズの「夏の黄昏」という本の訳者だったのだ。そういう訳で、何の気なしにその文庫本を読み返しているうちに、今度はやはりマッカラーズのいつも最初の2,3ページでいつもギブアップしている「黄金の眼に映るもの」のペンギンブックから出ている原文本(英語好きの母が昔読んでいたものを何故か譲り受けた)が気になりだした。そこで今度は「夏の黄昏」と平行してペンギンブックのほうも辞書を引き引き読み始める。当然、前者はすぐ読み終えてしまったが原文本のほうも今回は頑張って初めてまるまる1章を読みきった。Dケネディーが大人のサリンジャーなら、「夏の黄昏」のフランキーは少女版ホールデンかも知れない。彼女の描く登場人物たちはとてもピュアで繊細で個性的でもある。また彼女自身、病気になったり同じ夫と2度離婚の挙句自殺されたりと、とても波乱に満ちた人生を送ったようだ。ちなみに50歳で亡くなったのが67年で俺の生まれた年というのも感慨深い。手元にある「夏の黄昏」と「悲しき酒場の唄」以外は実質翻訳本が入手困難な状況(「夏の黄昏」もすでに絶版でアマゾンでもかなり高い値段になっている。「針のない時計」は2千円くらい出せば入手できそうだ)というのも彼女についてあらためて知りたいという好奇心をかき立てる材料にはなった。特にデビュー作の「心は孤独な狩人」はあのチャールズブコウスキーが自身のエッセイの中で推薦しているとか、はたまたソンドラロックが本人のデビュー作として映画で演じていたりと、意外な事実も知るにつけ、ますます興味をそそられる。「黄金の眼に映るもの」は百ページちょっとなので何とか頑張れば読みきれそうだが、こちらの原文本のほうは3百ページくらいあるようなのでかなりキツイ。でもリヴューを読む限りでは、かなり面白そうだし、読みきれば英語の読解力がかなり上達することは確かだ。来年はFXの赤字をチャラにすることと並んで大きな目標のひとつになりそうだ。
07/10/27
新宿ピットインにてZEK2度目のLIVE。今回は管楽器奏者4名が追加。うち2名はただのおじさんでちょっとナヨナヨしてて演奏がイマイチだったがつぼにはまった時はなかなか迫力はあった。今回はトランペットが主なメロディーラインを担当。管楽器が付くとザッパやリザード時代のクリムゾンっぽい感じで、当然インプロヴィゼーションが延々と続く路線。いまどきそういう演奏が聴けるのはやっぱり相当貴重なことだ。とりわけオープニングの「移民の歌」とアンコールの「ロックンロール」は最高だった。本田珠也のドラムは本当に凄い。それと前回あまり見えなかった清水くるみの体全体を使った鬼気迫るピアノ演奏の凄まじさが今回はじっくり堪能できたのも収穫だった。ただ今回、休憩タイムにメンバーが座席後方のカウンターバーに気軽に飲みに来ていたので、俺もそちらにふらふらと移動して彼らの顔を真近に見ることができたのだが、彼女(清水)はそこそこフェリス風の品の良さが残ってはいるもののかなりのおばさんだった。仕方ないのだろうが観客の中にちらほら見られる女性も大半はおばさんでしかも中途半端にスレた感じ。まあ純な感じの若い女の子なんているわけないか(笑)またメンバーの一人に「CDはあるの?」と話しかけることもできた。結成7年になるがこのバンドとしてのCDはないとの事。(普段はメンバー個々に活動しているようだ)あればもちろんほしいが本田珠也のあのドラムの迫力はやはり生が一番かも知れない。今回彼らの紹介文付きビラも入手できた。それによると次回は首都圏では12月に西荻。だんだん遠くなるなあ。ただ兄貴の今度の新しい職場が吉祥寺らしいから誘ってみようかな。
07/9/20
ZEPの再結成ライブを見に行ってもロンドンにもはやボンゾはいないがなんと関内にはいた。とにかく日本のZEPは予想以上だった。オープニングは「永遠の詩」。メロディーはvo・gのかわりにピアノが受け持ち、あとはひたすらbとdsによるジャズロック風リズムセクションが前面に展開する。だからまるでイエスのよう。この構成は少なくとも俺にとっては当たりだった。2曲目はUから「強き二人の愛」。選曲も渋い。今度は後期クリムゾンのようだった。圧巻は「モビーディック」。この一番ライブ映えする曲を生で聴けたのは本当に幸運だった。「アイムゴナクロール」はこのバンドの構成に一番合った曲だったかも知れない。ZEKから絶句を連想したのは全くの偶然だった。このバンドを知るきっかけになった新聞記事に同じことが書かれていたのを俺は覚えていなかったのだから。次回はオーケストラZEKだという。こちらも是非聴いてみたいものだ。
企業小説のパイオニア城山三郎もあの世に行った。落合信彦、清水一行、高杉良といった一連の小説郡を経て最後に御大城山の作品を10冊ほど読破。特に海外赴任のサラリーマンの悲哀といったものが良く描けていて好きだった。所謂四畳半ロックならぬ四畳半小説であり書き手の愛情は浮気相手の女たちより奥さんや家庭のほうに向けられていたのも特徴だった。そしてそれ以上目ぼしい日本の企業小説がブックオフの棚からは見つけられなくなったあと今度は海外のサラリーマン小説としてやや飛躍的な箇所はあるもののまあ総じて手頃な対象となったのがダグラスケネディーだった。サリンジャーの登場人物のような適度なウイットと反骨精神、ロバートジェームウォラーに見られるような内に秘めた理想と現実との葛藤。そのあたりは日本人企業小説家、特に高杉良あたりの熱血主義的思想とはかなり違う。ただし目的は違えど主人公たちは負け犬になることを好まず自己を貫き通そうとする。高杉良からも鼓舞され元気はもらえるだろうが心底共感できるのはやっぱりDケネディーの主人公のほうだろうなと思う。同じ海外でもソールペローの「この日をつかめ」くらいまでさかのぼるとまだ城山のような悲哀が見られるのだが。ダグラスの「仕事くれ。」を読んでいて今更ながらに感じたのはセールスマンとそのクライアイントの会話のラフさだ。当然敬語というものがないから、翻訳次第では友達言葉でも間違いではないということになる。でも他人に対する垣根が日本より低いのはそういう部分もきっとある。ZEKのライブに一人で行ったとき英語だったら相席の相手にきっと言葉を交わしてたことだろう。海外の良さがそういうところからも発見できる。
07/06/09
ニュートロルスはこれで4枚目。新宿で最近お気に入りのディスクユニオン中古センターで発見した。それにしても何ともはや彼らの引き出しの多さには驚かされる。多作なので今まで聴いていなかったアルバムがまだ残っていてこうしてやっと入手できるというのも嬉しいし、ジャズロック嗜好の今の俺には実にタイムリーな内容だ。コンチェルトグロッソを聴いていた当時の俺ではとても楽しむことの出来なかった種類の音だ。
「テンピディスパリ/ニュートロルス(74年)」
07/03/25
今年に入ってからある資格を目指して勉強をやりだしたので、休日もすっかり本を読めなくなりHPの更新もご無沙汰になってしまった。勉強なんかする気になったのは米国CPAの時以来だ。(宅建の時は自発的ではなかった)ひとつには自分の中での将来への方向付けがかなりはっきり見えてきた事に端を発している。ただ見えたつもりになっているだけなのかもしれないが。まあそのあたりの真偽については徐々に判ってくるだろう。勉強に疲れた時に最近聞いているのが上原ひろみだ。タイムトラベルという曲(「TimeControl」収録)を初めて聞いたとき、彼女のピアノというよりはジェフベックかゲイリームーアばりのドライヴ感あふれるGとその曲調が強く耳に残った。一聴すると松永貴志(報道ステーションのオープニングチューンを演っている男の子)路線だが、ジャズに固執していない分、曲調がバラエティーに富んでいて結構楽しめる。BS2のほうは「黄金の洋楽ライブ」が相変わらず面白い。唯一テレビタレント風ナビゲーター達のつまらんコメントだけはどうもイマイチで内容と釣合っていなかったのだが、前回があのクロスオーバーイレブンの小倉エージ、今回が伊藤政則とコメンテーター達の質もここにきて急に上がり出し、内容的にも前回がFマックのスタジオテイクとは掛け離れた熱いライヴテイクが新発見だったし(スティーヴィー・ニックスがジャニスにように吠えているのには驚いた)、今回もクリーム解散後のジャックブルースやクラプトンがジャズ・ブルース畑の黒人アーティスト達に混じってのジャムセッションと「こりゃあ、いいや」と思わず唸らされるものだった。BS2のおかげで「パリ・テキサス」「テス」などのナスターシャ・キニスキーものの映画もかなり久し振りにビデオに録って見た。「パリ・テキサス」で今回新たに感じたのは、登場人物のあまりのナイーヴさ稚拙さだ。家を出た男の動機はあまりにも情けないものだったし、子供と再会して喜んでいる母親も無責任さを棚に上げてあまりにナイーヴだ。ただそこで責任追求せず全てを許しあうイノセントさが逆に新鮮ではあったが。もともと本作は映像美やアート性が売りの作品だけに人物的にもあまりドロドロしていないほうがフィットするのかもしれない。映像美的にはむしろ「テス」がいい。特に夕暮れのダンスシーンは何度見ても出色だ。あとは「マリアの恋人」がいつ再録できるかというところだ。
06/08/27
まず入手できないと思っていたCEのレコード、それも一番聴きたかった「ダーティーファイター」と「ガントレット」が思いがけず神保町の富士レコード社系列の店で見つかった。前者はダウントゥーアースなローカルアメリカの魅力を感じさせる味わい深いC&Wがふんだんに聴ける。特に表題のA1「エブリウイッチウェイバットルーズ(何をやってもうまくいかない)」とA面ラストの2曲は何度聴いてもイイ。A1は冒頭トラック運転手のクリントが配送センターらしき場所に到着し、事務員の女の子にチョッカイを出す楽しいシーンのバックにかかっており、つい口ずさみたくなる曲だ。後者はジャズアルバムだがA1はやはり冒頭刑事扮するクリントが一杯ひっかけたあと車に乗り込むシーンでかかるリラックスムードの何か聴いていてホッとするような曲。いずれも俺の大好きなシーンだ。他にスリリングでノリのいいA3などもいい。



話は変わるが、イタリアンロックの雄ニュートロルスの幻の1st、2ndがついに日の目を見たようだ。ネットで試聴したがこれはもう絶対買いだ。3rdアルバムのコンチェルトグロッソがキングレコードから出たのが79年だからあれから27年も経ったわけだ。
それにしても昨今のネットの便利さはこれはもう認めないわけにはいかない。ユーロ・プログレ系の試聴サイトを発見した時は信じられなかった。CEのペンチャーワゴンのビデオはオークションでないと入手できなかったし、JAN SAUDEKの写真集だって今までは大きな洋書屋さんへ足繁く通ってやっと2冊入手できたが今ではネットで簡単に新しい作品を見ることができる。ラファエル前派を始めとする絵画なども特に海外のサイトの画像の豊富さ、鮮明さには驚かされる。本を探さなくてもカラープリンタでキレイに再現できてしまうのだからこんな楽なことはない。20世紀初頭の写真家、E.J.ベロックの作品にお尻が大きく張り出した女性の俺のお気に入り写真があって、写真集からわざわざ切り抜いたものだったが、これもやはりネットで探し出すことができた。(合掌)
06/09/15
営業で新宿まで出たついでにレコード屋めぐりをした。わざわざ休日に都内に出るのと比べれば圧倒的な時間と交通費の節約になる。営業ならではの特典だ。その日はいつも行く東口のディスクユニオンだけでなく本当に久し振りに西口にも歩を進めてみた。PAMの店長がえとせとらレコードがなくなったと言ってたがあれは蒲田店のことだったかなと考えながら20号線をまたぐ新都心歩道橋を渡ってみると、新宿店の入っていたおんぼろビルもまるごとなくなっており、河合塾の立派なビルに変わってしまっているではないか。新宿店よおまえもか、とガッカリしながら仕方なく昔UKエディソンのあったあたりまでブラブラ歩いた。エディソンが若い女の子向けの不思議な専門CD店に様変わりしているのは確か一度見ている。それにしてもあの硬派なプログレ専門店からよくもまあここまで変わったものだ。以前と同じ経営母体なのかどうかよくわからないが、それなりの繁盛店になっている。器用というのかある意味大したもんだと妙に感心しながら未練がましく店の前をウロウロしていた。と、そこに黒のハイソックスに同色の短いスカートをはいたゴシックロリータ風の服装にブヨブヨと太い太ももちゃんというもろに俺好みの茶髪の少女がこちらに向かってきたかと思うと、エディソンに入っていったではないか。5分もしないうちにまた出てきたのでナンパしたけどなびいてこなかった。いつもながら思うのはどんなに好みの体型のコでも所詮いまどきの日本人はダメだということ。それがわかっているのにやめられないのが悲しいところなのだが。その後数箇所見て回ったがどこもお寒い状況で気が滅入っていたところにふとあの「えとせとら」の看板を見つけた。ちゃんと移転して生きてたんだと思うと嬉しくなった。最後の最後に発見できるとは。しかも店にはいると以前と寸分たがわぬアナログ版の品揃えぶり。プログレ系が少ないのはやや残念だがそれを差し引いても楽しめる。オールマンの1stがあった。本命ではなかったが気分がいいので買う事にした。
では本命はと言うと。。今はディクディクの「洗濯女」だ。テープですでに持っているのだがあまりにいいのでレコードでも欲しくなった。こんなことはPFM以来かも知れない。それと無謀にもトロルス1st&2ndのCDではなくアナログ版。観念してCDを買え!という感じだが。あとは御茶ノ水で1度だけ見たラミンギ。みんなイタリアでしかもCDなら簡単に手にはいるものばかり。でもやっぱりレコードで聞きたいのだ。
06/07/22
CATVはアナログコースでも充分楽しめる。昔良く見ていた「ナイトライダー」や「白バイ野郎ジョン&パンチ」をまさか再びまた見れるとは思わなかったし、BS2の「ローハイド」に至っては今回見るのは初めてだ。「ジョン&パンチ」の中で「ローハイド」のウィッシュボーン役のポールブリネガーがすっかりおじいちゃんになってチョイ役で登場したときにはビックリした。チャンネルNECOでは裕次郎の70年代の映画を2本見たが、やっぱりあの時代はいいなあと改めて再認識した。人物はもちろん、かかっている音楽、走っている車などが本当にあの時代ならではなのだ。例えば「反逆の報酬」冒頭の渡哲也と鰐淵晴子のラブシーン。そのキャラ、演技、音楽、全てが「濃いーなあ」という感じなのだ。この濃さがたまらなくイイ。60年代以前になると自分が生きていなかったこともあるが大分雰囲気が違ってしまい実感が湧かない。ただ洋画はその限りではないようだ。65年の作品であるフェリーニの「魂のジュリエッタ」を見ていると同じ敗戦国でもやはりヨーロッパは違うなと思ってしまう。富裕層の人物が前提とは言えその垢抜けた配役達のキャラは俺の生まれる前に生きた人間とはとても思えないほど洗練されている。日本の富裕層とはレベルが違うようだ。
読書のほうは高杉良から逢坂剛にシフトしたところだ。何気なく手にした「遠ざかる祖国」の上巻を読み始めたところどうも過去の話が多くて読みづらいと思ったら、「イベリアの雷鳴」というその前のハナシがあることを後で知り、ああそういうことだったのかとパズルを解くように楽しく読めたのがきっかけだった。彼のキーワードはスペインだがフランコ将軍の名を初めて意識したのはカナリオスのレコードに入っていたライナーノーツだった。それは皮肉にも74年の彼の死をきっかけにスペインプログレ界が開花した旨を解説したものだった。そこで今回改めてグラナダ、トリアナなど自分が所持する数少ないスペインロックバンドのテープを聴いてみたが同じラテン系でもイタリアとは一味違った独自の雰囲気や魅力が確かにある。そしてスペイン臭さ(らしさ)はやや後退するもののカナリオスの素晴らしさは別格だ。最後に「四季」の二面を聴いたが全てが聴き所と言っても過言でないその無駄のない構成に改めて感嘆してしまった。ユーロロック界においてはあのPFMすら凌駕する唯一無比の金字塔的作品であることを再認識した。話しは戻るが逢坂の特筆すべき点のひとつにラブシーンにおける男女の心理描写の緻密さがあげられる。まさに「冷静と情熱の間」を振り子のように揺れ動く微妙で切ないニュアンスを見事に描ききっており、ここまで掘り下げて書いてくれた作家は初めてかもしれない。どんなに力量のある作家でもラブシーン、セックスシーンだけは通り一辺倒という場合が多い。日本人が西欧人と対等に渡り合って活躍するというお決まりのパターンにも俺は弱い。(タンジュンw)日系人「北都昭平」はさしずめ落合作品で言えば「佐伯剛」と言ったところか。フランコ将軍が手元の人名辞典に載っていないのは意外だったがそれだけスペインという国がヨーロッパの中であまり馴染みのない国ということだろう。これからイタリアのように染まる事ができるかどうかは逢坂作品にかかっていると言えるかもしれない。
06/04/09
ここのところまたCE漬けの日々が続いている。昨日は「マディソン郡の橋」を見た。映画の中で彼の地の笑顔や人間的な表情が見れる貴重な作品だ。「暗い」という評論をどこかで目にしたが、これほど日本人的な表現はないだろう。「お笑い」に象徴される幼稚なメンタリティーがそのような言葉を使わせてしまう。日本人にはこれだけストレートな恋愛感情を全編通して貫徹できるだけのシリアスさを維持することが困難だ。間が持たないからわざと軽いノリにしたり複雑なストーリー展開に逃げてしまう。それに対してCEの場合はあくまで不器用でありのままだ。CE扮するロバートキンケイドがアフリカでエイプ(ゴリラ)に求愛された話をしてフランチェスカが笑い転げるという原作にないシーンがあるが、普段は不必要なセリフを吐かず一匹狼的なところがある彼だからこそ、その分強引で決して流暢とは言えないはにかんだ表情による話し振りがイイ。そこには真の人間らしさというものがある。ところで以前この作品について書いた時は、フランチェスカが家族を捨てずキンケイドと一緒にならなかったことにガッカリしたものだったが、今の俺は過渡期に差し掛かっているのが自分でも良くわかる。所謂「里心がついた」と言うのか。「ダーティーファイター」の続編でCE扮するファイロがソンドラ扮するリンをようやく手に入れ、喧嘩マッチの依頼を断った時のように(結局は依頼を受けてしまったが)、家族の絆というものを段々と強く感じるようになると同時に一過性の恋愛感情の空しさというものがだんだんとわかってきた。サツキやジュンコとの会話の中身がだんだんマンネリに陥っていったようにキンケイドとフランチェスカの会話もストーリーが後半になるとだんだんと互いを傷つけまいと気を遣った会話に限定されていってしまうから、ジャレ事か口論かの両極端になってしまう。それは見ていても辛い。
白状すると実は先日H駅でなんと偶然ジュンコを見かけた。2年以上も見ていなかったが、黒いコートに相変わらずの膝丈スカートにパンプス姿。表情は堅く俺に気づく事もなくまっすぐ前方を見据えて足早に去っていった。二人の甘い思い出が残っているミウィの方へ。そのふくらはぎは以前よりも痩せていた。年齢と共に下半身は細くなっていくものだ。その時俺は自分の予想外の反応に驚いた。声をかけることもせず、「見たよ」と言うメールすらしなかった自分に。あれほど会いたくて仕方なかったジュンコが思いがけず目の前に登場したにもかかわらず。それは、先日メールでサヨナラされたジュンコのことを気遣うなどという格好いいものではなかった。それは神が俺に「いい加減目を覚ませ」と覚醒させるきっかけを与えてくれたようなものだった。つまり俺の中に所詮「愛」など存在しなかったと言う事に。俺は幻想に酔っていただけだったのだ。ジュンコによって「愛する事を知った」など思い上がりもいいところだった。俺のメンタリティーはサツキの頃から何ら変わっていなかったのだ。と言うよりそもそも変わるはずがなかった。そんなことくらい自分が一番わかっていたはずなのにそういう醜い部分にわざと蓋をしたまでのことだ。「恋愛ゴッコ」と素直に認めてそれを楽しんでいた頃のほうがまだ良かったのかもしれない。そして恐らくジュンコはそんな俺のことを何もかもわかっていた。俺はサツキの時には強いて言えば彼女の下半身を愛していた。それではジュンコの時はどうだったか。愚かにも愛される事に酔っていた、と言えるだろう。さらに言えば本物の愛がこもった熱烈な愛撫にどうしようもない肉体的、精神的な快感を得ていた。ジュンコに距離を置かれた後、俺が執拗にジュンコにメールして彼女を欲した理由。それは彼女への愛などではなく、それらの快感への醜い欲望に過ぎなかった。ただ、それには相手に最低限の視覚的な魅力が望まれる。女性のヴィジュアルな美しさに強い興奮を覚える。これが俺の中の大原則なのだった。H駅でのジュンコはそうした要素が明らかに後退していた。五感は正直だ。嘘など付けない。そこではどんなもっともらしい美辞零句も無力でしかない。
五感に正直に、という原則に乗っ取ってこれから舵取りをしていくことを考えた時、そして「マディソン郡の橋」のフランチェスカの選択に自分の気持ちがようやく一致したことを今回確認した時、精神的に愛すべきは家族であり、視覚的に愛するものはぽちゃ女性という住み分けを再認識できたように思う。いずれも対象が人間なだけに微妙ではあるがこの際思い切って定義付けてしまうと後者はややモノに近い位置付けだ。それはラファエル前派やPlumpydollsの絵に対して美しいと思う感情と一見同じカテゴリーなのだが、大きく違うのは相手が人間なので当然こちらが100%コントロールするのは不可能だという事。しかも欲情を伴った物欲だから恋愛感情と混同されやすい。それこそ何度となく直面した課題だ。それと最大の問題点はただ所有するだけでは真の満足を得られないという事。カネで相手の精神までは買えない。そこにはどうしたって情が通い合っている必要がある。だがそうなってくると家族に割くべき部分と少なからずバッティングしてしまう。しかもそれは決して恋愛感情であってはならない。恋愛感情までは行かないが少なくともお互い「好き」という気持ちがないと楽しむことはできない。その非常に狭い部分を埋めることができればあとは相手のキャパ次第ということになるだろう。確率論から言うと今という女性上位の時代にそうした欲望を満たすにはかなり苦戦を強いられるはずだ。ただそれを今すぐ実現しないといけないという精神的プレッシャーがないのは救いだが。
自分の欲するものが入手できないうちは、やはり空想で楽しむしかないのだが、ここで今現在見ているCEのもうひとつの作品がその格好の題材になってくれている。ヤフオクで入手した「ペンチャーワゴン」だ。さすがにこれはCE歴30年近い俺でも初めて見る作品だった。もちろんCDショップやレンタルビデオ屋でも一切見たことがない。そして俺の気持ちを捉えたのはCEではなく意外にも主役のリーマーヴィンという嫌われ役の爺さんだった。舞台は19世紀ゴールドラッシュ時の西部で「名無しの町」という文明や道徳を一切排除した野蛮な男たちの住む町だ。神を信じず酒や女遊びが人生の醍醐味というこの爺さんはやがて自分の居場所がなくなって去っていくのだが、今の去勢されたような若者とは対照的だ。老人が保守的と言われたひと昔前(この話はさらにそのまた昔だからまだ保守という言葉すら存在しない)とは正反対で今や年配者・老人のほうが生き生きしていて人間的だ。そして2人の妻を持つ男から競売で獲得した女と結婚したマーヴィンが野獣のように女の服を剥ぎ取るシーン。それこそ女がモノのように扱われていた時代の象徴的な場面だ。そんな時代ならきっと俺の希望も容易に実現していたことだろう。何もマーヴィンのように荒っぽく扱う気持ちなどサラサラない。ただ優しく接してあげただけで女性の気持ちなど簡単になびかせることができた時代。現に作品の中ではCEがその美味しい役にあずかっている。そして「女に道徳心がついた時」マーヴィンは寂しく去っていくのだった。
昔は長老という言葉があるように、年の功で年配者が何でも知っていたが、効率主義的な文明社会の下では若者のほうが新しいものを使いこなし、過去の非効率な価値観が崩壊してまるで若ければ若いほど賢くて頭がいいという時代になりつつあるような気がする。彼らに欠けているのは知恵であり思いやりなどの人間味や人間臭さだ。さらに言えば女への興味も希薄になってきているのではと思ってしまう。それは女から見ても同じかも知れない。価値観の多様化という文明社会の作り出した副産物が、神から与えられた異性への関心という恒久的な人間の性質に微妙な変化をもたらしているような気がしてならない。あからさまな愛情表現は後退し、よりクールなカッコつけた恋愛が謳歌している。例えば映画の世界がそうだ。SCREEN誌のチラシ大全集という本を見ると70年代にくらべ80年代、90年代と新しくなるにつれ所謂オドロオドロしい感じのエロチックなチラシがほとんど見られなくなってきている。それだけ人間が洗練され進化し、マニュアル化してきているという事だろう。自分が生きている間にこれだけの変化を感じるということは凄いスピードで進んでいるという事だ。傲慢なのは百も承知で言わせてもらうが、人間が無自覚になればなるほど、自分の存在価値・個性というものが相対的に日増しに大きくなっていくことを感じずにはおれない。
06/02/12
久しぶりの休日。ザッパを聴き始めたら止まらなくなった。最初に聴いたのは「グランドワズー」のテープ。どちらかと言うと「オーヴァーナイトセンセイション」の影に隠れて印象が薄く、サラッと聞き流してしまっていた作品だったが、今回改めて聴いてみてジャズロックへの愛着が以前にも増して強くなっている自分に気が付いた。そうなると今までパスしてきた「ワカジャワカ」あたりも聴いてみたいが持ってないので、代わりに収録曲の「Big Swifty」が含まれる「ユーキャントドゥーザットエニーモア」のテープをかける事にする。これはもともと大好きなテープで6作あるライブ集のうちの第一作からのセレクトだけに超充実した演奏が聞ける。「ロキシー」と同時期の演奏が聴ける第二作も以前に借りているはずなのだがテープには録っていない。今度ブックオフあたりで探してみるかな。続いては「ベストバンド」と「メイクアジャズノイズ」収録のテープ。前者は88年のツアーということでジャジーてオペラチックなヴォーカルが考えてみたら「ブロードウェイ」と同じスタンスだ。後者では「Duprees Paradise」が圧巻。この曲も前述の「ユーキャント」の第二作に含まれており、つまり74年より前の作品という事になる。ザッパの場合は曲の起源を溯る作業だけでも大変なのだが、ファンにとってはそれがたまらなく楽しい作業でもある。お次がクリムゾンカラーが楽しめる「スリープダート」。「The Ocean is the Ultimate Solution」は改めて凄いと思った。ソフツやアレアだけじゃない。本物のジャズロックここにありという感じだ。
ここで気分転換にCイーストウッドを見ることにする。なんと豪華で贅沢なリレーなのだろう(笑)一番普通でB級なクリント(これほど心が和み幸せな気分になれる絵はない)を見る事ができるのは「ダーティーファイター」あたりだろうか、と目星をつける。という訳でその前に録ってある「ピンクキャデラック」のエンディングからスタート。ラストでかかってる「Anyway the Wind Blows」はよくよく見たらザッパも取り上げている。しかも何度となく複数のアルバムに収録されているのだが悲しい事に俺のテープにはセレクトされておらず目に止まらなかったようだ。考えてみたら二人の音楽志向は意外と近いのかも知れない。確か二人ともハードロック嫌いだし。さて、お目当ての「ダーティーファイター」が始まり、またもやセンチメンタルなカントリーミュージックがスタートする。舞台は70年代のロサンゼルス。そこでトラックを運転するTシャツ姿の若きクリント(と言っても今の俺より年上なのだ!)が登場するというまさにドンピシャなシチュエーション。思わず目頭が熱くなってくる。いやホントマジで。極めつけは配送先のオフィスの女の子に無造作にキスするシーン。映画の中とは言えアメリカでならきっとあるに違いない。こういうことが。何て自由で素晴らしい国!しかもこの女の子、約30年前の当時で20代として今なら50を過ぎる計算になる。進んだ国、というより永久に日本人では追いつくことは出来ないメンタリティだろう。ただし、ソンドラロックはあまり好きではない。歌も下手だし。と言うわけでクリントが彼女に惚れ始めるあたりでビデオを止め、再びザッパへ戻ることに。
後半は「200モーテルズ」から聴き始めた。音的にはフロ&エディー版「アブソルートリーフリー」という感じだが、1曲だけ「オーヴァーナイト」路線のゴツイのが入っている。「Magic Fingers」だ。続いては先ほども少し触れた「ロキシー&エルスホエア」。「Don’t You Ever Wash That Thing」あたりの変幻自在で熱の入った演奏はこの作品のレヴェルの高さを象徴している。こんなレコードがゴロゴロあるのだからやっぱりバケモノだ。ところで「Sun of Orange County」でチラと出てくるフレーズは「ユーキャンドゥーザット」の「The Orange County Lumber Truck」もあったけど、オリジナルはどれだっけ?とまたまた迷路に迷い込んでしまった。どうやらこの分だと一生聴き続けても飽きる事がなさそうだ。最後はMOI時代の「ランピーグレイヴィー」。確か「マザーズフィルモアイーストライヴ」に収録されている「Bwana Dik」のオリジナルインストヴァージョンはこの中だったかな、と思ったので聴いてみた。こちらはアタリだった。
謎が解けてスッキリしたところで、今度は読書タイム。落合信彦をほぼ制覇し、今はもっぱら高杉良だ。「青年社長」を読み終わり今は「燃ゆるとき」を読み中。さらに「エクセレントカンパニー」「勇気凛々」が待機中だ。さらに自分の仕事にも間接的に関連している分野を取扱った「不撓不屈」も読みたいと思っている。同時進行で池上彰の「そうだったのか」シリーズも読んでいる。その後夕方からはスーパー銭湯で20日間の疲れを洗い流し、心身共にリフレッシュすることができた。
05/11/18
レコードと言えば最近は新宿のプログレ館ばかりで渋谷は本当に久し振りだった。ザッパ専門店のマザーズレコードはまだあるのかなという感じで宇田川町の交番あたりまで来てディスクユニオンの看板が目に入ったのでフラっと中に入ったという感じだった。最初にKのサーカスを見つけたのが幸運の始まりだった。エジソンの再発版だった。(これは当然だろうけど)その後プログレ新入荷コーナーを漁っているとフォーカスの80年代以降と思われるブルーのジャケが目に入った。そして裏を見るとそこには「ロシアンルーレット」の文字が!20年ぶりに探していた曲に出会った瞬間だった。あの頃NHK−FMの夜の名番組であるクロスオーヴァーイレブンでプロパガンダやミヒャエルローテルを夢中になって録音したものだった。一度も聴いた事がないのにこの番組でかかる10分以上の曲は絶対にいい曲だという妙な信念のもとに。そして実際驚くべきはその山勘が大抵当たっていたということだ。だが録音しなかった曲の中で「ロシアンルーレット」のメロディーだけはいつになっても頭から抜けなかった。10分は越えなかったけれどもとにかく素晴らしい曲だった。それをやっと再び聴くことが出来た今、俺は改めて驚いた。実際の音と自分の記憶の中のメロディーと寸分違わなかったからだ。まるで昨日聴いたばかりと思えてしまうほどそれは鮮明だった。20年前にたった一度しか聴いたことがない曲とはとても思えなかった。だが俺の脳裏では何百回と繰り返されていたろうから、それを思えば納得できることだった。さらに初めて聴くはずの他の曲も当時のクロスオーヴァーイレブンの雰囲気を彷彿させるものばかりだった。週間FMやFMfanと言った雑誌がなくなってテレビ雑誌ばかりになってしまった今、そういうエアチェックの醍醐味を味わう事は不可能になってしまった。例えばグリフォンのBBCライブでの貴重な音源をテープに録れたのはまさしくFM雑誌のおかげだった。こないだたまたまオンエアされていた鈴木聖美のライブにしてもFM雑誌さえあったならという気持ちは強くある。あの生の「TAXI」のイントロの素晴らしいオルガンはスタジオ録音では聴く事のできないものだった。Kのサーカスもレヴュー通り70年代らしさがバッチリ出ていて非常に気に入った。これも相当な愛聴版になりそうだ。そう言えばマザーズレコードの事はすっかり忘れて帰ってきてしまった。それよりは早くもまたディスクユニオンに行きたくなった。
05/10/09
最近またジャニスに通うようになった。まだまだいいバンドってたくさんあるもんだ。ブリティッシュではアイソトープ、アメイジングブロンデル。前者はソフツやアレア以上にGが前面に出た凄まじいジャズロックだ。後者は希少価値であるストローブスやグリフォン路線のさらなるヴァリエーションが楽しめる。そしてメインはやはりイタリアだ。まずグルッポ2001、ディクディクなどのカウンタートゥーレ路線。この際ボッテガやリッカルドコンチャンテなども聴いてみようか。PFMのジェットラグも遅まきながらやっと入荷されていたので初めて聴くことができた。チョコキンと同じVoで何となく路線が似ているようだが実は前作では後退していたイタリアらしい透明でエキゾティックな空気が戻ってきている。隠れた名作という巷の評価通りといえる。JET、デリリウムなどのメロトロンバンドも素晴らしい。こんなにまだゴロゴロ出てくるなんて全く何という国なんだ。イタリア以外でも同様にメロトロン使いであるグラナダの「スペイン75年」。これも長い間ジャケット写真しか知らなかったが、不器用だが小細工なしのストレートさが想像以上のインパクトを与えてくれた。
ディスクユニオンではジャンナ・ナンニーニの編集版と思われるLe OriginiというCDを入手。一切のリズムセクションを排したクラシカルアレンジ編ともいうべきPerleでは見えなかった極めて等身大のジャンナを聴くことができる。内容的にはPerleで聴けたような感動的なバラードから何の変哲もないポップミュージックまで玉石混合だがジャニスのミーアンドボビーマギーのカヴァー曲はちょっとした発見だった。レゲエ風のアレンジはちょっと不満だが声質はまるで生まれ変わりのようだ。そもそもディスクユニオンではほんの1週間前に目にしていたラミンギというバンドのアルバムを探していたのだが、来てみるとなくなってしまっていたのだった。アルバムカヴァーだけ見るととても70年代のイタリアのバンドとは思えない洗練された感じが妙に印象に残っていたのだがさらにレヴュー上での「プロコルハルム並みのハモンドオルガンを駆使した」というあたりがかなり引っかかっている。まだまだイタリア探訪の旅は続きそうだ。
ハモンドオルガンはメロトロンと並んで60年代後半から70年代初頭のロックシーンを彩る最高の楽器のひとつだが今にして思うと日本のグループサウンズもそういう意味では面白い。そうした音というのは何もプログレバンドの専売特許ではないし当時は普通のバンドが演奏するキャッチーなメロディーにもそうした鍵盤系の音が見事にミックスされ素晴らしい音を聴かせていた。さきほどのディクディクにしてもプログレバンドではないし、だからこそ魅力があったりする。曲名は忘れたがこないだラジオでGS時代の加山雄三の曲が流れていて、それがもろに当時のブリティッシュロックだったのには驚かされた。彼の声質はまるでドノヴァンのようだった。これは凄い発見だ。TVで堺正章やかまやつひろしらスパイダーズのメンバーが往年の曲を演奏していた時も思わず見入ってしまった。
こうした音は当時のレコードをスタジオ録音で聴くより案外生演奏のほうが素晴らしいかも知れない。8月に行われたお台場のメリディアンホテルでの鈴木雅之と聖美のライブ演奏をFMでオンエアしていたが、TAXIの導入部のハモンドにも通常よりも重厚な雰囲気が感じられとても印象的だった。たまたまラジオではなくステレオで聴いていたというのもあったのだがこれがレコードで聴ければなあとつくずく思ったものだ。
05/03/12(土)
昨日BS2で録画したクリントイーストウッドインタビューを見た。2年前に収録したものだ。70をすぎていくらか丸くなった部分もあるとは言え、スクリーンでのアウトローで無口なイメージとは裏腹に、礼儀正しく饒舌なところが面白かったがちょっと不満だったりもした。ただ言葉の端々に確固とした自分のスタイルへのこだわりが垣間見れ、ある意味人当たりはいいが内に秘めた部分を持っている感じが何となく自分とオーヴァーラップして(少々おこがましいが)楽しい発見だった。発見と言えば俺の持っているユリイカという批評誌の特集であるライターがクリントの動作のぎごちなさを指摘して、あれは元来の左利きを矯正されたのではないかという仮説を立てていたが、いみじくもそれと同じ事を本人が語っており、ああ本当だったんだなと驚いてしまった。
そして今日はさっそく彼のビデオをリヴューすることにした。数ある中から観ようと思ったのはダーティーハリー4だ。昨日見たインタヴューで紹介されていた「Go
ahead,make my day(撃ってみな。お前にとってイイ一日になるぜ)」という決めゼリフをもう一度聞いてみようというきっかけからだったのだが、誤算があってひとつは日本語吹替えだったということ。(まあ山田康夫の声は好きだったが)それとTV放送のため何とその部分がたぶんカットされていたということだ。(もし見過ごしていなければだが)むしろ興味深かったのは合間のCMでアイドル時代のめちゃめちゃ若い石田純一が登場したり女の子の髪型がまるで平安時代のように皆長くて眉が濃くバブリーな世相をもろに反映していたことだった。時期としては恐らく80年代半ば〜後半で俺が高校か大学の頃に録画したもので、映画も83年発表だから考えてみれば同時代にあの頃の彼を体験できたということは今にして思えばラッキーなことではあった。決めセリフは聞くことができなかったが少なくとも当時の彼はチンピラ達を前にして「お前等は道端に落っこちてる犬の糞だ」と言っていたのだから。
3倍モードのため同じビデオに続けて68年発表の「マンハッタン無宿」が入っていた。さすがにこの時代になるとクリントも若く、女性への強引なアプローチなどを見ていると現役バリバリという感じだ。彼の映画を見ると俺はいつも併せて彼の本に載っているフィルモグラフィーを読むことにしているのだが、ここでまたまた驚くべきことを発見した。何と当時の彼の年齢は既に今の俺と同じ38だった!遅咲きの俳優という認識は持ってはいたが改めて68年という彼に取って実質的なデビューとも言える年が今の俺の年と同じとは何ということだろう。ちなみに俺の生まれた年(67年)にもほぼ近く何か運命的なものすら感じる。スクリーンの中の彼を見ているとまるで20代のようだ。まあその辺は俺も20代で通す自信は今でもあるにはあるのだが(笑)とにかくその年をスタートに彼は5人の奥さんと7人の子供をもうけた。マルパソ(悪の道)とはその年彼が創設した独立プロダクションの名前だ。そこには二通りの解釈がある。ひとつは険しい道、つまり勉強し前進していくという肯定的な意味合いだ。そしてもうひとつは言葉通りの意味ということになる。クリントを20年以上見続けてきた俺にとって彼はますます大きな存在になっていきそうだ。
05/02/27(日)
何の免疫もない状態でとりわけ感受性の強かった俺が小学生の頃、ビートルズやクリムゾンを聞いてブッ飛んだのと同じように明治〜大正期の文壇においても、今のようにメディアの氾濫による外国人や外国文化への免疫や知識が皆無だった中で、いきなり西欧女性や西欧文化に接することになった、それこそ現代人よりもはるかに強い感受性や純粋無垢なハートを持った男たちの率直な反応や憧れほど、面白いものはない。自分にオーヴァーラップし感情移入できる部分があまりにも多いからだ。それは現代人の文章からはとても望み得ない感動とエキサイトメントに満ち溢れ、さらにはどうしようもない焦燥感や厭世観にまでつながっていく。その緊張感というか切羽詰った真剣さには胸を打たれるものがある。代表的なところでは谷崎潤一郎の「痴人の愛」「肉塊」や永井荷風の「あめりか物語」といったところが挙げられるが、あの森鴎外にしてもこの両者のように表立っての表現はないが「舞姫」や「普請中」の中で書かれているものは西欧への熱い気持ちを封印せざるを得ない無念さと言うか諦念感に他ならない。
そして今、俺が強い共感を持って追いかけているのが先日「図説日本史人物伝」をきっかけに興味を持つようになった与謝野晶子の夫である与謝野寛(鉄幹)その人だった。最初は妻子のあった鉄幹のもとに家庭をかなぐり捨てるほどの強い情熱を捧げて飛び込んでいったという晶子という人物への興味から始まった。どちらかと言うと日本風だったその容姿が「みだれ髪」以降まるで別人のようにそれまでつり上がっていた目元がまるで西欧人のように彫りが深くなっていく写真がとても不思議で、この人物のことを良く知りたいと思って評伝などを読み進めていくうちに、彼女とは切っても切り離せない役割を演じていた夫、鉄幹に対する興味がだんだんと上回ってきてしまった。彼の詩や文はなかなか書店などで入手できないのでインターネットの青空文庫などで彼の文章を読むにつけ、これはあるいは谷崎を上回っているかもしれないと思うようになってきた。『おれは近頃欧羅把(ヨーロッパ)の往復に、新嘉玻(シンガポール?)を二度観て、南洋の生活を羨まずに居られなかつた。(中略)人生を剥き出しにして、真実の愛と戦闘とに力一ぱい生きる、自由な世界としては、巴里も羅馬も南洋の島も異りがないからだ!(南洋館)』『おれは女の見慣れないけば/\しい新粧と、三十歳ぢかい女の豊満な肉の匂ひと、香水のかをりとに一種の快い圧迫を感じた。(素描)』といった表現にはどことなく遠慮がちで劣等感が先に立ってしまう谷崎や永井にはない豪快さがありそれは『おれ』という一人称にも象徴されているようだ。また自身の浮気を悟られまいと晶子の動向を気にする表現や、家庭生活についての倦怠感をあからさまに吐露した文章などもあり、非常に身につまされるというかあまりにリアルでとても異世紀に住む歴史上の人物の文章とは思えないほどだ。一般に語られている与謝野夫妻の記述では語られることのない生々しい現状を知るにつけますます彼らへの興味は増すばかりだ。晶子にしても一般に語られることの少ない『みだれ髪』以降の後期の作品群においては、若い頃のただのナイーヴな純愛を歌ったものとはまた違う、傷つき、傷つけあうおどろおどろしい大人の恋愛を歌ったものが多くこちらも面白い。性にたいして比較的開放的と言われてきた(ただし男性から見るとだが)日本古来から戦前までの風紀が徐々に女性の立場や発言権が増すことによって変化してきていた頃でもありそういう意味での葛藤も鉄幹には大いにあっただろう。
昨日、晶子の詩にインスパイアされて久しぶりにジュンコにメールした。ジュンコは晶子を彷彿させる“情熱の女性”だ。晶子が鉄幹を愛し憎んだように、俺もジュンコとの憎愛劇を経験してきた。だが俺にとって晶子はジュンコであるだけでなく妻、範子でもある。おれは晶子、鉄幹に自分自身を当てはめ自己投影しながら一方では自分の判断で再び本物の恋愛を入手する自己作業を進めていくことになるだろう。何故ならそれが俺の人生におけるライフワークでありポリシーだからだ。それは森永卓郎の言う“生涯恋愛社会”の体現でありまた落合信彦の“イイ女を追いかけることをしない奴は人間をやめるべき”発言に奇しくも裏付けされた格好ではあるものの、あくまで自分の内なる価値観、内なる意志によるものなのだ。『我という人の心はただひとりわれより外に知る人はなし』これは谷崎潤一郎の言葉である。
05/02/22(火)
久しぶりに仕事で都内に出る機会があり、時間が余ったので東京に出たついでもあり、新宿三丁目のディスクユニオンプログレ館に行くことにした。そこでかかっていたイタリア語の女性ヴォーカルに正直俺は完全に打ちのめされてしまった。その情熱の塊のような切々と歌い上げるしわがれ声は店内の音響であることと初めて聞くことによる新鮮さを差し引いたとしてもなお余りあるほどの魅力をたたえており、あのジャニスをも彷彿させるほどの迫力に充ちていた。またイタリア語の持つ独特の雰囲気も既知のイタリアバンド以上に良く出ているような感じだ。一体何と言う人なのだろう。もしこの店を出てしまえばおそらく一生二度と耳にすることが出来ないかもしれない。そうこうしているうちに店員はディスクを入れ替えてしまい一転してジャズロック風の曲に変わってしまった。。ちょうど買おうと思っていたベガーズオペラの2nd(Waters
of change)を手にレジに向かった俺はおもむろに尋ねた。「今かかっているやつの前にかかっていたアーティストは誰ですか?」「え?何でしたっけ。えーと、女性のカンタトゥーレですか」「そう、それです!」店員の手にしたCDは何と店頭の新譜コーナーに置かれており意外にもあっさりした絵柄のものだった。絶対に自分では買わないようなデザインのものだった。Gianna
Nanniniという当然聞いたことのない名前。家に帰ってCDケースを開けて見たが、中身は全てイタリア語のためどういうアーティストなのかさっぱりわからない。だがそれぞれの曲に発表年と思われる年が書かれており古いものは70年代のものもある。ベストアルバムなのだろうか。少なくともポット出の新人ではなさそうだ。タイトルはPerle。イタリア語はわからないがPearl(パール)ならそれこそジャニスだ。その音は店で聞いたときと変わることのない感動的なものだった。オパスアヴァントラのドネラの印象にちょっと近いが彼女のような声楽系や、あるいはカンタトゥーレの場合、純粋なロックと違ってどの曲も同じような印象に終わってしまうことが多い。ドネラのソロアルバムにしてもそうだった。やはりオパスアヴァントラというロックバンドの音の中にいたからこそドネラの声も新鮮に聞こえたものだ。だがGiannaの場合音的にもそのようなマンネリズムが全くない。むしろロックの中ではその演奏の中の一部としてしか聞くことのできない美しいメロディーをこれでもかというくらいに聞かせてくれて、これぞ音楽と言うべきものだ。今日の素晴らしい偶然に本当に感謝したい。またGiannaの印象に隠れてしまった感があるがもう一枚のベガーズオペラの2ndも期待以上の内容だった。シルバーピーコックなどはPFMのチョコキンに出てくるような目まぐるしいキーボードが聞けて面白い。(ちなみにチョコキンより時代が古いのだ)1stはイマイチだっただけにかなりの掘り出し物と言える。
その日は本屋にも寄って学研の歴史群像シリーズ「名言で読む日本史人物伝」という本も買うことができ、CDと併せてとても収穫のある日だった。中学生の頃やはり学研だったと思うが子供向けの図鑑である「日本の歴史(全5巻)」を良く読みあさっていた。人物に焦点を当てた写真をふんだんに使った本で非常に気に入っていたが、大人になって本が増えた為スペースの都合で処分せざるを得なかった。その後それに代わる本をずっと探し続けていたのだが今回やっとふさわしい内容の本を見つけたと言うわけだ。特に与謝野晶子に関する頁がとても印象深くひとつの決め手となった。彼女に関してはまた別の機会に書いてみたいと思う。
04/10/24(日)
午後からレコードを売りに町田の中古レコード店へ行った。「アナログやめるわけじゃないんでしょ?」と店長。ご心配には及ばない。相変わらずおせっかいなオヤジだ。さらに俺の持ってきた1枚を見て「これなんかきれいにすればスゴイ音でるんだけどなぁ」と未練たらしく畳み掛ける。レコードの溝が減るというのはウソと数年前に教えてくれたこのガンコ親父は少々うざったいところはあるもののアナログへの熱い思いがビンビン伝わってきて俺としてもついついハナシを聞いてやることになる。
それと本日、このHPの表紙にもなっているソフトマシーンの曲目リストをテープと一緒に送ってくれた女の子から約13年ぶりにコンタクトがあった。実は1週間ほど前に彼女のくれたテープを久々に聴いたのがきっかけで懐かしくなって手紙を送ってみたのだ。当時より彼女の書く文章には強烈な個性と才能が随所に垣間見られたものだったが、今回HPを見せてもらいその造詣の深さにさらに凄みが増しているように感じられた。
レコード屋のオヤジといい、この女の子といい、自分の好きなことに対するこだわりは半端ではない。ただそれに伴う苦労もきっと半端じゃないだろう。それは俺みたいな“こだわり族”のはしくれにも理解できるし、時にはそういった部分を共有し合いたいと思ってしまうのも致仕方ないところか。