追憶の中の君へ





 永遠に続くかとも思われた内戦がようやく終結を迎えたこの小さな国には、いまだなお安らぎや平和は訪れていない。
土地は荒れ、働き手である男達の多くは殺され、そんなこの不幸な国に容赦なく旱魃が襲い、難民キャンプには何処にも行く当てのない人々が溢れていた。
 僕はNGOのメンバーとしてこの難民キャンプでベースを張り、医療支援を続けている。
国境も民族も言葉の違いも全て越えて僕や僕らの仲間が集うのは、ただ誰かの為になりたい、助けたい、自分が出来る何かをしたいという駆り立てられるような想いからだろう。
 ただ現実は想像以上に酷い状態で、ときどき悲しみと苦しさに負けそうになることがある。
 そんなとき決まって僕はあの人を思い出す。
どんな困難にもどんな悲しみにも、決して顔を背ける事なく前を向いていた人。
どんなつらい人生にも負けまいと、いつも希望を持ち続けていた人。
そんなふうに生きていた人を僕は知っている。
思い浮かべると必ず、痛みと苦しみと後悔と、そしてほんの少し甘く切ない気分になる、そんな思い出の中にいるあの人を。






 僕らが彼らの力で研究所を脱出し、そしてこうやって元いた世界に戻ってきてからもう15年が経つ。
 ブラウン博士は故郷に戻り、再婚もせずにずっと彼を待っていた奥さんと一緒に山奥の無医村に腰を落ち着けていた。
 年に一度のクリスマスカードだけが彼と僕を繋ぐ唯一のものとなっていたが、去年のカードには元気で暮らしている様子が伝わってくるような温かいメッセージが書き添えられていた。


 ハミルトン博士はあの後、アフリカのとある国の大学に招かれて教授になった。
 一度近くの国に派遣された僕を尋ねて会いに来てくれ、一晩語りあったことがあった。
 その国は経済的にとても厳しい状況で、博士は自分の報酬までも、学生の為の書物や研究機材の購入に当てていたようだった。
ほとんど無償のボランティアに近かったが、ひとりでも多くの優秀な学生を卒業させてこの国の死亡率を下げたいと語る博士の瞳はきらきら輝いて、とても幸せそうだった。
 博士は75歳まで教壇に上がり続け、ある日大学で倒れてそのまま帰らぬ人になった。
博士の葬儀には、彼が育てて来た多くの医者たちが涙を流しながら見送りに来ていた。
 彼の一人娘はそんな彼らを見て、自分の父親を誇りに思うと言っていたそうだ。


 ハミルトン博士は僕を尋ねて来たとき、学会の帰りに一度だけシドニーが住んでいる町に寄ったと話してくれた。
 シドニーはすっかり大きくなり、すらりとした少女になっていたという。
 あの頃のことはすっかり忘れ、博士の顔も覚えていなかったようだったが、博士はそれでいいのだとおっしゃっていた。
あの娘があの忌わしい過去を思い出す事のないくらい今が幸せならばその方が良いと。
 僕もそう思った。
 ただ出来れば、命をかけてシドニーを守ろうとしたあの人のことだけは覚えていて欲しかったと思ったが、きっとあの人も自分を覚えていてくれることなど望んでいないだろうとも思った。
 彼女のことだから、きっとシドニーが幸せになれたことを喜び、博士や僕と同様に自分の事を忘れていた方がいいと笑って言うだろうと。





 僕の所属するNGOは世界中のあちらこちらに仲間を送りだしている。
そのどれもが内戦や戦争、飢餓や旱魃など、人々が苦しみ哀しんでいる場所ばかりだ。
 そんな国々に散らばった仲間たちから僕宛てに届くメールに、時々彼女とその仲間の影を見つける事がある。
 集団で行方不明になった鉱山技師たちがその間の記憶を無くした状態で発見されたり、武器の供給が急に止まって停戦が実現したり。
 山腹から煙りが出ているのに気が付いて調査に行けばそこに怪し気な工場がひっそりと建っていて、中はすっかり破壊されていたというのもあった。
 世界中に配信されるようなニュースではないが、仲間達から伝え聞くそんな ニュースを耳にすると、僕は皆が元気で生きていることにホッとする。


 しかし同時に、まだ彼らが闘い続けていることに暗たんとした思いを禁じ得ない。
あれから長い年月が過ぎたというのに、まだ彼らはやすらぎを見い出せていないのだ。
 戦場を、燃え盛る街を、破壊された建物の中を、赤い戦闘服を纏って走り抜けて行く彼女の姿が眼に浮かぶ。
あの美しい彼女の瞳が、つらく悲しい現実をいつまで見続けなくてはいけないのかと思うと、胸が締め付けられるように痛くなる。





「キム博士!お願いします」
診療用の建物の方から僕を呼ぶ声がする。
どうやら短い休憩時間が終わったらしい。
 仮眠用に建てられたテントから出ると、そこには診察を待つ人々の列。
腹ばかり膨れた痩せ細った子供。どんよりとした生気のない眼をした大人達。


 
 僕の罪は一生消える事がないし、許されるとも思っていない。
過去が消えないものならばせめて、今自分に出来うる限りの贖罪をしようと思っている。
僕がこうして働いているのは僕なりの謝罪でもあるのだ。
そして微力でも世界の平和の為に貢献することが出来れば、それはせめてもの彼らへの贈り物になると信じている。
  だけどこんな光景を見ていると、どうしようもない無力感に襲われてしまうことがある。
どんなに努力しても人々の苦しみがなくならないことに、心も身体も疲れ果てることがある。
 そんな僕を支えてくれているのはいつもあの人だ。
15年も前だというのに眼を閉じれば今でも浮かぶ彼女の面影。
 あの人はいつも凛として前を見つめていた。
どれだけ多くの悲しみや苦しみが彼女を苛んできたかわからないのに、それでも彼女は強く、優しく、そして美しかった。
 そしてそんなあの人の姿が、僕に後ろを向くな、最善を尽くせ、と背中を押してくれるのだ。






 追憶の中のあなたへ。
 あなたのその笑顔が曇る事がないように、その瞳がいつも柔らかい光をたたえているように、そしてあなたの頬が涙に濡れることがないことを僕はいつも願っています。
 いつかあなたが溢れんばかりの光の中で幸せに微笑む日が一日でも早く来る事を、僕は世界のどこからか祈っています。



 僕は白衣を羽織って歩を進めた。
 僕は僕が出来る事を。
それが世界の幸せに繋がる事を信じて、僕は前を向いて歩き出した。




2004.4.17 THE END