凍った月

(10)




この研究所で一番不幸なのはきっとオレだろう、とグランツは心の中で一人ごちた。
博士達の元から戻って来たレイチェルは、凄まじい勢いでイライラとした感情を隠す事もなく彼に幾つかの 指示を出していった。
大至急老婆を攫ってこい、というレイチェルの命令に、それが彼女の怒りを増幅させることが判って はいたが思わず問い直してしまった。
「老婆……ですか?」
「頭だけでなく耳まで悪くなったの?大至急よ!!!」
眉を釣り上げてレイチェルはわめいた。
「しかしレイチェル様、先日も報告したとおり、今この海域にはサイボーグ戦士たちがい
 ます。 囚われの003を捜しているのか毎日島の探索をしているとサイボーグ鮫から報告
 が入ってます。
 そんな状況で目立つ事をするのはあまりにも危険すぎます。」
今はレベル4の厳戒体制なのだ。とてもできる相談ではない。
しかしレイチェルは軽蔑するかのような目でグランツを見やった。
「あなたの頭は飾り物なの?偵察用のロボットバードを差し向けて監視させればいいで
 しょう? あいつらの隙を見て高速艇を出せばいいじゃない。使えない男ね、全く。
 とにかく大至急攫って来てちょうだい!」
グランツの頬が赤く染まった。部下のいる前で此処までバカにされては立つ瀬がない。
言いたい事だけ言うとさっさと管制室から出て行ったレイチェルの後ろ姿を見送ると、グランツは手近 にあった椅子を蹴り上げた。


ちくしょう、ちくしょう!!
管制室は気まずい沈黙に包まれた。
グランツの部下達は真っ赤になっている彼の方を見ないようにモニターを一心に見つめている。
そんな部下達の態度に更に恥ずかしさが増した。
苛立ちまぎれに大きな声でロボットバードを差し向けるように指示をだした。



あの女の副官に任命されてからろくな事がない。
頭が足りないのはあの女の方だ。こんな危険なときになんでそんな事をしなくてはいけないんだ?
この施設は彼女のプライベートな研究施設の為、戦力面ではまことに心もとない。
もちろんある程度のロボット兵やサイボーグマンはいるのだが、あの悪名高い00ナンバーズ たちにかなうはずはない。
この研究所は半地下にあり自然の岩盤をくり抜いて作られているので、容易には見つからないよう になっている。
地上と繋がっている中庭の天窓や出入り口さえ閉じてしまえば近づいてもまず見つからないだろう。
だからこのままじっとしているのが一番いいのだ。
あいつらが諦めてこの海域を立ち去るまで息をひそめているのが一番安全なのだ。
なのにあの女ときたら何の用が在るのか判らないが老婆を攫って来いと抜かしやがる。
全くあのサイボーグの女を連れて来てからというもの、レイチェルのヒステリーは日に日に酷くなる。
以前は 感情をいっさい出さなくてそれはそれで怖かったが、こうなってみればまだ以前の方が扱いやすい。
グランツは治まりのつかない感情を持て余し、レイチェルのことを心の中で卑下し続けた。
あの女、今に見ていろ。
オレはあいつの秘密を知っている。
いつかあいつの化けの皮を剥がして皆の前で恥をかかせてやる、と。







フランソワーズは躊躇していた。
此処を脱出して仲間の元に合流することが可能だろうか?
正直いってかなり危険な賭けになるだろう。
レベル4の厳戒体制をしいていると以前レイチェルは言っていた。
ということは外からの侵入も難しいだろうが中から外へ脱出するのも容易ではないということだ。
それにわたしに協力したことが判れば博士達は間違いなく処刑される。
そんなフランソワーズの迷いを察してハミルトン博士が言った。
「私たちの心配はしないで下さい。覚悟は出来ています。」
「でも……」
「どちらにしても私達は処刑されるでしょう。」
「どういうことです?」
「レイチェル様はすぐにでもあなたの身体を手術しようとするでしょう。それから彼女は
  明日にでも シドニーを処分するように言ってくるでしょう。
 レイチェル様に移植した肌は順調に定着しています。皮膚さえ定着してしまえばシドニ
 ーはもう無用ですから。
 しかし私達はもうその命令には従えません。断れば処刑されるとしても。
 だから私達にはもう他に道は残されていないのです。
 どうかあの子を連れて此処から逃げてください。それが私達に出来る唯一の贖罪なんで
 す。」
ハミルトン博士もブラウンもキムも、みな微笑んでいた。
自分達の命をかけてのその願いに、フランソワーズの決意も固まった。
例え可能性が低くても、黙って言いなりになんかならない。最後の最後まであがいて必ず道を開 いてみせる。
それにもしみんながこの近くに来てくれていれば、きっと気付いてくれるはず。
「判りました。やるだけやってみましょう。でも脱出するときはみんな一緒ですよ。」
フランソワーズは博士達を見回すとにっこりと微笑んだ。
「この一ヶ月、無駄には過ごしてきたわけじゃないんです。博士達の協力があれば百人力
 です。 がんばりましょう!!」
フランソワーズは博士達を安心させるかのように明るく言った。










プライベートルームに戻ったレイチェルはどうしようもなく苛立つ自分の感情を持て余していた。
滅多に感じた事も無い疲労感に、そのままソファに深くもたれかかった。

003を連れて来てからというもの、なぜか心を平静に保てなくなる。
冷徹で完璧なはずの私が感情をコントロール出来なくなっている。
部下達が自分のことを『氷の女王』と影であだ名していることは知っていた。不思議と怒る気にはならなかった。 むしろ的を得たそのネーミングに拍手したいくらいだった。
わたしの心は凍っている。
あの時から。もうはるか昔になってしまったあの頃から。



『許してくれ、シドニー。他に好きな人が出来たんだ。』



思い出したくない、なのに懐かしくて愛おしくて胸が一杯になるあの人の声。 レイチェルは眼を閉じてソファに横になった。

『シドニー、話があるんだ。』

人工子宮の研究が大事な時期に入っていた。研究室に泊まり込んでずっと家に帰れなくて、 あなたとずっと顔を合わせていなかった。 でも仕方ないじゃない。子宮に異常があってあなたの子供を産めない私にはこの研究を完成 させるしか子供を授かるすべがなかったんだもの。
必死だったわ。早くあなたの子供を育てられる人工子宮を作りたかったの。
代理母はいや。あなたと私の子供を他人のお腹で育てるなんていや。
私が作った私の子宮であなたとの子供を育てたいの。

『いいんだよ、シドニー。子供は授からなくても。だからもっと二人で一緒にいよう。
 そうでなければ……』

何を言っているの。あなた子供が大好きじゃないの。待っていて、もうすぐ完成するのよ、もう少しで。
モーリス、今が大事な時期なのよ。もう少しだけ我慢して。

『シドニー。シドニー、いいんだ。ボクは君に側にいて欲しいんだよ。』

待っていて、もうすぐだから。私たちの赤ちゃんをいまに抱かせてあげるから。


もう止めて。これ以上思い出させないで。
どうして忘れられないの?
どうして思い出してしまうの?


研究室に訪ねきてくれたあなた。すごく久しぶりだったから嬉しかった。
ずっと会いたかったの。報告 したいことがあるのよ。
モーリス。完成しそうなの。ほぼ完成したのよ。動物実験の成功率も80%を超えたのよ。もうすぐ私達の赤ちゃんを作る 事が出来 るわ。
モーリス。モーリス?
話って何?そんな辛そうな顔をしてどうしたっていうの?
ああ、もうずっとろくに話も出来なかったけれど、もうすぐ完成するのよ、そうしたら……

『もういいんだ、もう……。別れて欲しいんだ。他に好きな人が出来たんだ。許してく
 れ。』



何故?何故?わからないわ。
どうして?
なぜ私の元から去って行くの?あの人の何処が私より勝っているの?
私、見に行ったわ。あなたが好きになったと言う人を。
学歴もない、見た目もぱっとしないただのパン屋の店員。
ただ若いだけの、取りえのない小娘じゃないの?
なぜ私よりもそんな女を選んだの?どうして?


混乱する頭のまま、ショーウィンドーをふと見たとき、そこに映っていたのは髪を振り乱し、眼の下に隈を作った 疲れた顔 の女。
これは誰?つやもなく、しみのうっすらと浮き出たその肌。目尻や口もとの細かいシワ。
がたがたと震 えながら顔を覆おうとした手までざらざらしていて瑞々しさは欠片も残されていなかった。
あなたは誰?此処に映っているこの人は誰?
これが私?


私が若くないから?
だから私を捨てていくの?
あの女はしわ一つないぴちぴちとした肌だから?跳ね返ってくるような瑞々しい肌だから?白 いすべやかな肌をしているから私よりあの女を選んだの?
ねぇモーリス。私が若かったら私の元にいてくれた?
初めて出会った頃のままなら、私を愛してくれる?


あなたにもう一度愛してほしかった。
だからシワをとる手術もしたわ。若返る努力もしたわ。
そして初めてあなたと出会った頃の私に戻ってあなたに会いに行った。
なのにあなたは悲しそうな顔をして、黙って首を横に振った。
何が足りないの?どうすればいいの?
どうすれば私を愛してくれるの?






どれくらい物思いに沈んでいたのだろう。 レイチェルはゆっくりと身体を起こした。
首の辺りが湿っぽくて気持ちが悪かった。 襟首に手をやるとそこはぐっしょりと濡れていた。
そのまま頬に手を伸ばし、レイチェルは自分が泣いていたことにようやく気が付いた。
自分がまだ涙を流せる事が不思議で、しばらく濡れた手を見つめていた。


そのとき部屋の通信機からグランツの切羽詰まった声が響き渡った。
「レイチェル様、00ナンバーがこの島に上陸しました。指示をお願いします!!」」
レイチェルは顔を拭った。
そしていつもの冷ややかな瞳を取り戻すと、慌てて管制室へと向かった。






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