紀の闘い。二種の相容れぬモノたちの向こう五百年の運命を決する闘い。その闘いの場、
火の河の広場=B

 新月の夜。今宵その瞬間。その場に。

 かれらはやってきた。

 ヒトの命運をそのほっそりした両肩に背負った者、剣人としての名を馳せ、魔からも宿
敵として恐れられし者。

 シェラ――。

 魔の悲願を一身に負うた者、白銀の鱗に全身を包まれ、肩からはやはり白銀の翼を生や
した者。

 魔の王女――。

 ふたりは、さだめらた場所≠ノ、さだめられた時刻≠ノ、寸分違わずに姿を現した
のだ。

 かつて火の山がその怒気を大いに吐き出したときに、燃え盛る炎の濁流に舐めつくされ
れ、爾来雑草一本生えない広場。この広大な、寒々とした広場に、かれらはやってきた。

さだめの娘≠スちは、やってきた。

 此度の紀の闘い、それを見定める役目を負った者。レジェンド・ドラゴンもまたその場
にいる。かれは火の河の広場≠ゥら数段高みにある切り立った崖の中腹にその巨体を横
たえ、じっと下方を見据えている。「瞳の中に瞳がある」と喩えられる、七色の虹彩を有
した黄金色の瞳を、じっと下方に据えている。ちっぽけな生き物同士が、その種のすべて
の命運を賭してこれから闘おうとしている様を、冷たい眼差しでじっと見据えている。

 すでにレジェンド・ドラゴンは、この世界を司る大いなる意思に取り込まれていた。か
れが見るものすべて、かれが検分する一切が、この世界を司る大いなる意思に伝えられ、
送り込まれ、以降の五百年の世界の在り様を決することになるのだ。

 世界を司る大いなる意思、という名の――高貴にして偉大、至上にして絶大、完全にし
て絶対の――ヒトにも魔にも、そしてドラゴンにもその意向など到底測り知ることなど出
来ぬもの。そのものの……退屈凌ぎの五百年毎のゲームが。

 いま始まる。ゲームの駒は用意され。いま、始まる。

 駒にとっては生命懸けのゲームが。五百年毎のゲームが。

 いままた、始まる。







 五百年紀



   〜 ロコ、シェラ、ミレア (一) 〜







 シェラは、ドラゴンの洞窟にロコをひとり、残してきた。身振り手振りで、彼女は着い
て行きたいと主張したのだが、シェラはロコをそこに残してきた。

 ロコの茶色い瞳を見つめて彼女は言った。

「ここにいなさい、ロコ。これからわたしが行くところは、ヒトと魔がその雌雄を決する
決闘場。それも、生半可な闘いではないわ。およそ勝っても、わたしももうまともな姿で
はいられないと思う。わかるの。わたしにはそれがわかる。死闘よ、死闘。わたしはいま
から、それを行いにゆくの。ロコ、あなたはここにいるのよ、ここにいて、朝を待ってい
てちょうだい。ここで、ヒトの来るべき朝を、待っていて。たとえ――」

 シェラはロコをぐっと抱き寄せ、そのくしゃくしゃの髪に頬擦りしながら言う。不覚に
も涙が零れそうになる。

「たとえ、わたし自身が来れなくとも。わたしが勝ち、ヒトがさらなら昼の世界を勝ち取
った暁には。わたしがもう、ここへ来れなくとも。誰かがここを訪れるわ。そしてあなた
を安全な場所へ連れて行ってくれるわ。わたしが勝てば、きっとそうなる」

 言葉は依然として通じない。けれど、気持ちは伝わるはず、そう信じて。シェラはロコ
にそう言った。そう言い置き、さらに何事かを言い募りたげなロコを残して。

 彼女はやってきた。火の河の広場≠ヨ。ただひとりで。



 王女は、神官長ドヴレのみを伴ってやってきた。多くの魔が、仲間が、同朋が、此度の
紀の闘いをその目で見たがっている、確かめたがっている、そのことは了解している。け
れど、紀の闘いとはそれほど生易しいものではない、ということを彼女もまた理解してい
た。たとえ勝とうとも、決して自分自身も到底無事ではいられまい、と。五体満足で生き
残れることなど、到底あり得まい、と。腕の一本や足の一本、失うことなど予測の範疇内
なのだ。それほど熾烈な闘いになるだろうことは、もとより承知。そんな闘いを、敢えて
多くの魔たちに見せることもあるまい、そう思い。彼女はドヴレ以外の者の同行を厳に禁
じたのだ。

 そして。それでも。そうであっても、勝つのだ。自分は勝つのだ、と。魔の千五百年の
宿願を達するために、たとえ我が身が剣人の剣に切り刻まれ、突き刺されようとも、それ
でも。

 それでも、最後に立っているのはわたしだ、最後に勝利を宣するのは、このわたしなの
だと、そう信じて、そう疑わずに。

 王女はやってきた。火の河の広場≠ヨ。



 広場の端と端に姿を現したヒトと魔。新月の闇夜。

 シェラは遠くに立つモノが、もはや先日まで見慣れたヒトの姿を騙っていた、ミレアと
いう鍛冶屋の妻の姿を装っていたモノが、本性を現したのだと見てとっていた。闇の中で
も薄っすらと輝く白い肢体、その背中、肩のあたりから最前から羽ばたく如きものが蠢い
て見える。あれがヒトの姿であったときには、自分の方が背も高かったはずだが、いまで
は遠目に見ても、あれの方が額より先の分ほど上背があるように見える。ヒトにはあり得
ぬ翼が揺らめくのを見るたびに、シェラは嫌悪感を覚えた。

 ――化け物――

 彼女の蒼い双眸は、早くも闘志の炎を揺らめかせている。

 王女は遠くに立つモノが、ドヴレいうところの黄金の鷹≠ナあるわけを、一目で悟っ
ていた。夜闇で鮮やかな、目の覚めるような長い金髪。それを夜風にたなびかせている様
は、まさに鷹が翼を広げて獲物に襲いかかるかのよう。細身の身体もまた、鍛え上げたし
なやかさを内に秘めているのだということを、王女は早くも見極めていた。あれが、ヒト。
我ら魔の宿敵黄金の鷹=B我ら千五百年の悲願の前に立ちはだかる、憎き敵。我が族の
女も幼子も情け容赦なく剣にかける、血も涙もない、敵。

 ――手加減せぬ――

 王女の紅玉色の瞳は、討つべき相手をしかと見据えて離さない。

 唐突に。

 シェラ、王女双方の頭に。

 声が響き渡る。

『世界のさだめにより――』

 それは、かれらの頭上に座するもの、レジェンド・ドラゴンの声。世界を司る大いなる
意思を体現するレジェンド・ドラゴンの声。

『世界のさだめにより、今宵、紀の闘いが行われる。ヒトと、魔と。さだめにより選ばれ
し者同士が合い闘い、雌雄を決する。勝ち残った方が、向こう五百年の昼の刻を約束され、
敗れ去った方は、向こう五百年を夜闇の中でひっそりと棲まう。それを決する闘い。紀の
闘い。今宵、いまより。選ばれし者よ、汝らの闘いこそがそれ。紀の闘い。いまそれを、
執り行うもの哉』

 闘いの始まりが宣せられた。



 シェラは紅いマントをするりと脱ぎ落す。同時に腰の鞘から自慢の剣をさっと引き抜い
た。刀鍛冶ニエルに鍛え直された、自慢の剣。それを右手に下げて、一歩、また一歩と広
場の中央へ進む。

 王女はしかし、何の得物も携えてはいない。丸腰だ。白銀の鱗そのものが高貴なるもの
の証であるとでもいうように、服すら纏っていない。背中の翼を微かに羽ばたかせながら、
こちらもそのまま広場の中央へと歩んでいく。

 シェラはいつにない緊張感を覚えていた。これまで多くのヒト、魔と剣を、刀を交えて
きた。だが、今宵の緊迫感はそのいずれにおいても感じたことのないもの。別格のもの。
歩きながら息を整えようと、何度か呼気を吹き出すが、それが情けなくも震えているのを
自覚する。

 ――落ち着け、落ち着くのよ、シェラ――

 シェラは自らにそう言い聞かせる。その間も歩みは止めない。

 転生を果たしたばかりの王女は、急速に沸き上がる不安を抑えようがなかった。転生為
し遂げたばかりにおいては、疾く紀の闘いに挑みたくて仕方がなかった。だが、こうして
実際にその場に身を置いてみて、突き刺すような棘々しい闘気の中に我が身を置いてみて、
沸き上がる不安を止めようがない。

 ――勝てるのか? 我は、あの剣人に真実、勝てるのか?――

 王女はその不安を抱えたまま、歩き続ける。

 双方が、申し合わせたようにぴたりと足を止めた。その距離、およそ三メートルほど。

 それまで、だらりと下げていたシェラの右腕がすっと上がる。必殺の剣を携えた右腕が、
流れるようにすっと、上がる。

 王女の両手、身体の両脇に垂らしていた両手がゆっくりと持ち上がる。同時に、その四
本の指先、爪がぱりぱり≠ニ音を立てて伸び始めた。それぞれの指先の爪が、小剣ほど
の長さに、音を立てて伸び始めた。

「……いざ」

 静かに告げるシェラ。

 一方の王女は、魔にしか解せぬ言葉を発する。それはシェラには、紛うことなきケダモ
ノの咆哮としてしか聞こえない。

「ぐわあっ!」

 王女の口が耳まで裂けた。爛々と輝く真っ赤な目が、威嚇するようにシェラを睨み上げ
る。王女は両手を胸に前に構えて、翼をばたつかせる。



…………………………………………………………………………………………………………



 最初に踏み込んだのはシェラ。

 正面に構えた剣の切っ先そのままに、シェラは王女めがけて突っ込んだ。

「だあっ」

 裂ぱくの気合を発して、突きを繰り出す。

 があっという雄叫びとともに王女はその剣を左手で払いのける。そうしておいて右手の
鋭い爪を閃かせた。

 軽く腰を落としてその一撃をかわすシェラ。今度は右から左へと横薙ぎに剣を払う。王
女は再び左手の爪でシェラの剣を弾き返す。王女は思いきりよく振り上げた右腕を、上段
からシェラ目掛けて振り下ろした。

 黄金の髪が数本、引き千切れて宙に舞う。文字通り間一髪の距離で、鋭い爪先の攻撃を
かわしたシェラだった。

 シェラはいったん後へ飛び退る。間合いを取って剣を正眼に構えなおす。

 王女もまた両腕を体の前で上下させながら、シェラとの間を探る。

 今度は王女の方から仕掛けてきた。ばさり、と背中の翼をひと煽ぎしたかと思うと、風
の如き速さでシェラに迫ったのだ。

「うっ」

 強風を受けて思わずたたらを踏んだシェラに向けて、王女の左腕、さらに右腕が立て続
けに振り下ろされる。

 最初の一撃は剣で受け返した。だが、続く二の手は、シェラが手首を捻るより早く、彼
女の顔面を襲ったのだった。

「ちっ!」

 左頬に激痛が走った。

 王女の長い爪が二本、シェラの左頬を掻き切ったのだ。

 真っ白の頬に、すっと長い二本の、赤い筋が走る。そこから血が迸り出た。

 ぎゃあっという雄叫びを上げて、勢いづいた王女がさらに踊りかかろうとしたとき、シ
ェラは咄嗟に右足を持ち上げて思い切り蹴り出した。足の裏に、しっかりとした獣の腹の
感触をシェラは感じた。

 下腹部を不意に蹴飛ばされた王女がうめいて後方へ飛び退った。

「それっ!」

 間髪入れずにシェラが剣を薙ぐ。頬から血を振り零しながら。

 白銀の羽毛と鱗数枚が、夜闇の中を煌いて舞った。

「がっ」

 悲鳴とも言える叫びをあげて、王女は自らの右肩を押さえる。その指の隙間から、やは
り赤い筋が一本、滴り落ちてゆく。

「うおおっ」

 腰溜めに剣を構えて突進するシェラ。だが、王女は翼を大きく羽ばたかせて強風を巻き
起こし、シェラの勢いを挫く。シェラの剣先は王女を僅かにそれてしまう。至近に迫った
シェラに爪を突き立てんと、腕を押し出す王女。

 声にならない叫びを発してシェラが身を屈めた。再び黄金の髪が、こんどは優に一房分
は切り取られて地に落ちた。

 ぐるると喉を鳴らしながら、王女が今度は相手の喉を突き上げに下から上へと右腕を振
った。

 ざくっという音ともに、王女の右腕が手応えを感じた。

 野生の歓喜に真っ赤な目を見開く王女。

 爪の一本が、シェラの左の二の腕を切り裂いたのだ。先ほどの頬からとは比べ物になら
ない量の鮮血が、あたりに飛び散った。

 だが、次の瞬間王女は、それこそ目から火花が散るほどの激しい衝撃を己の顔に受ける。

 懐近くに入り込んでいたシェラが、身体を捻りながら右肘を勢いそのままに、王女の頬
に叩きつけたのだ。無防備なところへ容赦のない肘撃ちをくらい、思わずのけぞる王女。

 その隙を逃さずに、シェラが剣を突き出した。

 さきほど突かれた右肩、そのほぼ同じ位置に再度剣を突き立てられ、王女は夜闇も裂け
んばかりの悲鳴を上げた。無論それは、シェラの耳にはこれまで同様の獣の咆哮としてし
か聞こえない。

 両者はいったん離れた。双方、肩で息をしながら相手の出方を覗う。

 真白き頬に二筋の切り傷、そして左の二の腕から血を垂らし続けるシェラ。

 右肩を一度ならず二度までも抉られて、やはり赤い血を零す王女。

 すでに玉のような汗を流し、そして血を零す両者は、間合いをとって睨み合う。

「魔の選ばれし者――」

 どうせ、何を言ったとて通じはしない。そうと分かっていながらも、シェラは王女に向
かって言った。

「ヒトの姿を騙って、ヒトに紛れ込んでいた邪なるモノ。何を企んでのことだったかは知
らぬ。だが、もはやその方の浅はかな企みごとなど霧散した。我、剣人シェラは、今宵お
前を討つ。ヒトのため、ヒトの昼の刻のため、などではなく!」

 シェラは腰を引き、剣を上段に構えて叫んだ。「そのようなためなどではなく! わた
しが守るべきと感じた、守るべきと信じた子のために! あの子のため、ただそれだけの
ために! わたしは、お前を討つ!」

 他方、王女もまたヒトが叫ぶおぞましい呻き声に呼応するかのように、魔の言の葉で呼
ばわった。

「黄金の鷹! 魔の幼きもの、か弱きものを容赦なく切り刻んできたという、魔の怨敵、
宿敵! 汝を、汝を倒してこそ、千五百年の永き夜も明けようというもの! これまでの、
暗く寒い夜闇で口惜しくも朽ち果てて行った、一族全ての宿願を果たすために倒す相手に
こそ相応しきは汝、血も涙もないヒト、黄金の鷹! 覚悟!」

 雄叫びを上げ、ふたりは駆け寄る。

 剣を振りかざし、爪を蠢かして、ふたりは駆け寄る。

「たあっ!」

「があっ!」

 気合横溢。ふたりは真っ向から打ち合った。

 王女の動きの方がほんの僅か、本当に、ほんの僅か、早かったのか。

 王女の右手は真っ直ぐにシェラの顔面目掛けて伸びた。そして四本の爪のうち最も長い
中指のそれが、シェラの蒼い、澄み渡る空よりもなお蒼い左の瞳を。

 ぶすりと。

 貫き通した。

 だが。遅れること半瞬。

 シェラの大上段からの剣の一振り、それが。

 王女の空いていた左手、それを手首の先からばっさりと切り落とした。

「うわあっ!」

「ぎゃあっ!」

 悲鳴を発してふたりは体を入れ替え、すれ違った。

 シェラは思わず左膝を地に突いた。右手で剣に縋るようにして片膝突き、左手で顔を覆
った。左目から血が溢れ出す。

 王女は右手で左手を抱え込み、こちらもまた地に跪く。激痛に耐え、牙を食いしばって、
いきなり切り飛んで無くなった左手首、だがまだ感覚的には残っているその指先を動かそ
うとして、もがいた。

さだめの娘≠スちは、自らの血を地に吸わせて、背中を向け合ったまましばし動けずに
いた。



…………………………………………………………………………………………………………



 涼子は真っ暗な草原を走っていた。

 目的の場所、それがどこなのかを明確に知っていたわけではない。けれど、足の赴くま
ま、本能に促されるままに、ひたすら走っていた。

火の河の広場≠ヨ向けて、走っていた。

 シェラは涼子に、ドラゴンの洞窟にじっとしていろと諭した。それは涼子にも分かった、
理解出来た。けれど、彼女は待てなかった。じっとしてなどいられなかった。

 ――五百年の闘い。その闘いの場へ。シェラは行った。ただひとりで。

 わたしを守ってくれるひと。わたしの恐れ――わたしが、魔であるという、あのおぞま
しい異形のモノと同類であるという恐れ――を取り除いてくれたひと。取り除こうとして
くれたひと。あのひとは。

 いま、ひとりで闘いの場に行った。

 わたしに何かが出来るとは思わない。でも。それでも。

 わたしはあのひとのそばにいたい。そばで、あのひとを見守りたい、見届けたい。

 あのひとのそばに、いてあげたい――

 涼子は、途中何度も何度も足を石や小枝に掬われて転びまろびつ、身体中あちこちに擦
り傷や切り傷を作りながらも走り続けた。

 行き先は身体が知っている、まるでそんな風に。ひたすら走った。

 暗い森を走り抜けるときにも、これまでのような怖さは感じない。魔がどこからか現わ
れる、襲ってくるという怖さは、今夜は感じない。

 魔も、息を潜めているのだということが、ひしひしと伝わってくる。かれらもまた、紀
の闘いの結果を待って、勝利の報を待って、いまはどこかでじっとしているのだというこ
とが涼子にもわかった。だから、怖くはない。

 涼子は懸命に駆けた、駆けた、駆けた――。

 生まれてこの方、これほどまでに全力で、そしてこれほどまでに長く走ったことなどな
かったろう。それでも、もう息が上がっていても。それでも涼子はなお、足を動かし続け
た、走り続けた。

 鬱蒼とした森が突然開ける。不自然なほどにぱっかりと左右に分かれる。

 そこが。

 かつて火の河がその獰猛な舌で舐め尽くしたといわれる不毛の広場、火の河の広場
だった。

 気づけば、一方の切り立った断崖の遥か上方に、あのドラゴンが横たわっている。その
長い首を心持ち下に向けて、あの黄金色の瞳を夜闇の中で煌かせながら、座っている。

 そしてその下。不毛の、石と砂だらけの広場に。そこに――。

 二つの影。

 ふらふらと、ゆらゆらと蠢く二つの影が見えた。

 まるで、亡霊、或いは幽鬼――涼子は一瞬そんな言葉を思い浮かべる。

 そのとき、辺りをつんざくような音が響いた。

 それが、涼子の良く知るシェラの発した悲鳴にも似た雄叫びであるということを理解す
るのには、しばしの時が必要だった。それくらいに、その声は凄まじくも、狂気に近い彩
りを伴っていたのだ。

 シェラ――その長い髪と身のこなしから、遠目ながら涼子にもそうと知れた――が、剣
を振り回して、相手に打ち挑んでいった。けれど、その動きが、かつて涼子が幾度と無く
目にした鮮やかな剣捌きからはとてもかけ離れたものであるということに、涼子は愕然と
する。

 シェラはミレア――当然相手は、そうなのだろう――に打ちかかった。だが、少々見当
違いの位置に剣を振り下ろしたシェラは、ミレアに突き飛ばされて腰から砕けた。

 ミレア、そのいまひとりの決闘相手を見て――涼子はさらに驚愕の思いに捕われる。

 ミレアであるはずの者、あの鍛冶屋の奥さんであるはずの者は。

 全身を白銀の鱗のようなもので覆われ、なおかつ大きな翼を生やしている!

 ――ああ、やっぱり、あれが、あの姿が――

 涼子は不意に足元が覚束なくなり、膝頭ががくがくと震えるのを自覚した。

 ――人間の姿をしていたけれど、あれがあのひとの真の姿だったのだわ。やっぱり、あ
れもまた異形のモノ。そしてあれがわたしに言った。わたしも同類なのだと。言の葉を解
するわたしもまた、魔の同朋なのだと――

 そう言われても、そして実際シェラの言葉ではなく、魔たちの言葉を理解してきたとし
ても。それでもまだこころのどこかでは、「そんなことあり得ないことだ。絶対にあり得
ないこと」と思う気持ちがあった。けれど、いま目の当たりに見るそれは。

 かつて人間そっくりの姿をしていたたおやかなひとが、鳥とも人ともつかぬ姿で、咆哮
を上げている、その事実を目の当たりにして。

 再び、そして急速に沸き上がる、己の内に沸き上がる、不安。

 ――わたしも、そうではないの? わたしもやっぱり、そうなの?――

 ――わたしも、一皮剥けば、あれらと同じ、異形の――

 涼子はその場に座り込んだ。

「魔……」

 そう、呟いたとき。

 なにかが。

 なにかが、彼女の内で。

 弾けた。



…………………………………………………………………………………………………………



 片目を失ったシェラは、明らかに不利な状況にある。

 目測を誤るのだ。どうにも、敵の捕捉が、微妙なところで為しきれない。

 的確に剣を振るったつもりでも、身半分、あるいは三分の一でかわされてしまう。シェ
ラは己が不利な立場に陥ったと悟っていた。

 痛みは途方もないものだった。流れる血の量も、果たしてこれほどのものを流していつ
までこうして立っていられるのかと思えるくらいのもの。

「女は一生に一度の、大切なその瞬間のために血を流す。それ相応の覚悟が必要だと、師
にも説かれた。そして、剣人としての頂きを極めることを志すなら、その大切な瞬間の
ために流す血≠ヘ、己自身で厳しく守らなければならない、と。頂きを目指すものがその
身を捧げるべきは、同じ肉を伴う相手ではなく、剣のみである、とね」

 あの夜、自らロコに語って聞かせた言葉がふと蘇る。シェラの脳裏をよぎる。

 ――一生に、一度の、大切な瞬間、か――

 なぜか、苦笑を浮かべるシェラだった。

 ――その大切な瞬間のために、己自身を厳しく律せよ、自らを守れ……。頂きを目指す
べきものが流すべき血の相手は、同じ肉を伴う相手であってはならない――

 ――ふん、わたしにとっての、大切な瞬間とは、これなのか?――

 空を切る羽音が聞こえ、シェラは咄嗟に身を捩って攻撃をかわした。

 王女が悪鬼のごとき形相そのままに、低く飛翔しながらもはや一本となった腕を振り下
ろして来たのだ。

「だあっ!」

 渾身の力を込めてその爪を弾き返すシェラ。

 二本まではかわし得た。だが三本目の爪が、シェラの左肩を裂いて通り過ぎた。

 ――見切れない――

 シェラは右目をひたすら大きく見開いて――見開こうと努力して――次の攻勢に備える。

 ――片目では、相手との間合いを見切れない! 畜生めっ――



 王女は、自らの意識が朦朧とし始めていることに慄いていた。

 左の手首から先をすっぱりと失い、大量の失血をみた。明かに限界が、己の生物として
の限界が近づいていることを自覚せずにはおれない状況に、愕然とし、慄いていた。

 白銀の、鱗のような羽毛も全身のあちらこちらから切り取られ引き千切れ毟り取られ、
無残な様を呈している。背中の翼がまだほぼ無傷であるということが、せめても彼女の矜
持を失わせずにいた。

 ――なんということだ、このままでは……このままでは、このヒトには勝てぬ――

 それまで一度も己の勝利を疑わずにいた王女。

 その胸中に、喩えようのない恐れと不安が襲いかかる。

 ――どうしてだ、なぜか? 我はこの身をヒトにやつしてまで、此度の紀の闘いにとっ
てなくてはならぬものを手に入れようとしたのではないか、なかったか? 我が確実に手
に入れたはずのもの、それはどうした? どこにある? そもそも、我はヒトに身をやつ
して、何をしていたのか?――

 何も思い出せない。王女としての姿を取り戻すときに、それまでの全てをこそぎ落とし
たのだ、いまは何も思い出せない。

 ――こそぎ落とした? 落とした?――

 自らの思念にふと捕われる王女。

 その間にも、身体を左右にふらりふらりと揺らしながらもヒトに迫り、攻撃を加えよう
とする。だが、いま一歩のところで相手は必死の防戦を試み、逆撃を加えんとした。

 もはや白銀の全身は汗と血と泥と砂にまみれ薄汚れている。翼だけが真白きままという
のも、却って異様に映る。

 ――落とした? 我は、何かを、落としてしまったのか?――

 その一点が、彼女の動きを鈍らせていた。

 ――何を、我は落としたのか? 何を……忘れたのか?――



 涼子は膝でにじるようにして闘いの場へと近づいて行く。

 たったいま、自分の中で何かが弾けた、そう思えた。それが何なのかはわからない。と
もかく、彼女はもう歩けずに、走れもせずに、ひたすらいざるようにして合い闘うふたり
の傍へと近寄るのだった。

 近づくにつれ、彼女たちの闘いが凄惨なものであることに、いまさらながら気づかされ
る。

 シェラは――ああ、あの気高く雄々しい、そして誰よりも美しいシェラは!

 顔に幾筋もの傷を受け、そして、なんと左目が突き潰されている!

 服もあちこちが切り裂かれ、綻び、ボロキレを纏うようだ。いたるところに血が滲んで
いる。

 白というよりももう、真青な顔つきで、それでもシェラは剣を握り締め、振るっていた。

「ああ、シェラ、シェラ……!」

 声を上げたくとも、呼びたくとも、涼子の口からそれらは音を伴って紡ぎ出されはしな
かった。

 一方の魔もまた、凄まじい格好だ。左の手首が切り落とされ――無論、シェラにだろう
――ピンク色の肉と白い骨の断面が見え隠れしていた。動くたびにそこから鮮血が滴り落
ちるさまを見て、涼子は堪えきれず、あたりに胃の中のものをぶちまけた。

 げえげえと、咽ぶ涼子に、しかしふたりの決闘者は目もくれない、気づかない。

 彼女に気づいたのは。

 ちょうどこの広場、決闘の場の涼子と反対側に茫然としたおももちで座り込んでいる、
いまひとりの魔だった。

 その魔、ドヴレは、彼方でヒトの娘が地に反吐を吐き散らしているのを見て、気づく。

 ――あれは……あれは、もしかしたら、さだめの子=H――

 ドヴレは、もうふらふらになった王女の背中を見、そして彼方の娘を見る。

 ――王女様、そして、いまひとりのさだめの子=c…。そうか――

 神官長ドヴレにはこのとき閃くものがあった。

 ――そういうことか! 此度の紀、此度こそ我らが魔の宿願が果たされるというのは、
そういうことなのか!――

 ドヴレは宙空を見上げる。闘いの見極め役たるレジェンド・ドラゴンを見上げる。

 ――それは、許されることなのか? それでも良いのか? そうなのか? そうなのだ、
そうに違いない!――

 ゆらりと、ドヴレは立ち上がった。その内には、かれなりの、しかしおよそ許されざる
狂気の結論が生まれていた。




to be continued




Written by 那入 晶




この作品はフィクションであり、登場する人物名・団体名等は実在する同名のものとは
一切無関係であることをここに明記いたします。



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