深夜、タクシー乗り場で  

 


 

 

腕時計をチラッと見ながらアタシは思った。

…随分遅くなっちゃったな…予定外よね…。

アタシは今度は視線を空に向ける。

冬の夜空は澄んでいて…と、言いたいところだったが、本当のところは少々厚い雲に覆われた

陰気な夜空だった。

はあ。

溜息が、アタシの口から漏れた途端白い形になって現れ、そして掻き消えていく。

ここはタクシー乗り場。

既に終バスが出てしまってからたっぷり一時間以上は経っている午前一時過ぎ。

この時間に新興住宅地であるアタシの住む“ハイ・タウン”へ辿り着くには、こうして駅前でタクシー

を辛抱強く待つか、一時間近くもアップダウンの多い道のりをとぼとぼ歩くかのどちらかである。

あ、あともう一つの手段。

家族に車で迎えに来てもらうという手もある。

タクシー乗り場の脇で、つい先ほど“ご酩酊”の中年男性が一人、息子らしき人物の運転してきた

小さな自家用車に乗り込んでいったばかりであった。

アタシはその人物を横目で眺めつつ、来ないタクシーを待っていたものだ。

その時はアタシの順番は前から三番目だった。

しばらくして立て続けに二台のタクシーが姿を見せ、“運良く”アタシの前に立って順番を待って

いた二人を、彼らの家まで送り届けるべく走り去ったのである。前の二人は、どちらもやはり

中年の男性で、ただ先ほど家族に迎えに来てもらった人物とは違い、双方とも“酔っている”

雰囲気は見えなかった。

アタシは列の先頭となった。

先頭…もっとも、この時点でタクシーをいまだに待っているのはアタシと、もう一人アタシの後に

立っている“運悪き”男だけになっていたのだが。

 

さきほどの二台は、間髪を入れずに続いてきたのに、その後が続かない。

もう、かれこれ三十分近くアタシは待ち続けているだろう。こういうことはしかし、人生において

往々にして起きるものである。

自分の直前で、スーパーのレジが“お待ち下さい”の札とともに閉じられる。

自分の直前で、今日のランチメニューは終了しましたとウエイトレスに告げられる。

自分の直前で、ただいま満車です、という駐車場の赤いランプが点灯する。

よくあることだ。

だから、タクシーをこうして待たされるのも、よくあることなのだ。

アタシは自分にそう言い聞かせてひたすら待っていた。

今夜は、会社の後輩の送別会だった。

アタシとしても比較的目をかけて可愛がってあげていたと思う。

その娘の寿退社による送別会だったのだ。

二次会は当然として、三次会まで付き合ったのがまずかった。

気が付けば電車そのものが終電間際、この駅に辿り着いたってバスが無くなってしまっている

ことは明々白々たる事実だったのだ。

まあ、過去にもこういう経験は何度かしている。

齢三十にもなれば、午前様になったり、朝帰りなどということを全く知らない方が変と言うものだ。

アタシはまるで自分に言い訳するようにそんなことを思い、今一度溜息を吐き出した。

かなり派手に。

 

アタシがこのハイ・タウンに住んでかれこれ十二年が過ぎようとしていた。

十二年、ハイ・タウンそのものもちょうど“十二歳”になったようなもの…そういう新興住宅街。

ずっと、一人暮し。

そもそも、アタシには身寄りというものが存在しない。

いや、正確に言うと、存在しないらしい、のだ。

アタシが今のアタシとして気付いたのは、十六歳の時だった。

気付いた時既に、アタシはある“施設”にいた。アタシのような身寄りのない孤児をたくさん収容

している施設に、いた。

アタシを担当してくれた“先生”は、ある日“記憶を全く失ったアタシ”が病院から搬送されて

きたと、教えてくれた。

自分の素性も、家族のことも、今までどこでどんなふうに過ごしてきたかも、一切覚えていない

アタシが担ぎ込まれたのだそうだ。

なるほど、その通り。

アタシはあの施設以前の自分というものが全く思い出せない、それは今でもそう。

どこでどう、そうなったのか、とにかくアタシは身体もかなり衰弱した状態で病院に収容されて、

体力的に問題なし、ということになるまでずっと病院暮らしを余儀なくされ続け、晴れて“退院”

したと同時に施設へ移されたのである。

施設では色々手を尽くしてアタシの素性を調べたり、身寄りを探したりしてくれた、らしい。

結局、何の手がかりも得られなかったが。

二年が過ぎ、アタシは十八になると同時に自活を始めた。施設の援助も得て、ハイ・タウンに

2DKのマンションを借りて、働き始めたのだ。

その時の施設からの借金は、八年掛かりで返済した。“先生”に言わせると、驚くほど早い返済

だったそうだ。

そりゃあそうだろう、アタシは別にこれと言って遊びまわる趣味もなかったし、旅行やら着るもの

やらに散在するタイプでもなかったから、計画立ててキッチリと返していったらそうなったのだ。

借金返済後、今度は余裕の出る分を貯蓄に回しているくらい堅実なのだ。

とにかく、施設の口利きで入った会社は借金完済とともに退社し、それをステップアップの一つ

として今の会社に移ったのが四年前。割と居心地が良いこの会社で、アタシは当分仕事を

続けるつもり。

もともと二十六歳という年齢で入ったものだから、“新入社員”扱いされたことは一回もなく、

むしろ後から入ってくる“正真正銘の新人”である二十歳やそこそこの女の子たちの面倒もよく

見てやった。彼女たちに言わせるとアタシは“切れる”“出来る”“格好いい”キャリアウーマン

なのだそうだ。

彼女たちは色々な相談をアタシのもとへ持ち込んできた。仕事のことはもちろん、友人関係の

こと、家族との悩み、そして男のこと…。

アタシは、仕事のことには完璧に答えてやった。友人関係、つまり人付き合いに関する相談に

ついてもアタシなりの解答を与えてきた。

…でも。

家族と、男。

これだけは…。

経験の乏しいアタシには苦手な相談事だったのだ。

アタシには家族がいない。

気付いた時から、いない。今もいない。ずっと、一人。

そんなアタシに、家族間の悩み事などに答えられようはずもないではないか。

で、今一つ。

男。

これも苦手分野である。

十八の時から社会に出たアタシゆえ、それなりに“男と付き合う”という経験もあったのは

事実である、認めよう。

少々、いや、かなり深い仲になった男も幾人かは…いた。

だが、結果として“上手くいった”試しはないのである。

いつの間にか自然消滅…そんなパターンが何度か続いた。

続いた後、アタシは面倒くさくなってしまい、ここ数年“男”とは関わりを持たないようにしてきた。

それで何か不自由があるわけでもなし。

…などと何かの機会に後輩に口を滑らしてしまったこともある。

それをもってして彼女らはますますアタシのことを“出来る”キャリアウーマンだと持ち上げたり

したのだが……これに関しては彼女らは完全に間違っていると思うのだが。

ま、ともかく。

今夜はそんな“可愛い”後輩の一人の送別会。

アタシ自身はそれほど量を飲むタイプではなかったのだが、やはり女だけの酒席の楽しさと

いうのは独特のものがあり、ついつい時の経つのを忘れてしまったのだ。

 

はあ。

またしても白い息を吐くアタシ。

その時、ふと気付いた。

アタシの吐いた以外の白いそれが、アタシの右肩のちょっと向こう辺りに消えて行くのを。

アタシの後に立っている“運悪い”男が、アタシ同様に溜息を吐き出したのだ。

アタシは何気なく思う。

この男の人がもしアタシと同じハイ・タウン方面へ帰るのなら、次のタクシーが来た時に相乗り

させてあげてもいいけど…と。

アタシはチラッと、本当にチラッとだけ、首をかすかに傾げて後を見る。

後の男は、両手をコートのポケットに突っ込んで、左脇に薄い鞄を挟み込むようにして立ち、

視線はずっと右側、つまりタクシーが走ってくるであろう道路の方を見つめていた。

 

うん、なんとなくこの人、見たことあるな。

アタシはそう思った。

朝、駅へ向かうバスの中でか、或いはこの駅のホームでなのか、いやもしかしたら同じ車両に

乗り合わせたりしたことがあったか……とにかく、この人、ハイ・タウンの住人だ。

アタシは前を向き直り考える。

女であるアタシが“相乗りして行きませんか?”というのは変だ、絶対におかしい。

なんたって三十になったばかりの女盛りであることは、誰の目にも分かりすぎるくらい一目瞭然

のこと。

この深夜にタクシー待ちをしているだけでもある意味“物騒”なのに、それがいきなり見ず知らず

の男にタクシーの相乗りを提案するなど、常識では考えられない。

アタシはそう考え、ま、アタシのタクシーが来た後、きっとこの人をピックアップする車もすぐに

来るでしょうよ、などと思って自分を納得させた。させようとした。

しかし、納得する前に。

アタシの鼻に何かがそっと触れた。

 

自慢するわけではないが、アタシは鼻が高い。ちなみに言えば、肌も人並み以上に白いし髪も

見事な栗色をしているし、瞳の色素も薄い。世間で言う美人、の部類に充分入るらしい。

“先生”などに言わせると“日本人以外の血が入っているのかもね”ということだそうだった。

ともかく、そんなアタシの鼻先に何かが触れたのだ。

雪。

小雪がちらちらと舞い始めたのである。

 

「うっそー……。」

アタシは思わずそう呟いてしまった。呟いてしまって、この場にいるのは自分一人じゃなかった

ということを思い出し、思わず後ろを振り返ってしまったのだ。

男はやはり、空を見上げて少しばかり眉根に皺を寄せて“まいったな”という表情を作って視線を

落とした。

落とした視線の先に、アタシの視線があったのだ。

 

「……。」

「……。」

目が合ってしまったアタシとその男は、しばし妙な沈黙を託つことになる。

だがそれも一時のこと、男は表情を緩めてアタシに言った。

「降ってきましたね。」

アタシはその声を聞き、確信した。

やっぱりこの人、どっかで見たことあるな。

きっと、アタシと同じ方向の電車にのって通勤してるんだ。

…年の頃もアタシと同じくらいかな……。

「そうですね。」

アタシは短く答えた。年は同じくらいだろうと踏んだが、だからと言って赤の他人にぞんざいな

口調でいきなり話すほどアタシも無作法ではないのだ。

「来ませんねぇ。」

彼はまた視線を右側、つまり道路の方に向けながら言った。彼の言うものが“タクシー”である

ことは、このさい明白であろう。

「…来ないですね。さっきは二台続けて来たのにね。」

アタシのこの答えに、彼はまた視線をアタシに戻してにこにこしながら言う。

「そうでしたね。あの時は、“あ、こんな感じなら次のタクシーもすぐだな”って思ったんです

けどね。」

「ふふふ、甘かったみたいですね。」

「どうやら。ははは。」

別に可笑しいわけでもないのだが、二人して一応そんな笑い声を上げてみた。

…これではまるで“同類、相憐れむ”だなぁ…などとアタシは思ったりもする。

「…この駅って…昔からタクシーが少ないんですよね…。」

彼はポツンと言う。

「そうでしたね、昔からこのタクシー乗り場は長蛇の列が出来ましたものね。」

アタシも答えた。すると彼は“おやっ”という顔をしてアタシを見た。

「昔から?前からこの町にお住まいなんですか?」

彼の質問の意図、アタシにはよく理解できた。

この街が新興のベッドタウンとして産声を上げたのが十二年前。以来今日まで、街はいまだに

成長を続けており、毎年のように新しいマンション、新しい一戸建が建築され続けているのだ。

どんどんと新しい住民が増え続けているのであり、“昔から住んでいる”人よりも“新しくこの街に

越してきた”人の方が多いのである。十年近くハイ・タウンに住んでいるような人(つまりアタシの

ような人間)は、この街では古参の部類に属するのである。

「ええ、アタシ、この街が出来た時からずっと住んでるんです。」

アタシの答えに彼は改めて驚いた顔をして見せる。

「そうなんですか?いや、実は僕もハイ・タウンが造成され始めた第一期の頃の入植者

なんですよ。」

入植者とはよく言ったものだ。

アタシはチラチラと舞う雪を眺めながら小声で言った。

「この街も、どんどん変わり続けてますね。」

「そうですね。僕の住んでるハイ・タウン・サウスウイングなんて…まだまだ空き地が多くて、

連日建築工事が続いてますよ。」

「ああ、サウスウイングにお住まいなんですか。あっちの方ってまだまだ自然な感じのところが

たくさん残ってますものね。アタシのイーストサイドはもう、完全に住宅地になってしまった

けれど。」

「イーストサイドですか。あそこはハイ・タウンでも一番最初に手が着けられた一角です

もんね。まあサウスウイングだって、早かったのは似たり寄ったりだったと思いますけど。

こちらはエリアそのものが膨大でしてね。」

「そうみたいですね。」

罪のない会話を続けるアタシたちだったが、それでも神様はまだこの地にタクシーを差し向けて

はくださらないようだった。

アタシは何度目かの白い溜息を吐き出しながら改めて彼を見てみた。

さきほど自分のことを“僕”などと言ったところからしても、年齢的には見た目通りかそれよりも

まだ少し若いくらいか。ともかく、アタシと同年代であることには変わりないだろう。

アタシ自身、女性の中では背が高い方なのだが、彼はそのアタシより五センチ以上は背が

上回っていそうだ。中肉、と言いたい所だが、少々痩せていると言える方かもしれない。

男にしては肌の色も白い方か。まあ、それが嫌味にならない程度の整った顔立ちをしてはいるが。

「…あなたのような若い女性の場合、ここでタクシーの待ちぼうけをさせられるくらいならご家族に

迎えに来てもらった方がよろしいでしょうに。」

彼はそんなことを言った。

…探りをいれているのかな?

この場合彼が言う家族って、“親”とか“兄弟姉妹”とかじゃなく、“ご主人”ってニュアンスが含まれて

いたように感じたのはアタシの勘繰り過ぎ?

でも、一人暮しの女としては用心に用心を重ねておくにしくはない。

アタシもここはひとつ、笑顔を浮かべるだけでそれを答えとしたのである。

それを契機に、アタシたち二人はしばし無言となった。

 

駅前のロータリーに接する通りに車のライトが見え隠れする度に背伸びをするような仕草をし、

その都度肩を落として溜息を吐き出す。

そんなことを何度繰り返したろうか?

アタシと、アタシの後の立つ彼は、小雪の舞う深夜のタクシー乗り場で立ち尽くしていた。

 

ふと思った。

唐突に思った。

 

ここには、今、アタシたちしかいないんだなぁ。

ここには、今、アタシとこの人しかいないんだなぁ。

ここには、今、二人しかいないんだなぁ。

 

あれ?

 

アタシは弾かれたように顔を上げた。

何かが。

何かを。

思いつきそうで。

思い出しそうで。

 

でも。

思いつかなくて。

思い出せなくて。

 

消えた。

 

「……。」

急に寒さを感じ、アタシは思わず肩をすぼめる。

はやく来ないかな、タクシー……。

 

辺りはしんとしていた。

不思議なくらいしんとしていた。

でも、雪の降る夜は音が消えるって。

誰かが言ってた。

あれは、北国出身の娘だったかしら、彼女がそう言っていた。

夜、あんまり静かなので部屋のカーテンを開いていみると、必ず雪が降っていたって。

そんなことを、言っていた。

辺りはしんとしていた。

 

パチ。

 

音がした。

アタシは何気なく振り向いた。

 

彼が鞄から小さな折り畳み傘を取り出して、それを開いたところだった。

…そうか、傘か。

アタシ、持って来なかったな……。

 

「……。」

彼はアタシの視線に気付き、無言で傘の位置を調整する。

アタシと、彼が収まるように。

傘のうち収まるように。

位置を調整する。

でも。

その傘は小さくて。

折り畳み傘だから、小さくて。

アタシの額にはまだ少し舞う雪が当たる感触があるし。

そして多分。

彼の背中のコートの大部分は、白いものがくっつき続けているはず。

でも。

 

「有難う…。」

 

アタシは前を向いたまま呟いた。

 

「え?」

彼は、それが聞き取れなかったのだろう、アタシに問い掛けてきた。

「……。」

アタシはゆっくり振り向いた。

彼の顔が見えた。

アタシに向かって傘を差し掛けている彼の顔が見えた。

少し物問いたげな表情の彼の顔が。

 

「あ」

「…。」

「り」

「…。」

「が」

「と」

「う」

 

 

ここには、今、アタシたちだけ。。

ここには、今、アタシとこの人だけ。

ここには、今、二人だけ。

 

ずっと、ずっと待って。

光が差すのを待って。

海を眺めて。

膝を抱えて。

座っていた。

アタシたちだけ。

アタシとこの人だけ。

二人だけ。

 

光はなかなか差さなくて。

何も訪れなくて。

 

冷えた心で。

冷えた身体で。

冷えた大地の上で。

 

待って。

待って。

ずっと、待って。

待ち続けて。

 

とうとう、その時がようやく来て。

 

でも。

 

それまで一言も言葉を交わさなくて。

何も言わなくて。

何も言いたくなくて。

何も言えなくて。

 

言えば良かったのに。

言えることだったのに。

言えるはずだったのに。

もう、終わってしまったのだから。

言えば。

良かったのに。

 

「ありがとう」

 

言わずに。

 

 

消えた。

 

 

 

「…どういたしまして。」

彼がポツリと答えた。

少し顔を綻ばせてそう言った。

 

アタシ。

この人に遭ったこと、ある。

多分、同じハイ・タウンに住む人。

同じような時間に朝、通勤してる人。

だから、どこかで、見かけたこと、ある。

 

いいえ。

いいえ、いいえ。

いいえ、いいえ、そうじゃなくて。

そうではなくて。

 

アタシ。

遭ったこと、ある。

 

この人。

 

 

アタシと彼は向かい合って、見つめ合っていた。

小雪舞う中、傘の下で見つめ合っていた。

 

遭ったこと、ある。

アタシは瞳で、彼にそう語りかけていた。

声に出さず、話しかけていた。

けれど。

その思いは決して彼に届くことなく。

彼はただ、静かな笑顔でこちらを見ていた。

その笑顔が。

光に包まれる。

輝く光に包まれ。

アタシの心の奥底に、深く深く仕舞い込んでいた何かがほんの一瞬疼いた。

 

「…アンタ……。」

 

 

それはタクシーのヘッドライト。

ロータリーに向かって滑るように走り寄ってくるタクシーのヘッドライト。

その光が彼の顔を真横から照らし、闇に浮かび上がらせていた。

キッというブレーキ音とともに車はタクシー乗り場に停車し、ほぼ同時に自動ドアが開かれる。

それでもアタシはしばらく車に背中を向けたまま彼の顔を見つめていた。

 

…アタシ…知っている…アンタ…アンタは……。

 

「…さあ、お先にどうぞ……。」

 

そう言った彼の声。

それがアタシを現実に引き戻した。

「あ、ああ、そうですね。」

アタシはそう呟き、振り返る。タクシーの運転手が窓越しにこちらを見て“さあ、どうぞお乗り

下さい”という表情をしていた。

アタシは身体を翻して車に向かう。何故かこの時、もう一度先ほどのフレーズが頭の中を

掠める。

“よろしければ、相乗りして行きません?”

 

でも、その短い言葉は。

音を伴ってアタシの口から紡ぎ出されることは無かった。

 

 

バタン。

自動ドアが閉じられる。

運転手さんがウインカーを右に出しながら訊く。

「どちらまで?」

「ハイ・タウンのイーストサイド…二丁目の方へ……。」

 

車は走り出した。

アタシは後部座席の窓から外を見た。

タクシー乗り場の灯りの下、男が一人、傘を差して立っている。

彼が一人、立っている。

遠ざかるこちらの方を眺めながら、立っている。

 

「…一人でも…大丈夫よ…ね……?」

 

アタシはそんな言葉を呟いていた。その意味も理解できずに。

運転手さんはそれを耳にし、彼なりに解釈してこう答えた。

「ああ、さっきウチの会社の車が一台、交差点で行き違いましたから。

すぐにあそこへ来ますよ。あのお客さんもそう待たずに乗れますよ、はい。」

そしてミラー越しにチラッとアタシのことを見ながら付け足す。

「お知り合いさんでしたか?だったら一緒にこの車にお乗りになってもよろしかったんですよ。

お宅さんを先に送り届けて、そのままお連れさんの家へ向かう…よくあることです、はい。」

 

アタシは目を伏せて小さく答えた。

「…いいえ、知らない人ですから…。」

 

 

そう、アタシはあの男の人のことなど何も知らない。

本当に、何も知らないのだ。

さっき。

一瞬だけ何かが浮かんだ。

頭の中に浮かんだ。

 

海。

誰もいない海。

赤い海。

何故か、赤い海。

砂浜…。

少年……。

……。

全てのお終いと。

再生。

 

消える…自分……自分たち…。

 

 

「…一人でも…大丈夫よ…ね……?」

今一度、自然とそんな言葉がアタシの口から漏れる。

どういう意味なのだろう?

アタシには分からない。

でも。

 

この言葉は。

きっと。

正しい。

 

「この雪は積もりませんなぁ。じきに止みますよ。

天気予報じゃ明日は晴れだって言ってましたしね。」

運転手さんが言った。

「冬晴れだろうって。」

 

冬晴れか。

冬。

四季のある街。

夏だけではない街。

 

「寒くなるのね…。」

アタシは独り言を言った。

だが、律儀に運転手さんが答えてくれた。

「ええ、寒くなるそうです。」

 

 

 

Fin

 

Written by take-out7

 

 

この作品はフィクションであり、登場する人物名・団体名等は実在する同名のものとは

一切無関係であることをここに明記いたします。

 

 

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