真っ直ぐ、真っ直ぐこちらに向かって走ってくるもの。
わたしに向かって、走ってくるものがある。
――なにかしら?
そう思って、ふと立ち止まる。あれ? どこかしら、ここ。
いつもの通学路。ううん、違うな。ああ、そうか、ステーション・アベニュー……。
いえ、そうじゃないわ。ここは、どこかしら。
なんだか、暗い。周りになにがあるのか――。
見えない、と気づいたとき。
こちらへ向かってやってくるもの、それがなにか、分かった。
――バイクだわ、スペース・バイク――
嫌な、予感。なに、あれ? どうして、わたしの方へやってくるのかしら?
バイクは真っ直ぐ真っ直ぐ、こちらへ向かって――。
乗ってる人が見えた。見えたけど――そのひとの、そのひとに……。
顔が――ない。首から上が、ない。
きゃあっ、そう大声で叫んだわたし。いえ、叫ぼうとしたけど。
声が出ない。馬鹿みたく、口開いて、目も見開いて、でも。
声、出ない。
――逃げなきゃ、逃げないと!
思うんだけれど、足が竦んで、ぴくりとも動かせない。
――逃げなきゃ、ああ、誰か、助けてっ。
声を出せずに、頭の中でだけ叫び続けるわたし。
そんなわたしに、誰かが答えてくれる。
早くこちらへ! 急いでっ
逃げなければ! さあ、早くっ
こちらです、こちらへ!
何人かのひとたちが、背後から呼びかけている。わたしは思わず振り返った。
暗がりの中、立ったり、しゃがんだり、中腰になって。何人ものひとたち、男の人、女
の人、たくさんの大人たちがわたしに呼びかけている。
――ああ、アベニューにいたおじさんたち。それにおばさん――
脈絡もなく、そんなことを思うわたしに、仕事帰り然としたおじさんが大声で怒鳴った。
早く! あんなに大勢で来られては、とてもわたしたちだけではお守りできませんっ。
さあ、急いで!
――大勢?
わたしはまた元の方、走ってくるスペース・バイクの方を向き直る。
真っ暗な闇の向こうから。バイクがものすごい勢いで走ってくる。暴走だわ――。
そう思った次の瞬間。わたしはそれまで以上に目を見開いた。
バイクの後から、次々と――。
たくさんの、たくさんの人影が。
バイクに乗っているのは一番前のひとりだけだけれど。その後から、まるで闇の中から
湧き出てくるように。たくさんの人が。走ってくる。わたしの方に向かって。
走ってくる――。
声が出ていれば、わたし、ひぃっとか、ぎゃっとかいったはず。
でも、やっぱり声が出なくて。それで余計。恐怖の思いだけが身体の中に満ち満ちて。
それを解き放つことが出来なくて。声さえ出せれば、悲鳴さえあげることが出来れば。こ
の、足元から頭の天辺までを容赦なく駆け巡る恐怖の思いを解放出来るのに。なのに。声
が出ない、出せないから。
わたしは、恐怖の虜のまま――。
ひとびとが、手に手になにかを持って、振りかざして。走ってくる。バイクに先導され
るように、わたし目がけて走ってくる。みんな、興奮してる、いきり立ってるわ。
そう思う。きっと、そうだと思う。そう、思えた。
はっきりと、確信できなかったのは、かれらの表情が見えなかったから。いえ、見れな
かったから。
――やっぱり、大挙して押し寄せてくるひとたち、その誰もが。誰にも。
顔が、ない!――
バイクが目前に迫る。
早くこちらへ! 急いでっ
こちらです、こちらへ!
まったく、なんて無茶苦茶な運転するんだよっ
逃げなければ! さあ、早くっ
ああいうの取り締まらなくて、どうするんだよ!
早く、急いで、急いでっ
みんなが、てんでばらばらに叫んでる。でも、わたし、動けないっ。
――ぶつかるっ! 誰かっ。助けて!
「フィデリアっ! 姫っ!」
わたしは、跳ね起きた。
全身汗だくになって、跳ね起きた。
わたしの部屋の、わたしのベッドの上で。
わたしは、跳ね起きた。
「――」
動悸が激しい。肩で息をしている。もしかしたら、起きる直前に大声あげちゃったかも
しれない。額を汗がしたたる。
「……ああ」
ゆ、め。いまのは、夢。
「夢を――みたの……ね」
荒い呼吸のまま、呟くわたし。
――そう、いまのは、夢。ここは、わたしの家。わたしの部屋。わたしのベッド。
窓の方に目をやる。カーテン越しだけれど、朝がもうそこまでやって来ていることがわ
かる。
いつもより一時間以上も早く目覚めたわたし。起きてしまったわたし。
悪い夢を見て――。
ふうっと息をついて、呼吸を整えようとする。そして、両手で顔を覆う。手の平にじっ
とりと汗を感じた。
恐い夢――いったい、なに?
――わかっている。わかっていた。こんな変な、恐い夢を見た、そのわけ。
昨日、下校途中に、ステーション・アベニューで。
わたし、危うくスペース・バイクに轢かれそうになって。命拾いした。それで。
それで、あんな夢を――。
そう思った。もちろん、そうに違いない。あんな恐ろしい目に遭ったものだから、こん
な夢を。
見たのね――。
少し、落ち着いた。ホントに、少しだけれど。
顔のないひとたち。大勢で、大勢でこちらに走ってくるひとたち、群集。
みなが逃げろ、早く、と急かす。でも、逃げられなくて。足が竦んで。動けない。
もう、駄目、そう思ったとき。
「あ――」
わたしは思い出していた。
そうだ。もう、駄目って、そう思ったとき。誰かが――。
わたしを呼んでくれた。それで。
「目が、覚めたのよ、いま――」
しっかりとした口調。力強い声。わたしを呼んでくれたあの声。あれは。
「……パトレ」
彼女が、助けてくれた――。
一度起きてしまったら、もう寝付けなかった。また、夢を見るのは嫌だったし。
まあ、一日はもう始まっている。少し早いけれど、起きよう。そう思い、わたしは制服
に着替えた。
クロックに手をかざして、現在時刻を壁に表示させた。やっぱり、いつもより一時間近
く早起きしてしまったわ。
階段を下りて一階へ。キッチンの方から物音が聞こえる。お母さん。もう起きて、朝ご
飯の準備してる――。
廊下を歩くと同時に、お母さんの声が聞こえる。
「もう、起きたの?」
「うん」
答えながら廊下で立ち止まり、キッチンをのぞいた。お母さんがシンクのところに立っ
て、わたしを見つめている。
「……お早う」
「顔色、悪いわ、フィデリア。よく休めなかったのね」
心配そうな瞳、心配そうな声のお母さん。
「うん」
「――無理しなくていいのよ。なんだったら、今日は学校、休む?」
少しばかり眉間に皺寄せて、そう尋ねるお母さんに、わたしはちょっとだけ微笑んで見
せた。
「ううん、大丈夫」
洗面所へ入り、顔を洗う。
洗いながら、昨日のことを思い出す。
昨日、アベニューで。
わたしはバイクに轢かれそうになって、でも、パトレに助けられた。突っ込んできたバ
イクが、もう目前に迫ったとき、脇から飛び出してきたパトレがわたしを抱えて横っ飛び
に飛んで、衝突からわたしを救ってくれた。
バイクはそのまま走り去った、逃げてったって――周りのひとたちが憤慨してたわ。
病院へ行った方がいいってみんながいうけど、わたしはいらないっていって、そして。
そしてパトレに肩を抱かれながら帰ってきた。
ずっとずっと、泣きながら歩いてた。恐かったのと、助かってほっとしたのと、いろん
な思いがごちゃごちゃになって、全然、涙が止まらなくて。ひたすら、涙がこぼれ続けて。
止まらなくて。相変わらず、声も上げずにひくひく泣いた。
ずっとずっと、泣きながら歩いた。
そんなわたしの。肩をそっと抱きながら。パトレはずっとわたしの隣を歩いてくれてた。
なにも話さず、ただずっとわたしの隣を。
ときたま「大丈夫?」て尋ねてくれて。でも、それ以上は何もいわず。ずっとわたしの
隣を、わたしの肩を抱いて。歩いてくれてた――。
恐かったけど、怖ろしかったけど。でも、パトレが隣にいてくれて。
安心もしていた。そんな彼女に甘えて。
ずっとずっと、泣きながら歩いてた。
パトレは、家まで送ってくれた。呼び鈴押して、お母さんが玄関の扉を開けてくれて。
あのときの、お母さんの顔。
すっごく、驚いたあの顔。怖ろしいものを見たような、あんなお母さんの表情。いま、
思えば、わたし、あんなお母さんの顔、初めて見たわ。
一瞬、わたしを、そしてパトレを凝視して。固まっちゃってた。
でも、直後にはわたし、思わずお母さんに抱きついて。
それで、ようやく。
声を出して、大声出して、わんわん泣いたの。
ぎゅっと抱きしめてくれたお母さんの温かい腕。そのぬくもりは今も残ってる、残って
るように思える。
パトレが一通りのことを説明してたと思う。けど、わたしはもう、ともかく家に帰って
これたことで嬉しくて、ホッとして、そしてまた、恐さがぶり返して。
とにかく、泣いてた。
お母さんに抱えられるようにして家に入り、お母さんが温かいお茶を淹れてくれて、わ
たし、顔をぐしゃぐしゃにさせながら、それを飲んで、ようやく少し、落ち着いて、やっ
とやっと、一息つけて――。
「あっ」
わたし、顔を洗う手を止めた。いま、気づいた。ようやくというか、やっとというか。
いま、昨日のことを思い出してて。気づいた。
「わたし――」
鏡を見た。冷たい雫を頬から滴らせている、わたしを、わたしは、見つめた。
「わたし――あぁ、そうだ」
いまになって、気づいた。
わたし、一言もパトレに。
「お礼、いってない――」
う、うそーっ! し、信じらんないっ。いやだわ、わたしったら!
命の恩人よ、命の恩人なんだわ、パトレはっ。それなのにわたし。昨日ずっとしくしく
泣きながら歩き続けて、ずっとずっとパトレは隣にいてくれたのに。わたし――。
「一言も、お礼、いってなかった……」
茫然――。な、なんて、なんて。
なんて、失礼な娘かしら、わたしってばっ!
恐さとか、怖ろしさとか、そういう類の気持ちは、今朝もまだ多分にわたしの内に残っ
ていた。残ってはいたけれど。
それ以上にいま。パトレにとんでもなく失礼なことをしちゃったっていうことに気づい
たいま。羞恥心の方が。恥ずかしいという思い、その一つが。
他の諸々を凌駕する。
「やっだ! 謝らなきゃ! そして、ちゃんとお礼いわなくちゃ!」
決心一秒、行動速攻だわっ。
心配そうにあれこれ話しかけてくれるお母さんに、大丈夫よって答えて。朝ごはんもち
ゃんと食べて――でも、やっぱりいつもの半分くらいしか喉を通らなかったけど――身づ
くろいして。
「行ってきます」
わたしは家を後にした。
なんだかんだとしているうちに、時間は経った。それでもいつもより三十分は早く家を
出たことになる。
わたしは坂を降り、あの曲がり角まで来る。
――この時間だから、まだきっと、家にいるわよね――
早いほうがいい。そうよ、少しでも早く、お礼いわなきゃ。そして、謝ろう。
そう、謝ろう。
わたし、パトレがわたしに嘘ついてる、なんてちょっとでも疑ってた。なんて、失礼な
わたし!
「早いほうが、いいわっ」
わたしは角を曲がって、路地を進んだ。目指すは、奥にある家。パトレの、家。
門の前に立ち、深呼吸。
――昨日は、本当に有難うっ。そして、ごめんなさいっ――
そう、そうね。そういって頭を下げるんだわ。それでいこうっ。
ふうっと大きく息を吐いて、わたしは手を伸ばす。
モニター付き呼び鈴のボタンを押した。ウチと同じ形式の呼び鈴ね、なんて思いながら。
爽やかなチャイム音が鳴った。待つことわずか、モニターのスピーカーにスイッチが入
る気配がする。
スイッチが入ったらしいけれど、モニターに画像は出なかった。家の内側のビュウはオ
フッてるみたいね、これもウチと同じだわ。サウンド・オンリー・モード。
『はい?』
スピーカーから誰何の声。
あ――パトレの声じゃない――。
「あ、あの――」
少し、慌てるわたし。なんだか、パトレが当然答えるものと決めてかかってたものだか
ら、違う相手に少々とまどう。
『はい?』
再度問われ、勢い込んでわたしは答えた。
「あ、あの、わたし、フィデリア・ル・ゲトワっていいます。あの、パトレの、クラスメ
ートで――」
『ああ、ちょっと待ってね』
まだしゃべっている途中だったけれど、気さくな感じの声で、先方はスピーカーを切っ
た。
十秒もしたかしないか。門の向こう。玄関の扉が開錠の音とともに開かれた。
「はーい」
出てきたのは、濃紺の丸首T-シャツを着て、くるぶしまであるぴったりとしたパンツ
をはいた女の人。
「あ……」
あの人だ。引越ししてたときに見かけた、もうひとりのひと。
歳は殆どわたしと変わらないと思う。けど、持ってる雰囲気が年上≠感じさせた。
多分、ひとつか二つ、年上なんだろう。わたしやパトレより背が高い。ユゥミィよりも高
いかも? すらっとした肢体。輝くような金髪はパトレ同様のショートカット。やっぱり
パトレと同じく、白い肌は少し陽に焼けてるみたい。そして――。
そして、なんて綺麗な紺碧の瞳――。
わたしは、吸い込まれるようにその人を見つめていた。そのひとの、瞳を。
そんなわたしを真っ直ぐ見返している、紺碧の眼差し。そう、やっぱりパトレとおんな
じの、真っ直ぐな、視線。力強さを感じさせる、意思の力を思わせる、揺るぎない視線。
――強い、強い眼差し。
わたし、一瞬、気圧される。
でも、次の瞬間に空気が和んでた。
「お早う、ミス――ゲトワ?」
にっこり笑って。柔らかな眼差しで、そのひとがいった。
「あ、は、はいっ。おはようございますっ」
なんだかじたばたしながら、答えるわたし。ドジ、かも。
そんなわたしを、そのひとはにこにこしながら見ていた。少し、恥ずかしい――。
「ちょっと待っててね。ええと――」
そのひとは、いいながら家の中を振り向いて少し声を大きくした。
「ええと――パトレーっ。友達来てるわよーっ」
友達――。そう、そうよね。わたし、パトレの友達、です。
そう思い、ふと感じた。
かつて、そう、ごくごくつい最近感じた、思い。いうならば、違和感。
――違和感? でも、なんの? なんの、なにに対する、違和感?
家の中から、とんとんという軽やかな足音が聞こえてきた。わたしのちょっとしたひっ
かかりは、それですぐに霧散してしまった。振り返っているそのひとの肩越しに、わたし
も少し背伸びして音の方を見やる。
制服姿のパトレがさっと姿を現した。
「ああ、ごめんなさい。お早う、姫」
いいながら、靴を履くパトレ。
「……ひめ?」
小声で呟いてちらっとわたしの方を見て微笑み、またすぐしゃがみこんでるパトレに声
をかけるそのひと。
「ほらほら、友達待たせるんじゃないわよ」
「はいっ」
そのひとの小言(?)に、きっちりとした返事を返すパトレ。わたし、思わず声を出し
ちゃった。
「あ、そんな、いいんです、わたし全然。そんな、待ってないです、平気です、はい」
そのひとがいま一度、わたしを見る。真っ直ぐな視線。わたし、少し赤面。
「オッケー。じゃあ、お姉さんっ」
靴を履き終えたパトレが立ち上がり、さっとその人の脇を通り過ぎる。このひとお姉さ
んなんだ、パトレの。やっぱり。
「はいはい、行ってらっしゃい」
気さくな声でそのひと――パトレのお姉さん――が答えた。
「行ってきます」
やはり几帳面な口調のパトレがいい、わたしを促す。
「行こう」
「あ……うん」
誘われ、わたしは歩きかけたけど、お姉さんに向かってぺこんと頭を下げた。
「い、行ってきます」
「はい、行ってらっしゃーい」
わたしにも笑顔でいってくれたお姉さんだった。
わたしはパトレと並んで歩き出す。
あれ――えっと?
わたし、えっと、なにしてるんだっけ?
えっと、そもそもわたし?
あれ、もしかしたらわたし、また少しとっちらかってるかしらぁ?
なにしにきたのだ、わたしは? パトレをただ誘いにきたのかぁ? いや、そうではな
くてぇ――。
五、六歩も歩いたか歩いてないか。わたし、それにパトレは立ち止まった。
パトレのお姉さんがわたしたちを呼んだのだ。
「パトレ。それにあなた、ミス・ゲトワ――ていうか、お姫さん」
お、お姫さんーっ?
わたしは振り向いた。パトレも同じく。
玄関の前で、そのひとは立っている。両手を腰に当てて、少しばかり胸を張って、立っ
ている。
彼女はパトレを見、そしてわたしを見、もう一度パトレを見て。
にこり、と笑った。
「二人とも――」
なんだか、このひとも素敵なひとだなぁ。颯爽としてて。パトレみたいな身体つきで、
姉妹だっていうんだから、きっとこのひとも運動とか、出来るんだろうなあ――。
なんてことを、一瞬のうちに思うわたし。
「二人とも、くれぐれもスペース・バイクには気をつけてね」
悪戯っぽいウインクをするお姉さんだった。
途端、目いっぱい顔を赤くする自分がわかった。
「じゃあねぇ」
お姉さんはさっさと家の中へ消えてった。
微かに肩を竦めてパトレがいう。
「行こう、姫」
「ぱ、パトレぇ――」
この小声は、わ・た・し。
「え、なに?」
「お、お姉さん、ね?」
「え、聞こえない? なんていったの?」
顔を近づけてくるパトレ。
「い、いまの、お姉さんよね?」
「え? うん、そうだけど?」
「……いったのね、ていうか、いうわよね?」
「なに?」
わたしはぼそぼそいい続けた。
「そ、そりゃ、いうわよね。当たり前だわ。家族ですものね――」
「どうしたの、姫?」
「昨日あったこと、いうわよね、もちろん」
「ひめ?」
わたし、なんだか半べそ状態になっちゃった。思わず大きな声を上げる。
「やだーっ、うそーっ、わたしってばっ!」
「ど、どうしたの、姫?」
いきなりの声に、さすがのパトレも少しばかり驚いた表情。
「やだーっ、わたし、そもそも、今朝は! あなたにお礼いおうと思ってっ。それであな
たの家まで来たってのに! ああ、いやだわっ、何をとっちらかっちゃってたのかしらっ。
お姉さんに満足な挨拶はおろか――」
「ひ、姫?」
「お姉さんにもお礼をいわなきゃなんなかったのにっ。昨日は妹さんに助けていただき
ました、有難うございましたっ≠トいわなくちゃいけなかったのに! それが、なんだか
ただぼうっとしてただけで、ああ、馬鹿みたい!」
「姫……やっぱり、昨日どこかぶつけた? 打ち所が、悪かった――の?」
「恥ずかしいわっ。失礼な娘だって思われちゃったわっ。ああ、いやだ、わたしったら、
信じらんないっ」
「ちょ、ちょっと、落ち着いて」
「ああん、サイテーっ!」
「そんな、大声出さなくても」
「パトレっ!」
「は、はいっ」
涙交じりにパトレを呼んだわたしに、思わずびしっと答えたパトレ。わたしはパトレを
じっと見つめて――。
そして、がばっと腰を折り、頭を下げた。
「有難う、ホントに、有難う! 昨日のこと、有難う、パトレ!」
「……姫」
頭を下げたまま、絶叫に近いわたしだった。
「有難う、有難う! 何度いってもいい足りないっ。あなたは、パトレ、あなたはっ―
―」
「……」
わたしはゆっくりと顔を上げた。顔を上げ、パトレを見た。パトレは。
またあの、真っ直ぐな瞳でわたしを見つめている。漆黒の瞳。
わたしは、急に弱々しい声で、いった。
「あなたは――命の恩人よ、パトレ……」
真っ直ぐな瞳は、きょとんとした眼差しになり、そしてふっと笑みをたたえる。
「当然のことをしたまでです。さぁ、行こう、姫」
すっと肩を押してくれるパトレの手の平。温かい。
――昨日と同じで、温かい――
ごめんね、ごめんなさい、パトレ――。
もう声に出せず――だって、これ以上いったら、またわんわん泣き出しそうなんだもの
――わたしは胸のうちで謝っていた。
わたし、あなたを疑ったりしたの。たいした根拠もなく、それに、たいしたことでもな
いことで。わたし、あなたが嘘ついてるって、疑ってた――。
本当に、ごめん、パトレ――。
わたし、涙を拭って笑顔を作る。そうよ、無理にでも笑えば、きっとすぐ。
きっとすぐ、本当に笑える。
「うん、行こう、パトレ」
わたしはパトレと肩を並べて歩き出す。路地を出て、坂道を歩き出す。
友達、待たせるんじゃないわよ
お姉さんの声が突然蘇った。
友達、友達――。
そうだわ、そうよ。パトレ。あなたは。あなたは、わたしの。わたしにとって――。
大切な、友達。
新しく出来た、そしてとてもとても大切な。
――友達。
それは嬉しい思いで、でもなんだか照れくさい気持ちもして。
わたしは、たいした意味もなく振り向いた。坂の上を振り向いた。高台にある、わたし
の家の方を。
あ?――
つと、足を止めるわたし。
二歩、三歩と先に行ったパトレも立ち止まり、わたしに声をかけた。
「どうしたの?」
「あ、ううん。なんでもない」
わたしはすぐに歩き始める。
――わたしの家。
通りに面した、二階の部屋。わたしの部屋の隣の、部屋。
あの部屋の窓に、人影が動いた。
――あ、つい最近もこんなことが――
「……お母さん?」
わたしはパトレと歩きながら、呟く。
学校での一日は、普通に過ぎていく。
登校の道々、パトレがわたしにいったのだ。
引っ越したばかりで、まだ家の中に揃えなくちゃならないものもあった。お姉さんが、
でかいモニターも欲しいわねっ≠トいったとかで、昨日はたまたまあの電子機器屋さん
に下見に寄ったんだって。
で、ショーウインドウのところで熱心――やだわ、わたしったら!――にモニターのぞ
き込んでるウチの学校の生徒がいるなって思って見てみたら。
それはつまり、わたしだったって。
声かけようとしてお店から出たとき――。
――バイクが、突っ込んでくるところだった。
昨日のこと、学校ではいわない方がいいよね、て。みんな知ったら、大騒ぎになるよ、
そんなの、嫌だよね、て。パトレはいった。
わたしもそのつもりだった。誰にもいいたくなかった、ていうか、思い出したくなかっ
た。
あんな目に遭ったせいで、今朝は変な夢にうなされたし。出来れば、昨日のことは忘れ
たい、なかったことにしたいくらい。
だいいち、そんなことをあの情報屋さん<潟Bコが聞いたりしたら。
「どえらいことになっちゃうわ」
わたしのいいかたに、パトレも笑顔で同意したの。
だから。
学校での一日は、普通に過ぎていった。何事もなく、普通に。
お昼休みは、わたしたち四人組に加えて、パトレもいっしょだった。ユゥミィは昨日の
ジムの授業以来、パトレに一目置くようになったみたいで、さかんに話しかけてた。
部活やらないの? なんだったら、いっしょにやんない? あんたが入ってくれたら、
団体戦でもいい線いくんだけどなぁ、とか。
リィコがさっそく茶々いれる。
団体戦たって、ユゥミィとパトレ以外のひとたちは、たいしたこと無いんじゃないの、
なんて。
そしたら、ユゥミィ。胸張って嘯いた。
あたしら二人がいりゃ、十分!
それ、団体戦とはいわんよ、というのは、無論レムの冷静な台詞だったわ。
その間も、パトレは微笑んでいたけれど、やんわりとユゥミィの誘いを断った。
ありがとう、でもごめんなさい。しばらく部活とかに取れる時間はないの、と。
無理強いする性格じゃないユゥミィは、ううん残念っ、なんて唸ってたけれど、いうほ
ど深刻でもなかったわね、もちろん。
むしろ、リィコのほうが根掘り葉掘り。
え、なになに? どういうこと?
いや、引越しの荷物がまだまだ片付いてなくて、と笑顔で答えるパトレは、付け足して
いった。ウチは、姉と二人きりだから。
きらりん、て感じでリィコの目が光ったもんだわ、このとき。
お姉さんと二人? 二人きりで引っ越してきた? お姉さんと、ふたり、で? ははー
ん、わけありね?
え? てパトレが聞き返したときにはリィコ、右からユゥミィ、左からレムにそれぞれ
拳で頭をこつんこつん……て。
黙らんかい、この似非情報屋はんっ。
ホント、ドラマ観過ぎなんだから、お馬鹿さんっ。
え、似非ってなによ? 馬鹿ってなによ、馬鹿ってっ。き、聞いた聞いた、姫ぇ? 見
た見た、パトレ? 暴力よ、校内暴力だわっ、ひどいーっ!
まあまあ、落ち着いて、リィコ――てわたしたがいう間もあらばこそ。
ジャンキーの情報屋の末路は憐れなんだぞ、リィコっ。
そうね、場末の薄暗い路地裏で、きったない側溝にうつ伏せになって窒息死する、てと
ころかしら?
な、なんちゅうことを、ユゥミィに、それにレムも? あんたたちこそドラマの観過ぎ
じゃないのぉ!
あんたのレベルに合わせてやったんだよ、似非情報屋はん。
そうよそうよ、ホント、お馬鹿さんなんだから。
ひっどーい! むっきー!
ああ、もう落ち着いてってば、リィコ。二人ともあんまりリィコからかっちゃ駄目よ。
へいへい、姫がそうおっしゃるならっと――。
というような感じで、学校での一日は、普通に過ぎていった。
……普通、よね? これって。
今日の午後、最後の授業は『法令』だ。みんなそうだろうけど、これは――眠くなるっ。
「――つまり、法治国家としてのわたしたちの星においてであってさえ――」
先生の単調な声が、この時間のわたしたちにとっては、睡眠薬の効果を持つ。
ああ、いえいえ、いけないわ。クラス委員長たるわたしが、わたしまでが――て。
ユゥミィ……軽く鼾かいてる。いやだ、お年頃なんだから――え? 鼾が二重唱?
あはは、後からのいまひとつの響きは、リィコぉ……。
わたしも――ねむ……。
「緩やかな民主主義という根本原則で――」
今朝は早かったものね、起きるの。あまりよく眠れなかったし、変な夢のせいで――。
ぞく。
少し身震い。嫌なこと、思い出しちゃった。
わたしはちらっと左隣を見た。
パトレは、端然と座っている。端然、なんて言葉、これまで使ったこともなかっけど。
彼女にはそのいいかたが、似合ってる、と思う。
そんなパトレの後の席、レムはさすがに頑張り屋さん。かりかりと音を立てて、先生の
講義で必要な部分を筆記してる、みたい。
「――それは最終段階のひとつ前段階ということなるわけだ。いってみれば、最後通牒前
の、通告みたいなもの――」
ああ、この先生の声、魔法かかってない? また、すぐ、眠気が……。
だ、駄目よ駄目。クラス委員長たるわたしは――。
うう、無理。眠いーっ。
「それがいわゆる限定戒厳令という――」
にゃ、少し、だけ……。
――あれ? なんか、いま、パトレがわたしのこと、ちらっと見たような――気が――
「――限定の意味はつまり、場所、時間、それから問題解消のための方策としての――」
くぅ……。
「だから、いわゆる軍事侵攻とは違った一種の――」
「さあ、帰ろ帰ろっ」
リィコの元気な声。終礼のあと。
「おし、今日は部活ない日だかんね。みんな、いっしょに帰るか」
ユゥミィが勢いつけて立ち上がる。
「あ、じゃあさ、じゃあさぁっ」
リィコが速攻答えた。レムがリィコに尋ねる。
「じゃあ、なに? リィコ」
「久しぶりにみんなで寄ってこっ。あのお店!」
「またスイーツかぁ? ホントに太るぞ、リィコ」
ユゥミィがいうのだけれど、満更でもなさそうな感じ。リィコはぽんぽんと自分のお腹
を叩きながら答える。
「平気平気っ。別腹よ、別腹!」
「んなこと絶対にないよっ――ないと思うわ――ないんだって!――」
ユゥミィにわたし、レムがいっしょになって突っ込んだ。
「ぶうっ、じゃ、行かないのぉ?」
拗ねて見せるリィコ。愛嬌あって、ホント、可愛いんだから。
「いってあげるよ。リィコのた・め・に・ね」
ユゥミィの勿体ぶったいいかたが、おかしかった。残るみんなも手に手に鞄を持って立
ち上がる。
「あはは、じゃあみんなで行こうっ。パトレ、あなたも来るでしょ?」
問うリィコに、パトレがふっと顔を上げた。まだ、席に座ってたんだ。
「あ、ごめんなさい。わたし――」
「なに、用事でもあんの?」
軽く尋ねるユゥミィを、ほんの少し困った顔でパトレが見上げた。
「いえ、別に用というほどのことは――」
「じゃあ、行こうよ」
レムだった。
「う……ん、でも」
「いっしょに、行こ、ね?」
わたしもいう。いっしょに行こうよ、パトレ。
友達、みんなで。
「――そう? 姫も行くの?」
「ええ。みんなといっしょに」
「そう……。じゃあ」
すっとパトレが立ち上がる。ホントに、すって感じで。
あの、いつもの微笑みで、彼女はいった。
「じゃあ、行くわ」
真っ直ぐにわたしを見つめて――え?
「よっし、決まりっ」
ユゥミィが声を張り上げ、さっさと歩き出す。
「早く行かないと、店、混んじゃうかもね」
レムも続く。
わたしは――。わたしは、わたしを見つめるパトレの瞳を――。
見つめ返して、突っ立っている。
そこへ。
「おいおい、ちょいとちょいと」
なんだか、造ったような下卑た物言いは、リィコ。ユゥミィとレムも思わず立ち止まっ
てこちらを振り返る。
「ちょいとお前さんたち。見つめあっちゃったりしちゃったりしちゃって、お安くないね
ぇ。ええ? お前さんたち、もしかして、アレかい? わけあり≠ト、やつかい?」
ぶっと噴出すレム。ユゥミィが大声出した。
「情報屋はんっ。あんた、まるっきり通りすがりの中年のおっさん≠サの一、だよ、そ
れじゃあ!」
「あはははは、でも、いまのいい、いいわっ、リィコ! あはははははっ」
「えへへへへ、雰囲気出てた? 昨日のドラマでこういうの、やってた!」
「いいから、ジャンキーっ。はやくおいでっ。ほらほら、お二人さんも早く」
腕を伸ばしてリィコの首根っこ引っ張って、歩き出すユゥミィ。
お助けーっとかなんとか叫びながらついて行くリィコ、あははははと、本気で笑いなが
ら続くレム。
苦笑するわたしと、パトレ。
「行こ、パトレ」
わたしは笑顔で、さっと手を伸ばした。ごく自然に手が伸びた。伸びて、パトレの腕を
とる。
ほんの一瞬、眉吊り上げたパトレだったけど、すぐに笑みを浮かべる。
「ええ、行こう」
わたしたちは並んで――わたしはパトレの腕をとったまま――三人のあとを追った。
二人で、友達のあとを追った。
――ああ――
思えば――。
あとから、思えば。
この日このときが。
わたしたち、みんな。
みんなにとって。
友達みんなにとって。
とてもとても幸せな。
幸せな日。
――とても、幸せな日、の。
その日々の――。
最後の日――。
最後の日、だった。
to be continued
Written by 那入 晶
この作品はフィクションであり、登場する人物名・団体名等は実在する同名のものとは
一切無関係であることをここに明記いたします。
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