わたしは、もう、なにがなんだかわからず。お姉さんとブリジットの背後に立っている。
二人に守られるようにして、教室の隅に立っている。
その対角線上の先、教室後方の出入り口。そこに。
レム。
レムが立っていた。
そろそろ、外が、明るくなり始めようとしている――一日が始まろうとしているこの時
間、ここに。
レムが、立っていた。
やっぱりわたしと同じように寝巻き代わりに使ってるスェットの上下、それに我が校ウ
リト学園の紋章の入ったトレーナーを着ているレム。
「姫……」
レムの声が、うわずっている。うわずって――いる?
どうしたの、レム?
「――姫」
繰り返し、わたしのことを呼びながら、レムが一歩、教室に足を踏み入れた。
途端、さっとお姉さんが右手の平を前に突き出した。びくっとして歩みを止めるレム。
「……お嬢さん、そこで止まって――」
恐い、お姉さんの声。
レムは――レム、どうしたの?――びくびくしながら、動きを止めている。
なんだか、いまにも泣き出しそうな顔つきで――レム?
「お嬢さん、ゆっくり、ゆっくりと回れ右をして――」
右手の平を突き出したまま、お姉さんが指示する。それはもう、指示っていう以外にな
い口調だ。
レムは、困ったような顔をして――それでも、微かに頷くと、ゆっくり、ゆっくりと回
れ右をする。わたしたちにその、背中を向ける。
「止まって――」
レムが完全にこちらに背を向けたとき、お姉さんがいった。
なに、あれ? あれはなに? レムの背中に張り付いている小さな――鞄? 箱?
ブリジットが思わず二、三歩と前へ出た。出て、お姉さんを振り返る。その表情、恐い
くらい厳しくて――。
「お姉さんっ」
「……爆弾、背負わせてやがる――だから」
ぎりっと、歯軋りするような音を、お姉さんが立てた。
「姫……姫、ごめんね、わたし――わたしは」
レムの泣き出しそうな声。この娘のこんな声、初めて聞く。
「レム――?」
思わず、彼女の名を呼ぶ。そのわたしの声に、お姉さんの声がかぶさった。
「だから、わたしは、ヤツらが大っ嫌いなんだっ。汚いよっ、反吐が出そうだ!」
「――小型です。ですが、半径二メートル以内にいる人物に対してなら、殺傷能力は十分
と思われます」
一見、冷静な分析をしているブリジットだったけど、彼女の声にも怒りの調子が込めら
れていること、わたしにだってわかった。
「ちっ。わたしらがいっしょにいなけりゃ、お姫さんはあっという間にあの娘に駆け寄っ
たでしょうね。そこで、どかん――か」
「……」
お姉さんの言葉にブリジットが答えないのは、それを肯定しているから、ね。
――って、わたしが思ったとき!
がしゃん、がしゃんという物音が立て続けにして、教室の窓ガラスが砕け散った。
防音の分厚いガラスが、粉々に砕け散った。
「伏せっ!」
お姉さんの叫び声。ブリジットがすごい形相でわたしに駆け寄って、壁へ突き飛ばす。
「きゃあっ」
レムの、悲鳴っ。レム、どうしたのっ――。
「ブリジット、お姫さんはっ?」
「――無事ですっ」
「畜生っ、機銃掃射とは、派手にやってくれるじゃないっ」
「お姉さん、こちらには武器が――」
二人が教室の床にへばり付いて会話を交わす間にも、校庭の方からすごい音がして教室
内に銃弾が撃ち込まれる。
「わかってるってっ。しょうがないよ、ルールだから!」
「ですが――」
「方面軍が関わったという証拠を残さないために、方面軍の正式銃が使えない≠チてこ
と。だから――」
「だから?」
「だから、ブリジット、敵から奪うだけよっ」
「――はいっ」
「あんたは、姫といっしょに、いいわね!」
「お姉さんっ?」
「わたしは――アイツらに挨拶してきてやるっ」
匍匐前進て、こういうのをいうのだわ。お姉さんは、床にへばりついた恰好のまま、す
すすっと廊下の方へ進んで行ったの。
「お姉さん、レムは――爆弾は?」
お姉さんの後姿に声をかけるブリジット。そう、そうよ、レムはどうしたの?
「あそこの、廊下の隅でしゃがみこんで震えてるよ。大丈夫、怪我はしてないみたいだけ
ど――腰抜かしてるみたいね」
いって、お姉さんはさっと教室から出て行った。レムがしゃがみこんでいるという教室
後方の出入り口とは逆の、前の方から。
「姫っ、わたしのそばを離れないで」
頭かかえて、みっともない恰好で床に腹ばいになっているわたしの元へ、ブリジットが
素早く寄ってきていう。
「う、うん」
頷くことしか出来ない、わたし。でも。
「ねえ、ブリジット、レムは大丈夫?」
「――いまのところは、としかいえません」
冷たい、そんないいかたっ――。
厳しい眼差しでブリジットが声に力を込めた。
「あなたを守るのが、わたしたちの任務の第一義です、姫っ。わかってますね? いいで
すかっ?」
そんな、だって、レムが――レムが恐がってる。あの娘、震えてるのよ、恐がってるの
よ、あそこで。わたしの友達が、あそこで――。
ががががっと銃声が響き渡る。教室のコンクリート製の天井はもう、穴だらけ。あちこ
ちに破片が散乱している。
とてつもない大きな銃声がするたび、わたしは頭を抱えて突っ伏した。
レムも、きっとひとりで、あそこで、震えてるわっ――。
いっとき、銃声が止んだ。
「レムっ」
わたしは決心した。教室を斜めに突っ切って、レムのところへいくのよっ! 恐がって
るわ、あの娘も!
走り出そうとしたわたしを、ブリジットが抑えようとする。
「駄目です、姫っ」
がががんっと、また銃声。
きゃっと短い叫び声を上げて、わたしは床に転がった。ブリジットに突き飛ばされたの
だ。
「うっ!」
ブリジットも反対側に身を伏せた。銃弾がわたしたちの間を一閃していった。
「ぱ、パトレっ!」
思わず、そっちの名前を叫んじゃったわたし。だって――。
ブリジット――パトレが。
わたしをかばって突き飛ばしてくれたから、わたしは撃たれずに済んだのだけれど。け
れど、彼女が。彼女の、左肩から。
血が――。
「パトレっ、大丈夫っ?」
彼女のもとへ駆け寄ろうとしたところへ、また銃声が響く。
「動かないでっ、そこにじっとして!」
右手で肩口を押さえながらブリジットが叫んだ。その指の間から血が滲んでる。
「わたしは平気です、かすり傷です、こんなのっ」
自らを鼓舞するようにいうブリジット。
「ごめんなさいっ、パトレ! わたしが――」
「じっとしていてくださいっ、いいですねっ?」
うんうんと、頷くしかなかった。レム、ごめん、そこへ、行けない!
そのとき、校庭の方が妙な気配になった。たったいままでの、ものすごい銃撃が止まり
――争う気配、ひととひとの――。
ブリジットが窓際ににじり寄って、さっと外を窺う。窺い、口走った。
「ああ、お姉さん、またそんな無茶なっ。相手はひとりじゃないんですっ!」
お姉さんが?――
ブリジットは校庭で繰り広げられている――の、だろう――お姉さんと敵との格闘に目
を釘付けにしてしまった。わたしはそんなブリジットの様子が気になったので――。
だから、二人とも、気づくのがほんの少し、遅れたの。
本当に、ほんの少し。
出入り口のところで、レムが立っているのに気づくのが。ほんの少し遅れた。
「――姫……」
「れ、レムっ?」
呼ばれたわたしは振り返り、思わず叫んだ。ブリジットも振り返っていた。
レムが、立っていた。泣き腫らした顔で、立っていた。
そして、その斜め後に、もうひとり――え?
そこに立っているのって、レムの後に立ってるのって――え?
え――? あなた、あなたは――。
「リィコ……」
レムの肩越しに、リィコが顔をのぞかせた。リィコの顔をした、でも、あのとても愛嬌
のある、可愛らしい小さなお鼻をした、リィコの顔をした――でも、とても、あのリィコ
とは思えないような、唇吊り上げて、目も吊り上げて笑っている、そのひとが――リィコ
が。
立っていた。
リィコがとん、とレムの背中を左手で押した。よろっと、教室へ入り込むレム。続いて
入ってきたリィコの右手には――。
「遠隔起爆装置――」
ブリジットの呟きがわたしの耳にも届いたけれど、意味は――不明。リィコはその小さ
な箱を掲げ持って、教室内に足を踏み入れる。
「友達甲斐ないよね、姫」
リィコの声。あの、明るいリィコの声。だけどこの口調。この、嫌らしい口調は、な
に?
「こんなにぶるぶる震えてレムが――友達が、あんたのこと呼んでんだからさ、来てあげ
なよ、早く」
目を吊り上げて笑ってるリィコ。でも、目、そのものは、笑ってない。わたしのこと、
じっと睨んで――。
「さっさとそうしてくれりゃさ、わたしもあっちの陰でこのスイッチ、ぽんって。それで
簡単に終わるはずだったのにさ。それがあんた、あんたが友達甲斐もなくレムを放ったら
かすもんだから――」
彼女はすっと教室の天井、穴だらけの天井を見上げて、くくくと笑う。
「――もんだから、こんな派手な騒ぎになっちゃって」
「姫、ごめん、ごめんねぇ――」
泣きながら、レムが。
「ごめんね、なんか、こんなことになっちゃって。わたし、遅くまで勉強してたんだ。い
つものことだよ、いつもみたく。そしたらさ、端末にメール着信して。リィコからだった。
遅い時間に珍しいなーって思って、見てみたら、そしたらさ――あなたが大変だって、あ
なたの家が燃えてるって、火事だって、助けにいくって――メールそうなってた。リィコ
のメール、そう書いてあった。わたし、もう、びっくりして、トレーナー羽織って、真夜
中だったけど、家、飛び出したんだ。そしたらさ、わたしん家からちょっと通りに出れば、
あなたの家に通じる坂道が見えるじゃない? そこまできたらさ、あなたの家、燃えてる
の見えて――もう、もう心臓止まりそうになっちゃって、駆け出したんだよ。あんたんと
こ行こうと思って、そしたら、そしたら――」
レムは堰を切ったみたくしゃべり続けていた。
「そしたら、すぐ次の角からリィコが飛び出してきた。で、大変だってわたしがいったら、
リィコは、こっちだって。姫は、こっちだって。早く早くっていうの。何だか知らないけ
ど、姫が無事ならって思ってついってったら、そうしたら、変な――男のひとたちに取り
囲まれて、わたし、それで、これを――」
どん、と乱暴にリィコがレムの肩を突付いた。レムが押し黙る。リィコが後を引き継い
だ。
「で、これをこの娘の背中に取り付けたってこと。あんたたちがこっち方面へ逃げて行く
の、見てたからねえ、わたしは。まったく、アベニューでも失敗して、家でも大失敗。あ
の男はホント、役立たずだったけど、まあしょうがない」
――リィコ? リィコ、あなた、なにいってる?
あなたは、いったい、なにを、いっているの、リィコ?
目吊り上げて笑ったような形相のままのリィコ。とても、わたしの知ってるリィコとは
思えない口調。あなた、なにをいっているのよ?
そのとき、ブリジットがポツリと呟くのが聞こえる。
「――完全に、コントロール、されてる――術下に陥る≠トヤツか――」
「で、あんたがレムのこの哀れな姿を見て、駆け寄ってくれればそれで良かったんだよ。
友達といっしょにあっという間に死ねたんだよ? せっかくそういう機会を作ってあげた
ってのに、あんたってば、ホントに友達甲斐のないヤツだねえ。友達といっしょに死ねる、
ていう道を選ばせてあげようとしたのに。くくくく、もちろん、あんたに選択権なんか、
なかったんだけどねぇ」
リィコ――。
「わたしがこの手で、このスイッチを押してやったんだ。どかん、それで終わりだった。
五年もの間、ずっと待ってた指令を果たせて、わたしも晴れて故郷へ帰れるってもんだっ
たのにさあ。英雄だよ、わたし、英雄。革命の英雄として、故郷へ帰れたんだ。お前らが
搾取してきた人民の、虐げられてきたひとびとの苦しみを、苦しみから、解放して、解放
されて、俺の、俺の息子や娘たちはお前ら一握りの王侯の馬鹿どものために苦しんで、わ
たしは、英雄として、だからわたしのこどもたちは死なずにすんだのに、馬鹿、馬鹿な統
治者はいらない、お前らのせいだ、お前らのためだけにこの国はあるんじゃない、わたし
ら、わたしたち、わたしは英雄、英雄として、わたしは故郷に帰る――」
「り、リィコ?」
わたしは、口角泡を飛ばして喚き始めたリィコを凝視した。レムが泣いている。ブリジ
ットが、彼女までが、リィコからわずかばかり、視線を逸らしているみたい。
わたしは、でもわたしは。リィコの顔を真っ直ぐ見つめた。
「リィコ、なに、いっているの?」
「俺の子供は本当に可愛い盛りだったのに、お前ら、お前らはなにもしてくれない、だか
らわたしがやる、わたしがやるのよ英雄だもの、どかんとやって、終わりにするのよ、終
わればわたしは、帰ることが出来る、故郷へ故郷へ故郷へわたしの生まれ育った星へ、帰
る帰る帰る、友達甲斐のないヤツ、幸せなまま殺してやったのに、幸せなまま、俺の子供
らはみな不幸だった、不幸に死んだ、殺されたも同然、お前が、お前が、お前らが殺した
殺した殺した、だから殺す、殺す、英雄はやる、やるのよ、やってやる、やるんだ――」
リィコっ?
わたしはリィコの瞳を見た。顔全体では笑っているリィコは、でも目は、笑っていない。
笑っていない――涙を浮かべて――涙? 泣いてる?
「こんなこと嫌、こんなこと嫌、こんなこと嫌、嫌い嫌い嫌い、みんな嫌いわたしのこと
オモチャにして、頭ん中引っ掻き回さないでよ、引っ掻き回さないでよ、嫌嫌嫌いやっ、
嫌い、嫌い、お母さん殺したあんたら嫌い、なんでわたしがなんでわたしがなんでわたし
が、違うもん違うもんわたしはそんなの知らない知らない、違う違う違うわたしがなんで
そんなことをそんなことをそんなことを、わたしまだ子供よ子供こどもなんだから、頭の
中、やめて、わたしの頭の中、さわらないでいじらないで、引っ掻き回さないで――」
な――に、ひどい…・・・ひどい、リィコ……酷い――。
「俺がやるんだよ俺が殺すんだ、俺は英雄だ革命だ英雄だ革命の英雄だ、おれは故郷に帰
るんだ殺すんだ帰るんだ殺すんだ帰れるんだ帰ることができるんだ、わたしの子供たちが
待っているもの、帰るわ、お墓があるんですから帰るわ、友達殺せ友達殺せいっしょに殺
せそうしたらそうしたらそうしたら――」
レムが、腰が砕けたようにその場にしゃがみこんでしまった。両手で顔を覆って、泣き
崩れてしまった。
わたしも、レムと同じ心境、きっと同じ。
――誰が? 誰がリィコに? この娘に? こんな? こんな、こんな――
「酷いことをっ」
思わず声に出していったわたし。
泣きながら、涙を流しながら、目を吊り上げ、唇吊り上げて笑顔を作っているリィコ。
こんなの、この姿、リィコの本当の姿じゃないっ。
「リィコ、しっかりしてっ」
わたしは大声で叫んだ。でも、それが、なにの合図になったのか。
リィコは突然右手の箱を放り出すと、レムを突き飛ばしてこちらへ突進してきた。咄嗟
にブリジットがわたしの前に身体を投げ出して彼女とぶつかりあう。
「うわっ」
悲鳴を上げたのはリィコ、それともブリジット?
二人は勢い余って床に吹っ飛び倒れた。
リィコは入り口の方へ転がり、ブリジットはブリジットで窓際まで。でも、やっぱりブ
リジットの方が動きは早い。素早く手をついて立ち上がろうと――。
また、がががっていう機銃の音。ちょっとの間鳴りを潜めていたそれがまた咆哮を上げ
た。
思わず首をすくめるわたし。ブリジットも咄嗟にまた身を床に伏した。
その一瞬が。リィコに先手を取らせる。
「――フィデリア・ル・ゲトワ・ボウ・オルドハレ・ディ・スルエド=レプン・ゴイバ」
呟き立ち上がるリィコ。その手に、いつの間にか、ナイフが。
「人民の敵、ゲトワの一族――抹殺っ」
ナイフを腰溜めに構えて、リィコがわたしに突っかかろうとしたまさにそのとき。
「なにやってんだよっ!」
大声とともに、教室の前側の扉が開いた。がしゃん、て音がするくらい激しい勢いで、
開いた。そこに仁王立ちするようにして立っている――。
ユゥミィ。
「なに、やってんだよっ、みんなっ! どうしちゃったってのさっ」
ユゥミィが、すごい大声で叫んだ。叫び、教室をざっと見渡す。
――ユゥミィには、これがどういうふうに映ったろう?
後側の入り口付近でしゃがみこんで、泣きじゃくっているレム。ぼろぼろの顔を上げて、
ユゥミィを見上げてる。
窓際で中腰になっているブリジット――ユゥミィにとってのパトレ。いままさにリィコ
に飛び掛ろうとして、ユゥミィの一喝に、瞬時動きを止めていた。
わたしは、わたしは、ただ立ち尽くしてて。
窓という窓のガラスは粉々に砕けて、床に散らばっている。天井は機銃掃射で穴だらけ。
こんな情景をユゥミィは、どう見たろう?
そして、ああ、そしてそして――。
ユゥミィをゆっくり振り返るリィコを見て。
あの、目を吊り上げて笑っている――笑顔を作っている――リィコを見て。
ユゥミィ、あなたはなにを思う?――
「な……に、やってるんだよ、リィコっ? なに、持ってんだよ、それっ!」
ユゥミィは、リィコの手に、暗く光るナイフを、見た――。
額から汗したたらせながら、ユゥミィはかっかっと音を立てて入ってくると、くるっと
リィコの前に回り、わたしとリィコの間に立った。リィコを睨みつけ、ユゥミィが叫ぶ。
「よしなよっ。下ろせ、そんなもん、友達に向けるんじゃないよ、馬鹿っ!」
「――邪魔するな……邪魔するな、お前邪魔するな、お前邪魔お前邪魔、邪魔邪魔邪魔…
…」
「なにぶつぶついってんだよ、リィコ! おかしいんじゃないの? いい加減にしなっ。
ホントあんた、ビジョンの見過ぎ――」
ユゥミィが最後までいうのを待つことなく、リィコが動く。
「見過ぎ――え?」
「ゆ、ユゥミィ!」
「危ないっ!」
わたしとブリジットが同時に叫ぶ。リィコが右手のナイフを、目の前に立っているユゥ
ミィ目がけて突き出した。
「うわあっ」
悲鳴上げて、でも、ユゥミィはさすがに運動神経抜群の娘。あんな至近からのリィコの
突きを咄嗟にかわした。
「な、なにすんだよ、お前っ! 本気で怒るぞっ」
怒鳴るユゥミィに、リィコが笑顔を張り付けたままの表情でさらに突っかかる。
「邪魔だ邪魔だ邪魔だ――邪魔だぁっ!」
右に左に、無茶苦茶にナイフを振り回しだしたリィコ。ユゥミィはただ必死で、その切
っ先をかわすのが精一杯。
「や、やめろっ、やめろよっ、リィコ!」
そんななかでも彼女はリィコの名を呼ぶのだけれど、リィコの耳には届かない、届いて
いない……。
一瞬、動きを止めたリィコが、ナイフをしっかりと握りなおしてユゥミィに体当たりを
しかけたっ!
「ユゥミィっ!」
今度叫んだのは、レム――。腰抜かしたまま、しゃがみこんだまま、ユゥミィの名を絶
叫した。
がしっと、リィコの体当たりを真正面から受け止めたユゥミィ。
「うおおっ!」
男の子みたいな雄叫びを上げて、ユゥミィが渾身の力を込めてリィコを投げ飛ばした!
リィコは机や椅子を巻き込みながら、教室の後方の角まで、ぶっ飛んでいった。
がつんっていう嫌な音がして、リィコが倒れる。どっか、ぶつけたような音。
それでも、うう、ううと唸りながら立ち上がろうとするリィコだったけれど、机に手を
かけて、自分の身体を支えながら立ち上がろうとしたリィコだったけれど、立ち上がりき
れず――。
その場に、どたんっと昏倒した。
「り、リィコ――」
一歩、彼女の方へ歩き出そうとしたわたしに、苦しそうな声が聞こえた。リィコのじゃ
ない――ユゥミィの?
わたしは入り口を振り返る。
リィコを投げ飛ばしたユゥミィが、肩で息して立っていた。リィコの方、睨んだまま立
っていた。立っていたのだけれど――へたへたと、その場に倒れこんで。
「ユゥミィ!」
わたしは真っ先に駆け寄る。ブリジットも続く。レムは腰抜かしたまま、手と膝でいざ
り寄って来た。
倒れこんだユゥミィの目の前に、あのナイフ――。わたしはそれを拾い上げて握り締め
た。ナイフの切っ先に――血が!
「ユゥミィっ」
わたしが見たユゥミィは。いままで見たこともないような、蒼白な顔して。目をぎゅっ
と閉じて。噛み締める唇からうめき声が漏れる。
彼女が両手で押さえた左の脇腹から――血が滲み出していた。
「きゃあっ」
ユゥミィにしがみつこうとするレムを押さえ、さっと傷口に目をやり、そしてわたしを、
わたしの拾い上げたナイフの切っ先を睨むように見る、ブリジット。
「――毒かっ」
短く叫んだ彼女の声。
どく? 毒? 毒ですってっ?――
わたしはナイフを、その切っ先を怖ろしげに見つめる。ぎゅっと握り締めた、ナイフの
先を。
「どうしたっ?」
ユゥミィが倒れている入り口に、駆けてきたひと。一瞬、誰か、て思った。
黒い装束のところどころが、擦れたり切れたりして破けている、そして左頬に殴られた
ような痕がある――お姉さんっ。
「この娘が刺されました、毒ですっ!」
ブリジットが間髪入れず答えた。
「王女殿下はっ?」
「ご無事ですっ」
いってわたしの顔を凝視したお姉さんは、でもすぐにブリジットに指示を出した。
「ブリジット、エイドキットは持ってるわねっ?」
「はいっ」
答えて、ブリジットがウエストポーチに手をやった。
「よし、調合は任せるっ! わたしは毒を分析するっ」
いいながら、ユゥミィの身体にしゃがみ込み、お姉さんも自分のポーチから手早くなに
かを取り出した。
「傷口を少し広げて――ちょっと、そこの、あんたっ!」
お姉さんがレムに怒鳴った。びくっと反応するレム。
「あんた、手を貸してっ。この娘のここ、持って――そうっ」
てきぱきと動くお姉さん。その間、ブリジットもポーチから何本かの小瓶を取り出して、
床にさっさと並べていく。二人とも、無駄のない動き――兵隊さんの、動き。
「少し、痛いよ、我慢してっ。少し、少しだから――そうっ、オーケーっ」
ユゥミィに声かけながら、お姉さんはなにか細長いものを彼女の傷口に触れさせて、振
ったり透かし見たりした。
「――大丈夫、大丈夫だからね、わたしらが助けてあげるからっ――まだか? 遅いった
らっ」
その機材を睨みつけながら、ユゥミィを励ますように声をかけるお姉さん。
「――よし、出たわっ! ブリジット!」
お姉さんがそれをさっとブリジットに放る。ぱっとそれを受け取り、じっと見つめるブ
リジット。お姉さんが尋ねた。
「どう? 調合出来そう? 揃ってる?」
「はいっ、これならなんとかっ!」
「オッケーッ。さあ、あんた、なんでもいいからしゃべって! 気をしっかり持つのよ
っ」
お姉さんはユゥミィにいう。そんなユゥミィにレムが取り縋る。
「ユゥミィ、ユゥミィ、しっかり、しっかりしてっ」
わたしの耳に、突然あの日の声が。レムの声が。聞こえた。
わたし、たぶん、いま。この世の中で一番、ユゥミィのことが好きだと思う
親とか、友達とか、全部ひっくるめた中で、多分いまは――ユゥミィが一番
ユゥミィの身体に縋り付いて泣きじゃくるレムを見て、わたしはその声をいままた、こ
こで聞いた。聞こえたの。
「駄目よ、あんたっ、そんな揺さぶっちゃ! さあ、あんたもとにかく、なんでもいいか
らしゃべって!」
レムを制しながらお姉さんがユゥミィを勇気付けていた。
ユゥミィは、眉間にしわ寄せて目をぎゅっと閉じたままで、汗をだくだくと流しながら。
それでも話し出す。
「リィコ、いつからあんな、馬鹿力なったんよ、まったく……驚かせるったら、ない、
よ」
「ユゥミィ、しっかりして!」
「ああ、レムぅ……あんた、わたしにメール、転送、してったろ? リィコから、来た、
メール、わたしに転送、してったろう? えへへ、珍しく、今夜、は、わたしも、起きて
たんだよ……まだ、起きてたの――勉強、してたのさ……だから、あんたからの着信、す
ぐ、チェックして――」
「お姉さん、調合出来ましたっ」
「よし、早くっ。危ないわ、これは――」
「ゆ、ユゥミィっ、しっかり」
「レム、離れてくださいっ。お姉さん、塗布しますので、傷口を開いて――」
「ようしっ、さあ、あんたはちょっとそっち行って、どいてっ」
「嫌ぁっ、ユゥミィ、死なないでっ」
「だからさ、わたしも、いわゆる、おっとり刀ってやつ? あれで、駆けつけようと、し
たんだけど――わたしん家、姫のところからは一番、遠いからさ、家出たとき、消防が走
っていってるの見て――そしたら、学校のところでさ――」
「ユゥミィっ」
「レム、離れてっ。これで――よし――っと、お姉さん、塗布完了っ」
「ガーゼ、当ててっ。あんた、自分でこれ、押さえていられるっ?」
「学校の校庭が、なんか、ざわついてた感じして――よくよく見たら、校舎の、窓、割れ
てんじゃんか、なんか、ヤバイ感じ、したんだよね――ああ、痛いなぁ、畜生…・・・」
「押さえて、じっとしててっ」
「それで、ちょっと、様子、見てたら、聞こえたんだよ――レム」
「ユゥミィ! なに? なにっ」
「あんたの叫び声、ていうか、泣き声、ていうか、聞こえた――」
「ユゥミィ!」
「でさあ、痛てて……もう、無我夢中で走って、ここ、来た、そしたら――そしたら、リ
ィコ、リィコ…・・・リィコ? どうした、リィコ?」
ユゥミィの口調が変わった。急に、急に弱々しいものに、変わった。お姉さんがユゥミ
ィの額に手を当てたり、首筋に手を当てて脈をとったり――まさか、ユゥミィっ?
「リィコ――どうしちゃったのさぁ――らしくないことして、あんた、らしくないじゃん
か……いつもいつも、わたしらを楽しませて、くれる、あんた、らしく、ないよ、そんな
の――」
抑揚が欠けていくユゥミィの声。もう、ぶつぶついっている感じになってる。
「ユゥミィぃっ、死なないでぇっ!」
レムがユゥミィを抱きしめて泣き叫んだ。
「意識が、混濁し始めてるっ」
お姉さんが厳しい声を上げる。ブリジットもユゥミィのそばににじり寄って、心配そう
に答えた。
「毒の回りが速いか、調合した薬の効果が速いか、ですね?」
「――そういうこと」
「レムぅ。そんな――泣くなよぉ――わたしが、また、泣かせた、みたい、じゃんか。わ
たし、また叱られ、るじゃんか、泣くなって、お願いだからさぁ」
「……ユゥミィぃ――!」
「……レム、わたしらも、いけなかった、ね――最近、リィコのこと、からかい過ぎた、
かもね――ちょっと、やり過ぎた、かな?……あの娘はさぁ、レムぅ、リィコはさあ、い
つもいつも、わたしら、笑わせてくれて――気ぃ使って、くれて……いつもわざと、あん
な、だから、わたしらもちょっと、度が過ぎたかなぁ――」
「――ユゥミィ、死なないでよ……」
「ストレス、溜まっちゃったかなあ、リィコ――ごめんごめん、悪かったよ……わたしら、
悪かったって、だから――レム、もう、あんまり、リィコのこと二人して、からかうのよ
そうね……あれはあれで、結構、傷ついてたんかもしれない――わたしら、友達なんだか
ら、気、使ってやんなきゃね、少しは――」
床に横たわったユゥミィのそばにお姉さんとブリジット、そして、しっかりとユゥミィ
の身体に縋り付いて離れようとしないレム。もう、普段の冷静なレムなんてどこへいった
のか。彼女は涙と鼻水で顔をぐしゃぐしゃにしたまま、ユゥミィを呼び続けていた。
この世の終わり、みたいに――。
わたしは、そんな彼女たちを、少し離れた場所から見ていた。ぺたん、と床にお尻つい
て、ぼうっと見ていた。
そんなわたしだったから。わたしだから。そのとき、ふっと気づいたの。
レムの背中にはまだ、あの小さな箱みたいな、鞄みたいなものを背負わされたまま。ば
くだんって、いったよね? あれ――。
危ないよ、早く外してあげなくちゃ。レムが、危ないよ。それに――それに、わたした
ちだって。
ふっとそう思ったの。
そして、そんなわたしの目の端に、何かが映った。ちらと、何かが、動いた。
わたしはゆっくりと振り返る。教室の奥。机や椅子がひっくり返った角のところを。ゆ
っくりと振り返る。
リィコが倒れている。
リィコが――倒れて――ゆっくり、ゆっくりと――動いてるっ!
「!」
声を出せなかった。
リィコがずりずりと、床を這っていた。這っていた。這っていくその先に。
彼女自身が放り投げた箱――遠隔起爆装置――が、転がっている!
リィコっ――
わたしは、叫んだ。心の中で、大声で、叫んだ。でも実際には、声が、出ないっ。
リィコっ、駄目、やめてっ、もう、やめてっ!――
わたしは、叫んだ。心の中で、大声で、叫んだ。でも実際には、声が、出ないっ。
ずり、ずりっと、微かな音をたてて、リィコが這う、這っていく。右手を伸ばして、あ
の箱を掴もうと、右手を伸ばして――。
駄目よっ、リィコぉっ! それは、駄目っ!――
「……リィコ」
やっとの思いで声を振り絞ったわたし。あまりにも小さな声が、唇から漏れる。
お姉さん、ブリジットがはっとして顔を上げる気配がした。でも、わたしはリィコから
目が離せない。
リィコっ、駄目! もう、もう、終わりにしようっ! ね? もう、終わりにしようよ、
リィコっ!
「ブリジット! あんた、とどめ、刺してないのっ?」
「し、しまった――お姉さん、わたし――」
わたしの背後で二人が叫んだのと同時。リィコが箱を手にとって、すごい勢いで立ち上
がった。その顔は、あの、目を吊り上げた、唇吊り上げた、恐ろしい形相、怖ろしい笑顔
――っ。
「うはははっ、お前らまとめてみんな、飛び散っちまえっ! フィデリア・ル・ゲトワ・
ボウ・オルドハレ・ディ・スルエド=レプン・ゴイバ! 人民の敵! 抹殺だっ! これ
で俺の革命が、俺様の革命が完結するーっ!」
野太い声で、リィコが笑い、箱を振りかざした。そのスイッチを――。
「駄目よ、リィコーっ!」
それは、わたしの叫び声だった。
しんっとした静寂。恐いくらいの静けさ。
ううん、そんな静かさの中に、聞こえるものがある、小さな音がある。
それは、抑揚に欠けた、ユゥミィの声。ずっと目を閉じたまま、生死の境をさ迷いなが
らしゃべり続ける、ユゥミィの、声。
「あの娘は、いい娘だよ――あんただって、頭いいあんただって、わかってるだろ? レ
ムぅ――リィコは、あの娘は、いい娘だよ……多分、わたしらには、わかんない、悩みを
抱えて、あの娘はあの娘なりに、悩みを、抱えて、でも、わたしらの前じゃさ、そんな素
振り見せずに、ああ、いつかあんた、わたしにいってたじゃんか? リィコは、スイッチ
切り替えるって、切り替えてるんだって、そうだよ、そうなんだよ、わかってるじゃんか、
レム?――だから、さ、レム、わたしら、もう、あんまりあの娘のこと、からかったりす
るの、よそうよ、頭いいんだから、昔っから、頭いいんだから、あんた、分かるよね?
それくらい、あんたの方が、わたしより、分かってるよね――わたしが、昔っから、大好
きな、レムなら、わかってる、よ、ね――」
ぶつぶつと、でも途切れることなく続くユゥミィの述懐。それは、わかってる。ユゥミ
ィがしゃべり続けてるのは、わかってる。しゃべれって、お姉さんが、なにか話し続けろ
って、いってたから、だから、ユゥミィは、一生懸命、しゃべってる、死なないように、
死んじゃわないように、しゃべり、続けて――いる。
でも、他の誰も。他に、誰も。口をきかない、しゃべらない、話さない。
わたし、わたしは――。
わたしは目を閉じて、閉じてた。閉じて――。
――目を閉じて、立ってる。立ち上がってる。さっきまで、ぺたんとお尻を床にくっつ
けて座ってた、わたし、いまは立ってる。
立って――両手を、前に、前に構えて。
立ってる、両手を前に構えて、立ってる。
「ひ……め」
ああ、誰? わたしを、呼ぶのは、誰? 誰よ? わたしのその、照れくさいけれど、
妙に馴染んだあだ名でわたしを、呼ぶのは、誰? 誰よ?――
「姫……」
知ってるわ。知ってるもの。ええ、わたし、知っている、知っているわ。いま、わたし
を呼ぶ声。それが、誰のものか、誰なのか。わたし、わかってる――。
「姫ぇ――」
わたしは、そっと目を開けた。目を、開いた。
顔と顔がくっつくくらいの距離で。わたしたちは立っていた。向かい合って、立ってい
た。
わたしは。
リィコと。
向かい合って、立っていた。
「だからさ、レム――リィコがどんな悪さしたか、知らんけどさ、あんまり、あいつのこ
と、怒っちゃ駄目だよ。友達なんだからさ、許してやろうよ、わたしらもちょっと、調子、
乗り過ぎてた、かも――あの娘のこと、からかい過ぎてた、かも」
背後から、やっぱりユゥミィの声が聞こえる。だけど、わたしはユゥミィの方を、レム
の方を、ブリジットの方を、お姉さんの方を。
振り返ることが、出来ない――。
もう、額と額がくっつくくらいの距離で、わたしとリィコ。向かい合って立っていた。
「姫――」
呼びかけるリィコの顔を見る。
小さなお鼻も愛嬌があって可愛らしいと思う。よくきょろきょろと動き回る瞳が可愛ら
しいと思う。リィコの顔が。
そこにある。
普通の――普通に、微笑んでいる、リィコの顔が。いつもいつも、毎日毎日見てきた、
慣れ親しんできた友達の顔が。
そこに、ある。
「……リィコ」
呟くわたし。あれ――やだ、どうして?――どうして、涙が。
こぼれるの?――
「姫ぇ……楽しかったよねえ、昨日、楽しかった、よねえ、あのお店、おいしかった、よ
ねえ――みんなで騒いで、楽しかったよ、ねえ――」
微笑んで、話しかけてくるリィコ。いつもいつもみんなを楽しませ、笑わせてくれたリ
ィコ。
「――リィコぉ……」
「可笑しかったよねえ、みんなで、騒いで――サイコーだったよねえ――」
「――わたしら、みんな、友達なんだからさ、やっぱ、お互い、気ぃ遣わなきゃ……ね、
レム? そうだよね、わたしら、お互い、大切な友達なんだからさ、たまに羽目はずしち
ゃったとしても、そこは、みんなでさ、助け合ってさ、わたしら――」
「美味しかったよ、あの特大の――姫もさあ、あれ、頼めば良かったのに。美味しかった
よ、あれ――」
「りぃ……こ」
「硬派のノリだなんて、あんた、わたしのこと、笑ってたけど、あんただって、満更じゃ
ないだろ? わかってるって、レム――わたしにゃ、あんたのことなんて、お見通し、だ
よ……昔っからの、友達だもん、わたしの、大好きな、レム――あんたのことは、わたし、
わかってるから――だから、ねえ、レム、リィコのことも、さあ――」
「また、行きたいよねぇ。みんなで、行こうね。いっしょに、行こうね、姫。ユゥミィと、
レムと、姫と、わたしと――パトレも……みんなでいっしょに、また行こうね――」
「りぃ――」
「友達、だろ? わたしら――」
「友達、みんなで、いっしょに、また、行こ――」
「……リィコ……」
わたしは、涙の止まらない瞳でリィコを見つめる。笑顔のリィコ。可愛く笑っているリ
ィコ。そうよ、あなたには、そうして、目じり下げて笑ってる顔が似合うのよ――いつも
の、いつものリィコよ。ここにいるの、いつもの、リィコ、わたしの友達――。
でも、そのリィコの唇から、ひと筋の赤い糸が垂れている――。
リィコの口元から、血が滴り落ちている。
その口元に、ふっと笑みをたたえて――。
わたしの、大好きな、可愛らしいあの笑顔を、たたえて――。
――リィコが静かに、目を、閉じた。
ことん、となにかの落ちた音。リィコの手から、なにかの落ちた音。リィコの手から床
になにかが滑り落ちた、音。ちいさな、箱が、落ちた、音。
「リィコ――やだ、うそ……」
わたしは囁く。リィコを呼び、彼女の顔を見つめる。
彼女は、答えない。いま、目を閉じてしまった彼女は、もう、答えない。
わたしは恐る恐る、視線を落とす。ぴったりとくっつくようにして向かい合っているわ
たしたち、わたしとリィコの。その間にあるものに、視線を落とす。
わたしの両手。
わたしが両手に握っている。
わたしが、両手にぎゅっと握り締めている。
ナイフ。
ナイフが。
その柄のところまで、深々と。
リィコのお腹に突き刺さっていて。
わたしの両手。
わたしが両手で握り締めているナイフが、リィコのお腹に突き刺さってて――。
わたしは。
わたしは、この手で。
わたしは、この手で、リィコを。
わたしは、いま、この手で、リィコを、友達を。
――わたしは――
わたしは――わたしのこの血染めの手は――いま、友達――を――わたしが――。
「リィコーーーーーーーーーーーーぉっ!」
清新な流れを運ぶ川。その土手をブリジットは歩いている。すでにこの星の双子太陽は
中天を越え、午後と呼ばれる時間。ブリジットは、街から離れてこの川原を、その土手を
歩いている。
三歩ほどの距離でその前をいくのは、無論サラ。
目立たないような普段着に着替えた二人は、土手を真っ直ぐに歩き続けていた。
はあ、と何度目かの溜め息をつくブリジット。サラがぴくりと首をうごめかせる。
「――なによ、ブリジット? 辛気臭い――」
前を向いたままのサラがブリジットに問うた。
「あ、すみません、お姉さん――わたし、ただ」
「ただ? ただ、なに?」
「――いいえ」
要領得ないブリジットの答えに、今度はサラがほうっと軽く溜め息をつく番。
軽く首を捻って後を振り向き、サラはいった。
「気になるの? 今回の処置――」
「はあ――いえ、わたしは」
歩みを止めず語り合う二人、十八歳のサラ・エアーズと十七歳のブリジット・フォスタ
ー。
ク・アラル星域方面軍上級兵士と、中級兵士。
「ま、あんたが気に病んでもしょうがないのよ」
わざと、お気楽な口調を装うサラだった。
「分かっています――」
少し憮然とした口調で答えるブリジット。
「あんた、気になってるのね? あのお姫さんがどっちを選択≠キるかどうか?」
「……」
「無言はときに、完全なる肯定である――と」
「――お姉さん……」
「だから、あんたが気に病むことはないっての、ブリジット」
にっと笑うサラ。その笑顔に、ブリジットも苦笑で応える。
「あんた、ちゃんと説明してたじゃない? このあと、あなたは、どちらかをあなた自
身の意思で選ぶことができます――というか、どちらかを自ら選ばねばなりません=v
そうなのだ。ブリジットは今早暁の出来事を思い返す。
アンダーカヴァーの任務。ゲトワ家王女殿下の護衛――死守。
最後の最後には、王女自身の活躍もあって、無事任務は完了した。
フィデリア・ル・ゲトワ・ボウ・オルドハレ・ディ・スルエド=レプン・ゴイバは大
人類統一政府≠ニ第三利害関係者≠フ間で取引された時間を生き延びた。生き延びて。
スルエド=レプン二連惑星ゴイバ王国の正当なる後継者、向後の統治者と認定されるに
至ったのだ。
ブリジットとサラに与えられた任務は、完遂されたのだ。
――でも。
ブリジットは思う。
――姫は、あれで、良かったのだろうか、と。
あれで、良かったの、フィデリア?――
「あなたの説明は理路整然としてたわよ、ブリジット。これからあなたは、ゲトワ王家
の正当なる後継者としてスルエド=レプンへ帰還することとなります。そして、その前に
――=v
その前に、あなたはどちらか、選ばねばなりません――。
短かったとはいえ、フィデリアとの付き合いを考慮して、ブリジットから伝えるように
と、サラがいったのだった。
「あなたは、どちらかを選ばねばなりません。あなたは、五年前に記憶操作施術をされて、
それ以前の記憶を一切失っています。スルエド=レプンの生活を一切、忘れてしまってい
ます。あなたは、それを取り戻すことが出来ます。過去の記憶を、蘇らせることが出来ま
す。自分の本当の父親、母親――つまり王や王妃のことを、思い出すことが出来ます。本
当の両親に、そしてかしずく侍従たちに愛情を注がれて育った幼年期の思い出を、取り戻
すことが出来ます。簡単な――施術で、あなたは過去を蘇らせることが出来るのです」
説明するブリジットだった。聞く側のフィデリアは、ずっとその間、自分の両手を見つ
めていた。リィコの血に赤く染まった両手を。ブリジットが、そしてサラが拭こうとする
のを頑なに拒否して、その赤い色のままの両手を、じっと見つめていた。
ブリジットは、淡々と説明を続けた。
「その場合、この五年間の記憶は抹消されます。代わり――適当な、いえ適度に穏当な記
憶が、移植されます。あなたの場合、施されていた記憶操作はごくごく初期レベルのもの
ですから、大した支障は出ないと思われますが。いずれにしても、この五年間の一切の体
験・経験は、抹消され、ゲトワ王国王女殿下としてふさわしい記憶が移し変えられます」
この台詞に、フィデリアはぴくりと肩を震わせた。それを確認したうえで、ブリジット
は先に進む。
「選択、とわたしがいったのは――それ以外の方法も選べるからです。あなた自身が、選
べるのです、姫――王女殿下」
フィデリアは、それでも顔を上げなかった。リィコを刺し貫いた、その両手をじっと見
つめ続けている。おのが両手を、じっと、見つめている。無表情ともいえる彼女の横顔を
見、己を鼓舞するように声を少し大きくしてブリジットはいった。
「もう一つの選択、それは――それは、この五年間の記憶をそっくりそのまま持ち続ける
こと」
つい、とフィデリアが顔を上げる。ブリジットはこのとき、すでにしてその眼差しに王
たるものの、統治者たるものの視線を見る思いがした。
「……」
無言のフィデリアが、先を促す。
「この場合、あなたは五年前から先の記憶を思い出すことは出来ません。要するに、記憶
回復の施術を行わない、ということなのです。あなたは、五年以上前の事実を欠落したま
ま、けれど五年前からの記憶はそのままにして、この先を生きていく――」
「記憶を――そのままに――して――生きてく」
ぼそりと呟く、王女フィデリア。
「はいっ、要するにあなたは、選べるのです――選ばねばならないのです。生まれてから
ずっとの、本来あるべき記憶を取り戻し、けれどここ五年間の真正の思い出を消し去って
この先を生きていくのか。あるいは、五年以上前のことは決して思い出せず、けれど直近
のこの五年間の経験を抱えたまま、この先ずっと、ずっと――」
「……経験を、抱えたまま、なんて、大仰ないいぐさね、ブリジット?」
「――つまり、昨夜のこと――敵≠ェあなたの身近に刺客≠放ち、ずっとずっと見
張らせていたという、事実」
「……」
「完全に精神コントロールを受けていたとはいえ、刺客≠ェこの五年間ずっと、あなた
の身近にいて、あなたを見張り、万一指令が飛んでいれば、いとも容易くあなたの生命を
奪える位置にいた――友達と偽って――」
「やめてっ!」
フィデリアは耳を塞ぐ。けれど、ブリジットは意を決していた、ブリジットは昂然と胸
を張っていい募った。
「あなたが友達だと思っていたもの――リィコを刺客≠ニしてあなたより先にこの地に
潜入させ、敵≠ェあなたの生死を手の平に乗せていたという事実――」
「止めてってば、ブリジット!」
「もしかしたら、敵≠ヘ別の台本を用意していたのかもしれません。あなたを殺すので
はなく、リィコのようにあなたを操る術を用意していたのかもしれない。あなたを――リ
ィコと同じく己が望むままに操り、あなたを立てて傀儡政権を樹立する、そういう計画を
もっていたのかもしれません。そうであったかも知れない、という事実――」
「聞きたくないっ、聞きたくないわ!」
「これらの事実の全て――あなたが友達と信じていたものが、敵≠ノ操られた刺客だっ
たという事実、そして――そしてそんな刺客≠」
「もう、いいわ、よしてっ」
「そんな刺客≠、あなたが、あなた自身の手で、打ち倒したという事実――」
ぱあんっという音が響きわたる。
少し離れた場所に立っていたサラが、ぎょっとして身じろぎした。
王女フィデリアが。
いい募るブリジットの頬を、平手で打った――。
涙を浮かべて、ブリジットを睨みつけるフィデリア。
頬を赤くしながら、けれどブリジットもそんなフィデリアの視線を真っ向から受け止め
ていた。
駆け寄らんかとしたサラは、しかし動くことなく、肩を竦めて二人に背を向ける。
「――それら全てを抱えたまま、この先を生きていくのか? それを、それを、王女殿下
――姫」
ブリジットは、真っ直ぐにフィデリアの瞳を覗き込んでいうのだった。
「姫、それを、あなたは選ぶことが出来る――選ばねばならないのです。あなた自身が」
フィデリアは、また自身の両手に視線を落としていた。
「あなたが、選ぶのです。友達――友達の記憶をそのままにこの先を生きていくのか、そ
れとも、一切を振り切って、王女であった自分に戻る、生まれながらにして王女であった
自分に戻るのか――?」
――ちょっと、センチメンタルに過ぎるいいようだわ、ブリジット――
背中を向けて聞いていたサラは、そう思った。
前を行くサラ。三歩と離れずに後をついていくブリジット。
二人はいま、ク・アラル星域方面軍の擬装旅客船が停泊している港に向かっている最中。
「あんたが――気に病んでも仕様がないのよ、ブリジット」
また同じ、サラの台詞。ブリジットは首肯したい気持ちではあったけれど、でも――。
「お姉さん――」
思わず、問いかけるブリジットだった。
「なに、ブリジット?」
「姫は――フィデリア王女は」
「だ・か・らっ」
くるりとターンして振り返るサラ。ブリジットは立ち止まる。
「だからっ。あんたはちゃんと説明出来てたわよっ! そんなに心配しないのっ。大丈夫
よっ!」
「――大丈夫?」
繰り返すブリジットに、腰に両手を当ててサラが答える。
「大丈夫っ。あのお姫さんはちゃんと選択≠キるわよっ。正しい選択≠ェ出来るっ
て!」
確信に満ち満ちたサラの声。聞き、ブリジットはしばしじっと彼女の顔を見つめていた
が、やがてほうっと小さな溜め息を、吐き出すのだった。
「――そう、ですよね」
「そうよっ」
間髪入れないサラの反応が、ブリジットの笑みを誘い出す。
「大丈夫っ。あのお姫さんは、大丈夫よっ。いずれきっと、いい統治者になるわ!」
「お姉さん――」
「なるって! 大したものよっ。わたしが保証するわ!」
――そんなこと、お姉さんが保証するもんでもないと思いますが――
思いつつ、笑ってしまうブリジットだった。
「あはは、やっと笑ったわね、ブリジット」
「――はい」
「心配ないよ、あの娘は、ちゃんと選択≠キる、出来る」
「はいっ」
「――心配、ないって――。もうわたしらが、あのお姫さんの前に出ることはないわ。
会うことないわよ、この先。もしまたわたしらがあのお姫さんの前に立つときは――それ
は大人類統一政府≠ェスルエド=レプンに軍事介入せざるを得ないとき。わたしと――
わたしらと、あのお姫さまが、対岸に立つとき。はっきりと、敵味方に分かれて向かいあ
うとき。想像もしたくないけど――そういうことになったとき……」
再び歩き出すサラ。後にではなく、小走りにその隣まで行って並び歩くブリジット。彼
女はサラの思いを十二分に理解しながら、あえて話を少しばかり別方向へ逸らす。
「……むしろ、わたしはあの娘たちが、心配といえば心配ですが――」
ブリジットの懸念に、サラも眉根に皺を寄せた。
「ああ、あの二人? ユゥミィとレムっていったっけ――」
「――はい」
ユゥミィとレム。あの、幼馴染の二人の娘。
ユゥミィは瀕死の重傷を負ったけれど、いっときは意識も混濁したけれど。
なんとか彼女は一命を取り留めた。そしてそんな彼女にしがみついて離れようとしなか
った、レム――。
二人は、この星の司法当局に拘束され――。
「どうなるんです、あの二人?」
「そうよねぇ」
ブリジットの問いに、答えを渋るサラ。けれど、軽く肩を竦める仕草をした後で、彼女
はいった。
「記憶操作、でしょうね」
「――やはり」
唇を噛むブリジット。
「仕方ないわ。限定戒厳令下でのあの出来事だからね。あの二人に限らず、この星でフィ
デリア王女に関わったものは、遅かれ早かれみんな、施術されてしまう。学校関係者はも
とより、日常のちょっとした関係しかなかったものでも、ね」
「……」
「大人類統一政府≠ヘ、そういうところは徹底してるわ。作戦に携わったわたしらに施
術がなされないのは、ある意味運がいいってところかも」
「はい……」
物憂い感じのブリジットの背中を、サラはぽんぽんっと明るく叩く。
「でもさ、あれでしょ? あの二人、ユゥミィとレムだっけ? あの二人は、幼馴染とか
なんとか、いってたっけ?」
「え?――ええ、はい」
怪訝な面持ちになるブリジットに、サラはウインクしていうのだった。
「なら、大丈夫だって。この五年間のフィデリアにまつわる一切の記憶は消えるだろうけ
ど、彼女ら自身がずっとずっと昔から仲良しだった、友達だったっていう事実には、変わ
りはないんだから。そこまでの記憶は、操作されないっ」
「そう……そうですね?」
「操作されないっ。二人はこの先も、ずっと仲良しっ!」
サラのそのいい様が可笑しくて、ブリジットは笑う、笑った。
決して大声で笑ったりなどしない娘だから、ふっと頬を緩ませて、でも楽しげに。
笑った。
あははと、こちらは天に向かって大口開けて笑える娘、サラ。彼女はすかーんと笑った
あと、けれどふとしんみりとして呟くのだった。
「お姫さんと、もうひとりのことは、すっぱりと忘れてしまうでしょうけれど、ね」
もうひとりの――。
それが、フィデリア、王女フィデリアのことでないことは、ブリジットにも分かりすぎ
るほど、よく分かった。
――リィコ……。
悲惨な末路をたどった刺客≠ノ一瞬思いを馳せるブリジットだった。
「さぁ、ともかく今回の任務は終わったわ。アンダーカヴァーなんて、陰気な仕事っ」
サラは敢えて大きな声でいい放ち、後手に手の平を組んで歩む。上機嫌を自ら演出しよ
うとして。
そしてそんな先輩の、敬愛する先輩の心情が痛いほどよく分かるブリジットもまた。自
らの意思で頬に笑みを浮かべて隣を行く。
実際、この先輩、サラ・エアーズはすごい。とにかく、すごい。
昨晩、というか今朝も、校庭から機銃掃射をしかける三人の敵をひとりで――しかも、
ひとり目は素手でだっ!――倒してしまったのだから。
――あなたは、すごいひとです、お姉さんっ。わたし、尊敬しています、心から――
思うブリジット。けれど、やはり彼女の脳裏には、ここ数日間の出来事がすぐに渦巻き
のようにして蘇る。
姫――なぜかはわからいけれど、というかそれであるからこそ姫たるゆえんか、ふと気
づけばみんなの中心にいたフィデリア。
ボーイッシュな、いますぐ軍に入隊しても十分通用するかと思えるほどの身体能力を備
えていたユゥミィ。
そんなユゥミィを崇拝しているくせに、それをあからさまにしたがらなかった、知的な
娘、レム。
そして――ああ、そして。
みんなを笑わせ、楽しませ、緩衝材の役を自ら買って出ていた、そしてそれを完璧にこ
なしていた――リィコ。
彼女たちは。
みんな――。
彼女たちはみんな、それぞれ、彼女たちの関係の中にあって、それぞれの思惑のなかに
あって、みんなが――。
友達だった――。
「ともだち、か……」
ぼそっと呟くブリジット。耳聡いサラがそれを聞き逃すはずはなかった。
「なに、ブリジット? なんか、いった?」
「いえ――あの娘たち、友達という言葉を何度か――」
物思いに耽るようなブリジットの反応。隣の彼女を怪訝な面持ちで見やるサラだった。
「何度か――何度も口にして――それが、まるで――いまこのときしか、掴めない、しっ
かり手にすることが出来ない――まるで――宝石かなにかのような、そんな、そんな物言
いで――」
「……物言いで?」
問うサラに、けれどブリジットは自問自答の如く呟き続ける。
「みんな、お互いに腕を触ったり、肌を触れ合ったり、手を握り合ったりして――」
「……ブリジット?」
「楽しそうに――まるでもう、この時間、この日、この一時はもう――もう二度と訪れな
いのだということが、わかっているみたいに――わかっているからこそ、お互いに触れて、
いつかいなくなるお互いを、今だけは確かめたくて、確かめていたくて――だから、お互
いに相手の手を取って、取り合って、見つめあって――そこにいる相手を確かめたくて、
けれどそれは、つまりいまそこにいる自分を確かめたいということであって――」
「ブリジット・フォスター中級兵士!」
サラのぴしっとした呼びかけに、ブリジットのループ思考は切断された。
「はいっ」
「なにを、ごちゃごちゃ、いっとるかーっ!」
「はいっ」
その場に直立する、ブリジット。ぐっと睨みつけるサラ。
そして――。
「うふふ……くすくすくす……あはは――」
「――? お、お姉さん?」
「あはははっ、ブリジットっ、こらっ! なにをぐちゃぐちゃいってるのよっ?」
「あ――はいっ」
「よおしっ、直れ!」
「はっ」
笑顔でブリジットを見つめるサラだった。ブリジットは僅かに赤面し。
「さあ、行くよ、ブリジット」
「――はい」
またサラが三歩ほど先を進む。ブリジットは後をついていく、結局、そんな関係。
そんな、二人の関係。
ところが、けれど、しばしして。
サラが、ぴたりと、止まる。歩みを止める。
当然、後に続くブリジットも立ち止まった。
「……」
「……?」
サラの背中を怪訝な表情で見るブリジット。そこへ。
そこへ、さっと左手を差し出すサラ。
「――お、姉、さん?」
あまりのこととて、ブリジットも言葉が途切れ途切れ。
前を向いたままのサラがぶっきらぼうにいうのだった。
「――要するに、あんた、ブリジット? あんたも、彼女たちみたく、誰かと――友達と
触れ合いたい、触れ合ってみたい――そういいたいわけね?」
「お姉さん――?」
ブリジットにとって、それはまさに晴天の霹靂。あの、あの尊敬する、敬愛する先輩、
サラ・エアーズ上級兵士が、わたしに――。
わたしに、手を、差し伸べている――差し出してくれている?
「あ――お姉さん――わたしは、その――つまり……」
万感胸に迫り、言葉に詰まるブリジット。
「こらっ!」
いって、サラが振り向いた。ブリジットを振り返った。
その頬、微かに上気しているような――。
そう思えたブリジットの頬も、一気にピンク色に染まり出している。
「こんなんっ、わたしとしては、結構恥ずかしいんだよっ! ブリジット! どうなの?
この手、いるの? いらないのっ?」
もう、どこから見ても照れ隠しでしかないその強気ないいぐさ。
ブリジットは気圧されると同時に、胸の中に暖かな思いが広がっていくのを実感する。
――いらないの、ですって? お姉さん? わたしが、あなたの、その、差し伸べてく
れる手を、いらない、ですって? わたしがそれを、振り解くとでも、いうのですか?
わたしが、それを選ぶと? そんな選択をすると? お姉さん、わたしがあなたを? わ
たしに、手を差し伸べてくれる、あなたを――
「拒絶、する、とでも――?」
「――ブリジ――」
サラがいう間もなく。
ブリジットがそっと手を取る。差し伸べられたサラの手を、そっと握る。
紺碧の瞳と漆黒の瞳。その異なる色合いの視線が絡み合った。
「……」
「――お姉さん」
呼びかけたのはブリジットの方。だけれど、呼びかけられたサラは。
ついっと顔をそむけて歩き出す。土手を、歩き出す。清流ながれる川の脇を、歩き出す。
もちろん、ブリジットの手を引いたまま。
「……」
無言で。けれど、というか、当然というか、だから、というか、手をつないだまま歩く
二人。サラとブリジット。
しばらく、ずんずんと歩き続けたサラだったが、やがて、前を向いたままで、ぼそっと
呟くのだった。本当に、ぼそっと――。
「いっとくけど、ブリジット――」
「――?」
「わたし――わたしは――」
「はい――?」
ようやく振り向いて、いうサラ。その頬、まだ微かに赤い。
「わたし、そのケないからねっ!」
ブリジットは、彼女にしては珍しくその漆黒の瞳を大きく見開いて。見開いて、そして
――。
「あははは、お姉さんっ。嫌だっ、わたし――わたしだって、わたしも――そんなんじゃ、
ないですっ。そのケ、ないですよおっ! あはははっ」
天真爛漫、そんな形容こそぴったりのブリジットの笑い声が川原に響く。その無邪気な
笑い声に、サラもまた心の底から笑うのだった。
「あははっ、そう、そうだよねっ? あはははは、そりゃそうだ、あははははっ。わたし
ったら、なに、いってるんだろうね? あははは、もう、馬鹿みたい、あははっ――ああ、
安心したぁ……」
十八歳と十七歳。
乙女たちに似合いの健康な笑い声が。
川面に反射し続ける午後だった。
Fin
Written by 那入 晶
この作品はフィクションであり、登場する人物名・団体名等は実在する同名のものとは
一切無関係であることをここに明記いたします。
ご意見・ご感想は
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