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口笛



 ふと、口笛が聞こえたのは僕がちょうどレポートを書いているときだった。
 そのとき僕は、あまりにも集中して書いていたのでさっきまでかかっていたCDが止まったことにも気づかなかった。時計を見ると12時を5分越えたところだった。ペンを置いて目の上の凝りを指でほぐす。肩の力を抜くために立ちあがって伸びをした。その間、口笛は遠くからゆっくりとこちらに近づいてくるように感じられた。
 耳慣れたフレーズが静まり返った夜、窓の外から聞こえてくる。何かと思えば水野友里の新曲「深夜のあいつ」だ。水野友里はアイドル顔のミュージシャンだが、なかなかいい曲を書くので結構人気がでつつある。最近はブリティッシュ・トラッドの影響を強く受け、最新アルバム「春華秋透」ではもろにケルト音楽の日本人離れした雰囲気を出しているらしい。アルバムリリースはまだだが、先行シングルカットされたのがこの「深夜のあいつ」なのだ。ラジオでも昨週くらいからかかっている。
 夜の静寂に優しく抱かれるように静かにギターソロが流れていく。ギターにかぶさるように口笛がこだまする。普段ならうるさく思うのに何故かその口笛はやさしく感じられた。耳を傾けていると何故かこっちまで優しい気持ちになってくる。
 気がつくと僕も窓の外のメロディに合わせて口笛を吹いていた。うまい具合に音がはもる。なんだか気持ち良くなってきた。さびの部分では夜中であることも忘れてつい大きな音を出してしまった。 
 口笛の主は今丁度僕の家の前にいるらしかった。
 さびの部分が終わると口笛はゆっくりと僕の家から離れていった。気がつくといつのまにか口笛の音は聞こえなくなっていた。
 夜の珍客に驚いたものの暖かい気持ちが僕の中に満ちていた。
 再びレポートに取りかかろうとしたが、ふと焦らなくてもいいや、という気持ちになって僕はベッドに潜りこんだ。

 翌朝、目が覚めて昨日書いたレポートを見るとところどころ矛盾があるのに気がついた。一心不乱に書いていたので前の文章との整合性がないことに気づかなかったのだ。あのまま進んでいたら、かなりの枚数を書きなおさなければならなかっただろう。たまにはさぼって得することもあるな、と思った。

 次に口笛を聞いたのはそれからしばらく経った日のことだった。この前から書きつづけているレポートもようやく大詰めで、この追いこみで一気に片付けてしまいたかったが、余りに根を詰めていたせいか、急に体の力が抜けてふにゃふにゃと僕は椅子にもたれた。
ラジオをつけてみると、丁度水野友里が先行第2シングルを出していた。「癒しと元気」というその曲はゆったりとした中にも徐々に力を漲らせてくれるような、ほっとした中にも力強さのあるとても面白い曲だった。今の僕にはぴったりだ。
 そのとき、妙にラジオに被さる音が聞こえた。
 口笛だ。
 いつの間に来たのか、窓の外から聞こえてくる。曲は今流れている「癒しと元気」だ。まるでラジオを聞いているかのようにぴったり合っている。なかなかやるな、と思った。
つい、窓の外に合わせて僕も口ずさんでしまう。ラジオと窓のうちと外の三重奏は中々気持ちの良いものだった。まるで気持ちまでハモっているようだ。
 曲が終わると口笛も止んだ。
 僕は口笛の主を是非一目見たくて、カーテンをめくり、窓をゆっくりと開けながら外の様子をうかがったがそれらしい人影はなかった。
 少しがっかりして椅子にもたれこむと、再び水野友里のメロディが聞こえた。「深夜のあいつ」だ。口笛はゆっくりと窓の下から遠ざかっていった。
 少し寂しい気持ちになったが、気を取りなおしてレポートを再開すると思いの他はかどってその夜、僕は予定より遥かに早くレポートを完成させた。

 次の日、僕はレポートを提出した後で恋人の久美に夜中に聞こえる不思議な口笛の話をした。
「やあねえ」
 久美はしかめっ面でいかにも気味が悪そうに手を振った・
「夜に口笛を吹くと親の死に目に会えないって言うじゃない」
[縁起でもないこと言うなよ]
「もしかしてそれ、死神じゃないかしら。貴方に口笛を吹かせておいてその間に誰かの魂を」
「いいかげんにしろよな。さっきから聞いてたらろくなこと言わないじゃないか。俺は口笛のお陰でレポートもはかどって感謝しているくらいなんだ。それをなんだよ」
 こっちもせっかく話をしたのに変な方向に曲げられたのでイライラしてきた。
「何よ。こっちは心配してあげてるんじゃない」
「いらないよ。もう、お前にこの話はしない」
 結局、久美とケンカ別れして家に帰る途中、前から口笛を吹いて歩いてくる男がいた。
野球帽を被った風采の上がらない背の低い中年のおっさんだ。曲は水野友里の「深夜のあいつ」だった。まさかね。

 ケンカ別れは気まずかったがそれを吹き飛ばす嬉しい出来事があった。そう、水野友里のアルバムが売り出されていたのだ。全然気づかなかった。迷わず買って家に帰るなり、CDプレイヤーにかけた。一曲目は「深夜のあいつ」だ。「癒しと元気」も5曲目に入っている。前評判以上のすばらしい出来だった。アルバム全体に流れる水のような統一感があり、聞き終わった時には魂が洗われているような感じさえ覚えた。
 歌詞カードをみながら何度も聞く。英語の歌詞も日本語の歌詞もメロディに良く合っていた。さびの部分だけでも口ずさんでみる。
 その夜、ベッドの中で僕は口笛を聞いた。どこかで聞いたことのあるメロディだなと思ってふと、それは今日買ったアルバムの中のものと気づいた。
 さびの部分に特徴がある。後で聞けばどの曲か分かるだろう。ぼくはそっと下のパジャマだけ着替えて、外に出た。扉を開けた途端に口笛は止んだ。
 慌てて外に飛び出したが僕の部屋の窓の下に人影は無かった。一本道でどこにも人の隠れるような場所は無い筈だ。右を向いても、左を向いても誰もいない。少し気味悪かった。
 車の音も、他の家からこぼれ出る音も無く、静寂の中でぼんやりと薄明るい街頭の下の道路が青白く照らされているだけだった。
 部屋に戻ると同時にまた、口笛が聞こえてきた。慌てて窓を開けるが誰もいない。
 一体どうなってるんだ?
 やはり久美の言うように死神なのか?
 僕は頭から布団を被ると丸くなって震えていた。布団の中までは口笛は追ってこなかった。

 翌朝、目が覚めたとき、ふと気になって水野友里のアルバムをもう一度きいてみた。
昨日の口笛の曲は6曲目に入っていた。タイトルは「ごめんね」となっていた。
 そういえば、昨日は久美とケンカ別れしたままだったな。そのことがすごく気になって携帯電話をかばんから取り出し、久美の番号を押した。
 呼び出し音が3回鳴る。もしもし?
「久美?」
「誰?ああ…何なの」
「何なのって昨日ケンカしたままだからさ。俺もちょっと言いすぎたと思って」
「…」
「あれから落ちついて考えてみたら、もう少し久美の話も聞いてやるべきかな?と思って電話したんだ」
「…」
「もう怒ってないよ」
「…ごめんなさい」
「いいよ。俺も悪かったし」
「…ううん、あたしのほうも変なこといって気分悪くさせちゃったわね。丁度変な話聞いた後だったからかな?」
「変な話?」
「うん、この間公園でひき逃げがあったじゃない。あれから、あそこに幽霊が出るって評判なのよ」
「公園って僕の家の近くのか?」
「ええ、そうなの。だから心配になっちゃって、ついあんなこといって」
「知らなかった。でも、もうその話はよそう。久美が心配してくれたことだけありがたく頂戴しておくよ。それより今日、何か美味しいものでも食べに行かないか?」
「本当??」
「ああ、金が無いから高いところは無理だけど、とびきりうまいところにつれていってやるよ」
 何とかデートの約束も取りつけたが、さっきの話が気になる。ひき逃げの話は知っていたが、幽霊が出るのは初耳だ。

 久美とのデートは大成功だった。評判の餃子専門店に行った後、しばらくぶらぶらしてから今度はお好み焼きをアテにビールをたらふく呑んだ。
 このままどこかにいこうかと思ったが、とにかく今夜は食べ過ぎた。
 久美とは電車を下りるときに別れて、酔い覚ましの為にぶらぶらと歩く。
 まだ足元が少しふらふらした。タクシーに乗りたかったのだけどお金もないし、歩いても家までは30分くらいだ。その頃にはすっきりしてるだろう。
 デートの余韻に浸りながら、機嫌良く歩いていると、前のほうに人影が立っているのに気づいた。
 何だろう。あんなところにぼーっと立っていて。
 さっきから立ちっぱなしじゃないか。
 酔っているので、ゆっくりあるいているが前方の人影は突っ立ったままだ。
 そのうちにおかしいな、と思い始めた。
 良く考えれば、もう12時を過ぎている。何でこんなところで背広姿でぼーっと立っているのだろう。さっきの電車は最終だったはずだ。もう電車もないし、こんなところで誰かを待っているのもおかしいんじゃないか?
 人影に近づくうちに、そこが公園の前だと気がついた。
 しまった!
 久美の話を忘れていた!ここは霊が出るって言ってたんだ。
 そのとき、背広姿の男がこちらを振り向いた。
 顔の左半分がぐしゃぐしゃに潰れている。血だらけの顔にかけられた、つるの折れたメガネの奥の右目が三日月を寝かせた形にゆがんだ。笑っているのだ。
 男は笑みを浮かべながら近づいてきた。
 にやりと笑う口元からどんどん血がこぼれる。男の背広は自分の吐いた血で赤黒く濡れていた。男の通った後にはどす黒い引き摺ったような染みがついている。
 僕は後ずさりしたが、男はどんどん近づいてくる。
 そのとき、口笛が聞こえた。
 やっぱり、口笛は死神の使いだったんだ…
 僕は後ろに下がろうとしたが、足が震えてうまく歩けなかった。
 口笛は後ろから聞こえてくる。
 挟まれた!
 逃げ場はどこにもなかった。
 僕は目をつぶってその場にうずくまるしか出来なかった。
 口笛はどんどん近づいてきて、そして僕を通り過ぎた。
 あれ?
 恐る恐る目を開けると、口笛が流れる中、男が苦しみながら消えていくのが見えた。口笛の主の姿は見えない。
 男が煙のように消えた後、道路には染み一つ残っていなかった。
 口笛はしばらくその場に響いていたが、やがてゆっくりと遠ざかっていく。
 ふと、口笛が前のほうで止まった。
 少しだけ近づいてきた気がする。
 口笛の主は僕についてこいと促しているのだった。
 そうだ、こんなところにいつまでも座っているわけにはいかないもんな。
 口笛の主が誰かは分からない。人間じゃないことは確かだ。
 でも僕は彼のことが怖くなかった。彼と言ったのは姿は見えないけど何故か口笛の主が男っぽく思えたからだ。
 何故、姿の見えない相手が怖くないのかって?
 それは彼の吹いていた曲が水野友里のアルバムの8曲目「ト・モ・ダ・チ」だったからだ。
 いつしか僕も口笛を吹いていた。うろ覚えだからついていくのがやっとだけど、とても満ち足りた気分だ。
 家に帰るまでの道のり、僕たちの口笛はとてもきれいなハーモニーを奏でていた。

完 


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