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町の歴史 町の中心に夜臼と呼ぶ区があります。この場所で1951年頃に古い遺跡が発掘されこの遺跡から縄文晩期の貝塚が出てきました。この時発掘した多くの土器が考古学上有名な夜臼式土器なのです。この貝塚の近くから住居の跡も見つかり早い時期から人が住み、開けていたことが伺えます。また三代、原上、立花口地区でも多くの古墳が見つかっていますし、この夜臼貝塚のほか弥生時代の遺跡として三代 貝塚も出土しています。この様に縄文後期から古墳時代までの遺跡が出ていますが,1990年には再調査が行われ当時の人々の生活状況が詳細に分かってきました。その当時は海がかなり内陸に入り込んで来ていたようで今でも入江を表す深浦、花の浦など浦の名前の付く地名が海岸から2km近くの内陸部に多く残っていますがその名残でしょう。また中学校のグランド付近は汐入と言う地名が残っています。現在の湊から高松神社付近一帯に掛けては大きな入り江になっていたようです。今でもこの地域は海抜があまりありません。しかし時代が進み50年近く経った今ではそれらの遺跡も土地開発で発見当時の状況を見ることは出来ません。
時代が下がり戦国時代(1330年)には立花山の山頂に大友貞載が立花城を築き新しい歴史が始まりました。 その後幾たびの合戦を経て立花道雪とその婿養子であった宗茂の居城となりましたが、宗茂は後に豊臣秀吉に柳川藩主に任じられ山を下りました。 義父の立花道雪は立花口の梅岳寺に眠っています。立花道雪はもともと大分県の大友氏の武将で最初は戸次姓を名乗っていましたが後に立花姓を名乗ることになったのです。また大分から来た道雪の武将達が各地に出城を構えた所には現在もその名が残っています。 たとえば小野氏にちなんで小野と言う地名が隣の古賀市にありますし、薦野氏から由来する薦野も同じです。この様にこの地には古い由来の名前が多く残っています。 現在の町名は明治22年に的野、立花口、原上、三代の4村が合併して立花村にになり、新宮、湊、上府,下府、相島の5村が新宮村に合併し、更に昭和30年に立花村と新宮町が町村合併で新しい新宮町になりました。 私の住む三代地区は唐津街道筋で人の往来が多く、街道には太閤秀吉が九州 遠征の時茶の湯を沸かした湧き水の出る太閤水があります。 そして街道沿いに今でも店屋と呼ばれる所がありますが、かっては多くの店があった様です。現在は地区名としてだけ名前が残り、その面影はありません。一方新宮地区は古くから漁業 が盛んで江戸時代から漁業の神様として磯崎神社があります。由緒ある神社として地区の皆さんに親しまれています。このように新宮町は農村と漁村を併せ持った町として発展してきましたが、今でも美しい海と緑豊かな山が玄海国定公園の一部に組み込まれており恵まれた環境を保持しています。是非この環境を未来につなげたいと思います。.......... | ||
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