張嶷・伯岐
姓:ちょう
名:ぎょく
字:はくき


 巴郡南充国出身。
 身寄りの無い貧しい家の出身と言う。
 しかし、気概はあり、若い頃から地元では有名だった事もあり、20才で県の功曹という役職につく。

 劉備が蜀を平定した時、どさくさに紛れた山賊が県を襲撃。
 県長は家族を見捨てて逃げ出したが、張嶷は県長婦人を背負い、山賊の白刃をかいくぐって脱出した。
 これが評判となり、州の従事に任命された。

 227年(建興5年)、諸葛亮が漢中に駐屯した際、またまた山賊が略奪を行った。
 張嶷は都尉として討伐に向かう。
 攻めようとすれば四散してしまい、攻略にてこずる。
 そこで、和議を結ぶ振りをして、山賊の親玉・張慕を宴席に誘いだし、その場で張慕ら50人の首を斬り、残党も10日程で滅ぼした。

 その後、地方の太守となると、その治世により、その地で反乱を起こし、太守を次々に殺害していたソウ族を初めとする蛮族の多くが服従するようになった。
 しかし、北方の蛮族だけは、勇猛で蜀に従おうとしなかった。
 征伐に出かけ、首領の魏狼を生け捕りにしたが、縄を解き、説得、釈放した。
 こうして、この蛮族も服従する事となった。
 その後も、周辺の蛮族に恩恵を施して帰伏させたり、時には謀殺するなどして、蜀の南方の統治に勤めた。

 慎重で見識も深く、物事を鋭く見極める人物でもあった。
 後の大将軍・費[示韋]が、降将に殺害される事や、呉の諸葛恪が魏に敗れる事を予見していた。

 赴任して15年が経った頃、中央に招集されると、蛮民達は皆、別れを惜しんだと言う。
 254年(延熙17年)、姜維と共に魏に侵攻し、徐質との戦いで討ち死にすると、蛮民達は皆、涙を流して悲しみ、張嶷の為に廟を建て、四季や災害のたびに祀ったという。

 この辺りのエピソードが、演義での諸葛亮の南征のモデルとなっている。
 従って、演義では、南征でいきなり登場。
 あとは、登場したり消えたりを繰り返す。
 最後は、姜維が段谷で魏の[登β]艾に囲まれた時、数百騎で急変に駆けつけ、姜維を救出することに成功するが、矢を浴びて戦死する。


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