『女人(不)成佛論』―――――『絶対希望(欲生)論』
「女」は、お浄土の師・祖(先生や親先祖)を崇めるだけで、現実の人間世界(衆生)の仲間になれずに、自分だけ偉くなっている孤独な哀れな神さまです。
往相廻向の片道往生で還相廻向の帰り道がないのです。
………もう娑婆に用はない、………娑婆はもうこりごりだ、と言って二階に上がりながら梯段を足で蹴って外してしまったのです。
当然この娑婆現実の世界には降りて来れないのです。もっとも、還相廻向と言つぱ、娑婆の一切人間がうちの一番の下座につかしめられるのですから威張っていられないのです。
但し、女性とは人間性の突き詰めたところの性です。
つまり女性とは人間性の別名です。
無明と慾と瞋りの三毒……この永遠に救われざる者…
「女」は「私」です。この「女」こそ正真正銘の「私」です。
……かく記して慚じず、この期に及んで然もエリート意識の悠々たるを如何せん。
この絶対救われざるもの……が絶対に救わざるべからざる如来真実の本願の証しであったのです。
娑婆であれ佛法であれ、聞いたもの見たもの、触ったもの知ったもの、凡その人間の成長の上に徳となるものが、いよいよという時になるとその徳の全部が成長の壁になるという悲劇的な因果です。それは実に念佛浄土の御たすけの因果と真反対なのです。お念佛そのものがお念佛の妨げをするのです。そんなことが女人にはあるのです。
その女の中でもまた特別に出来損なった女がいます。
血統がよく信仰心が厚く、世間智にもさとく面貌(カオ)も十人並みなのが、それがみな逆目(サカメ)のはたらきをします。
曽我先生に遇えば遇うたで自分ほど先生と同一信心の者はなし、
と上ってしまう。
先生を知っているという事が自慢のタネなのです。トラの皮を被(かぶ)るキツネです。
わが身にいただく佛法(先生の御信心)が他(ひと)を裁き他人(ひと)を侮る道具になるのです。どうしても負けられない、負ければキツネの正躰を出さねばならぬ。
嫉(や)けるから負けられないのか、負けられないから嫉けるのか、とにかく死ねないのです。死んだら化けてでも勝っていたいという怨霊です。
実はそれほど惨めな劣等感、卑屈冠(感)に我と我が身が呵責を受けて苦しくて耐えられぬのです。
『浄土情報日本』(平成八年・新春号)より