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昭和39年11月18日、越後塚山・長谷川赳夫氏を辞したもうに臨んでの仰せ |
普通一般の人は、仏法を聞いて極楽へ参ろうと思うてるんでしょうし、また極楽へ往けると思うてるんでしょう。そういうもんでないでしょう、そりゃ逆でさあね、仏法聞いて地獄へ往くんでしょう、地獄へよろこんで往ける身になるんでしょうて…。 |
| 昭和41年7月2日、富山市・月愛苑で一女同行への仰せ |
如来に信ぜられ 如来に敬せられ 如来に愛せらる かくて我等は 如来を信ずることを得る。 |
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昭和41年6月23日、岐阜・上宮寺で浅野進氏と上宮寺坊守への言葉 |
人間をだます狐がおるのではない、狐にだまされる人間がおるだけだ。 |
| 昭和41年9月10日、越後東三条・大谷派別院での女同行への言葉 | 仏から信ぜられている−絶対に−何もかも承知の上で信ぜられている、このことが一番大切で、本願だの念仏だの、その後の問題です。仏から信ぜられているということが信ぜられないのを難信と申します。 |
| 昭和41年11月5日、東京都内疾走中の車の中で |
われわれが“因”と考えているものは“縁”である。縁は無量。因は一つ。病気や交通禍は死の縁であって因でない。死の因は生である。病気によってはじめて死ぬのでない。生まれることが死の因だ。生れた時に死ぬことは決まっている。これを生死無常という。 |
| 昭和42年5月30日、長崎市筑後町・東本願寺長崎教会にて | 往生の“往”は“超える”“前向き”ということだ。往生の“生”は“生れる”ということのほかに“生きる”という意味があることを知らなくてはならぬ。往生は実践だ、生活だ。往生はたすけられた我々の、の生活・精神生活である。 |
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昭和43年1月15日、富山市・月愛苑にて
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本当の人間になることは、道理から考えると造作ないが、併しながら“易往而無人”−往きやすくして人なし。この世に人間の同類はたくさんいるが、然しながら、本当の人間はいないものだ。それを“極難信”という。 われわれが本当の人間にならなくてはならぬ。 |
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