パソコン聞記
『如是我聞』
曽我量深
法蔵菩薩T
曽我先生のお言葉の中から、
自分自身に聞こえたお言葉を写経のように入力してみました。
『祖聖を憶ひつゝ』
如来が永遠に生死海に来りて修行せらるゝは此果遂のい誓の相である。
即ち此果遂の誓を通じて表顕する相である。
十方衆生の苦悩は吾苦悩なり。
十方衆生の罪業は我一人の罪業なり、
十方衆生の我執は我一人の我執なり、
まことに二十の願は一点の光のない十方衆生の闇の底に自己を発見せられたる如来の叫である。最早十方衆生の闇の底に永劫に埋れやう、茲に不果遂者の誓願がある。顧みて祖聖が二十願に対する懺悔の声を聞け。
「専修にして雑心のものは大驚喜心を得ず」
「常に名利と相応す」
「人我自ら覆うて同行の善知識に親近せず」
「非哉無始際より助正間雑し」
「出離その期なし」
「自ら流転輪廻を度るに微塵劫を超過すれども仏願力に帰しがたく、大信海に入りがたし」、
「祖聖の懺悔は誠に全人類十方衆生の永久常恒の衷心の懺悔の代表である。
祖聖は果遂の願の前に立つては単なる一個人たる五十二歳の親鸞でなくして、
十方衆生の叫声を身に体現せる還相廻向の人である。
即ち現在の法蔵比丘その人である。
十方衆生の闇の底に自己を見出した人でなくて、云何にして此大懺悔が出やうぞ。
私は常に感ずる。善導大師の機法二種深信、即ち罪悪の機の深信と乗仏願力の法の深信の中に、機の深信は直に如来の本願の信でなく、本願を信知せるものゝ自己の現実の反省であると、従来思はれてあつたのは猶甚だ不充分である。
機の深信こそは如来が親しく生死大海の底に自己を投げて、十方衆生の一切の罪を自己に背負うて立つ全責任の自覚の表明である。
正に如来が我となりたる姿である。
茲に已に現実の如来、因位の如来の声があるではないか、茲に十方衆生の現実の救済の直接的証明があるではないか。
『如来表現の範疇としての三心観』
「我々の自覚意識を離れて法蔵菩薩のありようはない。
ゆがんだ疑いの心で救われようとしているのは
実体者をたてているが、阿弥陀という実体者もいないし、
それこそが妄念、妄想である。
識の識たるところは過去にもないし未来にもない。
ただ現在にのみある。一念にある。自覚的実在である。」
「阿頼耶識(第八識)は法蔵菩薩である。随って「法蔵菩薩は
純真なる宗教体験である。」
『如来表現の範疇としての三心観』
『曽我量深選集 第五巻 168P』
私たちの煩悩の一番深いところで、
目覚めよと、叫び続ける本能を
覆い続けるのも、また、私たち自身の煩悩。
どちらが本当の自分自身なのか。
これは、我がうちにあれど、
我がものにあらず、と驚いた親鸞は
「専らこの行に奉え、ただこの信を崇めよ」
『教行信證 総序』
菩提心は、自分で作りあげた「もの」でない、
他力から賜った「こと」だ、
との自覚が、真宗である、と示して下さいました。
「思案の頂上と申すべきは、弥陀如来の五劫思惟の本願にすぎたることは、
なし。此の御思案の道理に同心せば、仏になるべし。同心申すとて別になし。
機法一体の道理なりと云々。」
『蓮如上人ご一代記聞書 244』
「しかれば、もしは行・もしは信、一事として阿弥陀如来の清浄願心の
回向成就したまうところにあらざることあることなし。因なくして
他の因のあるにはあらざるなりと。知るべし。」
『教行信證 信巻 』(『真宗聖典』223P東本願寺出版部)
私の頂いた信心が私を救うんです。
「如来、我となりて我を救い給う」
「本願の名号は生きた言葉の仏身なり」
「釈尊は韋提に向って「汝是凡夫」と教えられたが、
此語に最も直接に触れて、胸中の大動乱を感ぜられた人は、
韋提ではなくて、恐らくは釈尊であらせられた。
私は『觀経』の上に、大動乱の釈尊に接する。
一心に如来に帰命せる釈尊に接する。」
(『選集』三巻 『二河喩』と『観経』P46)
「私が、一番欲しいものは、
一緒にそばで泣いてくれるたった一人の人。」
と、その朋に言いました。
そのひとは「『選集』を読みなさい、」
と言ったのです。
そのこと以外、
何も言ってくれない人でした。
選集を読みながら、
曽我先生が、釈尊が、親鸞が、
そばで一緒に泣いてくれるのを感じます。
少女みたいな感傷的な感覚です。
でも、「則我善親友」と
釈尊から親友と呼びかけられるような
豪勢な教えは他にありませんよね。
本当に悲しい時、つらい時、
今も忘れはしないけど、
「この世の苦労は、阿弥陀様からのお励ましである」
と、曽我先生のお言葉を教えて頂いたから、
南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏と、
励まし、励まされて
私はここにいるのです。
機の深信は私の煩悩の延長線上に、
自力でおこすのでない。
私の煩悩の一番奥底に、本願欲生心の成就として
「法を聞きたい」という心を、本能としてもっている。
この本能こそ、仏性であり、法蔵菩薩である。
この本能は、自力でおこしたものでない。
だから大信心ということができる。
お念仏は、私が称名するのだけど、
私の自力でするのでない。
だから、大行である。
『歎異抄聴記』
「機の深信は人間にはおこせない。人間には罪福心があるから。
機の深信をおこすのは、法蔵菩薩のみである。
我々は、宿業の自覚を知ることはできないが。
法蔵菩薩の知られた宿業を深信する。」
ひとりひとりの場において、
自分自身の宿業を自覚せしめられる。
罪福心では救われない自分だと
自覚せしめられる。
地獄一定と、自覚せしめられる。
この信心は、
法蔵願心の成就としての大信心であると
自覚せしめられる。
天上天下 唯我独りなれば 尊し
信心はひとりひとりの凌ぎ(しのぎ)なり
『親鸞との対話』
「普通一般の人は、仏法を聞いて極楽へ参ろうと思うてるんでしょうし、
また極楽へ行けると思うてるんでしょう。
そういうもんでないでしょう、そりゃ逆でさあね、
仏法聞いて地獄へ往くんでしょう、
地獄へよろこんで往ける身になるでしょうて……。」
ー昭和三十九年十一月十八日、越後塚山、長谷川赳夫氏邸を
辞したもうに臨んでの仰せー
(昭和四十一年四月『中道』第42号)
長谷川氏が、
「私も、曽我先生のお話を聞かせて頂いて、曽我先生にあやかって
お浄土参りさせて頂きたいもんです。」
と、ご挨拶されたのに対し、
「地獄へよろこんで往ける身になる」
と、おっしゃった。
『歎異抄聴記』
「法蔵菩薩はどんな方か。我れこそ法蔵菩薩であるとはいはれぬ。
「自身は現にこれ罪悪生死の凡夫、曠劫よりこのかた常に没し
常に流転して出離の縁あることなし」
と深き自覚をもつている主体が法蔵菩薩であり、それが阿弥陀如来となつたのであって、我れこそは法蔵菩薩なりと名のりあげた人は阿弥陀如来にはならぬ。
法蔵菩薩は本当に責任を重んじ、一切衆生の責任を自分一人に荷ふ感覚の深い方である。一切衆生の足で蹴られ踏みにじられても腹を立てぬ方が法蔵菩薩である。
不可思議兆載永劫の御修行とはこれをいふ。(中略)
未来のために陰忍して何といはうと他人の惑はしにかからぬ、
これが法蔵菩薩、法蔵魂、法蔵精神である。
浄土真宗は法蔵精神を感得するものが浄土真宗である。
浄土真宗に生をうけているものはみな法蔵魂を感得せねばならぬ。
法蔵魂を感得する道が二種深信、機の深信である。
宿業の自覚は法蔵魂を感得する道である。この法蔵魂に随順し信順する。
機の深信は捨てることだといふがただ捨てるのではなく、そこにも亦、信順の義がある。法の深信にのみ信順の義があるのではなく、
私は機の深信に於ても一層深い信順の義をもつていると思ふ。
だから「いはんや悪人をや」といふ悪人の自覚、即ち宿業の自覚、
凡ゆる衆生の罪を荷ふ、それを悪人といふ。
ここにいふ悪人はあいつは悪人だといふ悪人ではない。
我が身こそ悪人であるといふ悪人である。
煩悩具足の汝等ではなく「煩悩具足のわれら」である。
汝等ではなく我が身である。ここにいふ「われ」は自覚を現す。
本当に私共は法蔵菩薩を直感し感覚する。
宿業の自覚、法蔵菩薩を感覚する。
法蔵菩薩の心といふよりは現に生きている法蔵菩薩、
その法蔵菩薩は死んだ法蔵菩薩ではなく、御飯もたべ腹も立て欲も起す。
こんなことをいふと皆様は暗示するのだといふかも知れぬが、
在家生活している法蔵菩薩、
法蔵菩薩は特別な人と思ふか知らぬが法蔵菩薩は何処にも居られる。
あすこにも、ここにも居られる。
ただ我れといふ執着をとつてしまへば世界全体至るところに法蔵菩薩はまします。
我執あるところには法蔵菩薩はましまさぬ。
機の深信に依て我執をとれば目に見えるところ悉く法蔵菩薩である。
それは人間のみが法蔵菩薩ではない。
山河大地悉く法蔵菩薩の身体である。
そこにみんな無上殊勝の願を建立し、一切衆生の罪と悩みそれを一身に荷って
厳然として黙々として立って居られる。
眼を開けば万目悉く法蔵菩薩であり、世界全体が法蔵精神の象徴である。
これが仏教の世界観である。(後略)」
『曽我量深選集 第6巻』歎異抄聴記(P162〜163)
私は、ただの凡夫でない、
この身体は、即ちこれ法蔵菩薩であり、
法蔵菩薩を感得するところの尊い器である。
法蔵菩薩とどこで出会うか。
極楽の花の上ではない。
この娑婆の悩み苦しみ、煩悩の中で
法蔵菩薩とであっていくのだ。
『他力は胸より湧く』
我々は客観の他力に救はるゝのではない、主観上の他力救済の念に救はるゝのである。否救済てふ実験を客観化して他力の名を与へたに過ぎぬのである。救済の信念の外に救済なく、又他力はない。
我等の実験する所は唯現在救済の信念ばかりである。此信念が即ち唯一の救済である。唯一の他力である。他力は外より来らずして胸より湧く。
他力と云ひ、救済と云ふは畢竟他力救済てふ信念の大事実が自ら表明せる霊的文字に過ぎぬのである。誠に信念の外に名号なく、名号の外に本願なく、本願の外に如来はない。
而して信念が直接に接触する所信の境界は唯名号の一つである。此名号は如来の本願が我々衆生に回向発現せる唯一の実在である。
此名号がなかったならば我浄土教は唯空漠なる未来浄土憧憬の自力迷心の宗教となる乎、若くは徒に無想離念の概念を冥想する自力教に返たであろう。
然るに人生に現はれたる此名号は遂に我祖聖に依り、始めて我等の主観の胸中に現はれたる親しき救済主であるとせられた。
我々は悲みながら名号を唱へて臨終の来迎の如来を念ずべきではない。此名号は此人生に於ける真実の如来である。此胸中に回向潜在せる名号を以て直に真の救済主と自覚するが真実信心である。
「親鸞一人が為めなりけり」の告白は此胸中の如来、単に自己一人を親しく救済する如来に対する讃仰の語である。
真宗教界の無力、腐敗は畢竟祖聖の真精神の埋没の為である。
静かに我胸中に問へ、
平生業成、現生不退、信心為本、他力回向の祖聖の叫びは云何の意義である乎と。
此等の叫は唯「如来は我胸に在り」との一語に尽くるではない乎。煩悶も罪悪も救済も救済主も信念も我胸を離れて何の意義ありや。