パソコン聞記 如是我聞

曽我量深3

法蔵菩薩U

浄土は心の本当のすがたである。心の根本の願いである。欲生我国は我等の心の根本的願いである。

如来は我等の心の本当の願い、すがたを知ろしめし、信じて、本願を起こして下された。我等を、如来は愛し哀れむと共に、我等は、如来に信じられ、尊敬されている。

如来の廻向の南無阿弥陀仏によって自己を照らす眼を開かせていただくのである。そうすると、そこに浄土が心の前にひらける。浄土が開けるから心の眼が開けると考え直しても差し支えないと思う。

浄土は…我等の心の無明を照らして下されるのである。心が自由に眼を開いて

くるなら、煩悩が起こっても煩悩の奴隷とならず、煩悩の悪を転じて如来の徳を行ずることが出来る。それが即ち浄土の生活というものである。

南無阿弥陀仏が我々の生活の実践の体となる。…得生すれば新しい願生が生じてくる。これが即ち如来の大悲方便というもので、自分だけが往生するのでなくて、浄土は一切衆生みな手を取って往生する世界である。開放的往生である。

『親鸞の大地』より


『暴風駛雨』

『一〇七 法蔵比丘の降誕は如来の人間化也』

嗚呼如来は降って人間僧法蔵と現われ給いた。是れ人間を救ふて如来位を与へん為である。人間を救うには人間を実験せねばならぬ。

我々は現在の法蔵比丘、自我心中の法蔵比丘、自己と不離一体なる法蔵比丘を観ぜよ。至心信楽の御喚声を深く自己の胸裡に求めよ。


『一二〇 『大無量寿経』の大精神』

我々は法蔵比丘出現の淵源を深く究めねばならぬ。而して我々は“如来智慧海”の経分に到達する。この深き背景ありて初めて、法蔵比丘の人格も、その出現の大精神も、その大精神たる本願の意義も、またその本願の成就せるをも、明に知られ、而して本願中心の信念も確立し得る。

本願は佛智の顕現である。我々は本願を通じて如来の大智慧海に接し得る。而して此の佛智に觸れて初めて本願が確信せらるる。若し佛智に觸れなければ本願も正覚も唯一箇の神話に過ぎぬ。


『九九 自己を知らざるものは真に如来を知るものに非ず』

信仰は単なる感情ではない。単なる感謝ではない。単なる感涙ではない。信心は智慧である。

「如来の智慧海は深広にして涯底なし」普く十方衆生の現実相を観照し給ふは広にして涯なき所であり、各々の現実相を明利に洞察して一点の秘密を許さゞる所は深にして底なき所である。

如来の智慧海に入ることは深く自己の現実相を知ることである。かくて自己の現実の罪業を知るところの機の深信は是れ如来の智慧海の実験である。

我等は到底如来の智慧海の広無涯を経験することが出来ぬ。而もその深無底を比較的に能く真味することが出来る。我等は如来の我を知り給ふ如く深広に自己を知ることが出来ぬが、而もその深広無涯底の仏智の少分を実験して、仏智の深広非所測を仰ぐと共に自己罪業海の深広無涯底を信ずるのである。

自己の罪を知る度合は即ち如来の智慧を知る度合に正比例するのである。自己の罪悪の実験は即ち如来の智慧の実験である。

此の仏智を実験して初めて、如来の大悲がしみじみと感味せらるゝのである。

感は観に進まねばならぬ。徒なる大悲の感は一箇の空想的信仰に過ぎぬ。

此れ天降の信念にして地涌の信念でない。


『一三三 一念の本願と一念の信』

信仰は現在の自己の真主観である。自己の一切の経験の統一者である。

されば信を離れては、救と云ふも、如来と云ふも、本願と云ふも、浄土と云ふも、教と云ふも、行と云ふも悉く紫雲の如き空想となる。

光明と云うても自己は現に照らされ摂取されて居ないではないか、

本願力と云うても自分は現にその御船に乗托せしめられて居ないではないか、

浄土と云うても、自分は現にその中に安住せる聖聚に人ではないではないか、

教法と云うても自分は現に救はれて居ないではないか、

名号を唱へても自分は現に如来と対座して居ないではないか。

即ち自分が現に居ない浄土、

自分が現に乗せられて居ない本願、

自分が現に照らされ摂取されて居ない光明、

正しく自分の前に御出でにならぬ如来、

凡て是等は自分と無関係な空想である。

若し信の自覚を離れたならば、如来も浄土も遥かに西方の一辺を守り、

教法は三千年前の故紙となり、救済は死後の理想となる。

我等は此等の美妙なる理想を夢みつゝ、短き人間界を去って仕舞ふ。


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