アメリカン・フードについて - その5

アメリカ料理となったイタリア料理…ピザとパスタ


    料理することは私にとってぜいたくだった。ふだんはそのためにゆっくり時間をとるなどできないからだ。好きなのはイタリア料理だけではないが、昔からそれが私の最も得意とするところだった。
    「おろし金は目の一番こまかい側を使うのよ」流しの水音に負けないように、私はルーシーに向かって声をはりあげた。
    「でも、これ、すごく固いんだもん」ルーシーがいらいらして不平を言う。
    「熟成したパルメザンチーズは固いのよ。指に気をつけてね」
    私はピーマンマッシュルーム玉ねぎを洗い終わると、水気を拭いてまな板にのせた。レンジの上ではソースがぐつぐつ煮えている。去年の夏作っておいたソースで、材料は新鮮なハノーバー・トマトバジルオレガノ、それにつぶしたニンニクが何粒か入っている。今日のようなときにそなえて、いつでもフリーザーにたっぷり蓄えてあるのだ。ルガーネガ・ソーセージが、水気をとるためにペーパータオルにのせてある。そのそばには、いためた赤身の牛肉が別のペーパータオルにのっている。調理台の上では、強力粉で作ったピザの生地が、ぬれぶきんの下でふくれあがっている。ボールの中には、全乳製のモッツァレラチーズが砕いて入れてある。ニューヨークから届いたもので、まだ塩水に漬けたままのを、ウェスト・アベニューにある行きつけの食料品店で買ったのだ。このチーズは室温ではバターのように柔らかく、溶けるとすばらしく糸をひく。
    「ママはいつも箱に入ったのを買ってきて、ありあわせのものをごちゃごちゃ入れるのよ」ルーシーが息を切らせて言った。「でなければ、できてるのを食料品店で買ってくるか」
    「なげかわしいわね」私は心からそう思った。「あの人、よくそんなものが食べられるわね」そう言って野菜を刻み始める。「あなたのおばあさんなら、子供にそんなものを食べさせるぐらいなら、飢え死にさせたでしょうよ
    妹は昔から料理が嫌いだった。私はいまだにその理由がわからない。私たちの子供時代で最も幸せだったのは、食卓を囲んでいるときだった。元気だった頃の父は、テーブルの上座に座って、仰々しい手つきで湯気のたつスパゲティフェットチーネ、そして金曜日にはフリタータ(刻んだ野菜や肉を入れたオムレツ)を、私たちのお皿に山のようによそってくれたものだ。どんなにお金がないときでも、食べ物とワインだけはたっぷりあった
    (『検屍官』p192)

ケイ・スカーペッタ流ピザの作り方。おなじみパトリシア・コーンウェル(Patricia Cornwell)の<検屍官ケイ・スカーペッタ・シリーズ>第1作『検屍官』(Postmortem、講談社文庫)からの引用である。このシリーズは現在第10作の『警告』(Black Notice)まで翻訳されているが、人気抜群だ。あまり海外ミステリーを読まない人もこのシリーズは読んでいる人が多いのではないだろうか。人気の秘密は、主人公のケイ・スカーペッタの魅力にあると思う。
ケイ・スカーペッタは、ヴァージニア州の洲都リッチモンドの検屍局長でバリバリのキャリア・ウーマン、かつ結婚には一度失敗しているとはいえ、「人目につく」、「ブロンド」、「きりっとした顔立ち」のイタリア系の美人ときている。そもそも作者のパトリシア・コーンウェルが美人である。彼女自身、記者や州検屍局のコンピューター・プログラマーをやっていた。講談社文庫の著者の紹介写真を見て買った人もいるのではないか。

実は、この『検屍官』には食事・料理の場面はほとんどなく、この引用が唯一といってもよいくらいだが、ケイがイタリア系であることをよく表している場面だ。スカーペッタ家は代々自民族中心主義で、アメリカに来てからもイタリア人と結婚して、血統の純血性を守ってきた。ケイの母親の最大の痛恨事は息子を1人も産まなかったこと、2人の娘が遺伝上行き止まりになってしまったことだった。妹のドロシーはルーシーを産むことで血統を汚した。ルーシーにはラテンアメリカ系の血がまじっているからだ。

イタリア人に生まれた以上、料理にはこだわらねばならない。インテリのケイも自認する。

    ルーシーがそうしたことを何一つ知らないのは残念だ。それは家風への冒涜でもあった。きっとルーシーが学校から帰ってきても、たいてい家の中はよそよそしく静まりかえているのだろう。そこでは、食事の支度はぎりぎりになってやむなく始める、面倒な仕事でしかない。妹は母親になどなるべきではなかった。イタリア人に生れてくるべきではなかったのだ。
    (『検屍官』p193)

前にも触れたように、ヴィクの母親もイタリア系だ。ウォーショースキーの名前からわかるように父親はポーランド系、母ガブリエルはナチの迫害を逃れてアメリカへやってきたイタリア人で、半分ユダヤの血が流れていた。ヴィクの母親はヴィクが15歳のときに亡くなっている。ヴィクはケイ・スカーペッタのようにきちんと料理することは少ない。しかし、母親の料理に対する基本的な姿勢はきちんとヴィクの頭に入っているのだ。

    ウィンザー・アームズで生じた罪悪感と恐怖の入りまじった気持ちのおかげで、週末の喜びが色あせてしまった。土曜日の朝、食料品屋に出かけて、1週間分の果物とヨーグルトを買い込んだ。しかし、午後からピクニックに出かけようと決めて、それに持っていくパスタサラダの材料を選んだときは、いつものオリーヴ油をやめてもっと安いのにした。キオ・プランの3期目の支払にも苦労している者が、どうして1パイントのオリーヴ油に11ドルも出せるというのだ。パルメザン・チーズまで国産のものにした。ガブリエラががみがみいいそうだ。しかし、そもそも店でパスタを買うことからして、ガブリエラは許してくれないだろう。
    (『バーニング・シーズン』p63)

ピザさて、イタリア料理の代表ピザパスタである。ピザから始めよう。
ピザに似た食べ物の歴史は極めて古い。いずれの古代文明も、種類は異なるが、平たい丸パンやパイのような食べ物をもっていたらしい。古代地中海文明には現在のピザの起源と思われる食べ物があったようだし、エジプト、ギリシア、ローマ、ポンペイいずれにも似たものがあった。たとえば、古代エジプトにはファラオの誕生日を祝う際に、ハーブで味付けした丸パンを食べるという習慣があった。ホメロスの詩にも戦士の常用食として丸パンが出てくるらしい。パンをプレートとして使用する発想はギリシア人のものだ。彼らはトッピングした丸い平らなパンを食べた。このあたりの歴史について、興味のある方は検索エンジンで"history of pizza"とやれば、関係サイトがいっぱい見つかるので試してほしい。
だが、われわれが今日食べている近代(?)ピザの歴史はさほど古いものではない。The History of Pizzaというページを参考にまとめてみよう。

ピザにトマトを加えることを考え出したのはナポリ(Napoli)の人である。ヴェスヴィオ火山の火山灰で育てたハーブ、ガーリック、トマトとフレッシュ・モッツアレラでつくるピザ。世界で最初のピザ屋Antica Pizzeria Port' Albaも、1830年ナポリでオープンした。
しかし、今日どこにでも見られる典型的なピザは、ナポリパン屋のラファエル・エスポシート(Raffaele Esposito)によって作られたというのが定説である。1889年、エスポシート(現在、Pizzeria Brandiと呼ばれている)は、イタリア王ウンベルト1世(Umberto I)とマルガリータ王妃(Margherita)がナポリを訪れた際に、特別のピザを焼いた。彼は、緑色のバジル(basil)と白色のモッツアレラ・チーズ(mozzarella)と赤色のトマト(tomatoes)を使い、イタリア国旗を表現した。愛国心を高揚させるこのピザを、王妃も気に入り、王妃の名前にちなんで、ピザ・マルガリータ(Pizza Margherita)と名づけられた。このピザ・マルガリータが近代ピザのスタンダードになった。そして、ナポリはピザ発祥の地となった。

19世紀末に、イタリア移民がニューヨークにこのピザをもたらした。1905年には、Gennaro Lombardi がニューヨークに第一号のピザ屋をオープンした。しかし、アメリカ人はこうしたピザを最初からすんなりと受け入れたわけではない。本当に普及したのは第二次世界大戦後である。イタリア戦線に従軍したアメリカ人兵士が帰還後、イタリアで食べたピザの味が忘れられずに、アメリカのピザ屋に足繁く通い出すようになってからである。そして、1950年代になるシェイキーズ(Shakey's)やピザ・ハット(Pizza Hut)などのピザ・チェーンが誕生した。

ビザは手軽な食べ物だから、私立探偵にも人気がある。ハンバーグ、サンドウィッチ、ホットドッグそしてピザ、いずれも典型的なアメリカン・フードといっていいだろう。

    10分後、あたしたちはピノのピッツエリアで落ちあった。街にはイタリアンレストランはたくさんあるが、ピザを食べるならピノの店がいちばんだった。夜になると家猫はどもある大きなゴキブリが厨房あさりに出てくるという話も耳に入っているが、ここのピザは一級品だ−−軽くさくさくした生地自家製ソースペパロニから出るたっぷりの脂が腕をつたって肘からしたたり落ちる。バーのほかにテーブル席のあるファミリールームがあり、夜遅くなると、勤務を終えて家に帰る前にくつろごうとする警官でいっぱいになる。今ぐらいの時間帯だと、バーは持ち返り用のピザを頼んで待つ人たちでいっぱいだった。
    あたしたちはファミリールームのテーブルにつき、ピザを待つあいだビールを頼んだ。テーブルのまんなかには、砕いたトウガラシの入った調味料入れとパルメザンチーズの入った調味料入れがあった。テーブルクロスは赤と白ノチェックのビニールで、壁は板張りにラッカーをかけてつやつやと光らせ、イタリア人の有名人とイタリア人でない地元の有名人の写真を額に入れた飾ってあった。主たる名士はフランク・シナトラとベニート・ラミレスだった。
    (『私が愛したリボルバー』p230)

私が愛したリボルバー』(One for the Money、扶桑社ミステリー)はジャネット・イヴァノヴィッチ(Janet Evanovich)の<ステファニー・プラム・シリーズ>第1作だ。ステファニーは30歳でバツイチ、ただいま独身。下着専門店でバイヤーとして働いていたが、会社が身売りにだされたため失業。背に腹は代えられないと飛びついたのがバウンティ・ハンター(賞金稼ぎ)。保釈中の身でありながら裁判に出頭せずに失踪した逃亡者を捕まえて警察に引き渡すという仕事だ。彼女が生れてはじめて手にした拳銃が、スミス&ウェッソンの38口径5発入りリボルバーだ。舞台はニュージャージー州の州都トレントン。住民はほとんどイタリア系、それにハンガリー系、ドイツ系が混じっている。
ステファニーの母親もイタリア系の名に恥じず料理好きである。

    開け放した網戸の前に、母親が立っていた。「ステファニー」母はどなった。
    何をぐずぐず車のなかにすわってるんだい?夕飯に遅刻だよ。お倒産は食事が遅れるのが大嫌いなんだよ、知ってるだろう。ポテトがさめるし、ポット・ローストがかさかさになっちまう」
    バーグ(街、トレントンのこと)では、食事は重要なものだ。月は地球のまわりをまわり、地球は太陽のまわりをまわる。そしてバーグはポット・ローストのまわりをまわる。あたしの記憶がはじまって以来、うちの両親の暮らしは、きっかり6時にできあがる2キロ分の巻いた牛の尻肉に支配されている。
    (『私が愛したリボルバー』p17)

ピザは即席食品として完璧だ。ピザ屋で買って持ち返ってもいいし、日本でもすっかり一般化しているが、配達ビザも多い。ボクもシカゴに住んでいるときよく利用したが、ドミノ・ピザなんかが有名だ。

    12時間以上、何も食べていなかったので、マーティー・ジンマーズに〈ドミノ〉の出前を頼んでもらい、ビッグ・サイズのピザとバケツ一杯のドリンクを取り寄せることにした。そのあと、いよいよ仕事に取りかかった。
    (『死の蔵書』p115)

    「スティーヴ?」
    階下からマリーの呼ぶ声がしたが、私は返事ができなかった。バスルームの曇った鏡の前に膠着したように立ちつくしていた。
    「スティーヴ、ピザが来たわ」
    私は自動操縦装置に操られるように階下へ降り、配達の少年に代金を払い、大きな四角い箱をキッチンへ運んだ。
    ピーターとマリーもやってきたので、私は几帳面にふたりにひと切れずつ配ってから自分にもひと切れ取り、3人そろってキッチンのテーブルで黙々と食べはじめた。
    (『死の記憶』p263)

今では、平たくて丸いナポリタン・タイプ以外のピザもいろいろある。ディープ・ディッシュ・ピザ、スタッフト・ピザ、スタッフト・クラスト・ピザ、ピザ・ポケッツ、ピザ・ターンオーヴァー、ロールド・ピザ、ピザ・オン・スティック等々。ピザの基本となる要素は、パン生地ソースチーズトッピングの4つだから、その組み合せでそれぞれ創意工夫がなされている。

ディープ・ディッシュ・ピザ(deep dish pizza)は、1943年シカゴのPizzeria Unoというピザ屋で誕生した。シカゴには約2000のピザ屋があるが、現在、大半のピザ屋はこのディープ・ディッシュ・ピザを売っている。鉄製の平鍋に入れて焼き、そのまま皿としてテーブルに運ぶというもので、薄いニューヨーク・ピザに対してシカゴ・ピザと呼ばれる。厚さは、ニューヨーク・ピザの3倍近くあり、チーズと具がふんだんに使われている。

    「こんばんは、シニョーラ」中年の女主人が挨拶して、しみのついたメニューを2つ、テーブルに置いた。「しばらくでしたね、よくおいでくださいました」
    「こんばんは」ジェスは黒髪で丸顔の女主人に笑いかけた。「カーラのつくるピザは世界一よ」
    「デ・ポールあたりではね」カーラがうなずいた。「メニューをご覧になるあいだ、キャンティをもってきましょうか?」
    「いいね」アダムがメニューに目を走らせながら言った。
    「わたしの注文は決まってるわ」ジェスは熱心に言った。「スペシャル・ピザをお願い。世界一の大好物だもの」
    「それじゃ、その大きいのを」アダムが即座に応じた。「分けあおう」カーラはテーブルからメニューを片づけ、キッチンに引っ込んだ。
    ……
    湯気のたつ熱いピザが運ばれてきた。4種類のチーズがアルミ皿にあふれ、さまざまな野菜やソーセージが載っている。「これはうまそうだ」アダムが言って、二人のために切り分け、さっそく両手にもってかぶりついたジェスを笑いながら眺めた。
    (『秘密なら、言わないで』p207)

はっきりとは書かれていないが、ディープ・ディッシュ・ピザに違いない。ボクもはじめてシカゴ・ピザを食べたときはびっくりした。4、5人で1枚(いや、「枚」という言い方は適当ではない)頼んだが、確か2切れ食べて満腹感を味わった記憶がある。

しかし、やっぱり最高のピザは自分で手作りで作るものだ、と何を見ても書いてある。再び『検屍官』に戻ろう。ケイ・スカーペッタ式手作りピザだ。
調理台の上では、強力粉で作ったピザの生地が、ぬれぶきんの下でふくれあがっている。次に、オリーブ油を手に塗りつけて、生地をこねる。手を握り締めてくるくる回し、生地を広げながら丸くする。
次に生地にソースを塗り、その上に肉と野菜とパルメザンチーズをのせる。さらに砕いたモッツアレラチーズを振り掛けてオーブンに入れて焼けばできあがり。普通のオーブンでもよいが、ウッドバーニング・ブリックオーブンを使って焼くともっとよい。日本でいう釜土焼きピザだ。
ソースも、材料は新鮮なハノーバー・トマト、バジル、オレガノ、それにつぶしたニンニクが何粒か入っている手作りソースだ。

さて、ピザにトマトソースは欠かせない。もっといえば、パスタにもトマトソースは欠かせない。つまり、トマトはイタリア料理にとって必要不可欠のものだという印象がある。
しかし、そもそも、1500年代前半になるまで、この奇妙な果実を見たことのあるヨーロッパ人(アジア人もアフリカ人もだが)はいなかった。トマトは、トウモロコシ、ジャガイモ、トウガラシと同じようにアメリカ大陸だけで栽培され食べられていたのだ。野生の植物を改良してトマト栽培を始めたのはメキシコ人だった。トマトを目にした最初の旧世界人は、1519年にアステカ帝国を侵略したコルテス一行だったが、彼らはトマトにあまり関心を示さなかった。ヨーロッパにもたらされた後も、鑑賞用植物としては育てたが、1800年代半ばになるまで、トマトはあちこちで変わった食べ物と見られ、うさんくさいと思われていたのだ。長い間毒性があるとも信じられていたのだ。

イタリアでは1400年代から小麦で作ったパスタのヌードルを食べていた。パスタ料理のトッピングはオリーブ油、チーズ、バター、あるいはニンジンのような野菜をつぶして煮たものだったが、トマトがヨーロパに持ち込まれてからは、トマトソースが使われるようになった。1800年代になるころには、南イタリアの多くの地方ではパスタにトマトソースをかけるのが最も一般的になっていた。

そして、南イタリアのもうひとつの料理ピザにもトマトソースは欠かせないものとなったのだ。ピザの歴史でみたように、アメリカには19世紀後半にピザは持ち込まれたのだが、もしももっと早く持ち込まれていたらあれほどの歓迎は受けなかったかもしれない。なぜなら、北アメリカの人たちも、やはりトマトをあやしげな食べ物と思っていたからだ。北アメリカの初期の入植者はほとんどがイギリスと北ヨーロッパ出身だったので、本国の人たちと同じイメージをトマトに対してもっていたのだ。

だが、当然例外はある。常に自由な考え方の持ち主で実験精神にあふれていたトマス・フェファソンは、1800年代初頭にヴァージニアの自宅でトマトを栽培し食卓に並べていたという。
『世界を変えた野菜読本』にはこんなエピソードも紹介されている。「アメリカ人の多くがトマトを食べても平気なのだと確信するようになるきっかけになった事件がある。それは1820年のことらしい。アメリカ独立戦争の退役軍人ロバート・ギボン・ジョンソン大佐は、トマトが危険な食物でないことを証明しようと考え、9月26日、ニュージャージー州セイレムの裁判所の階段に立って、かごいっぱいのトマトを食べはじめた。しかしすぐに気分が悪くなることも、あとで高血圧や脳炎、あるいは癌になることもなかった(トマトを食べるとこういう病気になると考えられていた)」

多少脱線気味だが、もう少しトマトについて続ける。

    ウェイターがグレアムの料理を持ってきた。グレアムはそれを仔細に調べてから、ケチャップをびんの半分ほどかけた。コーヒーを口に運ぶ。
    (『ストリート・キッズ』p12)

1876年にはトマトの歴史にとってもうひとつの記念すべき出来事がおこった。H・J・ハインツが、商業生産したトマトケチャップの最初のを売り出したのだ。ハインツのケチャップの前からアメリカの家庭では自家製のケチャップを作って、肉料理のソースあるいはジャガイモのトッピングとして使っていたが、自分でわざわざ作るのがめんどうだと思っていた人はハインツのケチャップにとびついた。実際、倒産の瀬戸際にあったハインツはこれで生き返ったのだ。
以前は、牡蠣あるいはクルミにヴィネガー、砂糖、香辛料を加えて作るケチャップもあったが、ハインツ以降はケチャップといえばトマトケチャップを指すようになった。
でも、19世紀ならともかく、なぜ今でもハインツは瓶を使っているのだろうか。なかなか出てこないケチャップをむきになってハインツの瓶から出す……アメリカの思い出の一つではある。

パルメザン・チーズ(parmesan cheese)は、イタリア・チーズの王様と言われている。イタリアのパルマ地方を中心に生産され、13世紀にはすでに知られていた。ナチュラルチーズのハードタイプに属する。1個の重さが30キロもある。熟成期間が1〜2年とひじょうに長いため、水分が蒸発してしまって外側はカチカチに固い。だから削って粉チーズにする。ルーシーがおろし金で削らされているのがこれだ。
パルメザン・チーズはビザ、パスタ、グラタン、スープ、サラダと使用範囲は広い。

    「まずいだろ、そのヴィール・パルメザンは?」
    ヴァレンティは鋭い視線を彼に向けた。「ああ」
    「こんなところでそれを注文しちゃだめだ」クーパーは、自分のレシートを取ってブースをすべり出ながら、言った。「あんたみたいなイタリー人にはよくわかってるはずだろうに」
    (『長く冷たい秋』p98)

変なところで食べたヴィール・パルメザン(veal parmigiana、ヴィール・パルミジャーナ)はまずいだろうが、パルメザン・チーズと仔牛肉(veal)を使ったイタリア料理である。仔牛の薄切り肉をパン粉につけて揚げる。これを器に敷いて上からトマトソースをかける。それからパルメザン・チーズをたっぷりと振ってオーブンに入れて熱する。仔牛肉の代用としてナスを使ったエッグプラント・パルミジャーナ(eggplant parmigiana)はヴェジタリアンに人気があるそうである。

次はパスタである。パスタの歴史については、男はだまってパスタを食うに詳しい。これはひじょうにマニアックな内容の濃いホームページだ。パスタの好きな人はぜひ覗いて下さい。

パスタの歴史はひじょうに古いが、大量生産されるようになったのは、産業革命で動力が蒸気に代ってからである。粉引きについても水車と石臼を使っていたが、1878年にはセモリナ(荒引き小麦粉)を作る画期的なMarseillais精製機が出た。また、パスタの乾燥も1875年のディチェコの人工乾燥設備の開発により天候に関係なく量産できるようになった。パスタ業界最大手のBarilla社は1877年にPietro Barillaによって設立されている。ちなみに、Barilla社の製品は日本では日本製粉が発売元になっている。
19世紀になると、ダイス(パスタ押し出し金口)メーカーは、パスタの形を変化させることを思いついた。「ひも」を意味するスパゲッティ(Spaghetti)という名称が現れるのは20世紀に入ってからである。乾燥パスタの需要はかなり後までイタリア南部に限られており、イタリア全土でスパゲッティが食べられるようになったのは実は20世紀中ごろになってからである。
1933年には、Braibante Brothers of Parmaにより、連続式プレス機が発明され、機械を休止せずにパスタを生産できるようになった。右から粉を入れると左からパスタが出てくるようになったのだ。また、Barilla社によりパスタを押し出すテフロン製のダイスが開発されたり、オーブンで高温で乾燥させて仕上げるようになるなど生産速度も上がった。

パスタも当然イタリア移民によって19世紀末から20世紀初頭にかけてアメリカに持ち込まれた。主な出身地は、ナポリの南のカンパーニア地方とシチリアの人々で、まさに乾燥パスタの本拠地だった。
アメリカは今も昔も小麦の大生産地であり、そのせいもあってか、アメリカのパスタ産業はイタリアに次いで世界第2位である。一人あたりのパスタの消費量はやはりイタリアが一番、アメリカは二番であるが、国別の消費量ではアメリカが一番である。

ただし、味へのこだわりという観点から言えば、日本は「イタリア料理に関してはイタリアの21番の州」との評価がある。イタリア人に言わせると、イタリアの次においしいパスタは日本。パスタは茹で加減が大事。日本人には、歯ごたえが残り、しこしこした状態を指すアルデンテ(al dente)が理解できる。海外でパスタを口酸っぱく「茹ですぎないように」オーダーしてもなかなか思う茹で加減でサーブされない。だいたい茹ですぎになっている。

大量生産はパスタをアメリカ人の間に広めるのに貢献したが、その一方で昔ながらの製造方法も懐かしまれている。何はともあれ、自家製のパスタを作っていれば、イタリアレストランもまずは合格らしい。

    会議出席者用のホテルが立ち並ぶ区域で営業しているにもかかわらず、〈カフェ・フィレンツェ〉は陽気で気取らない感じの店だった。「予約したときは、きみにイタリアの血が混じってるなんて知らなかった。知ってたら二の足を踏んだかもしれないね」ぽっちゃりした若い女の子に2人でコートを渡すさいに、フェラントがいった。「この店、知ってる?料理は本物かなあ」
    「聞いたことのない店ね。でもわたし、この界隈ではあまり食事をしないから。自家製のパスタさえ作ってれば、いうことなしよ
    わたしは支配人に案内されて、おくの壁ぎわのブースまで行った。シカゴのイタリア料理店のじつに多くがこれ見よがしに使っている赤いチェックのテーブル・クロスと、キャンティのボトルを、〈カフェ・フィレンツェ〉は避けていた。磨かれた木のテーブルには麻の食卓マットが置かれ、トスカーナ製の陶器の花瓶に花が1本さしてあった。
    わたしたちはルフィノのボトルと、パスティチーニ・ディ・スピナッチを注文し、そのさいイタリア語を使って給仕を大喜びさせた。
    (『センチメンタル・シカゴ』p49)

パスタの原料は小麦粉である。しかし、小麦粉であれば何でもよいというわけでもない。特に、イタリアでは、「デュラム小麦(durum)のセモリナ(semolina)」しかパスタの原材料として認められない。デュラム小麦のセモリナとは、「粗挽きにした硬質小麦」に他ならない。実際にイタリア産のパスタの原材料はすべてこれである。
パスタの作り方を簡単に説明すると、

  • デュラム小麦を粗挽きにする→デュラム・セモリナ
  • これに水を加え、ミキシングしてドウ(dough)にする
  • ドウにしたものを押し出し機(Extruder)で高圧を加え、ダイス(dies)から押し出す
  • ドライヤーで乾燥させる

パスタにオリーブ油は欠かせないが、オリーブ油については別の機会に説明する。

さて、パスタにはいろいろな種類がある。National Pasta Associationのホームページにパスタを形状で分類した表があり参考になる。日本にもパスタの好きな人が多いのだろうか。先程紹介した「男はだまってパスタを食う」以外にも、高雄伊知郎さんのホームページ「イタリア:Italia 」や「Papa's pasta」など素晴らしいホームページが多い。特に「イタリア:Italia 」は、趣味のホームページとして極めた観があり、その中の「パスタ:pasta」は圧巻である。

パスタは大きく、ロングパスタ、ショートパスタ、その他のパスタに分類できる。ロングパスタはスパゲッティやラザニア、ショートパスタはマカロニやペンネに代表される。その他のパスタにはラビオリ等のように詰め物入りがある。具体的に紹介しよう。

    僕たちは人通りのない暗い横丁にあるイタリアン・レストランで食事した。歓楽街の華やかさからはずれた時にふと行き当たるような横丁だ。
    ボーイ長がソニーを抱擁で迎え、僕たちを隅のテーブルに案内した。
    「料理が実にうまいんだ」と、ソニーが教えてくれた。そしてウィンクすると続けた。「この町にうまいイタリアン・レストランがこんなに何軒もあるなんて、おかしいと思わんか、え?」
    僕たちはほうれん草のフェトチーネと子牛の煮込みを注文した。ヴィックと僕はキャンティのボトルをとった。ヴィックはなめる程度にしか飲まず、他の客の動きと入口のドアに目を光らせていた。
    (『笑いながら死んだ男』p130)

    ガスにかけた湯の沸騰する音に驚いて現実にひきもどされた。フェットゥチーネの湯がふきこぼれてパイロット・ランプが消えてしまった。もちろん、ガス台にのったがらくたのなかにマッチの箱は見つからない。戸棚の扉を乱暴にあけたりしめたりした。こんな人生はもうイヤ!一人暮らし、戦争から帰ってきても迎えてくれる者は誰もいない、マッチもない、銀行預金もない。一握りのスプーンとフライ返しをつかみ、勝手口のドアめがけて力まかせに投げつけた。
    ガシャーンという音が消えても、ドアをおおう鉄格子の扉が2、3秒のあいだ悲しげな低音を響かせていた。情けなくて肩をがっくり落とした。足をひきずってドアまで行き、台所用具を拾い集めた。木のスプーンが冷蔵庫の上へ飛んでいた。それをとろうと手を伸ばした拍子に、マッチの箱を払い落とした。うん、よろしい。癇癪を起こすことだ。かならず報われる。スプーン類を引き出しにもどして、ガスをつけなおした。
    (『バーニング・シーズン』p323)

    「まったく、もう、あのマカロニ野郎たちめ。最近はあたし、料理だって、イタリア料理はだめになっちゃった。フェトゥッチーニってあるじゃない、あのひもかわ状のスパゲティ。あの”フェトゥッチーニ、クラム・ソース”なんて言葉を聞いただけで、もうだめ、気持ち悪くなっちゃうの。……」
    (『グリッツ』p224)

フェトチーネ (fettucine)とは「小さなリボン」という意味だ。フェットゥチーネと表記されたり、また英語ではフェットチーニ(fettucini)ということもある。チーズ、ミート、トマトソースのように重いソースによく合う。半分に折ってスープに入れたりサラダに使ったりもする。

    フィーニーはみすぼらしい帽子を頭に載せると、マーティニのグラスを手にしたまま、バーを出ていった。格子縞のマフラーの飾り房が背中で揺れていた。テスはまだマーティニを半分のんだだけだった。テーブルの上にはフィーニーの勘定署が残されている。トルテッリーニを注文しようと思っていたのに、一緒に食べる人もいなくなってしまった。
    (『チャーム・シティ』p52)

トルテッリーニ(tortellini)は、次に紹介するラビオリに並ぶ代表的な肉入りパスタ。挽き肉、チーズ等を詰めた円形パスタである。 ラビオリ同様スープやグラタンに適している。

    ヴァニラのウエハースを散らしたストロベリー・スープが出た。一枚の皿に載せて出されたラヴィオリとチョコレート・ケーキを食べた。飲み物はレモンライムのフィジーで、フィジーを一粒そっくり口に入れたヴァーノンが緑色の泡を吹くのを見てわたしは大笑いした。ハンバーグとバター味のポップコーンを食べた。デザートに出たのはボウル一杯のケーキ・バターという悪魔の食べ物で、わたしたちはそれをスプーンですくって食べた。
    (『少年時代』(下)p84)

少年時代』(Boy's Life)は、ロバート・R・マキャモン(Robert R McCammon)の郷愁と感動の一大ファンタジーだ。冒頭に殺人事件らしきものが起こり、一応ミステリー仕立てにはなっているが、ミステリーとジャンル分けするのは適当ではない。冒険小説とも言えるしファンタジー小説とも言える。
主人公は、アラバマ州のゼファーという(架空の)小さな町に住む12歳の少年コーリー・マッケンソンであるが、登場人物は100名を超え、それぞれが印象に残るキャラクターをもっている。空想する力を持つ少年にしか見えない世界と現実の世界とが巧みに交錯しながらコーリーの1年間の日常生活が展開する。誰もが経験した少年時代への郷愁を誘う、ボクのいち押し作品のひとつである。
引用は、「ヴァーノンとの夕食」と題された章で、コーリーが素っ裸で歩き回るという奇癖をもったヴァーノン・サクスターという名家の息子から夕食に招待された場面だ。

    騒ぎが一段落したところで、ハメットが口を開いた。
    「まず、スープ。ラヴィオリ。それにサラダ。あとはまた注文するよ」
    大きな平べったいボウルにいれられて、豆とモスタチョリのたっぷり入った、茶色い濃いミネストローネが、湯気を立てながら運ばれてきた。
    (『ハメット』p179)

    フィーニーはフォークを取り上げ、サービス・タイムのラビオリを突ついた。トマトソースとチーズがテーブルクロスを汚した。
    (『チャーム・シティ』p48)

    キッチンはもう何時間も前に閉まっていたが、宿の主人とおかみさんが僕たちのために残り物を捜してくれ、スライスしたコールド・ダックとカニ肉のラビオリと、スコーンを少々持ってきてくれた。スコーンはあたため直してくれていた。僕たちはワイン、サンセールのボトルも1本もらうと、暖炉の前で、それらを一心に食べた。外では相変わらず激しい雨音が続いている。床ではルルがうとうとと眠っている。主人とおかみさんは、僕たちにウィスキーとホイップ・クリームの入ったアイリッシュ・コーヒーをいれてくれ、おやすみなさい、と言った。
    (『フィッツジェラルドをめざした男』p274)

    「決まった。北京ラヴィオリを2人前、プラム・ソースをかけたカモ、ムー・シュー・ポークとホワイト・ライス2つ。おれはビール、彼はコークだ」
    ……
    給仕がきてラヴィオリの皿と香辛料入りの油二瓶をポンとテイブルにおいた。
    ……
    ポールがラヴィオリを2つに切って半分食べた。なにも言わなかったが、残りの半分も食べた。給仕が他の料理を運んできた。2人でラヴィオリを4つずつ食べた。
    (『初秋』p47)

探偵たちに人気のラビオリ(ravioli)は、挽き肉が中に詰まっている変りパスタ。茹でてからソースにあえたり、スープやグラタンに加える。アメリカではロブスターやダックを詰めた変り種のラビオリもある。『初秋』でスペンサーがオーダーした北京ラヴィオリというのはダックを詰めたものだろう。

    街の序列では、ジョーセフ・モレリの母親にかかると、あたしの母は二流の主婦に見えてしまう。うちの母のけっしてだらしないわけではないのだが、街の基準からすると、ミセス・モレリは英雄級の主婦といえる。神さまでも、ミセス・モレリよりも窓をきれいにふき、洗濯物を真っ白に洗いあげ、ジーティーをうまくつくることはできない。
    (『私が愛したリボルバー』p55)

    「今夜はなにをお持ちしましょう。カラマリ?――」イカに該当する立派な単語が母国語にはないので、彼は手のひらを口にあて音をたててキスした。「詰め物をしたジーティー――なんと言ったらいいか。マリアのばあさま直伝の味だ。祖国の味、最高だよ。茄子はどうかね?当店特製のソースが――」
    「スパゲティだ、ジョルジオ」ガスが言った。「ミートソースのスパゲティ」
    「スパゲティ?スパゲティだ?ミートソースのスパゲティとは、なんちゅう注文だ?そんならスーパーへ行けば手に入るっていうのに」
    「スパゲティだ、ジョルジオ」ガスが繰り返し言ったので、ウェイターはわざとらしいため息をついて立ち去った。
    (『フィラデルフィアで殺されて』p215)

ジーティージーティー(ziti)は中くらいの長さでチューブ状になったパスタだ。「花婿」という意味がある。
肉料理に合うし、サラダにしてもよい。
なお、カラマリはイカのリング揚げである。

    「それから、バジル。そうすれば、夏の間中リングィーニ・アラ・チェッカが食べられるからね。パスタだよ。刻んだトマトと新鮮なバジルとオリーブオイルとカイエンペッパーを使うんだ。最高だよ」
    (『チャーム・シティ』p328)

    〈パウロ〉はリトルイタリイに雨後のタケノコみたいにできたレストランとはわけがちがう。聖書の第三章が書かれていたころに建てられた店だ。
    ……
    「何にします?」
    ミラノ風の子牛カツスパゲティをつけて。ミートソース。チーズはなしで」
    「チーズなしで?」
    「チーズなしで」
    「ワインもなしで?」
    「そうだ」
    ウェイターはイタリア語で何かぶつぶついいながら立ち去った。次に戻ってきたときには、おれの注文した料理を持ってきた。モレリはホワイトクラムソースをかけたリングィーニを頼んでいた。ウェイターはモレリに何かいうと、また引っ込んだ。
    おれは子牛を切ってみた。さっぱりしたうまさで文句なしだった。
    (『ブルー・ベル』p460)

リングイーネ (linguine)は平たい棒状のパスタ。フェトチーネより幅は狭い。断面が舌のような形をしていることから、「小さな舌」という意味の名前が付いた。あらゆるパスタソースに合う。

    「いまごろはでっぷり太ったイタリア人ママになっていてもおかしくなかった」と、こんどは冷ややかな口調でつづけた。「ご存じのタイプよ。太ったちびの旦那と太ったちびの子供たちにヴァーミセリばかり食べさせる女たちね」彼女の目が黒い割れ目のように細くなった。
    (『過去を失くした女』p111)

ヴァーミセリ(vermicelli)はスパゲティーよりも細いパスタ。イタリア語では「ヴェルミチェッリ 」(?)

イタリア料理ももともとエスニック料理だが、ピザにしてもパスタにしてもすっかりアメリカ人に定着してしまった。

次頁以降は、イタリア料理以外のエスニック料理について整理してみる。

(当初作成日:3/19/2000

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