アメリカン・フードについて - その9

アメリカのエスニック料理(4)… メキシコ料理


    私は考えていた。自分では強いつもりでいても本当は強くないこと、あと10ポンド増量してヘヴィ級で戦うこともできたはずなのに、いつも体重を低めに抑えていたこと、父がよく親独協会の会合に出ていたイーグルロック・リージョン・ホールで、トルティーヤを腹いっぱい詰め込んだミドル級のメキシコ人ボクサーと対戦したこと。ライトヘヴィ級はきわめて層が薄いクラスだったし、私にはまさにおあつらえむきのクラスだと、早くから見きわめをつけていたのだ。体重が175ポンドなら一晩中でも軽いステップで動きまわれた。外側からボディに正確なフックをきめることもできたし、私の左ジャブに対抗できるのはブルドーザーぐらいのものだった。
    (『ブラック・ダリア』p30)

ブラック・ダリア』(Black Dahlia、文春文庫)は、史上最高の「クライム・ノヴェリスト」と称されるジェイムズ・エルロイ(James Ellroy)の出世作である。『ビッグ・ノーウェア』、『LAコンフィデンシャル』、『ホワイトジャズ』と続くLA四部作の第一部に当たる。売春婦のような生活を送っていたエルロイの母親は、エルロイが10歳のときに何者かに惨殺され、事件は迷宮入りになった。アメリカ犯罪史上最も有名な「ブラック・ダリア」事件に、エルロイは、この母親の事件を重ね合わせて独自の物語を作り上げた。
1947年1月、ロサンジェジェルスの空き地で若い女性の惨殺死体が発見される。被害者はハリウッドのスターを目指して田舎から出てきた22歳の女。娼婦のような生活を送り、漆黒の髪に黒ずくめのドレスの服装のため、新聞は彼女を「ブラック・ダリア」と呼んだ。警察は大掛りな捜査体制を敷き、事件の追及に当たる。元ボクサーの警官バッキー・ブライチャートもその一人だった。しかし、事件の捜査は一向に進展せず、やがて警察内部の政治的闘争が表面化し、ブライチャートも巻き込まれていく。
文句なしにおもしろい作品だ。時間を見つけていつか、1940年代から50年代のロサンジェルスを描くLA四部作を題材に、「ロサンジェルスについて」をまとめてみたいと思っている。

    シャワーを浴びている時に電話が鳴ったが出なかった。今夜チャイの店で食べるつもりのチリソーセージのことで頭がいっぱいだったのだ。チャイの店というのはソーテル大通りとナショナル大通の角にある小さな店で、メキシコビールのドスエキスのボトルを氷の入った木の樽で冷やしてくれる。それにチャイの老いたお袋さんが手ずから柔らかなコーンのトルティーヤを平炉で焼いて、焼けたばかりの周りがかりかりの熱々を食わせてくれるのだ。
    (『女優志願』p153)

トウモロコシや豆類、トマトやアボガド、その他野菜をたっぷりと使うメキシコ料理は、「健康食」としてアメリカ人の間で人気が高い。また、メキシコ料理は原価が安い上に、熟練したコックも不要なので人件費も安い。手軽に食べられる健康食ということで人気があるのも当然である。

トルティーヤ最も代表的なメキシコ料理は、トルティーヤ(tortillas)だ。トウモロコシの粉を挽いて作る薄いパンケーキ状の食べ物で、日本のご飯、欧米のパンにあたるものでどんな料理にも欠かせない。「タコスの皮」といったほうがわかりやすいかもしれない。

トウモロコシの栽培は、およそ8000年前にメキシコではじまったらしい。メキシコで、野生だったものを人間が栽培できるようにした。そして、瞬く間にアメリカ大陸全土に広がった。アメリカ大陸の先住民にとっては、トウモロコシは神聖な植物、神の贈り物、命の糧と考えられていた。マヤ族の創世神話によると、神々はトウモロコシのパン生地から最初の人間を作ったことになっている。
このトウモロコシをヨーロッパに持ち帰ったのは、コロンブスの仲間だ。16世紀にはヨーロッパ全域に広がり、アジアへはポルトガル人が持ち込んだ。『食の文化誌』によれば、日本へも1597年にポルトガル人が持ち込んでいる。「ちなみに、同じくコロンブスが新大陸からヨーロッパにもちかえった梅毒は、その伝播がまことにすばやく、トウモロコシより67年も前の1512年にすでに日本に到着している。運搬の労の少ないものの伝達の早さに驚かされる。」
もう少し、トウモロコシの歴史を続ける。
1519年、エルナン・コルテスの一行はアステカ帝国の首都テノチティトランにたどり着いた。大きな都市を囲んでいる浅い湖にはチナンパと呼ばれる人工の浮島を利用した畑がいくつもあり、トウモロコシやインゲンマメなどの作物が栽培されていた。スペイン人は、トルティーヤや、トウモロコシのやわらかいパン生地で具をつつんださまざまな種類のタマーレ等トウモロコシ料理の多様さに驚いた。
1533年、インカ帝国の市場では、トウモロコシの粒が貨幣として使われていた。フランシス・ピサロ率いるスペイン人の記録によれば、食べ物を買いに来た女は、まず品物のまえの地面にトウモロコシの小山を作り、売り手が納得するまで小山に一粒ずつ足していったという。
1620年、北アメリカの海岸にたどりついたイギリスの入植者たちが、新世界での最初の冬を生き延びることができたのは、ワンパノグア族のインディアンから入手したトウモロコシのおかげだった。その後、ワンパノグア族が入植者たちにトウモロコシの栽培法、料理法を教えた。
ヨーロッパに伝えられたトウモロコシは、ターキー(七面鳥)と同じような取扱を受けた。つまり、ヨーロッパ人は、トウモロコシのことを、自分たちがよく知っているコムギに結び付け、トルココムギと呼んだ。新しいものには何でもトルコと付けるあのやり方だ。コーン(corn)はもともと粒という意味で、コムギ、ライムギのような穀物全体を指すようになった。だから、イギリスでは、最初トウモロコシはトルコ・コーンと呼ばれた。しかし、北アメリカに住む英語圏の人々のあいだではコーンはしだいにトウモロコシだけを指すようになった。アメリカで穀物を指すときはgrainが使われる。
ちなみに、アメリカはトウモロコシの最大の生産国であり、世界の総生産量のおよそ5分の2を生産している。アメリカでとれるトウモロコシの半分は飼料になり、残り半分の大部分が食用となる。

トルティーヤに戻る。トルティーヤは、巻いたりたたんだり、あるいは中に入れる具によってさまざまな料理になる。

    2人でファナル・ホール・マーケット区へ上がって行って、クインシイ・マーケットで食事をした。食べ物の屋台の間を歩き回っていろんな食べ物を買い集め、円形大広間で座る場所を見つけて食べた。
    「考えがあるんだ」私が言った。
    ポールはタコスを食べていた。うなずいた。
    「おれは、これから、おまえの両親をゆするために、彼らに関していろいろと調べてみるつもりだ」
    ポールがタコスをのみこんだ。「ゆする?」
    (『初秋』p203)

タコスアメリカ人に(日本人にも)もっとも馴染みのあるのがタコス(tacos)だ。トルティーヤを2つ折りにして、間に千切りのレタス、トマト、アボガド、コリアンダー、細切りのチーズなどをはさみ、サルサ・デ・チレ(salsa de chile、チリ・ソース)をかける。ソースを意味するサルサは日本でいえば醤油のようなものだ。タコスは軽食なので、レストランというよりも屋台で食べるのが(本場メキシコでは)一般的だ。また、アメリカで主流のパリパリの皮のタコスは、アメリカ独自のものだ。

    食べるのは、チキン・フライド・ステーキにベーコン・エッグ、胸が悪くなるほど辛いタコス。しなびたトマトの産地をウェイターに尋ねるなどということは間違ってもしない。冷えたビールと温かい女を好み、アンの中にある温かい部分をぴたりと探り当てた。夏の午後のように、ふんわりとけだるい温かさを……。
    (『高く孤独な道を行け』p41)

ハリウッドの映画プロデューサーであるアン・ケリーがほれてしまったネヴァダのカウボーイ、ハーレー・マコールについて書かれた部分だ。のっぽでがに股、もっさりとした喋りかたをする男で、それがまた、ハリウッドの男たちのきざな台詞回しを聞き飽きたアンには魅力的に響いた。腕の日焼けは戸外で働き続けたための日焼けで、ビバリー・ヒルズのプールサイドで、オイルを塗って焼きあげた肌とは大違い。日焼けしたカウボーイには胸が悪くなるほど辛いタコスがよく似合う?!

    32丁目のテキサス通りの角、死んでしまった妹の黄色の煉瓦の2世帯住宅の前に車を停めようとしていると、口の中で、昼食のケサリヤグリーンコーンのタマレの味がした。それにアボカドも。ディルはアボカドはあまり好きでないのに、サラダに入りすぎていた。礼を失してはと思って食べたが、いまでは後悔していた。
    (『女刑事の死』p129)

トウモロコシを挽いて練ったトルティーヤのもとになるマサと呼ばれるものを丸く伸ばして餃子のように中に具を詰めて焼いたものがケサディーヤ(quesadillas)。グァカモーレなどのサルサをつけて食べる。中に入れる具は、何を入れてもいいのだが、チーズ(ケサディーヤはケソ=チーズ に由来),ズッキーニの花、クゥイトラコッチェ、チョリッソ&ポテトなどがポピュラー。

    「……小さい頃からパパとママのレストランを手伝って――小さな店でテーブルの数も少ないけど、ママのソパピーリャは町一番なんだからね」
    「いつか食べに行きたいね」わたしは言った。本当はメキシコ料理をどう思っているかなんてことは言えない。この土地の人間は皆メキシコ料理と言うと目の色を変える。エンチラーダの悪口を言うくらいなら、神をけなしたほうがまだしも安全だ。
    (『ママ、手紙を書く』p151)

エンチラーダエンチラーダ(enchiladas)は、トルティーヤを煮立てたサルサ・デ・チレに一度くぐらせてから、鶏肉を柔らかく茹でて細く裂いたものなどの具を入れて巻いて皿に盛る。この上からみじん切りのオニオンやおろしチーズをかけさらにもう一度サルサ・デ・チレをたっぷりかけたものだ。このとき、サルサ・デ・チレの代わりに豆を煮込んだフリホール(frijol)を使えば、フリホール・エンチラーダとなる。エンチラーダはメキシコ料理の定番中の定番だろう。その悪口を言うくらいなら、神をけなしたほうがまだしも安全というわけだ。

    1時間10分後、ポーク・ブリトーとドスエキスで満腹になると、パットは仕事にもどり、わたしもそれにならった。
    (『ララバイ・タウン』p51)

ブリトー(burritos)は、トウモロコシではなく小麦粉を使うことが多いが、トルティーヤに具をのせて封筒状に折りたたんだもの。
ドスエキスドス・エキス(Dos Equis)はメキシコ・ビールの人気銘柄。ミステリーにしばしば出てくる。メキシコでは19世紀後半にドイツ系移民によってビールの醸造法が伝えられて以来、数多くのビールが造られてる。人気銘柄は、ドス・エキスの他には、コロナ(Corona)、ソル(Sol)、ボエミア(Bohemia)、カルタ・ブランカ(Carta Blanca)、テカテ(Tecate)、それに黒ビールのネグラ・モデロ(Negra Modelo)など。メキシカンビールは一般的に軽い。

その他、トスターダ(tostadas)は、トルティーヤを平たいまま油で揚げ、これを皿代わりにして上に具を盛り付けたもの。ナチョ(nachos)は、トルティーヤを小さく切ってカリカリに揚げて塩をふったものだ。トルティーヤを使った料理は数が多い。

    「そうさおれたちは酒を飲み、やつはメイドにスナックをつくって持ってこさせた。グリーンのやつだ。グァカモーレサルサにグレーの三角のチップスが添えてあった。おれが、“なんだい、こいつは?”って言ったら、やつはこうこたえた。“これはブルー・コーン・トルティーヤ・チップスだよ”だがどう見てもそれはブルーでなくてグレーだったがね。おれたちはそこで真夜中近くまで酒を飲んだんだ」
    (『無実のI』p173)

何でも自分の初体験は忘れ難いものだ。ボクのアメリカでの初めての買い物はエヴァンストンのコンビニ。買ったものが、煙草(ウィンストン)、新聞USAトゥディそしてトルティーヤ・チップスだった。この思い出があってか、トルティーヤ・チップスはボクの大好物だ。ポテト・チップスよりも好きなぐらいだ。日本でもフリト・レイ社のトルティーヤ・チップスがコンビニで手に入る時代になった。
メキシコのトウモロコシは、日本でよく見られるような黄色いものは少なく、白くて、あまり甘くないものが多い。青紫色のもある。
グァカモーレサルサにはいろんな種類がある。トウガラシで作ったサルサ・デ・チレが一般的だが、このほかに赤いトマト(jitomate、ヒトマテ、これがわれわれが知っているトマト )、オニオン、コリアンダー、青トウガラシで作ったサルサ・メキシカーナ(salsa mexicana)。トマティーヨ(tomatillo、ほおずきの仲間で薄い皮に包まれている小さな緑色のトマト)を使ったサルサ・ヴェルデ(salsa verde)。ヴェルデというのは緑色という意味。だから、サルサ・ヴェルデは緑色をしたソースだ。このサルサ・ヴェルデにさらにアヴォカドを加えると、グァカモーレ(guacamole)というソースになる。トルティーヤ・チップスをグァカモーレに浸けて食べると何ともいえず幸せな気分になる。アメリカ人の友人に連れられ、初めてグァカモーレを食べたとき、友人にこれは何と呼ぶのかと聞いた。友人は「ワッカモーリ」と答えた。少なくともボクにはそう聞こえた。ボクの頭の中では、サルサ・ヴェルデとアヴォカドの独特の緑色と「ワッカモーリ」という響きが、勝手にグァカモーレ=「若森」ソースというイメージを作ってしまった。一度作ったイメージはなかなか消えるものではない。

メキシコの主食はトウモロコシと豆(frijol、フリホール)だから、豆を使った料理も多い。油で揚げたササゲマメをつぶしてもう一度揚げたフリホーレス・リフリートスは有名だ。

    「見事な眺めだろう、レオ?」クガートは窓の外を指差して、言った。
    「絵みたいに美しい」おれは言った。彼らは、パンチョ・ヴィラでさえノック・アウトされそうなほど大量のフリホーレス・リフリートスと思われるものを平らげたところだった。アンバーセンの顎にはトマト・ソースがこびりつき、眼はドス・エキス・ビールを飲みすぎたためガラス玉のようにどんよりにごり、空ろだった。
    (『眠れる犬』p115)

次は、チリ・コン・カルネ(chili con carne)だ。

    ニールとしては、あと1杯コーヒーを飲み、あと数ページ『ロデリック・ランダム』を読み、できれば少しブローガンとおしゃべりを楽しみたいところだが、あいにく時間がない。
    ドアを押しあけ、ひんやりした空気の中に足を踏み出すと、カレンとの待ち合せの場所へ坂をのぼっていった。今夜は、〈王〉で、チリコンカルネの夕食だ。
    (『高く孤独な道を行け』p444)

    ドノヴァンさんはキチン・テーブルについていて、ボウルによそった、トウガラシ料理のチリコンカルネを食べている。前にはずらっと緑色のビールの壜。テニス・ショーツしか身につけてないから、テーブルにむかっていると素っ裸でいるように見える。食べはじめる前には、グラスのビールを一気に飲み干した。「ふうー、しみる」ないているように濡れた目で言い、たてつづけにもう一杯飲んで、「わかるかな、おまえに。たまらんよ、このうまさ」もう2本、冷蔵庫からもってきてくれ、と言う。熱いチリコンカルネを食べる段になると、目はさらに潤んできて、「ああ、うまい。くそ、最高だよ」悪態までまじえて満足感を表しつつ、良質の朝のナプキンで鼻をふいた。
    (『グリッツ』p58)

チリ・コン・カルネチリ・コン・カルネは純然たるメキシコ料理なのか、それともアメリカ人が創り出した料理なのか争いがあるらしい。というのも、チリはチレの英語読みであるのに対し、コン・カルネはスペイン語だからだ。コンは英語のwith、カルネは英語のmeatに当たる。だから、純然たるメキシコ料理なら、chile con carneだろうし、アメリカ料理ならchili with meatになるはずだというわけだ。
ちょっと歴史の復習を。テキサス一帯はもともとメキシコ領だった。1820年代から30年代の半ばに、アメリカ人とヨーロッパ移民、主としてドイツ系移民によって開拓された。開拓者は、1835年にメキシコに対して独立戦争を起こし、1836年、テキサス共和国として独立した。サン・アントニオのアラモ砦は、抗争の際にテキサス軍が立てこもり、デイヴィ・クロケットを含む187名が戦死した場所で、今でも聖なるシンボルとして保存されている。そして、アメリカ領になったのは1845年のテキサス併合の時である。
チリ・コン・カルネが生まれた19世紀後半には、まだスペイン語を使う風習が残っていたのではないか、テキサスには材料の牛肉がふんだんにあった、などの点からテキサス説がやや有利である。

コロンブスが第二回目の航海でハイチに持ってくるまで、アメリカ大陸には肉牛はいなかった(もっとも、アメリカ・バイソンと呼ばれるバッファローはいた)。ハイチからメキシコに上陸し、メキシコからテキサスにたどり着いた。そして、19世紀の半ばになって、テキサス・ロングホーン(Texas longhorn)というアメリカ種が誕生したのである。これをカウ・ボーイたちが、東部へ送るためにカンザスやコロラドにある鉄道駅まで追っていった。カウ・ボーイたちは、牛は貴重品(商品)だから自分たちで食べることは少なかったが、怪我をした牛は足でまといになるので殺して食べた。あるとき、コショウを切らしていたので、トウガラシを砕いて一緒に煮てみたらひじょうにおいしいものができあがった。テキサス説によれば、これが、チリ・コン・カルネの誕生だということになっている。

現代のチリ・コン・カルネの作り方。まず、牛の挽肉をトウガラシ粉、オニオン、ニンニク、クミン、オレガノなどと一緒に炒める。大鍋にこの炒めた牛肉と水を入れ、インゲンマメ、さらにトマトを加えてぐつぐつと何時間も煮込む。豆の澱粉でドロッとしたシチューが出来上がる。仕上がりは真っ赤である。

チリ・コン・カルネにインゲンマメを加えるとチリ・ビーンズ(chili beans)という料理になる。これをホットドッグの上にかけたのが、チリ・ドッグ(chili dog)だ。

    テーブルクロスはアイルランドの麻、銀食器類はイギリス製、陶器はフランス製――リモージュだな、と彼は思った――そして彼の皿のかたわらに置かれた2つのワイングラスは重い加鉛クリスタルで、おそらくチェコ製だろう。スパイヴィのことだから、メニューはテキサス風メキシコ料理だろうと、おおむね確信していた。
    (『女刑事の死』p127)

最近、テクス・メクス(Tex-Mex)という料理が流行している。これはテキサスとメキシコを合体させた造語で、メキシコ料理にテキサス風味を加えて改良した料理ということだ。

    「アジア系の俳優をやとわなきゃならないわ、ライル」カトリーヌが指摘した。「今雇ってるエキストラはギャラを払って解雇しなくちゃならないし」
    「そのまま使え。やつらだってスキヤキくらい食えるだろう」
    「でもウェイトレスは必要だわ」彼女が頑張った。「衣装だって」
    ライルがマスクの奥でブルブルと唇を震わせる音が聞こえた。「行ってびっくりってことにすりゃいい――以前には日本レストランだったのに、テキサス・メキシコ折衷の店になってた。オープンしたばかりだ。内装も変えてない。破産する日本ビジネスってジョークを入れられる、どうだ?」
    (『自分を消した男』p158)

テクス・メクスは、普通のメキシコ料理と違って、テキサスに豊富な牛肉を多用する点に特色がある。
チリ・コン・カルネは、テクス・メクスではないが、その起源を探ると、テクス・メクスに繋がるものがある。

チキン・ファヒータテクス・メクスのヒットはファヒータ(fajitas)だ。レモンジュース、テキーラ、トウガラシ粉、クミン、ニンニクなどで作った液に牛肉を漬けておき、これを金網で焼き、細く切ってトマト、オニオン、アヴォカド、フリホール、サワー・クリームなどと一緒にトルティーヤで巻いたものだ。

    まだ時間が早かった。レストランはすいていた。私がスーザンの椅子を押さえ、彼女はポールと私の向かいに坐った。タイルをふんだんに使ったアズテック風の魅力的な部屋で、私の見たかぎりではメキシコ人は1人もいなかった。
    私たちはビーンズ・アンド・ライスチキン“モレ”“カプリト”トルティヤを食べた。ポールは死んでいるのを確かめるような感じで一品、一品をまずフォークの先でつつき、毒味をするように試しにほんの少し食べたが、結局驚くほどたくさん食べた。スーザンはマルガリータを、私はカルタ・ブランカのビールを何本か飲んだ。
    (『初秋』p170)

ちなみに、マルガリータも実はテクス・メクスである。テキーラをベースにアメリカで生まれたものである。

    「腹の具合はどんなだ?」
    「何に較べて?」
    「俺のチリを食ってみるか?」
    「いいね」
    「それじゃ食おう。一緒に流し込むのに最高の虫殺しもある」
    「虫殺し?」
    テキーラだよ、バック。但しストレートでやらなきゃいかん――ビッグスティーブにはいつも虫がついちまうんだ」
    「僕が彼の邪魔をする人間に見えるか?」
    (『女優志願』p439)

最後にチリ、つまりトウガラシについてまとめておこう。
1492年のコロンブスの新大陸発見以来、新大陸からいろいろな新しい作物が旧大陸にもたらされた。すでに、トマトやトウモロコシについては述べた。他にジャガイモ、インゲンマメ、ピーナツ、カカオなどがあるが、その中でもっとも人気のあったもののひとつはトウガラシである。
ややこしいのは、トウガラシと黒コショウがしばしば混同されたことだ。もともと、コロンブスもインド原産の黒コショウを探しに西へ航海したのだ。コショウは西欧世界に伝わった香辛料のなかでもっとも高価で貴重なもので、食べ物の味付けと保存に使われる乾燥したコショウの木の実は、1オンスで金1オンスとおなじ価値があったと言われる。中世ヨーロッパでは貨幣としても使われた。
コロンブスはトウガラシのことを先住民の「コショウ」と呼んだ。現在でも、トウガラシは、ホットペパー、スウィートペパー、グリーンペパー、チリペパー、チリ、チレ、カプシカム、カイエン、パプリカなどといろいろな名前で呼ばれている。
しかし、植物学的には、トウガラシはジャガイモ、トマトといったアメリカ原産の作物と同じくナス科の仲間である。一方、黒コショウはコショウ科に属し、トウガラシとの植物学上の関連は全くない。

アメリカでは、ポプラノ、セラノ、ハラペーニョといった品種のトウガラシは、トマトと一緒にシチューやソースの材料になっている。甘いトウガラシであるピーマンはサラダの材料として、あるいは肉などの詰め物をしスタッフド・ピーマンに使われている。詰め物をしたハラペーニョもある。

    夜なのでシャッターが下りていて、〈ザ・ポイント〉は暗かった。このシャッターはもう永遠に開くことがないのかもしれない。トミーはテスの前に立ってキッチンから中へ入った−−生れて初めてのフレンチフライも、初めてのオニオン・リングも、初めてのモッツァレラも、初めての詰め物をしたハラペーニョも、テスはここで食べた。どれもスパイクの主食というべきもので、はるか年下のテスとしては、いやだとは言えなかったのだ。
    (『チャーム・シティ』p25)

最後にタバスコ・ソースについて書いておく。

    「ニュー・アイベリア。タバスコ・ソースをつくっている町ですけどね」わたしは笑いかけた。
    (『ブラック・チェリー・ブルース』p330)

タバスコタバスコ(tabasco)はメキシコ産ではない。アメリカはルイジアナ州のアヴェリー・アイランドに住んでいたエドムンド・マキレニー(Edmund McIlhenny)が南北戦争の直後に発明したものだ。マキレニーは、真っ赤なトウガラシを丹念にすりつぶし、地元特産の岩塩を1ガロンあたり半カップ加え、焼物の壷に入れて30日間ねかせた。そのあと、フレンチ・ワイン・ヴィネガーを加えて、さらに30日間熟成させた。土地の人々にわけたところ評判がよかったので、商売にしようと考え、1868年、タバスコの商標で売り出した。
しかし、マキレニー社がタバスコの商標登録を確保するには50年かかった。マキレニー社は、1905年にいったんタバスコの商標登録を得たが、4年後、連邦特許局は異議申立てを入れてその商標権を取り消した。タバスコがメキシコの州名であること、よく知られたトウガラシの種名であることが、その理由だった。これに対して、マキレニー社は反論闘争を繰り広げ、1920年代初頭に至ってニューオリンズの連邦巡回控訴裁判所は、タバスコ・ソースといえば長年の使用によりマキレニー社のソースを意味するようになっていると、商標登録を許したのだ。加工食品にタバスコの名を使うとマキレニー社の商標権に抵触することになる。

(当初作成日:3/19/2000

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