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シカゴ案内(2)− 地区別
昔から世界でももっとも混雑している街角と言われているステートとマディスンの交差点は、そのときは1年中でも最高にごった返していた。<ボストン・ストア>の大時計の真下で、群集はほとんど身動きもできぬくらいにひしめいていた。
(『大はずれ殺人事件』p11)
シカゴは、碁盤の目のように、規則正しく通りが走り、街の東にミシガン湖が位置するので、東西南北はわかりやすい。
シカゴのダウンタウンを南北に走るステート・ストリート(State Street)を境に、東地区Eastと西地区Westに分かれる。また、ダウンタウンを東西に走るマディスン・ストリート(Madison Street)を境に北地区Northと南地区Southに分かれる。ダウンタウンの住所には番地の後に、その4つの位置を示すN,S,W,Eのアルファベットが必ず記されている。

このステート・ストリートとマディスン・ストリートの交差するところ、すなわち、ちょうど上の地図の(ストリート名の表示はないが)縦の点線と横の点線が交差するところが、街の0番地地点となっており、住所はここを起点として、東西南北の4方向に番地が増えていくようになっている。基本的には、1ブロックごとに100番地ずつ番地は増えていくが、2ブロックで100番地増えるところもある。だいたい、8ブロックが1マイル(1.6キロメートル)の距離にほぼ等しく、1ブロックの辺が約200メートルと考えるとわかりやすい。さらに、街を南北に走る通りは、東側が奇数、西側が偶数の番地、東西に走る通りは、北側が偶数、南側が奇数となっている。
冒頭引用した場所、すなわちステート・ストリートとマディスン・ストリートの交差点は、まさに0番地地点であり、世界でもっとも混雑している街角だった。ただし、『大はずれ殺人事件』は60年前の作品であることをお忘れなく。現在は、<ボストン・ストア>はないし、人ごみでごったがえすということもない。
前ページでは、マローンのニューヨークでの独白をたよりにシカゴの名所を案内した。ここでは、もうすこし体系だてて、上の地図の地区分類に従って案内しよう。
シカゴのダウンタウンをループ(Loop)と呼ぶ(地図の赤色部分)。これは、高架鉄道”L”の前身だった市電が、ダウンタウンの中心を輪(Loop)のように囲む形で走っていたことに由来する。このループ地区は、20年くらい前までは、ビジネスと商業の両面にわたって、まさにシカゴの中心地だった。しかし、主要デパートが次々に郊外に移り、今では、マーシャル・フィールドとカーソン・ピリー・スコットが残っているくらいなものだ。シカゴの象徴ともいうべき商品取引所や多くの金融機関がひしめく典型的なビジネス街となっている。パーマー・ハウスやヒルトン・タワーのような大きなホテルもいくつかあるが、レストランやナイトスポットは少ない。ビジネスマンが簡単な食事をとるようなところばかりだ。
前ページで紹介したデイリー・センター、市庁舎(シティ・ホール)、ファースト・ナショナル銀行、ルッカリー、連邦政府センター、モナドノック・ビル、シアーズ・タワーなどは、全てループにある建物だ。その他のループの名所を案内しよう。
ステートからウォバッシュに至る通りの北側は、マーシャル・フィールドがすべてを占領している。わたしの街並みの記憶に誤りがなければ、ワシントン通りのミシガンに近いところに、もう一軒酒場があったような気がする。それはまた別の日にすればいいだろう。わたしはステート通りの地下鉄の階段を降りて、アディスンに向かうB列車に乗った。
(『サマータイム・ブルース』p226)
マーシャル・フィールド(Marshall Field's)は、シカゴの老舗デパートの1つで、創業は1853年。かつてのシカゴ随一のショッピング街、ステート・ストリートに現在も面している。1892年完成のビルは、シカゴ派の建築のひとつである。スケルトン法でできてはいるが、設計者バーナムが物質感・重量感を出す造りにしている。
ステート・ストリートとワシントン・ストリートが交差する角にある真鍮製の大時計は、シカゴのランドマークのひとつでもある。また、ワシントン・ストリート側にある内装のティファニー社製のドームも必見と言われる。
余談だが、ロンドンのチェルシー・テラスに主人公チャーリー・トランパーが巨大なデパートを作り上げるまでをスリリングに描くジェフリー・アーチャーの『チェルシー・テラスへの道』で、トランパーがデパート経営について教えを請うためにシカゴのマーシャル・フィールドを訪れ、トランパーとフィールドが意気投合する場面が出てくる。ちょっと長いが引用する。
それから彼らは列車でシカゴへ行き、スティーヴンズ・ホテルに部屋を取った。到着と同時に部屋がスイートに格上げされていることと、マーシャル・フィールドのミスター・ジョセフ・フィールドが明日の晩食事をご一緒したいという肉筆の手紙を残して行ったことを知った。
レイク・ショア・ドライブにあるフィールド夫妻の自宅での夕食の間に、チャーリーは世界最大の百貨店というマーシャル・フィールドの広告を話題にして、チェルシー・テラスはそれよりも7フィート長いですよとミスター・フィールドに警告した。
「なるほど、しかし21階の建物を建てることを当局が認可しますかな、ミスター・トランパー?」
「22階建てです」と、チャーリーはロンドン市議会が何階建てまで認可するかを知りもせずに、すかさず反撃した。
翌日チャーリーはマーシャル・フィールドを内部から観察することによって、大型店舗に関する知識をさらにふくらませた。なかでも感心したのは、店員がチームを組んで働き、女店員は襟に金色の「MF」という頭文字のついたスマートなグリーンの服、各フロアの売り場監督はグレイ・スーツ、
そしてマネジャーたちはダーク・ブルーのダブル・ブレザーを着ていることだった。
「お客が助言を必要とするとき、とくに店内が混雑しているときは、このほうが従業員を見分けやすいですからね」と、ミスター・フィールドは説明した。
チャーリーがマーシャル・フィールドの経営法式に熱中している間に、ベッキーはシカゴ美術館に通い詰め、とりわけワイエスとレミントンの作品がすっかり気に入って、ロンドンでもこの2人の画家の展覧会を開催すべきだと考えるようになった。
(『チェルシー・テラスへの道』(下)p15)
マーシャル・フィールドに次ぐ老舗デパートがカーソン・ピリー・スコット(Carson Pirie Scott and Company)だ。しかし、カーソン・ピリー・スコットはデパートとしてよりも、むしろシカゴ派の建築家ルイス・サリヴァン(Louis H. Sullivan)の代表作として広く名を知られている。もっとも、サリヴァンが作ったのはマディソン・ストリートに面した北側部分のみである。
カーソン・ピリー・スコットの住所は、"1 S. State Street"。思い出してほしい。ステート・ストリートとマディソン・ストリートの交差点が0番地地点だ。したがって、"1 S. State Street"は、ステートとマディソンの交差点(←1番地)にあり、マディソンの南(←S)、ステートの東側(←奇数番地)であることを示している。すなわち、ステートとマディソンの交差点の南東側にあることがわかる。
わたしや友人たちは女性のあいだで最悪の怪物のひとつとされている、ループの北西の角にあるビルに資金援助をおこなってきた。つまり、税金を通じて州の財源に寄付をおこない、トンプスン州知事がそのなかの1億8千万ドルをイリノイ州ビルの建設に当てたのだ。設計はヘルムート・ヤーン、同心円のガラスの環2個からなる高層ビルである。内側の環は直径1ブロックの、ビルの最上階まで吹き抜けの円形ホール囲んでいる。だから、わたしたちは建設資金を提供させられた上、大部分が空間である場所を冷暖房するための費用も出さなくてはならないのだ。なのに、このビルは1986年の建築賞を受けている。わたしにいわせれば、批評家の鑑識眼がどの程度かを示すいい証拠だ。
(『レディ・ハートブレイク』p258)
クラーク、ラサール、ランドルフ、ワシントンの4つの通りに囲まれた1ブロックに、比較的背の低い円筒形を4分の1に切ったような個性的なビルがデーンと居を構えている。この全面青いガラスで覆われた特徴ある建物が、旧イリノイ州センター、現在のジェームズ・R・トンプソン・センター(James R. Thompson Center)だ。イリノイ州の州都はすでに説明したように中部のスプリングフィールドにあるが、このセンターは州役所の出張所として、現在70部門以上の州政府のオフィスが入居している。引用にもあるように、内部は大きな吹き抜けのある17階建てで、その最大の特徴は完全に壁がないことだ。したがって、センター内はすべての音がガラスパネルに反響して騒々しい。「世界初の省エネルギービル」とのふれこみだったが、完成当初は設計ミスからか、冬は寒く、夏は蒸し暑い最悪の状況だったらしい。現在は快適な空調が整っているが、ヴィクが文句を言いたくなるのもよくわかる。ちなみに、ジェームズ・R・トンプソンは1977年から91年まで4期にわたってイリノイ州知事をつとめた。
わたしたちはほぼ同じ背丈なのに、わたしは彼女の長い滑らかな足運びに遅れまいと、小走りにならなくてはならなかった。廊下を離れて奥に向かい、オフィスや小部屋の迷路を抜けて、ランドルフ通りのグレイハウンド・バス・ターミナルを見下ろす部屋に着いた。1億8千万ドルは上等の防音設備に使われたのではなかった。18階のわたしたちのところまで、いとも簡単に騒音が届いた。
(『レディ・ハートブレイク』p260)
これも、旧イリノイ州センターの描写の続き。グレイハウンド・バス・ターミナルを見下ろすとあるが、現在は、バス・ターミナルはシカゴ川西(いわゆるウェスト・ループ地区)に移っている。ミルウォーキー、マディソン、インディアナポリスなどに向かうには、飛行機よりグレイハウンド・バスの方が、経済的にも時間的にもずっと便利である。
クーパーは、デイリー・センターに入っていった。法律図書館が27階にあったか29階にあったかおぼえていなかったので、金属探知器のわきにいた警備員に尋ねた。図書館は29階にあることがわかり、今度は高速エレヴェーターをさがした。
クック・カウンティ法律図書館は、その階を全部占領していたが、三方にある床から天井までの窓からは街の絶景が見晴らせた。
(『長く冷たい秋』p325)
だから、自分のために働くことは、知合いのどんな事業主のために働くよりも楽だとつくづく思っている。とはいえ、私立探偵という稼業はマーロウやスペンサーが気どりたがるような孤独な騎士ではない。仕事時間の半分は、退屈な監視にとられるか、デイリー・センターで事件の背景を調べて1日つぶしてしまうかだ。そして残りの時間の大部分は、自分を雇ってくれるよう人々に売り込むことに使われる。それも成功しないことがしばしばだ。
(『バーニング・シーズン』p57)
デイリー・シビック・センター(Daley Civic Center)については、前ページでピカソの<無題>という彫像がある場所ということで言及した。
高さ26.5m、31階建ての鉄鋼製ビル。市民センター(Civic Center)として建てられたが、1976年心臓発作で亡くなったシカゴの名市長リチャード・J・デイリーの功績を称え、彼の死後は現在のように呼ばれるようになった。中には市の裁判所やクック郡の事務所が入っている。ヴィクもクーパーも調べ物はいつもここである。
ちょっと横道にそれるが、シカゴを語るにリチャード・デイリーを忘れるわけにはいかない。
おっと、僕は”マシーン”と呼ばれる党組織について話そうとしていたんだった。
てっぺんに立っているのは、もちろん市長だ。それから、民主党の委員長。かつてデイリーが君臨した時代は、彼が両方を兼ねていた。政府の親玉がそのまま国家元首に納まるソ連の支配体制と似ている。
都市部に50、郊外には30の選挙区があって、それぞれに元締めがいる。都市部の選挙区はそれぞれ50から70の班に分かれ−−シカゴ全域で約3500の班がある−−、各班には班長とひとりないし6人の常勤の部下がいる。部下の数は、元締めがどれだけの働き口をばらまけるかによって決まる。縁故採用というやつだ。市の職員の数は3万人。10人にひとりは党の班長ということになる。
………
”マシーン”の役割は、市長、市会議員、世話役、郡の監査役、党書記、クック郡選出の州検事などを推挙することだ。監査役はアイルランド人と相場が決まっている。党書記というのは、選挙運動の責任者だ。州検事もアイルランド人が選ばれることが多い。市部の書記は通例としてポーランド人が務め、地区衛生委員の椅子のうち最低ひとつはギリシア人に割当てられる。なぜかと訊かれても困るが。
(『ごみ溜めの犬』p8)
リチャード・デイリーは、まさにシカゴのボスという存在で、1955年から1976年まで、6期にわたって市政を牛耳った。移民集団の結束力の強い都市部では、権益、役職を利用して親分子分の関係を作り上げる「マシーン」と呼ばれる政治組織が機能しやすかった。アイルランド移民3世であるデイリーは、アイルランド系を中心としたこのマシンのボスとしても君臨し、市政だけでなく、イリノイ州、さらには連邦政府、大統領選挙にまで影響を及ぼすほどの力をもったのだ。現在のリチャード・M・デイリー市長は実の息子である。
「おれたちジャーナリズム界の労働者は、安い給料をどこかで補わないとやっていけん。それで、きょうはだれをゆするつもりなんだ?デイリー市長か?フィールズ夫妻か?バーナーディン枢機卿か?」
(『雨のやまない夜』p298)
更けてくる夜をついて、ムアランドは錆の出たトヨタで35番通りを西ヘ向かい、新しい巨大なソックス・パークを過ぎ、鉄道の長い高架陸橋の下を通ってブリッジポートに入った。ブリッジポートは、ムアランドによってこの街の神秘の中心だった――リチャード・デイリー1世が市長だったころ、デイリーランドとも呼ばれた一郭。遠くからでもいちはやく届くアイルランド人の神秘的な影響力、労働者階級の怒り、カトリックの熱い情熱、ホワイト・ソックス・ファンの熱狂ぶり、そして好戦的な白人社会。ブリッジポートは、ムアランドが入社したての市内版担当の新米新聞記者だったころ、リチャード1世市長が突然不慮の死を遂げたという第一報が入ってサウス・ロウ通りへすっとんでいった1976年の12月のあの日以来、彼を魅了してきていた。
(『春までの深い闇』p165)
バージャーによれば、むかしからの住民と大学に勤めている人たちは反目しあっているということだった。レストランに看板がないのもそのためだった。初代のデイリー市長は、高速道路と大学をつくるためにリトル・イタリーから魂を抜いてしまい、のこったイタリー人たちは塹壕を掘って隠れ、永遠に恨みをかかえることになった。
(『過ぎゆく夏の別れ』p270)
彼が居心地わるそうにもじもじした。「……だって、サウス・シカゴの荒れ放題の歩道とか、失業率とか、そんなことばっかり攻撃されてさ。おやじの責任じゃないんだ。ワシントンが市長になったもんだから、白人が暮らす地域には1セントも流れてこなくなったんだ」
わたしはその点に反論しようとして口をひらいたが、またとじてしまった。サウス・シカゴは偉大なる故デイリー市長のもとで崩壊を始め、あとを継いだビランディック、バーンの時代にも同じく無視される一方だった。そして、アート・シニアはそのあいだずっと市会議員をつとめていたのだ。
(『ダウンタウン・シスター』p346)
立て続けに引用した。デイリー市長が偉大であったことは誰も否定しないが、当然6期も市長を続けると、いろいろとマイナス面も出てくる。サム・リーヴズ、サラ・パレツキーそしてロバート・キャンベル、作家たちのデイリー市長に対する評価は厳しい。
「舞台での上演と、オペラを作り上げていく純粋な――技巧とでもいえばいいのかしら――それはわたしも好きよ。とても熱のこもった仕事ですもの。でも、歌うのは過酷な重労働よ。わたし、どちらかというとリートのほうが好きだわ。母は歌のレッスン料のなかからいつも、毎年秋に催されるリリック・オペラの公演に2人で2、3回行けるだけの額を貯めていたわ。それから、夏になると父が4回か5回、カブスを見に連れていってくれるの。リリック・オペラのほうがシカゴ・カブスよりも上品だけど、正直に白状すると、いつも野球のほうが楽しかったわ」
(『センチメンタル・シカゴ』p52)
アメリカの3大オペラのひとつとして知られ、質の高いオペラで世界的に有名なシカゴ・リリック・オペラ(Lyric Opera of Chicago)のホーム・ハウス、シビック・オペラ・ハウス(Civic Opera House)もループの中にある。アール・デコ調の建物は外から見ただけではとてもオペラ・ハウスには見えない。というのも、ビル自体は1920年代後半に建てられたオフィスビルなのだ。
  
リリック・オペラは、チケットの99%を定期会員(そのほとんどがシカゴ市民)で売り尽くしてしまうほどの超人気だ。日本で手に入りにくいクラシックやオペラのチケットも、実際に現地に行けば比較的簡単にとれるのが普通だが、リリック・オペラについてはなかなか入手できないのが実状だ。
…結局、時間つぶしのために発声練習を始めた。わたしの母はかつては声楽家で、ヒトラーとムソリーニによって奪われたオペラ歌手としての道をわが子に歩ませるつもりで、わたしに声楽家としての訓練を積ませた。それは失敗に終ったけれど、わたしは数多くの発声練習法を知っているし、母が1937年にイタリアを離れる前にプロとして歌った唯一のオペラ、《トーリードのイフィジェニー》の主なアリアはすべて歌うことができる。
(『レイクサイド・ストーリー』p197)
ヴィクの母親ガブリエラはオペラ歌手を目指していたが戦争で挫折を余儀なくされ、その夢をヴィクにかけた。厳しい母親に仕込まれたヴィクの声楽家としての腕前はなかなかのものらしい。でも、オペラよりシカゴ・カブスの方が好きなのだ。
パーマー・ハウスのまえの縁石にタクシーをつけて、考えごとに没頭していた。そのとき、派手に盛り上げたヘアスタイルの太った女がタクシーのうしろのドアを乱暴にあけ、言った。「ミッドウェイまで、急いでいってちょうだい!」
(『長く冷たい秋』p190)
ダウンタウンのヒルトン・ホテルでダーク・ブルーのスーツに身を包んだお偉いさんをおろし、つぎに悪のりして買い物をしすぎた女性にタクシーをとめられた。すでにもちきれないほど荷物をもっているのに、彼女はミシガン・アヴェニューを北上してウォーター・タワー・プレイスを見物したがった。
(『雨のやまない夜』p65)
<クーパー・マクリーシュ・シリーズ>には主人公クーパーのタクシー・ドライヴァーという職業柄、シカゴのホテルがたくさん出てくる。ループの代表的なホテルといえば、このパーマー・ハウスとヒルトン・タワーズだ。ただし、ヒルトンはグラント公園に面しており、厳密にはループといえないかもしれない。
本当は、金融の世界で、ここまでシカゴを有名にした先物取引所も紹介しなければならないのだろう。しかし、適当な引用文が見つからない。有名な取引所としてシカゴ先物取引所(Chicago Board of Trade:CBOT)とシカゴ商品取引所(Chicago Mercantile Exchange:CME)の2つの名前を挙げるにとどめる。先物取引にからむ犯罪を扱ったミステリーにスコット・トゥローの『立証責任』がある。『推定無罪』で一躍有名になったトゥローの第二作だが、『推定無罪』に劣らずめちゃくちゃおもしろいのでお勧めする。
ループ地区の紹介はこの辺で終える。
次は、ウェストループ(West Loop)と プリンターズ・ロウ(Printer's Row)地区だ(冒頭地図オレンジ色部分)。
まず、ウェスト・ループには大きな駅が2つある。ユニオン駅(Union Station)とノースウェスタン駅(Northwestern Station)だ。
世界最長の鉄道王国アメリカ。その中枢がシカゴのユニオン駅だ。アメリカの鉄道網はシカゴを中心に東西南北に延びている。東はニューヨーク、南はニューオリンズやマイアミ、そして西はサンフランシスコやロスアンゼルスへと、約500の駅と結ばれている。交通手段の中心が鉄道から飛行機に変った現在、最盛期の活気は薄れているものの、鉄道のハブとしてのシカゴ・ユニオン駅は健在である。
現在、ユニオン駅にはアムトラック(Amtrak)とシカゴ近郊列車であるメトラ(Metra)が乗り入れている。
このユニオン駅は、映画の舞台としてもよく使われる。
ジュリア・ロバーツの『ベスト・フレンズ・ウェディング』で、キャメロン・ディアス演じるキミーが、結婚式当日、婚約者マイケルとジュリア・ロバーツ演じるジュリアンのキス・シーンを目撃して、披露宴準備を進める会場から飛び出してしまう。キミーが見つかるのがユニオン駅という設定だ。
でも、何と言っても、ユニオン駅と言えば、ケビン・コスナーの『アンタッチャブル』のクライマックス・シーンにとどめをさす。あまりにも有名で説明する必要もないと思うが、エリオット・ネスの手を離れ、一段、一段と階段を転げ落ちていく乳母車と、ネスとアル・カポネ一味の銃撃戦のコントラストは映画史上に残る名場面と言われている。ただ、映画好きの人なら、乳母車が階段を転げ落ちるシーンは、エイゼンシュタイン監督の不朽の名作『戦艦ポチョムキン』の<オデッサ階段>の焼き直しってすぐにわかりますよね。
アンタッチャブル、エリオット・ネス、アル・カポネ(Al Capone )と来れば、またまた横道にそれてしまうが、<禁酒法>に触れないわけにはいかない。
アメリカでは、1920年1月17日の午前零時を過ぎて、酒類の製造、販売、運搬等を禁止する合衆国憲法修正第18条が発効した。また、その執行法である全国禁酒法(National Prohibition)、あるいは提案者の名をとってヴォルステッド法が制定された。ここでは、「酒類」の定義他実際に憲法を執行するための細則が規定されている。これより1933年12月5日に、憲法修正第21条(第18条の廃止)が確定するまでのおよそ14年間にわたる時代を<禁酒法の時代>などと呼んでいる。
ただし、突然、禁酒法が制定されたわけではない。植民地時代から過度の飲酒を戒めて節酒が提唱されていたが、独立後の19世紀に入ってからは組織的な運動となった。南北戦争が始まると禁酒を強制することは不可能となったが、南北戦争後2つの組織によって禁酒法運動が復活した。1つが1869年に結成された全国禁酒法党(National Prohibition Party)と、他の1つが1874年のキリスト教禁酒婦人同盟(Woman's Christian Temperance Union)だ。国際キリスト教禁酒婦人同盟の本部がボクの住んでいたエヴァンストンにあったことは前に述べた。
禁酒法は、都市・農村を問わず、主としてWASPの市民の間で支持された。世紀転換期のアメリカは、ヨーロッパからの大量の移民が流入し、民族的多元化に拍車がかかった。WASPの間で文化的規範を問い直す風潮が強まったことと禁酒法運動への支持はリンクしているといえる。ジョン・ロックフェラー親子は禁酒法支持で有名で、運動に対して多額の寄付をしていたと言われる。
20世紀を迎えたころ、メイン、カンザス、ノースダコタの各州には、禁酒法が成立していた。蒸留酒がだめでビールならよいとか、禁酒法といっても内容はまちまちであるが、1919年の時点では33州で禁酒法が成立していたといわれる。
アメリカがドイツと戦闘状態に入る1917年頃には、国民の愛国心が高揚すると同時に、禁欲的な生活を強いる風潮が一段と広まった。醸造業者のほとんどがドイツ系移民だったことも、禁酒法運動をさらに活発なものにした。こういう状況のもとで、憲法修正第18条は成立したのである。
ここで注意してほしいのは、<禁酒>の意味である。我々日本人は禁酒というと、他人の飲酒をやめさせたり、自らの意思で飲酒をやめることを意味する。だから、<禁酒法>と聞くと、飲酒すると罰せられると思う人が多いのではないかと思う。しかし、<禁酒法の時代>を通じて、飲酒行為が罰せられたことはない。
ロバート・レッドフォード主演の映画『華麗なるギャツビー』を見たことのある人は、ギャツビー邸で催されるパーティーに酒がふんだんに饗されていたことを覚えているだろう。『華麗なるギャツビー』は、まさに禁酒法が施行されていた1920年代の話だ。どうして、ギャツビーは警察に逮捕されなかったのか?
修正第18条によって禁止されたのは、「酒類を飲用目的で、製造、販売、運搬、輸出、輸入すること」だったのだ。決して「飲酒行為」自体を禁止してはいなかった。したがって、密造酒を買って飲む行為は違法ではなかった。買いだめしておいた酒で行う自宅での飲酒パーティーは違法ではないが、自分一人で飲むためでも、家でこそこそ酒を造ることは「憲法違反」だったのだ。
個人の飲用目的での酒類の「所有」も許された。しかし、所有される酒は、あくまで禁酒法施行以前に製造されたものでなくてはならなかった。施行後に製造された酒類は禁制品なので、個人が購入しても罪にはならなかったが、酒そのものは没収・廃棄の対象となった。密造酒のなかに、1910年代に製造されたと偽りの表示が多かったのは、この理由による。
問題は、禁酒法の執行だった。第18条の執行には、財務省の国内歳入局が当たることになった。そこで、歳入局の中に、<禁酒法部隊>(Prohibition Unit)が編成され、係官の総数は当初3000名余だった。しかし、翌年には歳入局から独立した部局となり、<禁酒法局>(Prohibition Bureau)と改称された。さらに、1930年には司法省へ移管された。沿岸警備隊(Coast Guard)や税関局(Bureau of Customs)が連邦政府機関の中でも、特に禁酒法部隊への協力が期待された。要は、なかなか効果が上がらなかったのだ。
驚くべき数字がある。全国禁酒法が施行されてから1930年末までの11年間に、1608名の禁酒法部隊に所属する執行官が、違法行為によって解任された。この間、延べ1万8千名近くが任命されたので、ほぼ11名に1名が不正を働いたことになる。その違法行為とは、収賄、財物強要、公金着服、虚偽報告などである。ちなみに、エリオット・ネスを隊長とした捜査チームは<アンタッチャブル>(The Untouchables)と名づけられたが、これは「買収されない人」を意味する。いかに買収されやすい執行官が多かったかを逆説的に語っている。
アル(フォンソ)・カポネのような、大規模な組織をもつ酒類密売業者や密造業者のことを<ブートレガー>(bootlegger)と呼んだ。ブーツのすね(レグ)の部分に違法な酒を隠して運んだことが語源で、もともとは<運び屋>を指すのに使われていた。
ブートレガーとして成功した者には、いわゆる新移民、すなわち、ポーランドやイタリアなどの東・南ヨーロッパからの移民が多かった。カポネはその典型で、彼の両親は1983年にイタリアのナポリからやってきた移民だった。ちょうどその年は19世紀最悪の不況が始まった年で、ニューヨークのイタリア人スラム街でのカポネの生活は悲惨なものだったらしい。カポネをニューヨークからシカゴへ呼び寄せたのは、ジョン・トリオだった。トリオは、カポネが溺愛した息子アルバート(愛称ソニー)のゴッド・ファーザー(名付け親)にもなった恩人だった。
カポネとその一味が暗躍した時代には、シカゴ市内にもいわゆる無法地帯と呼ばれる場所があったが、彼らはやがてディーヴァーに街を締め出され、シセローに移動した。シセローは今でも、何が起こっても不思議がない地区だ。僕の住む27区はまんなかにどや街があって、お世辞にも修道院のような静穏な土地柄とはいいにくいが、シセローと比べると、少なくとも女学校並には見える。シセローを支配するのは、言わずと知れたマフィアだ。
(『ごみ溜めの犬』p174)
シセロはシカゴの西に位置する都市だ。カポネはシセロを支配する1924年頃に、すでに700名−−1000名という説もある−−の「実戦部隊」を組織していたと言われている。
ただし、『アンタッチャブル』で描かれたような銃撃戦はかなり脚色されたもので、実際のネスたちの仕事はカポネの脱税容疑を立証する証拠集めなどの地道な捜査と取り締まりだったらしい。禁酒法時代に殺人事件が多発したとの俗説がある。しかし、実際人口10万にあたりの殺人事件の推移を見ると、殺人事件が多かったのは、禁酒法施行以前の1901年から1910年までの10年間であり、最近のアメリカの数字は禁酒法時代とほとんど変わらないとも言われている。
用心棒が道をあけ、ぼくは顔を見られることなく、クラブの奥にあるバーにたどり着く。フロア・ショーが始まっており、横一列に並んだ娘たちが、足を高く蹴り上げながら、雌の孔雀みたいな甲高い声で“楽しい日々がまた帰ってくる”と歌っている。シカゴは禁酒法時代を乗り越えられずにいるのだ。シカゴ市民が街に繰り出して騒ぐとき、女たちはみんなチャカチャカ娘になりたがり、男たちはみんなギャングになりたがる。カポネ以後、何もかもが下り坂になったとでもいうように。
(『ごみ溜めの犬』p202)
「シカゴは禁酒法時代を乗り越えられずにいるのだ。」と「“楽しい日々がまた帰ってくる”」の関係がわかりにくいかもしれない。理屈っぽく説明すると、禁酒法の時代は、アメリカ文化史の中で<ジャズ・エイジ>と呼ばれる時代と重なっている。黒人が南部から北部に移動し、ジャズは20年代に入ってニューヨークやシカゴでも人気を集めた。『華麗なるギャツビー』の作者であり、『ジャズ・エイジの物語』という作品も書いているF.S.フィッツジェラルドは、ジャズ・エイジの旗手だった。ジャズ・エイジという厳格な道徳を否定し、自由と享楽を求める軽佻浮薄な時代に禁酒法は施行されたのだ。だから、アメリカ国民は酒を飲まなくなったどころか、一般女性までもが秘密の場所でおおっぴらに飲酒を楽しんだ。シンクレア・ルイス、ユージーン・オニール、ウィリアム・フォークナー、アーネスト・ヘミングウェイ、ジョン・スタインベックの5人の文学者の共通点は何か?ジャズ・エイジに活躍してノーベル文学賞を受賞したことだ。そしてもうひとつ共通点、5人ともアルコール依存症だった。これが禁酒法時代だ。
禁酒法で寄り道をしてしまった。プリンターズ・ロウに移ろう。
ループの南、ディアボーン・ストリート駅からまっすぐ北へ延びるディアボーン・ストリートは、シカゴの有名な建築が連なり、建築めぐりには最適の通りだ。そのディアボーン・ストリート駅から2ブロックぐらいは、19世紀の末、出版業者や印刷屋が軒を並べていたことからプリンターズ・ロウ(Printer's Row)と呼ばれるようになった。
次は、マグニフィセント・マイル(The Magnificent Mile)(冒頭地図ピンク色部分)だ。
シカゴ川の南に位置するループがシカゴの金融の中心なら、北に位置するマグニフィセント・マイルと後程述べるリバー・ノース地区、ストリーターヴィル地区は、まさに商業の中心である。ループ地区に比べると摩天楼の数はぐっと減るが、この地域には、ギャラリー、レストラン、ショップがひしめき合い、年々活気を増している。
シカゴが初めてなら、はじめに<マグニフィセント・マイル(魅惑の1マイル)>の麗名をもつ北ミシガン通り(North Michigan Avenue)から歩き始めるとよい。「シカゴは長さは1マイル、幅は2ブロックだけのところだ(Chicago was only a mile long and two blocks wide)」と極端なことを言う人もいるくらいだが、ニューヨークでいえば5番街、パリでいえばシャンゼリゼ通り、東京でいえば銀座通りにあたるシカゴの目抜き通りだ。マグニフィセント・マイルは、ミシガン通りとマディソン・ストリート(0 North)からオーク・ストリート(1000 North)までの文字通り1マイルを指す。
ミシガン通りがシカゴ川とクロスするところ、つまりミシガン通り橋(Michigan Avenue Bridge)は、シカゴのショッピング・エリアへの出発点だ。デパートでは、ブルーミングデールズ、サックス・フィフス・アヴェニュー、ニーマン・マーカスがあり、ショップでは、ディファニー、グッチ、バリー、ポロ・ラルフローレン、バーバリー、カルチェなどがある。マイケル・ジョーダンが引退するまでシカゴで一番の人気を誇っていたのが、ナイキ・タウン(Nike Town)だ。エアー・ジョーダンで日本も席巻したスポーツ用品ナイキの専門店である。ここは、ショップというより、近代的なスポーツ・ギャラリーといった方がよいかもしれない。
マグニフィセント・マイルには有名なショッピング・センターが3つある。ウォーター・タワー・プレイス、900北ミシガン・ショップスとシカゴ・プレイスだ。
ダウンタウンのヒルトン・ホテルでダーク・ブルーのスーツに身を包んだお偉いさんをおろし、つぎに悪のりして買い物をしすぎた女性にタクシーをとめられた。すでにもちきれないほど荷物をもっているのに、彼女はミシガン・アヴェニューを北上してウォーター・タワー・プレイスを見物したがった。
(『雨のやまない夜』p65)
ウォーター・タワーのはす向かいに位置するウォーター・タワー・プレイス(Water Tower Place)には、マーシャル・フィールド、ロード&テイラーなどのデパートをはじめ、ダンヒル、シャルル・ジョルダン、ルイ・ヴィトンなど人気の一流店が約60店舗入っている。
背後で静かにエレヴェーターがあいた。わたしと同い年くらいの女がジョギング用の服装であらわれ、続いてサックスに出かける年配の女2人が、途中のウォーター・タワーで昼食にすべきかどうかを議論しながら出てきた。わたしは腕時計を見た。12時45分。今日は火曜日なのに、彼女たちはなぜ働いていないのだろう。
(『レイクサイド・ストーリー』p29)
ヴィクのいとこだったブーム・ブームのマンションがあるチェストナット通りを、西にミシガン・アヴェニューまで出て、ミシガン・アヴェニューを南下するとウォーター・タワーがある。さらに南下するとテラ美術館の北側がシカゴ・プレイス(Chicago Place)と呼ばれるショッピング・モールで、この中にサックス・フィフス・アヴェニューも入っている。ちなみに、「ブルーミー」の愛称で親しまれるブルーミングデールズは3つのショッピングセンターでは一番北にある900北ミシガン・ショップス(900 North Michigan Shops)に入っている。
「妙だってことはうんざりするほど承知している。いいか、被害者は昨日の昼ごろフィラデルフィアから飛行機でここにやってきた。それはわかっている。ドレイク・ホテルにチェック・インし、部屋に入って顔を洗い−−荷物はひげ剃り道具と着替えのシャツ1枚が入った小さなバッグだけだ−−食堂におりてきて昼飯を食い、外に出て行った。そこまでは調べがついてる。で、そのあとなにかがあって、それからリンカーン・パークのベンチで死んでいるのが発見されたわけだ」
(『死体は散歩する』p157)
有名ホテルも北ミシガン通りに沿って建ち並んでいる。ドレイク、リッツ・カールトン、ウェスティン、マリオット、インターコンチネンタルなどだ。
ミシガン湖畔に面したドレイク・ホテル(The Drake)は、シカゴ屈指のホテルである。エヴァンストンからレイク・ショア・ドライヴをシカゴ・ダウンタウンに向かって車で走ってくると、正面にドレイク・ホテルが見えてくる。何度通っても絶景だった。1920年創業とシカゴのホテルではもっとも古く、昭和天皇、エリザベス女王、チャーチルなどそうそうたる人物が宿泊している。ちなみに、『死体は散歩する』は1940年の作品だ。
トム・クルーズの『ミッション:インポッシブル』にも出てきたのを覚えていますか?The Drakeの名が入った聖書がストーリーの1つの鍵になっていた。また、『ベスト・フレンズ・ウェディング』ではジュリアンとマイケルの宿泊ホテルとして設定されていた。
その他、マグニフィセント・マイルでの見所は、ウォーター・タワー、ジョン・ハンコック・センター、トリビューン・タワー、リグレイ・ビルなどだが、ウォーター・タワー以外は前頁ですでに説明した。
ジェークは何も言わなかった。あとはずっと、タクシーの窓から憂鬱そうに外の雪を見守っていた。雪は依然として大きな羽根毛のように地に降りしきり、往きかう自動車のタイヤのために灰色のぬかるみと化していた。早い冬の黄昏が街にたちこめていた。ミシガン・アヴェニューの建物の窓々は黄色の靄のなかで色とりどりに輝いていた。半ば雪に包まれてその白いカーテンに赤い光を投げかけている<ウォーター・タワー>を過ぎ、荒涼たる砂と雪と氷のかたまりのつづくオーク・ストリート・ビーチをすぎて、シラー・ストリートで西に曲がった。
(『大はずれ殺人事件』p37)
町の大半を焼き尽くした1871年の<シカゴの大火>に唯一焼け残った公共の建造物がウォーター・タワー(Water Tower)だ。その名の通り、町の給水塔としてミシガン湖の水を汲み上げ、市内の各世帯に供給していた。その機能故に延焼を免れたのだ。町のシンボルとして愛されている。
ミシガン・アヴェニューのはるか上方で、リージス・スワンソンはシャツ姿でデスクに向かっていた。背後には、半マイル先のシカゴ川までのびている景観と、すぐ近くのループが窓を額縁のようにして見えていた。川は照りつける陽光の下で、メタリック・グリーンのリボンのように見えた。
(『過ぎゆく夏の別れ』p43)
シカゴ川(Chicago River)はシカゴのダウンタウンで"Y"の字の形になってミシガン湖に注ぐ(冒頭地図紫色の部分参照)。シカゴへの入植は、陸軍長官ディアボーンの命で、1804年、今のミシガン通り橋の南端にディアボーン砦(Fort Dearborn)が作られたときに本格化する。いわばシカゴはシカゴ川のほとりから始まったと言える。夏のシカゴ川は確かにメタリック・グリーンのリボンのように見える。作家はうまい表現をするものだ。
屋外のテーブルからシカゴ川が見渡せる、感じのよいレストラン〈フィオレラ〉へようやくたどり着いたとき、マリはすでに2杯目のビールを飲み終えるところだった。彼はエリオット・グールドを赤毛にしたような大男で、わたしが近づくのを見て、のろのろと手を振った。
高いマストの帆船が一隻、川面をすべって行った。「ほら、あの船一隻のために、この川のはね橋全部を上げなきゃならない。ひでえもんだ、なあ」そばまできたわたしに、彼はいった。
「あら、ちっぽけな船一隻でミシガン・アヴェニューの交通を全部止めてしまえるなんて、ちょっと感動的な話じゃないの。もちろん、自分が川を渡らなきゃならないときに、橋がはね上がっちゃうのは困るけど」これはあまりにもしばしば起きる現象なのだ。車を運転する者たちは、すわってひそかに怒りをたぎらせながら待つ以外に、方法がない。
(『サマータイム・ブルース』p214)
シカゴ川には多くの橋がかかっているが、すべてはね橋(drawbridge)であることに気づく。小さなヨットが通るだけなのに、大きな橋が上がって、交通が遮断されてしまうのだ。日本人の感覚では信じられない。2年前にシカゴに行ったとき、シカゴ川のほとりに建つシェラトン・ホテルに泊まった。何気なく窓から川を見ていたら突然橋が上がり出した。おもしろくて下がりきるまで見てしまったが、これが予想以上に時間がかかるのだ。「車を運転する者たちは、すわってひそかに怒りをたぎらせながら待つ以外に、方法がない」のはその通りだ。
マグニフィセント・マイルの西側がリバー・ノース(River North)と呼ばれる地区だ(冒頭地図水色部分)。
画廊がたくさんあるスーペリアー通りとヒューロン通りは、昔セカンド・シティ工業団地が不況に見舞われたころスーヒュー地区と呼ばれていた。しかし、地区の住民たちにはやはりリヴァー・ノースという名前のほうが受けがよく、画商たちは古い工場を買い上げ、例によって内部を大改造して、いまではレンガ造りのいかつい建物の正面には画廊の名前をつけた旗がずらりと立っている。まだ小さな工場がいくつかのこっていたが、画廊が途切れるとこからは高級レストランやバーがならび、土曜の午前中だというのに人が出たり入ったりしていた。
(『長く冷たい秋』p217)
翌朝ははやくに仕事に出かけたが、しばらくは数ドル稼ぐのがやっとという状態だった。だが、客足が鈍かった午前中が終るころには、商売もすこし景気づいた。11時すぎには、ニューベリー図書館のまえで、身たこともないほど分厚いめがねをかけた学者らしき老人をおろした。そして、シカゴ・アヴェニューに戻る途中で信号待ちしているとき、ふとスーペリアー通りにあるヴィヴィアンの画廊の近くにいることに気づいた。
(『長く冷たい秋』p217)
リバー・ノース地区は、昔は倉庫街だったところだが、今では新進気鋭のアーティストたちの作品があふれるギャラリー街となっており、ニューヨークのソーホー(SOHO)を意識してか、特に集中するスペリオル・ストリート(Superior Street)とヒューロン・ストリート(Huron Street)の頭文字を取ってスーヒュー(SUHU)と呼ばれている。70軒ほどのギャラリーが密集しており、アメリカではニューヨークのソーホーに次ぐといわれている。
リバー・ノース地区はグルメ・スポットとしても脚光を浴びている。もっとも人気が高いのが、1993年にオープン、マイケル・ジョーダンが経営するマイケル・ジョーダン・レストランだ。屋上の巨大なバスケットボールと正面玄関に掲げられた"Air Jordan"の看板が目印。 ただし、今年1月にジョーダンが引退してからは、客数が減り、来年の大リーグ開幕を機に、今やシカゴの新たなヒーローとなった、シカゴ・カブスのサミー・ソーサの名前に変わると言われている。
エイジャックスのガラスと鋼鉄製の高層ビルは、ミシガン・アヴェニューとアダムスの交差点にそびえている。ループでは、ミシガンが一番東の通りである。通りを隔ててシカゴ美術館があり、数々の噴水や花壇を配したグラント公園が湖まで広がっている。
(『サマータイム・ブルース』p221)
シカゴ美術館を解説した箇所で一度引用した文章だが、ループの東側、ミシガン湖畔に面して南北に延びる広大な公園がグラント・パーク(Grant Park)だ(冒頭地図参照)。
グラント・パークがいかに広いかは地図でもわかるが、次のジェイクの会話はどうだろうか。
バーへ行く途中、オスカー・ジェップスがジェイクの姿を見て足を止めた。「いったい今までどこをうろついていたんだ」
「グラント公園の周りをタクシーでぐるぐる回ってたのさ」
オスカーはだぶついた二重顎を揺らして笑った。「そいつは愉快だ」
ウイットのある人間と思われたかったら、真実をはなすのがいちばんだな、とジェイクは思った。
(『死体は散歩する』p27)
グラント・パークは、1920年代にベルサイユ宮殿のフランス庭園を模して作られた。アーロン・M・ウォードという実業家が湖岸の景観を守るために裁判所に訴え、「公園敷地内にはシカゴ美術館以外にビルを建ててはならない」という判決を勝ち取ったという。このおかげで、都心の一等地にありながら現在なお広々とした緑地が保たれている。
ドライヴを降りてダウンタウンに入り、七色の水を夜空へ高々と噴き上げているバッキンガム噴水の横を通りすぎた。夜のショーを見ようと、見物人がどっと押し寄せていた。そのなかへまぎれこもうかとも思ったが、成功の確率はそう高くなさそうだ。ミシガン・アヴェニューまで出て、コンラッド・ヒルトン・ホテルの向かい側に車を駐めた。
(『サマータイム・ブルース』p276)
グラント・パークのほぼ中央にあるバッキンガム噴水(Buckingham Fountain)はベルサイユ宮殿のラトナ噴水を2倍の大きさで再現したものだ。5月上旬から9月下旬までの11:30〜23:00の間だけ、最高40mの高さにまで水を噴き上げる。
ジャクスン通りでバスをおりて、東に向かって噴水までの3ブロックを歩いた。夏には、バッキンガム噴水は湖畔の名物になる。木々におおわれ、観光客でごったがえす。冬には、木々がすっかり葉を落とし、水も止まって、話し合いにうってつけの場所となる。訪れる者はめったになく、誰かがくれば遠くからはっきり見える。
冬のバッキンガム噴水は、「話し合い」にうってつけの場所となる。デートにうってつけという意味ではない。危険な人物と取引をするには、うってつけという意味だ。ヴィクが、悪徳市会議員ビッグ・アートに噴水で会おうと指定したのだ。次のように続く。
今日のグラント公園はどんよりした冬空の下に荒涼たる姿を見せていた。枯葉にまじったポテトチップスの空き袋やウィスキーの瓶が、このあたりにも人間がいることを示す唯一のしるしだった。わたしは噴水の南側にある薔薇園に入り込み、角々に置かれた彫像のひとつの台座に腰かけた。スミス&ウェッスンをジャケットのポケットに突っ込み、安全装置に親指をかけた。
(『ダウンタウン・シスター』p383)
スミス&ウェッスンはヴィクご愛用の銃だ。
バッキンガム噴水の両側には薔薇園が広がっており、また、コロンブス、リンカーン、インディアンなどの彫像が点在している。
グラント・パークの南端には、フィールド自然史博物館、シェッド水族館、アドラー・プラネタリウムがある(冒頭地図参照)。
フィールド自然史博物館(Field Museum of Natural History)は世界屈指の自然史博物館で、収蔵品の総数は1,600万点にも及ぶ。ただし、見学者の目にふれるのはその3%程度と言われている。創設は1893年。デパートの創設者マーシャル・フィールドの寄付金をもとに完成した。
彼はノースウェスタン大学の出身で、これもまた一族の伝統だった。わたしはノースウェスタンのキャンパスにあるグレイフォーク館や、シェッド水族館の隣にあるグレイフォーク海運博物館のことを、ぼんやり思い出した。
(『レイクサイド・ストーリー』p70)
「彼」(ニールズ・グレイフォーク)は、5大湖の海運業界を舞台にヴィクが活躍する『レイクサイド・ストーリー』に出てくるグレイフォーク汽船の経営者だ。だから、グレイフォーク館やグレイフォーク海運博物館というのは、モデルがあるのかもしれないが、架空の建物である。
シェッド水族館(John G. Shedd Aquarium)は、世界最大の屋内水族館。海の哺乳類のパビリオン<オーシャナリウム>(Oceanarium)では、イルカ、ベルーガクジラのショーが行われ、約34万リットルの巨大水槽<コーラル・リーフ>(Coral Reef)ではダイヴァーによる餌付けが行われ、特に人気を集めている。
この水族館もまた、1929年デパート<マーシャル・フィールド>の社長・会長だったジョン・G・シェッドの寄付金をもとに設立された。
クーパーは後部座席でぐったりしている男を見て、たとえやさしくでも諌めるときではないと思った。「なにか特別に飲みたいものは?」
「ピリッとした飲み物がいい。すこしは気分が高揚するようなことをしても罰はあたるまい」
クーパーはサウス・ループで酒屋に立ち寄り、紙袋にバーボンを1本入れて戻ってきた。そして、レイク・ショア・ドライヴに向けて東進し、つぎに南下し、スワンソンをプラネタリウムへ連れていった。湖ははっと息を飲むほど美しいアクアマリン色で、陽光が湖面にまだら模様を作っていた。空は澄んだ深いブルーで、世俗のしがらみなどすっかり忘れてしまいそうなほどきれいだった。白い帆が遠くで動いているのがかすかに見えた。観光客たちが建物のステップに群がり、とめるところをさがして車がうろうろしていた。「私たちはここでいったいなにをしているんだ?」
クーパーはプラネタリウムを一周して、北側に車をとめるところを見つけた。スワンソンを岬のふもとにある草地の傾斜へ連れていった。1マイル先には、ループのスカイラインが幾何学的な模様でそびえている。静穏な大気のなかで、くっきりと浮かびあがっていた。クーパーはコンクリートの板石の上に腰を降ろし、茶色い紙袋をスワンソンに差し出した。
(『過ぎゆく夏の別れ』p417)
スワンソンは大物不動産業者でノース・ショアの豪邸に住んでいる。妻ダイアナに危険なタクシー運転手は辞めてくれと頼まれ、クーパーはスワンソンのお抱え運転手として働いていたが、スワンソンの息子が殺され、クーパーは必然的に事件に巻き込まれる。引用したのは、物語も終盤、息子を殺されただけでなく、破産までしてしまい呆然自失のスワンソンをアドラー・プラネタリウム(Adler Planetarium)に連れていく場面だ。「破産したよ、私は」と告げるスワンソンにクーパーは「もっとひどい目に遭う人は大勢いますよ」と答える。ハード・ボイルドのなかなかいい場面だ。
館名に名を残しているアドラーは、このプラネタリウムの設立者である。もともとシアーズ・ローバックの副社長だったアドラーは、ドイツに行ったとき発明されたばかりのプラネタリウムを見て、ぜひシカゴにもこのすばらしい人工宇宙をつくりたいと考えたのだ。7年後、「1マイル先には、ループのスカイライン」が見渡せる岬の突端に1930年に設立した。これは西半球では初めてのプラネタリウムとなった。
このまま続けると、それこそ『地球の歩き方・シカゴ』になってしまう。観光案内を書くのが目的ではないのでこの辺でやめよう。最後に絶対に観光案内には書かれていないシカゴのサウス・サイドに関する引用で終りとしよう。ぼくも行ったことがないというか近づいたことがないので本当かどうかコメントできません。雰囲気だけ味わって下さい。
わたしは歩道を駆けずり回って4時間を無駄にした。サーマック・ロードのインディアン・アヴェニューからホールステッド・アヴェニューまでの区間に狙いを定め、サウス・サイドでもループに近いこのあたりをしらみつぶしに調べてまわった。1世紀前には、フィールド家、シアーズ家、アーマー家の邸宅が並んでいた地区だ。彼らがノース・ショアに移ると同時に、あたりは急速に荒廃した。今では、空き地、車の販売店、公営住宅、そして何軒かのSROに変わっている。2、3年前、誰かがむかしの邸宅を1ブロックだけ修復しようと決めた。それらは現在、不気味なゴーストタウンのようにそそり立ち、その一帯にたちこめる腐敗のなかに空虚で華麗な姿をさらしている。
(『バーニング・シーズン』p33)
サーマック・ロード(Cermak Road)というのは住所でいえば"2200S"だ。前にも説明したように、シカゴでは1ブロックごとに100番地ずつ番地が増えていくが、1000番地を超えると2ブロックで100番地増えるところもある。だいたい1ブロックの辺が約200メートルだから、サーマック・ロードはループの0番地地点マディソンから3〜4kmのところだ。だから、サウス・サイドとはいってもまだ南ループに近い。ちょっと東に行けばチャイナタウンだ。しかし、この辺でも荒廃しているらしい。
ヴィクの父親の妹、つまり叔母エレナが住んでいたのが、サーマロック・ロードとインディアナ・アヴェニューの角にあるSRO(老齢者・浮浪者のための一室居住ホテルで、市の補助により長期滞在できる)で、部屋代は月75ドル(1万円弱)だった。火事で焼け出されたエレナのためにヴィクが部屋探しにサウス・サイドに足を運んでいる場面だ。
行き先を聞いてうなずき、メーターをスタートさせるまえに、クーパーはちらりと客をうかがったのだった。酔っぱらいでもないし、よからぬことを考えているようにも見えないし、かねもちゃんと払えそうだ。客は10月後半のこのうすら寒い日に、上等な黒い革のジャケットを着て、べっこう縁のめがねをかけていた。そして、キング・ドライヴと35番通りの角まで頼むと言った。そこはひんぱんにホールド・アップが起こる61番通りから遠くはなれている。だからクーパーは、掟を破ってメーターのスウィッチを入れた。
不文律のようなものとして、運転手仲間でひそかに語られている掟とは、夜間に黒人男を乗せてサウス・サイドへ行くな、というものだった。
(『長く冷たい秋』p8)
61番地通り(61st Street)というと、番地にするとほとんど"6000S"だ。ダウンタウンからの距離にして11〜12kmか。シカゴでも有数の犯罪発生率の高い地域だ。
しかし、不思議なことに61番通りをずっと東にミシガン湖の近くまで行くと、ハイド・パーク(Hyde Park)と呼ばれるまるで浮島のように安全なエリアとして存在する場所がある。ハイド・パーク地区には、シカゴ大学(University of Chicago)や科学産業博物館(Museum of Science and Industry)などがある。
「つぎを右だ」うしろからソフトな声。うなずいて、ウィンカーを出す。空き地や空き家がもっとあるほかのサウス・サイドを見てきたこの目には、木みたいに大きな雑草の生えたこのサウス・サイドなどたいしてこわくないように見えた。ウェスト・サイドはもっと物騒だ。あそこは、ほんとうの悪の巣だ。
(『長く冷たい秋』p10)
ウェスト・サイドの方がもっと危険!ノー・アイデアです。
「子供のときほどじゃないわ。わたしね、サウス・サイドで育ったの。90番通りとコマーシャル通りが交差するあたり、ご存じかしら――製鋼所で働くボーランド人の工員が大勢住んでて、肌の色や生れた国の違う人間が越してくるといい顔しなかったわ。そうなると相手だって同じ勘定を持つものよ。わたしが通った高校はジャングルの掟に支配されてたわ――強力な蹴りやパンチが使えないなら、黙って引っ込むべし」
(『サマータイム・ブルース』p120)
ヴィクも前にも引用したが、サウス・サイド出身だ。90番通りとなると、もうぼくも適当な地図を持ち合わせていない。
ノース・サイドのしゃれた連中は爪先をぶつけただけで医者のところへ駆け込むが、サウス・シカゴでは、人生に我慢はつきものと思われている。めまいがしたり、体重が減ったりするのは、誰にでもあることだ。一人前の大人なら黙っているべきことなのだ。
(『ダウンタウン・シスター』p34)
サウス・サイドの住民とノース・サイドの住民の違い。
最後にヴィクの政治観をどうぞ。
彼が居心地わるそうにもじもじした。「……だって、サウス・シカゴの荒れ放題の歩道とか、失業率とか、そんなことばっかり攻撃されてさ。おやじの責任じゃないんだ。ワシントンが市長になったもんだから、白人が暮らす地域には1セントも流れてこなくなったんだ」
わたしはその点に反論しようとして口をひらいたが、またとじてしまった。サウス・シカゴは偉大なる故デイリー市長のもとで崩壊を始め、あとを継いだビランディック、バーンの時代にも同じく無視される一方だった。そして、アート・シニアはそのあいだずっと市会議員をつとめていたのだ。
(『ダウンタウン・シスター』p346)
(当初作成日:9/25/1999)
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