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マイケル・ジョーダンかサミー・ソーサか
彼らはそれについて討議したが、結論に達する前にソックスの攻撃が始まった。今日はジャック・モリスの厄日のようだ。ソックスは7人を塁に送って、連続エラーとサミー・ソーザの2塁打で4点入れた。長い長いイニングなので、みんなはわたしとミッチ・クルーガーのことを忘れてしまった。
(『ガーディアン・エンジェル』p148)
サミー・ソーサ(Sammy Sosa)がホワイト・ソックスの選手?
1998年、マーク・マグワイア(Mark McGwire)の70本に次ぐ66本のホームランを打ち、1999年は9月の半ばまでホームラン争いのトップを走りながら、最終的には63本と、マグワイアの65本に2本差で、残念ながらタイトルを逃したソーサはシカゴ・カブスの選手ではなかったのか?
そう、1968年生れのソーサは、1989年テキサス・レンジャーズに入団、同年シーズン中にトレードされてから1991年までホワイト・ソックスで活躍し、1992年にカブスに移籍し今に至っているのだ。サラ・パレツキーの『ガーディアン・エンジェル』は、1992年の作品、すなわち、ソーサがカブスに移籍する前後に出た作品なのだ。
ソーサの打撃成績を表にまとめた。
| 年 | 所属チーム | 打数 | 安打 | 本塁打 | 打点 | 盗塁 | 打率 |
| 89 | レンジャーズ | 84 | 20 | 1 | 3 | 0 | 0.238 |
| - | ホワイト・ソックス | 99 | 27 | 3 | 10 | 7 | 0.273 |
| - | (シーズン合計) | 183 | 47 | 4 | 13 | 7 | 0.257 |
| 90 | ホワイト・ソックス | 532 | 124 | 15 | 70 | 32 | 0.233 |
| 91 | ホワイト・ソックス | 316 | 64 | 10 | 33 | 13 | 0.203 |
| 92 | カブス | 262 | 68 | 8 | 25 | 15 | 0.260 |
| 93 | カブス | 598 | 156 | 33 | 93 | 36 | 0.261 |
| 94 | カブス | 426 | 128 | 25 | 70 | 22 | 0.300 |
| 95 | カブス | 564 | 151 | 36 | 119 | 34 | 0.268 |
| 96 | カブス | 498 | 136 | 40 | 100 | 18 | 0.273 |
| 97 | カブス | 642 | 161 | 36 | 119 | 22 | 0.251 |
| 98 | カブス | 643 | 198 | 66 | 158 | 18 | 0.308 |
| 99 | カブス | 625 | 180 | 63 | 141 | 7 | 0.288 |
| 00 | カブス | 604 | 193 | 50 | 138 | 7 | 0.320 |
カブスが97年の夏、4年間4250万ドル(約47億円)という破格の条件でソーサとの契約を更改した時、ソーサは、「(実力はないが)年俸だけは高いスーパー・スター」と揶揄された。しかし、98年突然ブレイクし、66本塁打の大記録を樹立した。
98年、年間70本塁打の偉業を打ち立てたカージナルスのマグワイアと、66本ながらチームに大きく貢献したソーサの一騎打ちで注目されたナ・リーグMVP争いは、ソーサが大差で選出された。全米記者協会の投票結果は、マグワイアの272ポイントに対し、ソーサは438ポイント。32人の投票有資格記者のうち30人がソーサに1位票を投じ、マグワイアは2人だけ。打点王(158打点)とチームを9年ぶりのプレーオフ進出へ導いたソーサの功績が高く評価された。ソーサは、「歴史上最も怠け者で実力以上の高給取り」との汚名をみごとに返上したのだ。
98年11月、「日米野球」ならぬ「サミー・ソーサ シリーズ」が開催された。例年なら、メジャーを代表するスーパースターが4、5人は来日。それなりに注目度が分散するが、昨年の日米野球はソーサだけ。残りはメジャー通でなければ顔と名前が一致しない選手ばかりで、チーム名を「メジャーリーグ・オールスター」ではなく「サミーと仲間たち」にでもしたほうがよいような布陣だった。
主催者側も当然、ソーサに特別待遇を用意した。他の選手は一束にされてバス移動だが、ソーサは弟や自称代理人とともにリムジンを使用。宿泊のホテルも1泊30万円のスイートルームを提供されているとの噂もあった。
それでも、こんな状況下でいきなり期待通りの仕事を果たしたソーサは、やはりタダ者ではない。試合前は「試合ではなくショー。来日の目的はプレーよりも募金集め」と話していたが、やるときはやる。ボクも11月15日の試合を運良く観戦することができたが、期待通り、すばらしいライナー性のホームランをレフト観客席に打ち込んだ。
99年は、9月半ばまでホームラン争いのトップを走っていた。マグワイアとの戦いは、直接対決となるカブスvsカージナルスの最終戦までもつれ込んだが、残念ながら2年連続で涙をのんだ。しかし、2年連続60本台の偉業は、マグワイアより早く達成したし、新設されたハンク・アーロン賞(安打数、本塁打数、打点の合計)を獲得した。
シカゴは、前にも書いたように<ウィンディ・シティ>のニック・ネームで呼ばれるが、シカゴ・ブルズのマイケル・ジョーダンが活躍したつい最近まで、<マイケル・ジョーダンズ・タウン>とも呼ばれた。しかし、ジョーダン引退後は、ソーサが一手にその人気を獲得しているように思える。<サミー・ソーサ・タウン>と呼ばれる日も遠くないかもしれない。
ちなみに、99年9月23日の時事通信によれば、
米プロバスケットボール教会(NBA)の大スターで今年1月に引退した元ブルズの、マイケル・ジョーダンで有名な「マイケル・ジョーダンレストラン」が、来年の米大リーグ開幕を機にカブスのサミー・ソーサ外野手の名前を付けるレストランに変わることが23日分かった。
米イリノイ州シカゴにある同レストランの経営者のジン・シルバーバーグ氏が明らかにしたもので、ジョーダンのレストランは他の場所へ移転し、再オープンする予定。この変更に際し、同氏はジョーダンの許可を得ていないが、経営者側は名前の使用権を得ているだけの関係のため、店名変更は自由。
「マイケル・ジョーダンレストラン」は、多くの飲食店でにぎわう人気スポットにある3階建ての店で1993年にオープン。ジョーダンも店に顔を出すなどして、地元のファンだけでなく、旅行者の観光スポットにもなっていた。しかしジョーダン引退後、客数が減り、現役大リーガーでシカゴの新たなヒーローとなったソーサに白羽の矢が立てられた。
今年(2001年)4月15日(日)、ボクは久しぶりにシカゴを訪れた。JAL010便で朝の8:20に着いた。夜にしかスケジュールが入っておらず、カブス対パイレーツ戦を観戦することができた。ひじょうに寒い日で、防寒着をもっていなかったボクは身体の芯まで凍り付くような目に会いながらも、期待通りソーサのホームランを見ることができた。第一打席はフォア・ボール、第二打席は満塁のチャンスにキャッチャー・フライ、第三打席は一塁にランナーを置きながら三振。そして1対1で迎えた7回の裏、ランナー1塁、2塁のチャンスにやってくれました。レフト場外の第5号3ラン大ホームラン。ソーサが地元でホームランを打ったのは実に去年(2000年)9月以来。リグレー・フィールドに集まったファンは興奮の渦だ。5対1でカブスの勝ち。カブスは、今年は出だし好調でナ・リーグ中地区の首位を走っている。やはり、今でもシカゴはソーサ一色だ。ちなみに、この日のゲームはカブスのホームページに詳しく記録されている。
アメリカで人気のあるプロ・スポーツといえば、野球(MLB:Major League Baseball)、アメリカン・フットボール(NFL:National Football League)、バスケットボール(NBA:National basketball Association)、そしてアイスホッケー(NHL:National Hockey League)だ。
アメリカの各都市(一部カナダの都市(*印)も含まれる)の<プロ・スポーツ・チーム一覧>を作成したので参考にしてほしい。
| 都市名 | ベースボール
(MLB) | アメリカン・フットボール(NFL) | バスケットボール (NBA) | アイスホッケー
(NHL) |
| アトランタ | ブレーブス | ファルコンズ | ホークス | − |
| アナハイム | エンジェルス | − | − | マイティダックス |
| インディアナポリス | − | コルツ | ペイサーズ | − |
| エドモントン* | − | − | − | オイラーズ |
| オークランド | アスレティックス | レイダース | ウォリアーズ | − |
| オーランド | − | − | マジック | − |
| オタワ* | − | − | − | セネターズ |
| カルガリー* | − | − | − | フレームス |
| カンザス・シティ | ロイヤルズ | チーフス | − | − |
| クリーブランド | インディアンス | − | キャバリアーズ | − |
| グリーンベイ | − | パッカーズ | − | − |
| サクラメント | − | − | キングス | − |
| サンアントニオ | − | − | スパーズ | − |
| サンディエゴ | パドレス | チャージャーズ | − | − |
| サンノゼ | − | − | − | シャークス |
| サンフランシスコ | ジャイアンツ | フォーティー ナイナーズ | − | − |
| シアトル | マリナーズ | シーホークス | スーパーソニックス | − |
| シカゴ | カブス | ベアーズ | ブルズ | ブラックホークス |
| ホワイトソックス |
| シャーロット | − | パンサーズ | ホーネッツ | − |
| ジャクソンビル | − | ジャガーズ | − | − |
| シンシナティ | レッズ | ベンガルズ | − | − |
| セントルイス | カージナルス | ラムズ | − | ブルース |
| ソルトレイク・シティ | − | − | ジャズ | − |
| ダラス | レンジャーズ | − | マーベリックス | スターズ |
| タンパ | デビルレイズ | パッカニアーズ | − | ライトニング |
| デトロイト | タイガーズ | ライオンズ | ピストンズ | レッドウィングス |
| デンバー | ロッキーズ | ブロンコス | ナゲッツ | アパランチ |
| トロント* | ブルージェイズ | − | ラプターズ | − |
| ナッシュビル | − | オイラーズ | − | − |
| ニュアーク | − | − | ネッツ | デビルズ |
| ニューオリンズ | − | セインツ | − | − |
| ニューヨーク | ヤンキーズ | ジャイアンツ | ニックス | レンジャーズ |
| メッツ | ジェッツ | アイランダーズ |
| ハートフォード | − | − | − | ホエラーズ |
| バッファロー | − | ビルズ | − | セイバーズ |
| バンクーバー* | − | − | グリズリーズ | カナックス |
| ピッツバーグ | パイレーツ | スティラーズ | − | ペンギンズ |
| ヒューストン | アストロズ | − | ロケッツ | − |
| フィラデルフィア | フィリーズ | イーグルス | セブンティー シクサーズ | フライヤーズ |
| フェニックス | ダイヤモンド バックス | カージナルス | サンズ | コヨーテス |
| ポートランド | − | − | トレイル ブレイザーズ | − |
| ボストン | レッドソックス | ペイトリオッツ | セルティックス | ブルーインズ |
| ボルチモア | オリオールズ | レイブンス | − | − |
| マイアミ | マーリンズ | ドルフィンズ | ヒート | パンサーズ |
| ミネアポリス | ツインズ | バイキングス | ティンパーウルブス | − |
| ミルウォーキー | ブリュワーズ | − | バックス | − |
| モントリオール* | エクスポズ | − | − | カナディアンズ |
| ロスアンゼルス | ドジャース | − | クリッパーズ | キングス |
| レイカーズ |
| ワシントンDC | − | レッドスキンズ | ウィザーズ | キャピタルズ |
シカゴにはプロ・スポーツのチームが5つもある。
野球は、ナショナル・リーグ中地区(National League Central Division)のシカゴ・カブス(Chicago Cubs)、アメリカン・リーグ中地区(American League Central Division)のシカゴ・ホワイト・ソックス(Chicago White Sox)。
アメリカン・フットボールは、ナショナル・フットボール・カンファレンス中地区(National Football Conference Central Division)のシカゴ・ベアーズ(Chicago Bears)。
バスケットボールは、イースタン・カンファレンス中地区(Eastern Conference Central Division)のシカゴ・ブルズ(Chicago Bulls)。
そして、アイスホッケーは、キャンベル・カンファレンス・ノリス地区(Campbell Conference Norris Division)のシカゴ・ブラックホークス(Chicago Blackhawks)だ。
シカゴのプロ・チーム5つはニューヨークの7つに次いで2位である。だから、シカゴでは絶対プロ・スポーツを観戦すべきだ。
シカゴには、大リーグに所属する球団が2つある。一方の球団が遠征しているときには、他方の球団はシカゴに残るというような粋な計らいもなされている。大リーグ球団が2つもあるという都市は、他にはニューヨークだけだ(ナショナル・リーグのメッツとアメリカン・リーグのヤンキース)。
大リーグ(メジャーリーグ:Major league)はアメリカプロ野球の最上位のリーグで、ナショナル・リーグは、1876年に8球団で発足し、アメリカン・リーグは1900年に7球団で結成され、翌年からナ・リーグに対抗してリーグ戦を開始した。
両リーグとも球団数が増加したため、移動の便宜を考え、1969年から東西2地区制に移行、さらに1994年からは東・中・西の3地区制になった。地区は違っても対戦があり、現在は、東地区、中地区、西地区の第1位チームと、各地区の第2位チームのなかで最高勝率を残したチーム(ワイルド・カード:wild card)を加えた4チームが、シーズン終了後5回戦制のプレーオフを行い、勝ち残った2チームが7回戦制のプレーオフでリーグ優勝を決め、7回戦制のワールド・シリーズに臨むことになる。
<V・I・ウォーショースキー・シリーズ>のヴィクは、大のカブス・ファンである。
わたしたちはそれからしばらく、当たり障りのない話題を選んで会話を続けた。わたしはラルフに、カブスが好きかどうか訊いてみた。「なんの因果か、わたしは気ちがいじみたファンなの」と説明した。ラルフは息子を連れてたまに試合を見に行くことはあるといった。「しかし、どうしてああいう熱狂的カブス・ファンになれるのか、ぼくには理解できないな。今はカブズもまあまあの線でがんばってるよ――レッズをやっつけたし――だけど、例年のごとくそのうち沈んじまうよ。いや、野球はなんたってヤンキースさ」
「ヤンキースですって!」わたしは説教を始めた。「どうしてあんなチームを応援できるのか、理解できないわね。コーザ・ノストラを応援するようなものよ。いいこと、あそこは札束の力で、勝つための選手をかき集めてるのよ――それじゃ、応援する気にはなれないわ」
「ぼくはうまいプレーの試合を見るのが好きなんだ」ラルフは頑固にゆずらない。「シカゴのチームお得意の道化芝居にはうんざりだ。見てみろよ、ヴィークのおかげで、今年のホワイト・ソックスはどろ沼じゃないか」
(『サマータイム・ブルース』p109)
ヤンキース・ファンのラルフは、シカゴのエイジャックス保険に勤務している男。生れがニューヨークかどうかわからないが、日本の各地に存在する巨人ファンのようなものだろう。ヴィークというのは、ホワイト・ソックスのオーナーである。
ヴィクは、勝とうが負けようが関係のない「気ちがいじみたカブス・ファン」なのだ。
ボクはシカゴ・カブスにはちょっと思い入れがある。というのは、ボクがエヴァンストンに住んでいた1984年に、カブスは約40年ぶりにナショナル・リーグ東地区で第1位となりプレーオフに出場したからだ。だから、ちょっと詳しくなりすぎるかもしれないが、カブスの歴史なども振り返ってみたい。
シカゴ・カブスは、1876年のナショナル・リーグ発足時の8球団の1つであり、その意味では由緒ある球団だ。1876年4月25日のリーグ開幕戦では、投手兼初代監督のスポールディング(A.G. Spalding)がルイスヴィル(Louisville)を4−0でシャット・アウトした。カブスの最初の得点は、ポール・ハインズ(Paul Hines)の栄誉となったが、相手のエラーで得たものだった。1876年といえば明治9年。わが国では、札幌農学校でクラーク先生が"Boys be ambitious!"と言った頃だ。野球そのものは、その3年前に開成学校の米人教師ウィルソンによってわが国に紹介されている。
カブスは最初ホワイト・ストッキングス(White Stockings)と呼ばれていたが、のちに伝説の選手兼監督キャップ・アンソン(Cap Anson)が『奔走する子馬(The Runaway Colt)』というタイトルの映画に出演したためにコルツ(Colts)と呼ばれるようになった。1年間だけオーファンズ(Orphans)とも呼ばれた。しかし、アンソンが1899年に引退したとき、新聞社が新球団名を募集し、カブスという名称が選ばれたのである。
ヴィクのような熱狂的なファンが多いが、この50年間(!)は、戦績の方ははかばかしくない。伝統があるのに弱いから熱狂的ファンが多いのだろうか。まるで日本のどこかのチームのようだ。
アメリカのプロ・スポーツのデータベースはひじょうに充実しており、かつインターネットで簡単に調べることができとても重宝だ。いろいろなデータベースがあるが、大リーグ全般のデータベースなら<baseball-reference.com>、カブスに絞るなら<Chicago Cubs Official Website>が便利だろう。
<Chicago Cubs Official Website>の<History>→<History Tour>を参考にカブスの戦績を辿ってみよう。
1876年の第1回ナショナル・リーグでは、見事にリーグ優勝でデビューした。
アンソン監督時代の19シーズンは、1880−82年の3連覇を含め、優勝と2位が9回という輝かしい戦績を上げた。アンソンは2000試合出場を果たした初めての選手であり、その生涯打率は.333だった。
20世紀に入って初めてのリーグ優勝は1906年であるが、この時の116勝36敗(勝率.763)は未だに破られていない大リーグ記録でもある。ワールド・シリーズは、(初めて、そして今後もないだろうが)シカゴの2球団によって戦われたが、4勝2敗でホワイト・ソックスが制覇した。
1907年は、選手兼監督のフランク・チャンス(Frank Chance)のもとでリーグ2連覇を果たし、初めてワールド・シリーズも制覇した。ア・リーグの対戦相手はタイ・カップ(Ty Cobb)率いるデトロイト・ターガースだったが、4勝2敗で勝った。
1908年は、アンソン時代に次いで2度目のリーグ3連覇を果たした年だ。そして、再びデトロイト・タイガースとワールド・シリーズを戦い、4勝1敗で連覇した。当時のジョー・ティンカー(Joe Tinker)、ジョニー・エヴァース(Johnny Evers)、フランク・チャンスによるダブル・プレー・コンビネーションは観客を魅了し、野球を不朽のものとしたと言われている。また、投手<3本指の>ブラウン(Mordecai "Three-Finger" Brown)はこの年29勝をあげ、カブスの投手としてはシーズン最多勝利記録として残っている。
ワールド・シリーズ連覇の偉業を達成したカブスであるが、以後約90年間(!)ワールド・シリーズ優勝を遂げていない。
1910年にもリーグ優勝を果たしたが、ワールド・シリーズでは敗れた。
1916年、カブスは本拠地を1914年に造られたリグレー球場(Wrigley Field、ただしリグレー球場と正式に命名されるのは26年)に移した。リグレー球場は、大リーグの球場としては、1912年にできたデトロイトのタイガース球場、ボストンのフェンウェイ球場に次いで3番目に古いものである。リグレー球場で行われた初めての試合は、シンシナティ・レッズを相手に行われたが、延長11回7対6でカブスが勝っている。
このリグレー球場は大リーグで唯一ナイター(これは完全な和製英語で正しくはナイト・ゲーム)を行わない、デー・ゲームのみの球場として有名だった。初代オーナーのチューインガム王リグレー氏が、「野球は青空の下で行うべきスポーツだ」との信条の持ち主だったため、ナイター照明施設を頑として作らなかったと言われている。ナイターが行われるようになるのは、60年以上も後、1988年のことである。
古いため外見はみすぼらしいが、中に入るとアンティークな美しさに惚れ惚れしてしまうはずだ。全体がアイビー調でフェンスは本物のレンガが積まれ、それに蔦がからまっている。この蔦にボールがからまってしまった場合には二塁打という特別ルールがあるほどだ。サミー・ソーサとマグワイアのホームラン争いに関するニュースでよくリグレー球場も映ったから見たことのある人も多いだろう。
リグレー・フィールドは、どっしりして居心地のいい、ゆるやかに四方にカーブするコンクリートのかたまりで、大きな梁があり、白いペンキが塗られ、外野フェンスが蔦におおわれている野球公園(ボール・パーク)だ。そこを3万席以上の木の座席がとりかこみ、そのなかで大人たちは、ほかの大人たちの野球を見ることができる。野球が行われるほかの構造物も、公園を名乗ることはできようが、リグレーこそは、真に公園と呼ぶことのできる公園だ。試合のある日の午前中には、金属の顔がにっこり微笑むようにゲートが開き、近くはとなりの街区から、遠くはフロリダ州サラソタから駆けつけてきた、忠実なファンの大群を迎え入れる。リグレー・フィールドは、故郷のような匂いがする。本物の芝生、本物の蔦、そして――2年前に照明設備ができてはいたが――明るい陽射しがあった。
リーバーマンは、カブスとおなじくらい、このリグレー・フィールドを愛していた。開幕日の、新しいペンキが塗られた緑の座席の香りを愛していた。ビールを通路にこぼしていく売り子たちを愛していた。旗を振ったり、応援するチームのために絶叫し、相手チームの外野手には罵声を浴びせる、外野席の熱狂的なファンたちを、愛していた。
(『愚者たちの街』p239)
<エイブ・リーバーマン・シリーズ>のリーバーマン刑事もヴィク以上のカブス・ファンである。かつ年季が入っている。シリーズ第1作目の『愚者たちの街』には、カブスに対する思いがいたるところに散りばめられている。
リーバーマンは、リグレーにひとつだけルールを設けていた。夜の試合には行かない。以上。決して行かない。絶対に。正しいことと思えないのだ。カブスの試合らしくない。夜の試合は、芝生が青緑色に見える。選手はゾンビのようだ。夜の野球選手は、楽しそうに見えない。夜には、野球は仕事になる。選手たちに2百万ドルとか3百万ドルの稼ぎがあったとしても、昼間の野球は、やはりひとつの遊戯なのだ。
(『愚者たちの街』p240)
1917年5月2日は大リーグ史上に残る名勝負が行われた。カブスの投手<カバの>ヴォーン(Jim "Hippo" Vaughn)とシンシナティ・レッズの投手フレッド・トーニー(Fred Toney) が見事なピッチングを続け、9回が終了した時点では両者ともノーヒット・ノーランを達成していたのである。結果は、10回有名なジム・ソープ(Olympian Jim Thorpe)のヒットによりレッズが勝った。
1918年にもリーグ優勝を果たしたが、ワールド・シリーズでは投手ベーブ・ルース(Babe Ruth)を擁したボストン・レッド・ソックスに敗れた。
1929年には、野球殿堂(Baseball Hall of Fame)入りするジョー・マッカーシー監督(Joe McCarthy)のもとで、リーグ優勝を果たすが、ワールド・シリーズでは敗れた。この年、同じく殿堂入りするロジャース・ホーンスビー(Rogers Hornsby )がMVPを獲得した。ホーンスビーは、生涯打率.3585でタイ・カップに次いで歴代2位、かつ3シーズン4割台の打率を残している(ちなみにタイ・カップも3回)とんでもない選手だ。24年の打率は.4235でこれも歴代2位である。
1930年には、ハック・ウィルソン(Hack Wilson)が、56ホーマー、190打点という大活躍を見せた。56ホーマーは、マグワイアやソーサに抜かれるまではナ・リーグのシーズン最多本塁打記録だったし、190打点は今でもリーグ記録として残っている。
1932年はリーグ優勝を果たすが、ワールド・シリーズでニューヨーク・ヤンキースに0勝4敗で敗れた。第3戦のリグレー球場でのベーブ・ルースの<予告ホームラン>(called shot)は神話になっている。
1935年は、9月に21連勝をしてリーグ優勝に輝いたが、ワールド・シリーズでは、デトロイト・タイガースに4勝2敗で、1908年の雪辱を果たされた。
1938年には、捕手ギャビー・ハートネット(Gabby Hartnett)の伝説的なホームラン("Homer in the Gloamin'" )で、30年代3度目のリーグ優勝を果たすが、ワールド・シリーズではヤンキースに1勝もできずに敗れた。
1945年、10年ぶりにリーグ優勝をし、一塁手フィル・カヴァレッタ(Phil Cavarretta)がMVPに輝いた。今世紀に入り、10度目のワールド・シリーズ挑戦だったが、デトロイト・タイガースに手に汗を握る接戦の上、3勝4敗で敗れた。そして、なんとこの時以来50年以上(!)リーグ優勝に見放されているのだ。
「ビル・ニコルソンがな」と、彼は話をつづけた。「あの選手がウェイヴァーランドから場外ホームランを打ったところを、おじいちゃんは見たんだ。あの建物の屋根までとんでいった。あそこの建物だ」
バリーは祖父が指差しているところを見て、それからマウンドに向かうサトクリフに目をもどした。
「ハンク・ソーも、そのくらい打球を飛ばしたことがあったし」彼はいった。「カイナーは生涯最後の打席で――」
「あれ、アンドレ・ドーソン?」国歌『星条旗』の斉唱が終わって、グラウンドにカブスの選手が出てくると、メリッサが叫んだ。
「静かにしてろ」バリーがいった。「あれはドーソンじゃない。あれはダンストンだ」
「ある試合でな」リーバーマンがメリッサにいった。祖父がなんの話をしているのか、もちろんメリッサにはわかっていなかった。「シンシナティ・レッズ戦のことだ。一塁がフォンディ。二塁がターウィリガー。ショートがスモーリーだった。ライトはバウムホルツだったと思う。大男のクルゼウスキーは、筋肉を見せびらかすために、肩まで切り落としたアンダーシャツを着ていて、球が割れんばかりの打球を――」
(『愚者たちの街』p241)
リーバーマンが孫息子のバリーと孫娘のメリッサを連れてカブスの試合を見にきているところだ。ピッチャーは、バリーが贔屓にしているリック・サトクリフ。リーバーマンは、孫たちが理解してくれることを期待もせずに、昔を振り返って懐かしんでいる。
ビル・ニコルソン(Bill Nicholson)は、1939年から48年まで活躍した外野手だ。"Swish" Nicholsonというニック・ネームがすごい。"Swish"というのは、バットを振るときの「しゅっ」という音。
バッター・ボックスの外でウォーミングアップのためにバットを素振りするが、その時に出す「しゅっ」という音が、いかにもピッチャーを威嚇するかのような音なのだ。彼がバットを振り始めると、観客は一斉に"Swish, swish, swish" と叫んだらしい。
外野手ハンク・ソー(Hank Sauer)は1952年にMVPを獲得している。
ラルフ・カイナー(Ralph Kiner、1953-1954在籍)、ディー・フォンディ(Dee Fondy、1951-1957在籍)、ウィラード・ターウィリガー( Willard Terwilliger、1949-1951在籍)、ロイ・スモーリー(Roy Smalley、1948-1953在籍)、フランク・バウムホルツ(FrankBaumholtz、1949, 1951-1955在籍)はいずれも1950年前後にカブスで活躍した選手である。リーバーマンの記憶が正しければ、各選手の在籍年を比較すると、このシンシナティ・レッズ戦は1951年だったことがわかる。
1958年に、打率.313、47本塁打、129打点、59年に打率.304、45本塁打、143打点の成績を残した遊撃手アーニー・バンクス(Ernie Banks)が2年連続でMVPを獲得した。
バンクスは1953年から73年までカブスの遊撃手として活躍した。カブス・ファンはバンクスのことを「ミスター・カブス」と呼んだ。それも当然で、それだけの実績を残している。出場試合(2,528)、打数(9,421)、本塁打(512)、塁打数(4,706)はカブスの歴代1位。安打数(2,583)、打点(1,636)はカブスの歴代2位である。彼の残した名言"What a great day for baseball. Let's play two!"
しかし、この52、58、59年はいずれも5位に終っている。
1961年、将来野球殿堂に入ることになるビリー・ウィリアムス(Billy Williams)が新人賞を獲得した。
1969年から、東西2地区制になり、カブスは東地区に属した。カブスは、ロン・サント(Ron Santo)、ビリー・ウィリアムス、ファーギー・ジェンキンス(Fergie Jenkins)などが活躍し、92勝あげたが、ニューヨーク・メッツに次ぐ東地区2位で終った。
1970年には、5月12日、殿堂入りのアーニー・バンクスが通算500本塁打を打ち、またビリー・ウイリアムスがナ・リーグ初の1000試合連続出場記録を樹立した。ウイリアムスの記録は、9月3日の1117試合まで伸びた(カブスは2位)。
1971年、ジェンキンスは、24勝13敗、263奪三振の成績をあげ、サイ・ヤング賞(Cy Young award)をカブスの投手としては初めて獲得した(カブスは3位)。
カブスがセントルイス・カージナルスとダブルヘッダーをおこなっている最中なので、アディスンは第一試合から帰る人々と第二試合に詰め掛ける人々で混み合っていた。CBSラジオをつけるとちょうど一回裏、先頭打者のディヘススがショートへ弾丸ライナーを打ったところだった。一塁で簡単にアウトになったが、さいわいダブルプレーをとられるケースじゃない。
リグレー球場付近の渋滞を抜けると、あとはダウンタウンまでわずか20分しかかからなかった
(『サマータイム・ブルース』p168)
イワン・ディヘスス(Ivan DeJesus)は、1977年から81年までカブスに在籍した。
車にもどると、試合はとっくに終ったあとで、結果を知るには8時のニュースが始まるまで待たねばならなかった。カブスは8回に逆転していた。いとしのジェリー・マーティンが二塁打をかっとばし、次のスティーヴ・オンティヴェロスがシングル・ヒット、そして、すばらしきデイヴ・キングマンの32号ホーマーで、3人全部がホームインしたのだ。しかも、これがすべてツーアウトからである。今夜のカブスがどんな気分かわたしにはよくわかり、それをあらわすために、帰る道々《フィガロの結婚》をすこしばかり口ずさんだ。
(『サマータイム・ブルース』p173)
ジェリー・マーティン(Jerry Martin)、スティーヴ・オンテヴェロス(Steven Ontiveros)、デイヴ・キングマン(David Kingman)、3人が一緒にプレーしたのは1979年と80年の2年間だけだ。しかし、キングマンのカブス時代の本塁打の数は、78年28本、79年48本(ナ・リーグの本塁打王)、80年18本だから、32本以上打っている『サマータイム・ブルース』の舞台は1979年ということになる。
リグレー球場では5回の裏に入ったところで、カブスがフィラデルフィア・フィーリーズを手玉にとっていた。どういうわけか、スモッグにおおわれた、人を無気力にする大気が、彼らに強壮剤のような効き目をもたらしたのだ。ほかの人間はみんな死にそうだというのに、カブスは8対1でリードしていた。キングマンが34本目のホームランを打った。気休めに球場へ拠って試合の残りをみようかとも思ったが、結局はその考えをきびしく退けた。
(『サマータイム・ブルース』p260)
この年は、ブルース・サッター(Bruce Sutter)が37セーブをあげ、サイ・ヤング賞を獲得したが、カブスは5位に終った。
1981年、新聞社シカゴ・トリビューンがリグレー・ファミリーからカブスを買取り、新しいオーナーとなった。
1982年、アーニー・バンクスの背番号がカブスでは初めて永久欠番となった。バンクスの背番号14は、現在リグレー球場のレフト側ファウル・ポールではためいている(同じく、ビリー・ウィリアムの背番号26も87年に永久欠番となり、ライト側ファウル・ポールではためいている)。
1984年、ちょうどボクがエヴァンストンに住んでいたときだが、東地区で第1位となり、1945年のリーグ優勝時から約40年ぶりに、シーズン後のゲームに臨むことになった。ジム・フレイ(Jim Frey)監督のもとで、96勝65敗の成績を残し、リグレー球場の入場者数は2百万人を超えた。史上最高の2塁手といわれるライン・サンドバーグ(Ryne Sandberg )がMVPを獲得した。セントルイス・カージナルスに延長の末、12対11で勝った歴史に残る試合で、サンドバーグは2回にわたって同点ホームランを打ったのだ。6月中旬にカブスが獲得した投手リック・サトクリフ(Rick Sutcliffe)が16勝1敗の活躍をし、サイ・ヤング賞に輝いた。しかし、プレーオフでは、サンディエゴ・パドレスと戦い、2勝を先勝したが、その後3連敗し、リーグ優勝を逸してしまった。
それをポストに入れたあと、10ブロック歩いてリグレー球場に出かけ、カブスがエキスポズの手にかかって苦痛に満ちた死を迎えるのを見守った。わが不運なヒーローたちが借金20であえいでいるにもかかわらず、球場は満員だった。運よく内野席の上段にすわることができた。たとえ外野席のチケットが手に入ったとしても、今のわたしはもうそこにはすわらない――カブスが84年のプレーオフまで残ったとき、NBCが<外野席マニア>をおおげさに称えたおかげで、野球を知らない酔いどれやヤッピーのあいだに、野球見物はここがトレンディというブームがひろがっているからだ。
(『バーニング・シーズン』p215)
『バーニング・シーズン』は1990年の作品。ここに書かれているのは、いつのシーズンかはっきりしないが、1986年だろう。86年はシーズン中に監督が2回も替り(Jim Frey→John Vukovich→Gene Michael)、最終成績も70勝90敗だった。
1987年には、外野手アンドレ・ドーソン(Andre Dawson)が、49本塁打、143打点でMVPを獲得した。
1988年8月8日、リグレー球場で初めてナイターが行われた。ナイター・デビュー戦は雨のため3回表で中止になり、翌日のメッツ戦が公式には初めての試合と記録されている。カブスはメッツに6対4で勝っている。カブスはどうも「初めて」の試合に強いようだ。
1989年、69年の2地区制移行後2度目の東地区第1位となった。ドン・ジマー(Don Zimmer)監督に率いられ、ライン・サンドバーグ、アンドレ・ドーソン、リック・サトクリフ、そして救援投手のミッチ・ウィリアムス(Mitch Williams)、さらに新人賞を獲得した外野手ジェローム・ウォルトン(Jerome Walton)とオールスター級の選手を擁してのシーズンだった。しかし、プレーオフでは、サンフランシスコ・ジャイアンツに1勝4敗で敗れ、またしてもリーグ優勝を逃した。
「今年は、5割はいきそうか?」メイシュがたずねた。
これはリーバーマンの好きな話題だった。カブスのことだ。
「おれがあんまりひどい様子をしてるから、野球の話をして元気づけてくれるのかい?」
「たしかに、ひどい様子だな」メイシュは認めた。
毎年、リーバーマンがカブスに臨む目標は、シーズン半ばで変わる。カブスは、いい年には、ペナントに向かって突き進む。ふつうの年には、5割に向かって突き進む。悪い年には、個々の目標に向かって突き進む。たぶん、ドーソンとダニエルズにとっては、それぞれ100打点が目標になる。サンドバーグ、ドーソン、ダニエルズには、本塁打30本以上が。サンドバーグとグレイスには、打率3割が。リーバーマンの孫息子バリーの英雄であるリック・サトクリフが、カブズに復帰することはあるのだろうか。4年前、リーバーマンは、バリーをカブスの試合に連れていった。ふたりは、リーバーマンがひとつふたつ好意をほどこしてやたことのある、制服を着た座席案内軍団の創設者、アンディ・フレインそのひとから招待を受けて、3塁横のボックス席にすわっていた。サトクリフは、ウォーミングアップのときに使った球をバリーに投げてくれ、そのあと、その日の試合を5安打で完封した。
あの日のことを思い出すだけで、リーバーマンは気分がよくなった。
(『裏切りの銃弾』p87)
東西2地区制となってから、84年、89年に東地区第1位となったものの、それぞれプレーオフで敗れリーグ優勝は逃している。その他の年は、1994年の3地区制移行後も含め、地区で4−6位近辺をさ迷った。
98年はサミー・ソーサの大活躍で中地区2位、ワイルド・カードを手に入れ、久々にプレーオフに出場した。
しかし、99年は中地区の最下位だった。
1901年から98年までの<シカゴ・カブス/シカゴ・ホワイト・ソックスの成績>を表にまとめたので参考にしてほしい。
マリはわたしに、今年のカブスはいつごろ沈むと思うかと訊いた。今のところはがんばっている――首位に2.5ゲーム差である
「ねえ、マリ、わたしは人生にほとんど幻想を持たない人間よ。カブスのことは、そのわずかな幻想のひとつにしておきたいと思ってるの」わたしはコーヒーをかきまわした。「でも、8月の第2週あたりでしょうね。そちらのご意見は?」
(『サマータイム・ブルース』p218)
『サマータイム・ブルース』は1982年の作品。作者サラ・パレツキーはものごころついてから、カブスのリーグ優勝はおろか地区優勝すら見たことはなかったはずだ。しかし、カブスを愛し続け、幻想と知りながらその幻想を追いかけている。カブスを日本のある球団に置き換えれば、日本でもよく聞く会話…。
クーパーが、クールにカブス・ファンを観察すると、
「どっちが勝ったんだ?」
「相手ですよ。9回の表にスリーラン・ホームランが出た」
「だが、あの連中はあまり悔しそうじゃないな」
クーパーは笑いを浮かべた「年間90試合は負けてるんです。負けを哲学的に受け止めることもファンは学んでる」
(『過ぎゆく夏の別れ』p101)
リーバーマンのカブスの愛しかた。
「おじいちゃん、悲しそうなんだもん」
「いつだって悲しそうなんだ。一族の呪いってやつだ。春が来てカブスがアリゾナからもどってくれば、すこしはよくなるさ」
(『冬の裁き』p38)
そして、リーバーマンも強くないカブスを愛しているのだ。<カブスの呪い>にかかると、才能ある選手をいくら集めても勝てないらしい。
ブルズにもベアーズにもなんら敵愾心はなかったが、彼のお気に入りはプロ野球のカブスで、これまでもずっとそうだった。引き出しの奥深くには、ハンク・ソーとフランキー・バウムホルツのサイン・ボールがしまってあるはずだ。地下の段ボール箱には、ロイ・スモーリー、アーニー・バンクス、アンドレ・ドーソン、ロン・セイ、そしてビル・ニコルソンにサインしてもらったプログラムがしまってある。だが、リーバーマンは過去を愛しているわけではない。彼は昔のカブスを愛したように、いまのカブスも愛していた。才能のある選手をつねに並べているにもかかわらず、かならずシーズンの最後で尻すぼみになって優勝をのがしてしまおうと、かまわない。カブスのユニフォームを着た者は、かならずカブスの呪いに落ち、才能があり愛されてもいるのに、勝てなくなってしまう。その状況は、トッドのギリシャ悲劇のひとつを思い出させたが、どれだったかは思い出せなかった。
(『冬の裁き』p272)
そう、アメリカの野球で忘れてはいけないことがある。アメリカの野球場に訪れたら、どんな退屈な試合であっても、7回の表が終るまで席をたたないことだ。大リーグならではの名物Seventh Innings stretch(7回の背伸び)が行われるからだ。
アメリカ人なら誰でも知っており、アメリカの第二の国歌とも言われる『野球場につれてって(Take Me Out to the Ballgame)』が数万人の観客によって大合唱される光景は壮観である。歌詞タイトルをクリックすると音楽が流れます。
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Take Me Out to the Ballgame
Take me out to the ballgame,
野球につれてって
Take me out to the crowd.
人ごみにつれてって
Buy me some peanuts and cracker jacks,
ピーナッツとクラッカージャックを買ってね
I don't care if I ever get back.
帰れなくなってもかまわない
Cause it's root, root, root for the home team,
応援しようよ、ホームチームを
If they don't win it's a shame.
勝たなければ恥だ
For it's one, two, three strikes you're out,
1、2、3ほらストライクアウトだ
at the old ballgame.
昔からずっとつづいた野球のゲームさ
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この歌はテキサスとトロントを除く全球場でほぼ毎日歌われていて、中でもカブスのリグレー・フィールドとホワイト・ソックスのコミスキー・パークとその観客たちのこの歌への思いは群を抜いている。
メイシュが返事をよこすのを女が待っているあいだに、どこからか、ラジオが、群集の歓声とハリー・ケァリーの声を爆発させていたが、メイシュは、自分がどこにいるか忘れてしまったみたいな様子だった。
(『愚者たちの街』p22)
女がこの<T&L>にはいってくる3分前に、ライン・サンドバーグが8回に2塁打を放ってふたりのランナーを迎え入れ、ハリー・ケァリーが狂喜の叫びを発していた。
兄のメイシュが経営するデリの、暑い店内にいるのも、ふだんは楽しいひとときだが、エイブ・リーバーマンは、ここから20分のリグレー・フィールドで、オスカー・メイヤーのウインナーを使ったホットドッグを食べ、仕事休みで外野席にやっていきた若い女の子たちの、むきだしの、日に焼けた肩や、そばかすだらけの背中を見ていたくてならなかった。30年か40年昔にもどって、ユーアル・ブラックウェルがアンダースロー気味のサイドハンドからくりだす球を、ビル・ニコルソンやハンク・サウアーのバットが一閃し、右翼席にたたきこむところが見られるなら、もっといい。
(『愚者たちの街』p23)
「この起用でいいのかな、デイヴィー」ハリー・ケァリーがラジオでいっていた。
「この場面にトリロは、悪い選択じゃない」かならず陳腐な励ましの言葉が返ってくるのを期待できる男、デイヴ・ネルソンが請け合った。
………
そして、マニー・トリロが場外本塁打をかっ飛ばした。
「信じられん(ホーリー・カウ)!」ハリー・ケァリーが絶叫した。
(『愚者たちの街』p23)
リグレー・フィールドには野球殿堂入りした名物アナウンサー、ハリー・ケリー(Harry Carry)がいた。"Holy Cow!"(信じられない!)という流行語はハリーが生み出したもので、彼はホームランが出るとすかさず"Holy Cow!"と叫んだ。7回の表が終ると観客はそれぞれ立ち上がり、グランドに背を向けて口々にハリーの名前を呼ぶ。ハリーは放送席から身を乗り出して「イェーッ」と応える。それから、調子はずれのダミ声で"Take Me Out to the Ballgame"を歌い始めるのだ。
しかし、多くのシカゴアンに愛されたハリー・ケリーも1998年に亡くなった。もうあのダミ声を聞くことはできない。今年の4月に久しぶりにリグレー球場を訪れたら、球場の入口近くにハリー・ケリーの大きな像が立っていた。シカゴアンは死後もハリー・ケリーを愛しているようだ。
シカゴ・ホワイト・ソックスは、1900年に誕生した。当初は、ホワイト・ストッキングス( White Stockings)と呼ばれたが、カブスの旧称と紛らわしいので、1年でホワイト・ソックスに名称を変更した。
更けてくる夜をついて、ムアランドは錆の出たトヨタで35番通りを西ヘ向かい、新しい巨大なソックス・パークを過ぎ、鉄道の長い高架陸橋の下を通ってブリッジポートに入った。ブリッジポートは、ムアランドによってこの街の神秘の中心だった――リチャード・デイリー1世が市長だったころ、デイリーランドとも呼ばれた一郭。遠くからでもいちはやく届くアイルランド人の神秘的な影響力、労働者階級の怒り、カトリックの熱い情熱、ホワイト・ソックス・ファンの熱狂ぶり、そして好戦的な白人社会。ブリッジポートは、ムアランドが入社したての市内版担当の新米新聞記者だったころ、リチャード1世市長が突然不慮の死を遂げたという第一報が入ってサウス・ロウ通りへすっとんでいった1976年の12月のあの日以来、彼を魅了してきていた。
ブリッジポートはいまは仰天するほどメキシコ的になり、端のほうはちょっと黒人的になっていた。もっとも、パーネルとかエメラルドとかいう名前がついている通りは、依然として遠くの緑なす島、すなわちアイルランドを思い起こさせた。ムアランドは、タコス料理店やディスカウント・ショップのまえを通り過ぎ、ロウ通りになる警察署を過ぎたところでブレーキを踏んだ。そして、バーをさがした。
(『春までの深い闇』p165)
ホワイト・ソックスの本拠地コミスキー・パーク(Comiskey Park)はサウス・サイドの深いところにあるエルの駅から3分と便利なところにあるが、治安は決してよくない。上の引用からも雰囲気はつかめるだろう。試合がないときは日本人は近づかないほうがよいとも言われている。
ダウンタウンの北側にあるリグレー・フィールドは回りが住宅地で治安も悪くない。こんなイメージからか、ボクなんかは、カブスの方が馴染みやすく、ホワイト・ソックスにあまり関心がないのかもしれない。成績だけ見ると、少なくともこの10年近くは、ホワイト・ソックスの方が上なのだ。
シカゴのスポーツということであれば、ブルズ、ベアーズ、ブラック・ホークスの話も書かないと片手落ちということになろう。しかし、あくまでも<ミステリーに現れたシカゴ>を紹介しているのだからやむをえない。残念ながら、マイケル・ジョーダンに言及したミステリーにはお目にかかったことがないのだ。
ベアーズとホークスについてならこれでどうだろうか。ある酒場の景色である。
壁には、例によってビールの友であるセミ・ヌードの写真とともに、ベアーズとホークスのポスターが貼ってあった。
(『雨のやまない夜』p14)
(当初作成日:9/25/1999)
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