アメリカの刑事司法制度について − その1

裁判のゲーム性


    「勝負は、陪審団が検察官と弁護人にどういう反応を示すかにかかっている。ある友人が、昔、『裁判というのは、12人の人間を選んで、検察官と弁護人のどちらが好きかを決めさせるゲームだ』と言っていた。ちょっと斜に構えた見かただが、一理はある」
    (『子供の眼』p321)

主人公クリストファ・パジェットが第一級謀殺で起訴された。公判が開始される直前、落着かないパジェットは、ひとり息子のカーロと自宅に立てたバスケット・ゴールでシュート合戦をしながら話をする。カーロに、複雑な気持ちで、「で、陪審団はどう?」と尋ねられた場面だ。

子供の眼』(Eyes of a Child、新潮社)は、リチャード・ノース・パタースン(Richard North Patterson)の代表的な法廷ミステリーである。原作は94年に出版されているが、翻訳がハード・カバーで出たのが昨年(2000年)、したがってまだ文庫にはなっていない。基本的に文庫しか買わないボクが3,200円も払ってハード・カバーを買ってしまったのは、前作『罪の段階』(Degree of Guilt、新潮文庫)がメチャクチャおもしろかったからだ。<クリストファ・パジェット物>の新作が出たと知ってとにかく読みたく、文庫が出るまで待てなかった。期待は裏切られなかった。『ラスコの死角』(The Lasco Tangent、ハヤカワ文庫)、『罪の段階』、『子供の眼』と続く<クリストファ・パジェット物>は一作ごとに味わい深くなっていく。どれぐらいおもしろかったかと言うと、ボクが選んだ2000年の翻訳ミステリーベスト3は、第1位『子供の眼』、第2位『夜が終わる場所』(クレイグ・ホールデン、扶桑社ミステリー)、第3位『ハンニバル』(トマス・ハリス、新潮文庫)。あの『ハンニバル』より面白かったということだ。簡単にシリーズのあらすじを説明しておこう。

パタースンの処女作でアメリカ探偵作家クラブ賞受賞の『ラスコの死角』のあらずじは、パタースン自身が『罪の段階』の中でうまく要約している。つまり、『罪の段階』は、『ラスコの死角』のヒーロー、クリストファ・パジェットとヒロイン、メアリ・キャレラがそのまま引き継がれているため、前作を読んでいなくても楽しめるよう、パジェットの部下である女性弁護士テリーザ(テリ)にうまくラスコ事件を回顧させているのだ。

    クリストファ・パジェットは、あまりにも若くして有名になったので、それ以後の経歴を付け足しのように見る人間もいるほどだった。顔写真が《タイム》誌の表紙を飾ったのは、パジェットが29歳のときだ。
    テリはその《タイム》を、彼の補佐役としての職に応募する直前に、図書館で見つけた。有名な表紙だ。連邦議会で証言する若き弁護士。向こう見ずな理想主義者の顔写真。好奇心に駆られて、関連記事を片っぱしから読み、うわさには聞いていたけれど、幼すぎてはっきりと記憶していなかった事件の全体像を、あらためてつかんだ。
    大統領の親友であり財政的な援助者でもあったウィリアム・ラスコに関する事件だった。パジェットは、経済犯罪取締委員会の調査官として、ラスコの株価操作について調べる任務を負っていた。ラスコの会社の社員だった重要な証人が、轢き逃げ”事故”で死に、一枚の不可解なメモと、委員会内の誰かが調査内容を敵に売っているのではないかという疑惑だけが残った。
    経済犯罪取締委員会の腐敗ぶりを探っていくうちに、パジェットの調査の矛先は、とうとうホワイトハウスに向いた。そのとき、ふたりめの証人が誘拐される。執拗に粘るパジェットは、命を狙われながらも、ついに株価操作の謎を解くに至った。
    操作は、再選を控えた大統領に150万ドルの選挙資金を融通するために行われたのだった。そして、調査についての情報をラスコに流していたのは、パジェットの属する委員会の責任者、ジャック・ウッズ委員長だった。
    委員会内の不正を、パジェットが完全に暴き出したのかどうか、記事では明らかにされていなかった。しかし、彼はつかんだ情報を《ワシントン・ポスト》紙に語り、さらに議会で証言した。続いて証言台に立ったのが、ウッズ直属の特別補佐官だった若い女性弁護士。その結果、ウッズとラスコは実刑判決を受け、大統領は政治生命を絶たれた。
    (『罪の段階』(上)p15)

引用文にある「ウッズ直属の特別補佐官だった若い女性弁護士」が若き日のメアリ・キャレラだ。『罪の段階』は、ラスコ事件から15年後、華麗なテレビ・インタビュアーに転身しているメアリ・キャレラから突然パジェットに電話が入るところから始まる。有名作家からレイプされそうになり、誤って射殺したというのだ。かつてパジェットと関係を持ったメアリは、その後、息子カーロをもうけたが、別れて長い間没交渉だった。テリとともにパジェットは正当防衛の線で弁護を引きうけるが、事件には多くの秘密、まさに「罪の段階」が隠されていた。
正当防衛かそれとも謀殺か――法廷がテレビ放映され、全米が見守る中、予備審問が開始される。検察官シャープの冒頭陳述を皮切りに関係者が次々と証言すると、メアリの主張が検屍結果と微妙に食い違っていることが明らかになった。現場に残されたテープをめぐり、検察と弁護双方の駆け引きが続くさなか、テリは事件の謎を解く鍵を手に入れる。
公判に至る前の「予備審問」の段階で弁護側が検察側と対決するという設定もユニークで、法廷ミステリー、リーガル・サスペンスとして一級だが、それよりも男女の葛藤、親子の絆が感動的に織り込まれ、文学の香りも高い。ひとり息子のカーロとの心理的な葛藤には涙を誘われる。

子供の眼』は、テリの夫リッチーが殺害される場面から始まる。『罪の段階』には、パジェットのもとで弁護士としての仕事に燃えるテリがその夫リッチーとうまく行っていない様子が、ひとつのエピソードとして描かれていたので、何時の間にかパジェットがテリと恋人になっても読者は驚かない。しかし、パジェットがリッチーの殺人容疑で逮捕されてしまうのだ。
パジェットは女性弁護士キャロライン・マスターズに弁護を依頼する。キャロラインは『罪の段階』ではメアリ裁判の名判事として登場、一躍名を上げたが、その後サンフランシスコ最大の弁護士事務所ケニヨン・アンド・ウォーカーのパートナーに転身していたのだ。何か事情があるのだろうか、パジェットは証人台に立つことを拒否する。被告が証言台に立たないという非常に苦しい状況の中で、キャロラインは有能な検事ヴィクター・サリナスと陪審員の前で火花を散らす。証言は次々と覆され、陪審員の心証は日々入れ代わる。群がるマスコミ、息子カーロやテリにも芽生える不信。パジェット、カーロ、テリそれぞれが孤独感を深めていく。息詰まる公判は終わるが……
『子供の眼』は『罪の段階』を上回る一級の法廷ミステリーであることは間違いない。そして、『罪の段階』と同じく、男女の葛藤、親子の絆を書いた文学でもある。

最後の審判』(The Final Judgement、新潮社)は、『罪の段階』、『子供の眼』に続くパタースン“法廷三部作”の最終巻である。本書では『罪の段階』で判事として、『子供の眼』で弁護士として登場したキャロライン・マスターズが主人公となる。メアリ・キャレリ事件で一躍世間の注目を集めたキャロラインの野心は、連邦裁判所判事になることだったが、努力のかいあり、民主党の新大統領から指名を受け、指名承認の公聴会を待つばかりとなっていた。ところが、父親から「姪のブレットが殺人に巻き込まれたので、帰ってきてほしい」との電話が入り、23年間一度も帰らなかった故郷のニューハンプシャーに戻るところから物語は始まる。
ブレットは恋人のジェームズと湖畔で一夜を過ごすが、ワインとマリファナのせいで朦朧とし、気がついた時にはジェームズの無残な遺体を発見することになる。当然ブレットに疑いの目が向けられるが、状況証拠のみで有力な決め手がない状態だった。ところが、ブレットの動機を示唆する有力な証人が現れたことから、検察側は起訴を決心する。キャロラインはこの事件を弁護することにより、連邦裁判所判事への指名を失ってしまうかもしれないと悩むが、家族の期待も大きく自ら弁護を買って出る。本書でも予備審問の場面が出てくるため法廷ミステリーに分類されるが、『罪の段階』ほど迫力はない。本書のおもしろさは、むしろ一見事件とは無関係に思われるマスターズ家の過去のエピソードにある。マスターズ家の愛憎劇にまつわるエピソードのひとつひとつがしっかり描かれ、ストーリー・テラー・パタースンの面目躍如である。キャロラインの父チャニング・マスターズの「子どもは親を喜ばせるためだけに生きているわけではないし、親もまた自分自身を喜ばせるために生きているわけではない……」という言葉が本書を貫くテーマかもしれない。

冒頭の引用『裁判というのは、12人の人間を選んで、検察官と弁護人のどちらが好きかを決めさせるゲームだ』には、アメリカの刑事裁判の特徴である陪審制度の本質が凝縮されている。

現職の検察官(当時)だった佐藤欣子の『取引の社会−アメリカの刑事司法』(中公新書)は、政治学者である夫の佐藤誠三郎と一緒に1970年から72年まで2年間ハーヴァード大学へ留学したときに、検察官の目でアメリカの刑事司法制度を見聞したことを中心に書いた米国留学記である。阿川尚之の『アメリカが見つかりましたか−戦後篇』(都市出版)でも紹介されている好エッセイだ。
佐藤もその中でアメリカの刑事裁判のゲーム性について書いている。長くなるが引用したい。

    ゲームたる刑事裁判は、十分鑑賞に堪えることはスミス事件の示す通りである。「19世紀のアメリカにおいて人々は単調な農村生活の息抜きとして刑事裁判を見に行った。『裁判週間(court week)』の間は裁判所の広場を農夫たちの車(wagon)がうずめ……裁判ゲーム(trial game)の美技を鑑賞した」
    今日のボストン上級裁判所の法廷にも常連の観客の姿が見られた。「第一に法廷の内は暖かい。夏は冷房付きだ」。背の高い、がっしりとした体格の廷吏は私に説明した。それから彼は専門家への軽い揶揄をこめて、「それに彼らの陪審答申の結果の予測はよく当たる」とつけ加えた。常連一瞥したところ貧しい男女の老人たちだった。ほかにこれという楽しみもない人々は、法廷の傍聴席から人生の断面を見る。答申が「有罪」ならば彼らは我が身にも起こった「不運」を思い起こし、被告人がめでたく「無罪放免」となれば、それなりに「幸福」を分かち合うのであろう。ゲームには運不運はつきものである。多くの犯罪者は、本当に無実の犯罪についてはどう弁解していいのかわからないために有罪となり、実際やっているときはかえって無罪となると告白している。アメリカの刑事司法は「ラフ・ジャスティス(rough justice)」なのである。そして、被告人が無実であることを確信しながら、被告人の選任した弁護人が「ニュー・トライヤル」のモーションの申立を怠ったばかりに、被告人に99年の刑を言い渡す裁判官がこの荒っぽい、大まかな正義を実現しているのである。
    とはいえ、アメリカの刑事裁判も実体的真実の要請を全く無視することはできない。そこで、「当事者間の強烈なパーティザン・シップつまり党派性ないし闘争心、または戦闘精神やそれにもとづく『挑戦』が真実を発見する」という主張がしばしばなされるのである。つまり当事者構造は、「法や事実に関する争いを解決するための最善の方法として抽象的に考案されたものではなく、むしろ有形力の行使による対決・紛争解決が弁論や証拠による『争い(fight)』へと進化した結果なのであるが、しかし当事者間の朝鮮によって重要な論点は看過されることがなく、反対訊問は真実発見に有効であり、当事者双方は全く異なった視野と目的を持って事実にアプローチするから、もしそれが秩序ある一連のルールの中で行われるならば、いかなる勤勉で客観的な捜査官よりも真実を明らかにするであろう」と主張されるのである。
    しかしこのような当事者構造の下でしばしば、「致命的に重要な証拠を明らかにすることが妨げられ、ないしは、歪曲され」「文字どおり何十万という」おびただしい勝訴のためのテクニックトリック、陪審や裁判官にむけられた心理操作マニュピレイション技術が発達したのである。さらに対立する法律家は相手側を打ち破り相手側の事件を破戒するため、自己に有利な側面を強調する証人・鑑定人を発見することに努め、自己の見解に同調する人物を陪審員に選任し、『不意打ち(surprise)』によって相手方を打倒しようと試みる危険性をもつことも否定できない。「当事者構造は真実を確定する方法として最善の場合でも不正確なものにすぎない。検察側と弁護側のコンテストの結果は、しばしば双方の法律家の熟練と幸運に依存している」。それはしばしば「無実を罰し罪人をのがす結果をもたらしている」
    (『取引の社会』p88)

発祥の地イギリスを含め、世界中で陪審制度が忘れられようとしている中で、アメリカだけはいまだに司法制度の中心に陪審制度を据えている。アメリカ国民にとって、陪審は納税、投票とともに三大義務の一つである。この陪審制度をレビューすることはアメリカを知ることだと言ってもよい。

アメリカの陪審制については、古くは「十二人の怒れる男たち」、最近では「推定無罪」、「評決」などの映画や小説でミステリー・ファンには馴染みが深い。ヘンリー・フォンダ扮する一人の陪審員が勇気をもって残りの11人を説得し、最終的に全員一致で無罪の評決をする場面に感動した人は多いだろう。

わが国でも、政府の司法制度改革審議会が、刑事裁判で一般市民が判決に全面的に関与する「裁判員制」の導入を検討しており、6月の最終報告に盛り込まれる予定だ。一般市民が刑事裁判に関与する制度としては、アメリカの「陪審制」やドイツの「参審制」が有名である。司法審の案は、裁判に参加する市民を「裁判員」と呼び、判決内容を決める評決権を与え、裁判官とともに事実認定を行い、刑の重さ(量刑)まで判断するというもので参審制に近いもののようだ。

確かに今の裁判制度が職業裁判官に任せられ、国民にわかりにくくなっているため、制度改革が必要だということは理解できる。しかし、裁判員制が導入されれば問題が解決されるというものでもない。
たとえば、日本において、裁判員として選ばれた市民が数週間にわたって職場を離れることが可能なのだろうか。「待機すること」が重要な仕事に日本人は耐えられるだろうか。アメリカ人が陪審義務をまじめに果たすのは建国時からの歴史的な背景があるからだ。日本と異なり、陪審制は理屈というより信仰のようなものになっている。
国民経済的な分析も必要だ。約20年前の古いデータであるが、陪審のために日常の仕事を離れることによるアメリカ国民経済上の損失はおよそ10億ドルと推計されている。また、陪審員に補償を支払う国の負担が年間2億ドルになるともいわれている。映画や小説に出てくる場面は、陪審制度のほんの表面にすぎない。
ヘンリー・フォンダがいなかったらどうなっていたのか?これは、より根本的な問題である。

日本とアメリカの刑事司法制度(手続)は、まさに「似て非なるもの」という表現がふさわしい。次頁にOJ・シンプソン裁判の概要を記したが、これがすうっと理解できる人は相当アメリカの刑事司法手続に詳しい人、あるいは相当の法廷ミステリーマニアに違いない。日本のミステリーを通して日本の刑事司法手続に精通している人はかえって混乱したのではないだろうか。「アメリカの制度は日本とは違うのだ」ということを念頭において、白紙の状態で理解する方が正確に理解できる。

アメリカの刑事弁護制度』(日本弁護士連合会刑事弁護センター編、現代人文社)の中の「アメリカの刑事手続概説」(茅沼英幸弁護士)によれば、アメリカの刑事司法手続を見る上でのポイントは、

    @ われわれの想像をはるかに超える膨大な数の刑事事件数
    A 刑事被告人の大多数は貧困者であること
    B 日本のように「警察」の段階で23日間も取り調べられることはアメリカではないこと
    C 被疑者は最長72時間以内に警察の管理下から離れ、裁判的手続が直ちに開始されること(=事件処理の舞台が警察の取調室ではなく法廷であること)
    D 手続のきわめて早い段階で保釈がなされること
    E 日本とアメリカでは「裁判」の概念が違うこと
    F 裁判(陪審審理)に至る前にほとんどの事件が解決されること

である。茅野氏の論文「アメリカの刑事手続概説」は極めてわかりやすくかつ簡潔にまとめられており、いちいち出典として明記しないが、本稿をまとめるに当たって随分参考にさせてもらった。

まず、典型的なアメリカの刑事司法手続モデルをチャートで示そう。ご存じのように、アメリカには全国的に統一された手続というものはない。法域(jurisdiction:ひとつの法体系を支配する地域、たとえばアメリカの「州」)によって手続が異なるばかりでなく、州のなかでも統一されているわけではない。したがって、「最大公約数としての手続」とならざるをえない。

今回、陪審制度を中心にアメリカの刑事司法制度についてまとめるにあたって、久保田誠一氏の『グレイゾーン O.J.シンプソン裁判で読むアメリカ』(文芸春秋)で、94年6月のOJ・シンプソン事件発生から民事陪審が終了する97年2月までの経緯を振り返ってみたが、これはちょっとそこらの法廷ミステリーよりずっとおもしろい。日本と全く異なる「アメリカの刑事司法制度」はミステリーを読む際の必須知識であるだけでなく、アメリカの社会を知る格好の材料だ。

(当初作成日:3/25/2001

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