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陪審員の選定手続 jury selection
いよいよ公判手続に入る。
「州民対ロザート・K・サビッチ!」リトル判事の書記官アーネスティンが満員の法廷に向かって高らかに呼びかける。書記官はいかめしい顔つきの黒人女性だ。背丈が6フィートもある。
「公判が開始されます!」と彼女は叫ぶ。
殺人事件の公判の初日を何に譬えたらいいだろう。戦いの日の夜明け。ライオンに立ち向かう古代ローマのキリスト教徒たち。空中に血の匂いがある。傍聴席のベンチは1インチのすきもなくすし詰めの状態だ。法廷画家を先頭に、マスコミ関係者が4列をぎっしり埋めている。判事のスタッフ――秘書1人と法律担当書記官数人、これはふつうなら出廷しない人たちだ――が、法廷正面の、半自失に通じるドアの横の壁ぎわに、折りたたみ椅子を並べて控えている。法壇の前面の角にある大理石の柱の両わきには、この厳粛な場に備えて武装した廷吏が1人ずつ坐る。ざわめきと緊張の雰囲気。早口でささやき交わす声が法廷じゅうを満たす。退屈している人間は1人もいない。
(『推定無罪』(下)p22)
被告人がアレインメントで無罪の答弁をした場合にはじめて、裁判(trial)手続が開始される。アレインメントの手続を経た被告人のうち約90%が有罪の答弁を行い、また、5%はなんらかの方法によって裁判が回避されるので、わずか5%が裁判手続に進むにすぎない。
なんでもかんでも素人集団の陪審員によって裁判が行われるわけではない。陪審裁判はひじょうに時間もコストもかかるのだ。絶対量はともかく、裁判にまで至る割合はわが国と比較すると極端に少ないことを理解していないと、陪審制度を誤解することになる。
合衆国憲法第3編2節3項(ArticleV Section2 [3])は、被告人が陪審員による裁判を受ける権利を保障している。
The Trial of all Crimes, except in Cases of Impeachment, shall be by Jury; and such Trial shall be held in the State where the said Crimes shall have been committed; but when not committed within any State, the Trial shall be at such Place or Places as the Congress may by law have directed.
弾劾の場合を除き、すべての犯罪の公判は、陪審によってなされなければならない;公判は、その犯罪が行われた州でなされなければならない;ただし犯罪地がいずれの州にも属しないときは、連邦議会が法律で指定する1または2以上の場所で、なされるものとする。
したがって、被告人がその権利を放棄しない限り、陪審裁判(jury trial)が開かれる。被告人がその権利を放棄すると、わが国と同じ裁判官による裁判(ベンチ・トライアル bench trial)を受けることになる。
全被告人の10パーセントが、陪審なしの職業裁判官による裁判を受けている。被告人はベンチ・トライアルの方が有利と考えれば、陪審を放棄する。ベンチ・トライアルを選ぶのは、凶悪な前歴があったり、公判前に偏見に満ちた報道があったり、少女強姦のような極悪犯罪で起訴されている場合が多い。南部の黒人たちはしばしば陪審を放棄した。陪審の人種的偏見を恐れたり、とりわけ白人女性に対する犯罪で起訴された場合に多かった。
こんな格言がある。
「無罪なら職業裁判官の方がいい。有罪なら、陪審裁判の方がよい」
裁判の大まかな進行手順は次の通りである。
(1) 陪審員の選定(jury selection)
予備尋問(voir dire)
理由付き忌避(challenge fo cause)
理由不要の忌避(peremptory challenge)
(2) 起訴状の朗読
(3) 冒頭陳述(opening statement)
(4) 立証(presentation of evidence )
(5) 最終陳述(closing argument)
(6) 評決(verdict)
この中でわれわれが意外と認識していないのが陪審員の選定手続だ。映画などでもすでに12人の陪審員が揃った場面しか映らない。12人が揃うまでどのような手続が行われているのか、これはある意味で驚くべき手続だ。
ヌース(判事)は先週の金曜日に裁判所書記のジーン・ギレスピーに電話をかけ、公判はクラントン裁判所でおこなわれるむねを通達していた。さらに、ヌースは、150人の陪審員候補者を選出しておくようにとの指示も出していた。12人の陪審員を選出するために、被告側が通常より候補者数を増やすことを要請し、ヌースがこの要請に応じた結果だった。ジーンはふたりの書記助手とともに、土曜日一日をついやして、選挙人名簿を無作為にめくり、陪審員候補者をえらびだしていた。ヌースの特別な指示にのっとり、3人は65歳以上の人間を除外した。1千人の名前が選出され、それぞれの住所氏名が記された小さなカードが、大きな段ボール箱にいれられた。ふたりの書記助手が交替で、箱のなかから無作為に1枚ずつカードをとりだしていく。助手のひとりは白人で、もうひとりは黒人だった。ふたりとも中身は見ないでカードをとりだし、折りたたみテーブルの上に引き出したカードをきれいにならべていった。カードの数が150に達すると、カードを取り出す作業はおわり、1次リストがタイプされた。この150人が、州民対ヘイリー裁判の陪審員候補者である。選出のすべての段階について、ヌースは注意ぶかい指示を出していた。かりに陪審員全員が白人になり、有罪判決が出て死刑宣告がくだされた場合、控訴審では陪審員選出の全段階が攻撃目標となりかねない。ヌースは以前にもそういった事態を経験ずみだったし、そのときには逆転判決がおりたのだ。だが、こんどはそんなことを許すわけにはいかない。
1次リストから、それぞれの陪審員候補者の住所と氏名が個別の陪審員召喚状にタイプされた。召喚状の束は、月曜日の朝8時にオジー・ウォールズ保安官が来るまでジーンのオフィスの金庫に保管されていた。保安官はジーンとコーヒーを飲みながら、指示に耳をかたむけた。
(『評決のとき』(下)p90)
ほぼどの州でも、選挙人名簿や運転免許所有者から将来陪審となるべき人物のリストを作り、マスターテープとして裁判所が保有している。裁判所のマスターテープに登録されている人全員に対して、陪審となりうる資格を判定するために、定期的に質問票が送られる。
質問票には、たとえば、
@2年以上○○○○○州に住んでいるか?
A英語を理解し読み書きができるか?
B司法の運営にかかわる機関に関与したことはあるか?
C精神的にも肉体的にも欠陥がないか?
D有罪判決を受けたり、犯罪の嫌疑を受けたことがあるか?
E陪審の職務をつとめたことがあるか?
などの質問が書かれている。まず成人のアメリカ人であればほぼ全員が適格となるような質問ばかりだ。質問票に回答しないことは、どこの州でも犯罪とされているが、訴追されたという話は聞いたことがない。
送られた質問票のうち15〜30%は、死亡、転居その他の理由で返事がない。しかし、驚くべき回答率の高さだ。回答のあった質問票は別のリストすなわち「有資格者テープ」を作成するのに利用される。
判事または書記によって、その中から一定数の人が無作為に抽出され、陪審員候補者として法廷に召喚される。最近ではほとんどの州でコンピュータに指示を出してランダムに抽出するが、引用文にあるように、一部の州では判事または書記が目隠しをしてカードを引くか、箱から玉を拾うというほのぼのとした作業で無作為抽出を行っている。無作為抽出であることが重要だ。
陪審員召喚状の見本を『陪審制の解剖学』(セイムアー・ウイッシュマン、現代人文社)から引用する。
陪審服務への召喚状
エセックス郡
あなたは審理陪審のつとめにつくために召喚されます。
日時 1983年9月9日
場所 ニュージャージー州口頭裁判所
所在 ニュージャージー州ニューアークエセックス郡裁判所ビル410号室
理由 審理陪審服務のため
その文書には6桁の番号が打たれ、出廷日と4ケ条の「陪審心得」が書いてあった。
(1) 陪審免除は指名権を持つ裁判官だけが許可できる。
(2) 陪審免除の申立ては、指名権を持つ裁判官に対して、所定の日10日前までに書面で行わなければならない。電話での請求は受け付けない。
(3) 駐車場はハワード通りにあり、南オレンジ・アヴェニューから入られたし。
(4) 服務予定機関は2週間。
召喚状は末尾の囲みで、次のように警告していた。
大陪審であれ審理陪審であれ、召喚を受けた人は、文書の送達か宣誓による相当の理由なしに欠席ないし出廷拒否をした場合には、50ドル以下を裁判所より科せられる。罰金は違反行為のあった地域で使われる。さらに法廷侮辱罪として罰せられることもある。
(『陪審制の解剖学』p22)
陪審義務に服した場合には、陪審員は報酬を受け取ることができる。報酬額は州あるいは郡によってまちまちである。1日たった2ドルのところもあれば、連邦裁判所のように1日20ドルも支払われるところもある。古い統計ではあるが、全国平均は1日10ドルという数字がある。しかし、これでは一般市民が仕事を離れて陪審義務に服することはかなり辛い。
したがって、陪審義務服務中も雇い主が給与を支払続ける場合が多い。これは、陪審の費用のかなりの部分が私企業によって負担されていることを意味する。
約20年以上前の統計でやや古いが、陪審のために日常の仕事を離れることによる国民経済上の損失はおよそ10億ドルと推計されているが、これを除くと、陪審に補償を払う国の負担が年間2億ドルになるという。この陪審制度が国民経済的にも一定のインパクトを与えるという点は、わが国が「裁判員制」を導入する際に念頭に置かねばならないポイントの1つである。
「無作為抽出」の話に戻る。『陪審制の解剖学』を参考に、「無作為抽出」の難しさを示す例を挙げておこう。
「社会の公平な断面図」から無作為に抽出された人々の決定によって、被告人の運命は決まることになっているが、現実には若い人はよく陪審から除外される。ニューヨーク最高裁判所の研究によれば、1970年代に21歳から25歳までの人は人口の13%に当たるが、陪審では3%しか占めていなかった。
また、アメリカでは老齢者に対する偏見が強く、陪審義務の法律にも影響している。かなりの州で65歳ないし70歳を越える人に陪審義務を禁じている。
以前は、平均以上の陪審を集める方法としてキーマン方式なるものがしばしば採用されていた。これは地域の有力者(たとえば、産業界の団体や社交団体の会頭)が、彼らがよき陪審と考える人の名前をあげてリストを作るという簡単な方法である。この方法によると、おおむね白人で教育のある人が陪審となった。ニューイングランドや南部では今でも使われている。南部では、実質的に黒人を陪審から排除するために使われていた。しかし、1968年の連邦法(The Jury Selection and Service Act)によってキーマンは投票者リストに替えられた。今日、連邦裁判所と半数以上の州の裁判所では、平均的市民から無作為に選ばれた人の市民的常識に信頼を置いている。
しかし、投票者リストへの信頼性にも疑問はある。
「ジョン・テイト・アシュトン」
「その男は死んでる」
「なんですって?」
「死んでるといったんだよ。3年前に死んだ」
「どうして死人がリストに載ってるんです?」法律かではないアトカヴェイジがたずねた。
「有権者登録名簿の更新をしていないからだよ」ハリー・レックスが酒を飲みながら、事情を明かした。「死んだ人間もいるし、ここから引っ越した人間もいる。名簿をつねに更新しておくのは不可能だ。召喚状を150通発行したら、出頭してくるのは、いいところ100人から120人だね。のこりは、死んだか引っ越した連中だ」
(『評決のとき』(下)p138)
更新されずに死者や引っ越した者が残っているという問題もさることながら、有権者のうち登録されているのは8割ぐらいであり、一部の州では6割を切っているところもある。登録する人は白人、壮年、学歴ある人が多く、逆に非白人、若者、老人、教育のない人の登録は少ない。したがって、投票者リストをベースにしても、必ずしも「社会の公平な断面図」にはなっていない。
よく言われるように、異なった年齢層はさまざまな面で違いがある。老齢者は健康、個人的な問題や死という人生の根本問題に対する態度で、若者と鋭く対立する。また、若者と比べて政治的・社会的に不寛容である傾向を持ち、強力な警察活動に好意を示す傾向がある。
「単純な数字の問題だよ!この郡は、人口の26パーセントが黒人だ。ところが、第22裁判区のほかの郡は、どこでも最低30パーセントを黒人が占めてる。ヴァンビューレン郡にいたっては、人口の40パーセントが黒人なんだぞ。ということは、陪審員にそれだけ多くの黒人がえらばれる可能性があるということだ。裁判地を変更すれば、陪審員席に黒人たちを引き込めるチャンスが生れる。ところがこの郡で公判をおこなった場合には、最悪で陪審員全員が白人という危険性があるんだ。うそじゃない、白人ばかりの陪審員団というのを、これまでなんどもこの目でみてきているんだからな。きみに必要なのは、とりあえず黒人をひとりでもいいから陪審員席にすえ、陪審討議を頓挫させて、審理無効にもちこむことだ」
「しかし、それでは再審理ということになります」
「そうなったらなったで、また陪審を評決不能にさせてやればいい。3回目には、連中もあきらめる。陪審評決不能は、バックリーのスコアボードでは敗訴とおなじなんだよ。公判を3回くりかえせば、あの男もあきらめる」
(『評決のとき』(上)p198)
陪審として召喚する人を選定する過程が完全に無作為でなければ、特定の事件のために選定された陪審の構成がゆがんだものになることもありうる。こんなエピソードもある。1955年までジョージア州では、陪審になる資格のある人の指名を、白人だったら白いカードに、黒人だったら黄色のカードに記載していた。そして誰を召喚するか決める際に「無作為に」カードを引くのだが、黒人が呼び出されたためしはなかった。陪審選定段階のもっともきたない手口の最たるものだろう。
召喚状を受け取った陪審員候補者が裁判所に出頭する。
月曜日の朝、マンハッタンを南に下がったセンター・ストリート100番にある刑事裁判所15階の中央陪審員室に数百人の陪審員候補が集まった。そこは天井の高い大きな部屋で、四方の壁は下から2メートルほど褐色のオーク罪が張られ、そこから上はありふれた薄緑色に塗られていた。床には、木製のものもあれば、安っぽい白のプラスチック製のもあるが、椅子とベンチが一面に散らばっていた。……
一方の壁ぎわをコの字形に囲む大きなカウンターがしつらえられ、上に張った茶色の化粧合板はかなりすれている。そこに卓上マイクが置かれていた。カウンターの中には係員が2人いて、陪審員候補として呼びだされた人びとの受付を始めるところだった。……
30分足らずのうちに、500人以上の陪審員候補者がその部屋に集まった。受け取った紙片は出席台帳と照合して、たてておかれた濃緑色の金属製ドラムのなかに入れられた。この数百人のなかに、デニス・リオーダンの裁判で陪審員をつとめることになる12人も含まれていた。
10時すぎに電話が鳴り、雑談をしていた係員がおしゃべりをやめて受話器をとった。
「ああ、50人かい。オーケー」
彼は金属製ドラムを勢いよく回して、ふたを開け、1枚の紙片を取り出して名前をマイクを使って読み上げた。候補者はすなおに前に出てくる。係員は単調に同じ手順を繰り返し、やがて、「ヴァイオレット・トリヴァさん」と呼んだ。……
50人の候補者がカウンターの前に集まるまで、係員は名前を呼び続けた。それから50人分の紙片を制服姿の廷吏に渡し、廷吏は彼らを案内して、中央陪審員室からエレベーターに向かった。4階でおりて法廷に連れて行った。傍聴席のベンチを示したが、彼らがすわる前に、「右手を上げて」と命令した。
「みなさんは州民対デニス・リオーダン裁判の公平無私な陪審員としても適格性に関する質問に真実を答えることを厳粛に誓いますか」と彼はお祈りのように唱えた。
(『復讐法廷』p84)
意外に知られていないのが、「陪審の仕事は待機することだ」ということである。毎年、陪審員候補者として召喚されても、何日間にわたって、4分の1は、実際に陪審として働くことはなく、座って待機することで終わるとの統計もある。いくつもの裁判を次々と開くためには、次の事件担当の陪審をプールしておくことが不可避であるため、「待機」する陪審候補者が必要となる。「待機」の意義はあるという人もいる。つまり、陪審を待機させているというプレッシャーが、裁判関係者に、民事事件では示談、刑事事件では司法取引を多数もたらすからだ。
陪審制の意義は何だろうか。陪審制の最大の価値は、警察官、検察官、裁判官のプロの仕事が公開の法廷で微細にわたって調べられるかもしれないと認識させることによって、違法捜査やいい加減な仕事を抑止する効果があることだろう。この意味で、陪審は、事実上、無作為に選ばれた市民の監察委員会の役割を果たしている。
しかし、このような抑止効果も、一方でアメリカの司法手続の根幹をなしている司法取引によって、不適切な行為が隠蔽されることから、その土台が崩れている。われわれの目には陪審制と司法取引は矛盾した制度のように見える。
クリストファ・パジェットは、陪審員候補者の集団――自分の過去とまったくつながりのない80人ほどの他人――を見つめながら、どの12人が自分の未来を決めることになるのだろうと考えた。
ジャリッド・ラーナー判事の広大な法廷には、不毛さと威厳と都会の憂鬱が、奇妙に融け合っていた。安っぽい金色の鏡板を張った壁。天井の四角い枠のなかから、温かみのない光りを投げる蛍光灯。そして、低い仕切りの向こうに並ぶ劇場ふうの古びた椅子は、陪審員候補者で埋め尽くされ、資金不足の学校の過密な教室さながらの外観を呈している。しかし、黒い法服をまとった判事の存在が空気を重々しくし、廷内には、今にも始まる注目の殺人事件裁判ならではの張り詰めた閉塞感が漂っていた。壁際に並んだ記者たち。そわそわと体を動かしたり、虚空をにらんだりしている法律家たち。ラーナー自身――船の舳先に似た黒い顎ひげに、精悍な目鼻立ち――も、神経をとがらせ、油断なく身構えている。
(『子供の眼』p279)
「イギリスでは陪審員が決まって裁判が始まる、アメリカでは陪審員が決まった段階で、裁判は終了したも同然である」と言われる。人種の構成が地域によって著しく異なるから、裁判地をどこにするかで、陪審員の顔ぶれも変わり、評決に直接影響する。
サリナスはポケットに両手を突っ込んだまま、椅子をぐるりと回転させ、これ見よがしにくつろいだようすで、候補者たちを眺め渡している。その気楽さが見せかけにすぎないことを、パジェットは知っていた。候補者のなかに占める少数民族の割合を目で量りながら、人種的偏見や憎悪を拠りどころに、パジェットを第一級殺人で有罪にするための陪審員選びの戦略を練っているのだ。裁判の勝敗を賭けたチェス・ゲーム――直感、社会学、通俗心理学、人種配分などの駒を操って、キャロラインとサリナスが80人のなかから12人を選び出す――が、これから始まろうとしていた。
(『子供の眼』p280)
OJ・シンプソン裁判のイトー判事も、陪審員として選ばれた12人のことを「検察と弁護団の激しい人間チェスゲームから生き残った」とチェス・ゲームにたとえて表現している(『グレイゾーン』p79)。
クラインは裁判官席から彼女を見下ろし、彼女が市民の義務を果たそうとしているのを見て満足したらしく、微笑を浮かべた。
「みなさんのなかには、陪審員の経験のないかたもいると思うので、ひとこと説明しますが、これから行われる手続は予備尋問と呼ばれるものです。陪審員予定者の尋問をして、12人の陪審員と2人の予備員を選びます。その人たちは証言を聞いて、公平無私の評決を出すことができるとみなされた人たちです。弁護士なり検事なりが陪審員を忌避して不適格とする根拠は2つあります」
(『復讐法廷』p89)
昼近くに、候補者たちの背景についての質問が始まる――真実を語るという意味の“ヴォワール・ディール”という名で呼ばれているこの予備尋問は、午後もずっと続けられ、翌日の午前中もそれに費やされる。まずリトル判事が思いつくかぎりのあらゆることをたずに、さらに検察側と弁護側が追加質問する。事件に直接関連がある質問は許されていないが、個人的なことを細部にわたってたずねるのは自由だ。ただ、相手を怒らせたくないという質問者自身の気持ちが抑制となるだけである。
(『推定無罪』(下)p29)
陪審員の選定手続の中心となるのが予備尋問(voir dire)だ。
Voir dire(ヴォワール・ディール)とは「真実を語る」という意味。陪審員候補者に質問することにより、陪審員候補者の偏見を明らかにして、極端な考えを持っている人を排除するための手続だ。「尋問」というより「質問」で、訳語としても予備質問の方がわかりやすいが、通常の訳語である予備尋問を使う。
わずかな時間のうちに、ラーナーはアリスに、有罪が立証されるまで被告は無罪だと信じられるか、罪は合理的な疑いの余地なく立証されなくてはならないことを知っているか、検察官が立証責任を負うことを理解しているか、という質問をぶつけた。
審理が始まる前から、ラーナーは陪審員候補者たちにそういう原則をたたき込もうとしているのだ。
すべての問いにアリスは「はい」と答えた。
ラーナーが判事席から上体を乗り出すと、顎ひげの先がアリスのほうを向き、禿げ上がった頭部が蛍光灯にまぶしく映えた。「被告人がみずから証言しない場合、何かを隠しているのではないかと受け取る人もいます。あなたはそのことをどう思いますか?」
弁護側にとっては、願ってもない質問だった。自由解答方式なので、アリスの本音が聞き出せる。
(『子供の眼』p285)
「失礼ですが、前列のあなた、お名前は?」
「マハロヴィッチです」
「マハロヴィッチさん、あなたはサビッチ氏が、起訴の理由となっているこの犯罪を犯したと思いますか?」
ひざの上に折りたたんだ新聞を置いて坐っているがっしりした中年男、マハロヴィッチは、肩をすくめる。
「さあ、まだわかりません」
「マハロヴィッチさん、あなたの陪審義務を免除します。みなさん、あなたがたが推定しなければならないことを、もう一度言っておきます。いいですか、サビッチ氏は無罪である。裁判長のわたしがそう言っているのですよ。彼を無罪と推定すること。みなさんはそこに坐っているとき、あちらを見て、自分に言いきかせていただきたい。あそこにいるのは無罪の人間である、と」
このようにして彼は続け、検察側には合理的疑いの余地なく有罪を立証する責任があること、被告人には無言でいる権利があることを説明する。そして、マハロヴィッチが去ったあとの席に坐ったシャツドレス姿の白髪の婦人に質問する。
「さて、あなたはどう思います?無実の人間は立ち上がって、自分はそんなことはしていないとはっきり言うべきだとは思いませんか?」
婦人は迷っている。マハロヴィッチの前例を目にしたばかりだが、裁判長に嘘をつくわけにはいかない。ドレスの衿をさわってからやっと答える。
「言うべきだと思います」
「もちろんそうでしょう。そして、あなたは、サビッチ氏もそう思うはずだと推定しなければならないのです。われわれは彼が無罪だと推定しているのですから。しかし、彼にはそうする必要がありません。なぜなら、アメリカ合衆国憲法に、その必要なしと定められているからです。……
(『推定無罪』(下)p26)
予備尋問は、グループとしての陪審に動機づけを与え、教え込むのにも役立つ。つまり好意的な陪審員候補者を見つけたり、陪審員候補者を自身の偏見に向き合わさせたり、法律家たちを紹介し陪審員との人間的関係を深めさせたりすることに役立つ。
表面的には、ラーナー判事のルールはごく単純だった。廷吏が一度に12人の名前を読みあげる。呼ばれた候補者が前方の陪審員席に出てきて、判事の質問を受け、陪審員として適格かどうか、偏見がないかどうかを判断される。
不適格であることが明らかな場合、ラーナーみずからその候補者を忌避したり、サリナスかキャロラインが正当な理由をもって判事に忌避を要請したりすることができる。しかし、ほんとうの腕の見せどころは、専断的忌避権の使い方にあった。被告原告の双方が、それぞれ20人までは、自陣に好ましくない陪審員を理由を開示することなく忌避できる権利だ。この忌避権は、切り詰めぎみに行使する必要がある。早々と枠を使い果たしてしまって、そのあとに受け入れざるを得なくなった鬼のような陪審員のせいで、依頼人に有罪の評決を下された弁護士を、パジェットは何人も見てきた。それに、キャロラインの行く手に困難が待ち受けていることは、たやすく予見できる。最初に陪審員席に着いた候補者の一団は、キャロラインの望む陪審員像に合致せず、若いヒスパニックの男性の比率が不吉なほど高かった。
(『子供の眼』p280)
陪審員候補者を排除する申し立てを忌避(challenge)という。忌避には2種類ある。まず、検察官あるいは被告側弁護人は、陪審員候補者が、事件に公平でないとする正当な疑いをもつ事実があれば、いわゆる理由付き忌避(challenge for cause)によって排除できる。たとえば、陪審員候補者が被告人と関係があるとき、目撃者であるとき、関連する事件ですでに陪審をつとめたとき、大陪審として被告人を起訴していた場合等の場合は理由付き忌避の申し立てができる。
また、一定の人数(法定数)に限定されるが、検察官、弁護人はそれぞれ主観的な判断で、理由の説明なしに忌避することができる。上の例では、双方20人まで理由を説明することなしに忌避ができる。これは理由不要の忌避あるいは専断的忌避(peremptory challenge)と呼ばれている。
キャロラインの手が、励ますようにパジェットの腕に触れた。しかし、パジェットは、キャロライン・マスターズの務めが、単に偏見を持たないと主張する陪審員を選ぶだけではすまないことを知っていた。みずからの弁護のために証人台に立つ気のない被告に対して、無罪を言い渡してくれるほど奇特な陪審員を、この80人のなかから12人選び出さなくてはならないのだ。
(『子供の眼』p280)
予備尋問は偏見を持つ陪審の排除という目的でなされるが、実際は、検察側、弁護士側いずれにとっても、それ以上に自らに有利になる陪審員を積極的に選んでいくという作業だ。市民の中から陪審員候補者を選定するシステムにゆがみがあるとしても、陪審員候補者の中から12名を選び出すこの過程と比べると取るに足りない。つまり、予備尋問の過程で、自らに有利になる「偏見」はむしろ歓迎というぐらいに、検察側も弁護側も自分たちに有利な特定の12名を選ぼうとするからだ。
パジェットはキャロラインの隣に座って、被告側弁護士に人気のある判事として知られるジャリッド・ラーナーが、最初の陪審員候補者に質問するのを見守っていた。
ジョニー・ムーアの調査によると、赤毛の中年女性アリス・マハーンは、4人の子を持つアイルランド系カトリック教徒で、電話交換手として20年勤め、教区学校教師の夫と、警備員の弟がいる。パジェットとキャロラインとジョニー・ムーアは、事前の話し合いでアリスに5段階評価の4を付け、忌避権行使リストの上位のほうに名を挙げていた。格式張った性格で、権威に信を置く傾向がありそうに思えたからだ。そういう評価が往々にして的はずれなものであることを、パジェットは承知していた。しかし、どこからか手をつけなくてはならない。アリスがラーナーの質問を切り抜けた場合、陪審員からはずすために専断的忌避権を行使するか否かの判断は、キャロラインに委ねられていた。
(『子供の眼』p285)
ジョニー・ムーアはパジェットが雇っている調査員である。調査員の主たる仕事は、公判を有利に導く証人を探したり、検察側証人に対する反対尋問をする際の材料を探したりすることであるが、陪審員選任手続にも関わる。陪審員選任手続専門のコンサルタントもいるぐらいだ。
これは、自分のサイドに好感を持ってくれそうな人間をさがし出すための微妙な審理ゲームである。どうやれば正しい予測ができるか、その方法を法律家に教えて多額の金を稼いでいるコンサルタントもいる。
(『推定無罪』(下)p30)
陪審員選考にあたっては検察側、弁護側いずれもが頼りにするのが、陪審コンサルタントである。彼らは、個々のケースで、被告に同情もしくは反発を示すのはどんなタイプの人間かを「ミニ世論調査」までして探り出す。これはという陪審員候補には徹底した身元調査を行い、表に出にくい思想や趣向などを調べあげる。こうしたデータを基に、陪審員選考にも参画し、候補者の受け答え、言外のニュアンス、目や手の動きなどを追って、クライアントに有利に働きそうな陪審員と、そうではなさそうな陪審員を識別する仕事を手伝うのである。
OJ・シンプソン裁判では、検察はDecision Quest社、弁護団はTrial Logistics社を雇ったと言われる。94年の時点で陪審コンサルタントは250社程度存在した。その10年前にはなかったらしい。アメリカならではの職業だ。
「ちょっとばかり愚劣で差別的だが」ジョニー・ムーアがキャロラインに言う。「サンフランシスコで陪審員を選ぶ秘訣のひとつに、被告人側弁護人はできるだけアジア人をはずせってやつがある。クリスの裁判にもそれは当てはまると思うが、どうだね?」
………………
「アジア人?」キャロラインが言葉を返す。「場合によるわね。移住してきたばかりの人や、まだ同化していない人を指しているなら、そのとおりだと思う。そういう人たちは権力になびきがちだし、推定無罪の原則にもなじみがないでしょうから。でも二世や三世なら、特に高等教育を受けた知的職業人なら、話はまったく違ってくる。少なくとも、階級的な偏見をあまり気にしなくてすむわ」
(『子供の眼』p286)
「モンクの存在がネックになりそうね。黒人の陪審員は、モンクの証言に耳を傾け、敬意を払うでしょう。率直に言って、わたしが必要としているのは、どういう階層であれ、権威を信用しない人間よ」
ムーアが眉根を寄せた。「だから、教育程度が重要になってくる。想像力とつながる部分でね。クリスの裁判は、抽象的思考のできる陪審員を見つけられるかどうかにかかってる。あんたらが絶対に立証できない筋書きを、想像してもらわなきゃならんのだからな。運がよけりゃ、東海岸の都会からやってきた白人で、リベラル派に票を投じるイェール大学出身の詩人を陪審員にできるだろうよ」
キャロラインが首を振る。「そういう人が見つかったとしても、サリナスに刈り取られてしまうわ」やや険しい笑みをムーアに向けて、「“腐った林檎”を1個か2個拾ってくることなら、できるかもしれない」
(『子供の眼』p288)
キャロライン・マスターズが調査員のジョニー・ムーアと、陪審員候補者の中から誰を忌避し、誰を残すか議論している場面だ。ありとあらゆる角度から検討を加え、予備尋問に臨むが、最後は「勘」にたよらざるを得ない。
サリナスは、2組目の候補者グループの最後からふたり目、通算23人目に質問をしているところで、これまでに3人が陪審員として確定していた。公立学校の教師をしている白人男性、銀行員の黒人、そして、速記者をしているフィリピン人の中年女性。3人とも、妥協の結果だった。誰ひとりとして、クリストファ・パジェットに利をもたらす陪審員像に当てはまらなかったが、検察側に利をもたらしそうなのもフィリピン人女性だけで、この女性については、キャロラインがどうにか説き伏せられそうだと踏んだのだった。とにかくこの3人が、弁護側としては精いっぱいの手駒で、サリナスにとってもまあまあの布陣だろう、とキャロラインは評価していた。あとの20人については、ジャリッド・ラーナーが弁護側に不利になりそうな3人をはずし、ヴィクター・サリナスが高学歴の人間ばかりを標的にしていると思われない形で、専断的忌避権を7人に適用し、キャロラインのほうはすでに10人――ラテン系の男性5人、アジア系移民ふたり、激しい監護権争いに敗れた経験を持つ日本人の医師、ニューヨーク市の警官を伯父に持つ男性、好戦的というより軍人そのものだとキャロラインの目に映った黒人の退役陸軍軍曹――を忌避した。
(『子供の眼』p289)
検察側、弁護側双方に忌避権があるので、なかなか双方思うとおりに選定ができない。
ヌースは咳払いをして、この新任の陪審員団を見下ろした。「みなさん、みなさんは本件審理のために格別の注意をはらって陪審員として選出されました。みなさんは、みなさんの前に呈示されたあらゆる論点を公平に審理し、わたしの指示にしたがって法律を遵守するように誓われました。さて、ミシシッピ州法のさだめるところにより、これから公判終了まで、みなさんは隔離状態におかれることになります。つまり、これから公判がおわるまではモーテルに滞在していただき、そのあいだはご自宅にお帰りになれないということです。ご不便をおかけいたしますが、これも法律の命じるところです。いましばらくしますと、明朝まで休廷となります。みなさんにはご自宅に電話をかけ、着替えや洗面用具をはじめとする必要な品をそろえるお時間をさしあげます。これから毎晩、みなさんはクラントン郊外某所にあるモーテルに宿泊していただきます。なにかご質問は?」
(『評決のとき』(下)p254)
陪審員は数日間はモーテルに「隔離状態」に置かれ、自宅に帰ることができないのだ。ちなみに、OJ・シンプソン裁判では、陪審員は265日間隔離された。『評決のとき』には、この後、陪審員がグレイハウンドからチャーターしたバスに乗り、2台のパトカーと1台の軍用ジープに先導されながら、クラントンから約75キロも離れたミルバーン郡の郡都テンプルのモーテルに運ばれる様子が書かれている。
10人の女性陪審員はふたりずつペアを組んで部屋にはいり、ふたりの男性、バリー・アッカーとクライド・シスコも同室となった。黒人の補欠陪審員レスター・ニュートンには独立したひとり部屋があたえられ、おなじく補欠陪審員のフランシス・ピッツもひとり部屋となった。テレビはどりはずされ、新聞はいっさいもちこみ禁止。火曜日の夕食はそれぞれの部屋に運ばれ、水曜の朝食はかっきり7時半に部屋まで運ばれてきた。その時間にはグレイハウンドのバスはすっかりエンジンをあたためおわり、駐車場一帯にディーゼルエンジンの排気がもうもうと立ち込めていた。
(『評決のとき』(下)p259)
これから毎日、陪審員は出廷するたびに、裁判長から、@昨夜、どんな方法であれ、陪審員に接触を試みたり、話かけたり、あるいは意見に影響を与えようとした者がいたかどうか、A新聞やテレビで事件に関する報道を読んだり見たりしたかどうかを確認される。
「これで陪審団がそろいました」ラーナー判事が言う。
「検事も弁護人も、ご苦労さまでした。もちろん、候補者の皆さんにも感謝します。審理は、明朝9時から、検察側の冒頭陳述で始まります。陪審員の皆さんは、これから、書記に従って宣誓をしてください」
ラーナーの書記が前に出て、陪審団に右手を上げるよう指示した。「法と真実にもとづいて、本件を十全にかつ誠実に審理し、正当な評決を下すことを、厳粛に誓いますか?」
ふぞろいなコーラスで、陪審員たちが宣誓する。ラーナーが小槌を打ち鳴らした。「全員起立」ずんぐりとした体型の廷吏の声が響き渡り、ジャリッド・ラーナーが判事席を立つ。
(『子供の眼』p314)
われわれの頭にほとんどないプロセスを経て、ようやく12名の陪審員と2名の予備員が決まる。陪審団の宣誓が終わると、陪審員の選定作業は終了する。そして、陪審員は隔離状態の置かれる。
いよいよ冒頭陳述が始まることになる。
(当初作成日:3/25/2001)
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