アメリカの刑事司法制度について − その13

説示・評決 instruction / verdict


冒頭説示と呼ばれる裁判官の陪審員たちへの説明に始まる審理が、検察官と弁護人の双方による冒頭陳述、検察側の立証、弁護側の立証、それぞれの半証、そして両者の最終弁論などを経て終了すると、陪審員たちは評決を行うために法廷から離れて、非公開で評決を出すための評議をする。この最終段階で行われるのが裁判官による最終説示だ。英語ではinstructions以外にdirectionschargeと呼ばれることもある。

    クライン判事は説示を始めた。
    「諸君、本事件の被告人に対する起訴事実は第二級謀殺である。その罪を構成する重要な要素は、第一に、その行為が殺意をもって行われたこと、第二に被告人が装填された銃で実際に被害者を撃ったということ、第三に、被告人の行為が被害者クリータス・ジョンソンの死を引き起こしたということである」
    「諸君の役目は、証拠に基づいて事実をはっきりさせ、それが起訴事実のすべての要素を合理的な疑いをはさむ余地なく裏付けるならば、全員一致の評決によって決定することである」
    「“合理的な疑い”という言葉はときには、一般人だけでなく、判事にとっても、意味があいまいなことがある。合理的な疑いとは決して一点の疑念もなくという意味ではない。また、数学的な疑問ということでもない。理性によって支持され得る疑いという意味である。もしそのような疑いがあるなら、被告人が訴えられている起訴事実については無罪としなければならない。もし疑いがなければ、有罪とするのが諸君の務めである。」
    「最後に、法律を解釈したり、あるいは別の解釈を加えたりするのは諸君の仕事ではない。あるいは、法律やその機能の仕方に欠陥があるとたとえ思っても、それを正すのは諸君の役目ではない。諸君の役目、そして唯一の役目は、デニス・リオーダンは訴えられている行為をしたかどうか、人を殺害する意思をもってそれをしたかどうかを決めることである」
    「もし討議の過程で、諸君が聞いた証言や提示された証拠品や法律の問題について疑問があれば、こちらにメモを寄越しなさい。諸君のために証言の記録を読み上げさせるし、また、わたし自身が疑問に答えるであろう」
    (『復讐法廷』p307)

裁判官の説示に陪審員の注意が集中するように、通常はこの最終説示の間は、法廷のすべてのドアがロックされ、誰も出入りさせないようにするほどである。
連邦刑事訴訟規則(Federal Rules of Criminal Procedure)は、合衆国最高裁判所が制定した規則で、連邦地方裁判所でお行われる訴訟手続を規律するものである。それによれば、1987年までは、最終弁論のあとに裁判官による説示が行われる旨規定していたが、現在では「最終弁論の前もしくは後に、またはその両方において」と改正され、タイミングと回数については裁判官の裁量によることとされている。

最終説示では、当該事件に適用されるべき法律についての説明、評議の進め方についての説明が行われ、陪審員たちはこれに従う義務が生じる。その意味で、訴訟手続上はひじょうに重要である。そのために、説示に関する非公式の協議が、事前に裁判官、検察官、弁護人の間でしばしば開かれる。次の引用は、クライン判事の部屋に検察官レスター・クルーと弁護士ベン・ゴードンが集まり、最終説示について協議している場面だ。

    「さてと」クラインは目の前に立っている2人の若者を見上げながら言った。「陪審員に対するわしの説示のなかに入れて欲しいことで何か希望があったら、今言ってくれ。あるいは文書で出したいのだったら、あす10時迄にわしの机の上に届くようにしてくれ」
    レスター・クルーが言った。「検察側は別にありません。説示は起訴事実に限られるべきものであることは、わたしたちみんな承知しているとおりです。この場合、第二級謀殺です。それ以外については、陪審員に対する説示に通常含まれる内容で結構です」
    「ゴードンは」クラインが訊いた。
    「1つだけお願いがあります。第二級謀殺のほかに、それより軽い罪についても考慮する権利を陪審員に与えていただけませんか」
    「たとえば」
    「第一級故殺です」
    (『復讐法廷』p278)

最終説示はなかなか味わいがあり、これを理解することで陪審制度への理解も深まるとボクは思っている。英宝社が"Criminal Court Proceedings in America"という英語教材を出している。前半は公判での証拠調べ−検察官と弁護人の応酬、後半は判事の説示が教材として引用されている。ここから説示の出だしと最後の部分を転載させてもらって、若干の解説(青色部分にマウスを当てるとポップアップ・ウィンドウに簡単な解説が現れます)を加えておこう。

    Judge's Instructions To The Jury

    Members of the Jury:
    It is now my duty to instruct you on the rules of law that you must follow and apply in deciding this case. When I have finished, you will go to the jury room and begin your discussions --- what we call your deliberations.
    It will be your duty to decide whether the Government has proved beyond a reasonable doubt the specific facts necessary to find the Defendant guilty of the crime charged in the indictment.
    You must make your decision only on the basis of the testimony and other evidence presented here during the trial; and you must not be influenced in any way by either sympathy or prejudice for or against the Defendant or the Government.
    You must also follow the law as I explain it to you whether you agree with that law or not; and you must follow all my instructions as a whole. You may not single out or disregard any of the Court's instructions on the law.
    The indictment or formal charge against any Defendant is not evidence of guilt. Indeed, the Defendant is presumed by the law to be innocent. The law does not require a Defendant to prove his innocence or produce any evidence at all; and if a Defendant elects not to testify, you should not consider that in any way in your deliberations. The Government has the burden of proving a Defendant guilty beyond a reasonable doubt, and if it fails to do so, you must find the Defendant not guilty.
    Thus, while the Government's burden of proof is a strict or heavy burden, it is not necessary that the Defendant's guilt be proven beyond all possible doubt. It is only required that the Government's proof exclude any "reasonable doubt" concerning the Defendant's guilt.
    A "reasonable doubt" is a real doubt, based upon reason and common sense after careful and impartial consideration of all the evidence in the case.
    Proof beyond a reasonable doubt, therefore, is proof of such a convincing character that you would be willing to rely and act upon it without hesitation in the most important of your own affairs. If you are convinced that the Defendant has been proved guilty beyond a reasonable doubt, say so. If you are not convinced, say so.
    As stated earlier, you must consider only the evidence that I have admitted in the case. The term "evidence" includes the testimony of the witnesses and the exhibits admitted in the record. Remember that anything the lawyers say is no evidence in the case. It is your own recollection and interpretation of the evidence that controls. What the lawyers say is not binding upon you. Also, you should not assume from anything that I may have said that I have any opinion concerning any of the issues in this case. Except for my instructions to you on the law, you should disregard anything I may have said during the trial in arriving at your own decision concerning the facts.
    ------------------------(省略)------------------------
    Remember that in a very real way, you are judges――judges of the facts. Your only interest is to seek the truth from the evidence in the case.
    When you go to the jury room you should first select one of your member to act as your foreperson. The foreperson will preside over your deliberations and will speak for your here in court.
    A form of verdict has been prepared for your convenience.
    You will take the verdict form to the jury room and when you have reached unanimous agreement you will have your foreperson fill in the verdict form, date and sign it, and then return to the courtroom.
    If you should desire to communicate with me at any time, please write down you message or question and pass the note to the marshal who will bring it to my attention. I will then respond as promptly as possible, either in writing or by having you returned to the courtroom so that I can address you orally. I caution you, however, with regard to any message or question you might send, that you should not tell me your numerical division at the time.

    ("Criminal Court Proceedings in America"p61)

『陪審制の解剖学』によれば、「定型説示集」と呼ばれるものがあるらしい。これはすべての刑事事件に適用できるように司法協議会が準備したものである。ことばはよく均衡がとれ、上級裁判所に証人されている。異議を生じさせそうな問題点はすべてクリアーされ、除かれている(p176)。確認のしようがないが、おそらく上で引用した説示も「定型説示集」よるものではないだろうか。
裁判官によっては、適用されるべき法原理に個々の事実をあてはめた特別な説示書を書くこともあるが、まれのようである。特別な説示書を書くと、法の適用を誤って説示し、結果上訴審で判決を覆されるリスクを負うからだ。個性的な説示書を書くことは相当の熟慮と努力が必要とされる。

いずれにしても、説示内容は一般人にとってはレベルが相当高い。法律を勉強したことのない人が上の説示を一度聞いただけで全て理解できるとは思えない。冒頭に引用した

    「諸君、本事件の被告人に対する起訴事実は第二級謀殺である。その罪を構成する重要な要素は、第一に、その行為が殺意をもって行われたこと、第二に被告人が装填された銃で実際に被害者を撃ったということ、第三に、被告人の行為が被害者クリータス・ジョンソンの死を引き起こしたということである」
    (『復讐法廷』p307)

という説示も、法律を勉強して「犯罪の構成要件」の概念を知っている人であれば理解できるが、初めて聞いて罪を構成する重要な要素と言われてもとまどうばかりだろう。
というわけで、いくつかの州では、説示書の書面を陪審員室に持ち込むことを認めている。

特に「合理的な疑い」の概念はわかりにくい。『陪審制の解剖学』は次のようなジョーク(?)を紹介している。

    ある弁護人は最終弁論で、次のように述べたという。「あなた方はまもなく、殺人の被害者といわれている人が法廷に入ってくるのを見るでしょう」と陪審に語った。陪審全員がドアの方を振り向くと、弁護士は続けて言った。「被害者は現れませんでしたが、あなた方の心の中には『被害者は死んでもいないし、まして殺されていないのかもしれない』という合理的な疑いがあるはずだということをわたしは証明しました。でなければ、あなた方全員が法廷のドアを見ることはなかったでしょう」
    検察官は、彼の番が来ると、被害者が来ることを期待して陪審がドアを見たのは陪審が合理的な疑いをもっていたとみてもよいとの主張に、次のように応じた。「しかしわたしはいま現在、被告人が有罪であることに合理的な疑いはないと断言できます。なぜなら、この法廷でドアに顔を向けなかったただ一人の人間は、被告自身であるからです」
    (『陪審制の解剖学』p178)

最終説示が終わると、評決(verdict)を出すために、12人の陪審員は陪審員室に移って評議(deliberation)を行う。

    翌日の午前中には、陪審は評議に入った。
    パジェットの待ち時間は、さながら法廷風景のコラージュとなった。ラーナーが教示を与え、陪審員たちが厳粛な面持ちでそれに耳を傾けたあと、陪審長を選ぶため、一列になって退廷する。緊張がゆっくりと漏れ出すように、廷内の空気が和らいでいく。傍聴人たちが、先の読めない展開について声をひそめて話しだす。今や事態は手の届かないところへ行き、見えないままに進んでいくのだ。パジェットはそのことに衝撃を受けた。
    (『子供の眼』p529)

刑事事件の場合、陪審は、証拠に基づき自ら行った事実認定(finding of fact)に裁判官が説示で説明した法を適用して、被告人の有罪(guilty)または無罪(not guilty)の形で結論を示す。陪審員全員一致によるunanimous verdictが原則である。
裁判所は、評決があった場合、「再審理」を命じまたは「評決と異なる判決」をする理由に該当する事由がない限り、評決に従った判決(judgment on verdict)をしなければならない。
再審理(new trial)とは事実の全部または一部が同一裁判所で再度正式事実審理に付されることで、陪審員は新たに選ばれる。再審理は裁判官が@説示、証拠の採否などについて誤りを犯したことに気づき、かつその誤りが結果に影響を与える可能性がある性質のものである場合、A評決が明らかに証拠の判断を謝っている場合、B陪審の構成に違法な点があった場合、C公判の段階で審理の公正また陪審の判断に影響を与えるおそれのある事態があった場合、D陪審の評議の過程で不公正な事実があった場合などに行われる。
評決と異なる判決あるいは評決無視判決(judgment non obstante veredicto)は有罪の評決が出ているにもかかわらず、裁判所が無罪判決を行うことで、要件は提出された証拠から無罪が明らかで陪審に付すべき争点がないと判断されることである。このような場合は、むしろ指示評決(directed verdict)がなされることが多い。裁判官の指示通りに評決が出されるので評決は形式的になる。

    「質問はありません、裁判長」
    シェリダンの隣に座ったチャールズ・マトソンが信じられないという様子でぐったり椅子の背に身をあずけた。傍聴席にどよめきが起きた。
    ハンロン巡査部長は会釈して、手帳と帽子をまとめはじめた。
    「反対尋問は行わないというわけですね、ミスター・シェリダン?」裁判長が眉を吊り上げて見下ろした。
    「その通りです、裁判長」とシェリダンが穏かに答えた。残りの証拠は幾人かの証人――停車していた車の運転手と同乗者――が肉付けした。たまたま現場に居合わせたカメラマンが、追突した車のスリップ跡を強調した引き伸ばし写真の説明をした。
    シェリダンはまたもや何も質問しなかった。
    「冒頭陳述を行いますか?」と裁判長がきいた。
    「検察側の主張は終わりましたか?」シェリダンがエルキンズを見やった。
    「終わりました」とエルキンズはきっぱり答えた。
    数秒が流れた。
    「ミスター・シェリダン」と裁判長がもどかしげにうながした。
    「裁判長、いまここで被告有利の指示評決を願います」
    「根拠は?」裁判長のもどかしげな表情がいきなり苛立ちに変った。
    「検察側は被告がくだんの車の運転者であることを確認しておらず、またオールド・カウンティ・ロードが公道であることを立証していません」とシェリダンは言った。
    「裁判長」エルキンズが椅子から飛び上がった。「それはたしかに見落としていました。もしお許しをいただけるなら……」
    (『起訴』p71)

エルキンズ検事はこれが始めての仕事。シェリダンの作戦にひっかかり致命的なミスを犯した。有罪であることを証明するのは検察側の責任だ。シェリダンはそこをうまくとらえ、裁判長に被告有利の指示評決を求めたのだ。裁判長もシェリダンの要求を認めざるをえなかった。

陪審が評議を尽くしても全員一致とならず行き詰まりに陥ることを評決不能(hung jury)という。この場合には審理無効となり、新たな陪審のもとで正式事実審理がやり直されることになる。

    キャロラインがスコッチをぐっとあおり、テーブルに戻したグラスを見つめる。「ドゥアルテを見方につけ損ねたみたいね。評決不能になることを祈るばかり」
    (『子供の眼』p529)

    翌朝10時40分、キャロラインから自宅に電話がかかってきた。
    「法廷で落ち合える? たった今、判事補から電話があったの。陪審長がラーナーに、書面で開廷を求めてきたそうよ」
    評決不能だな」パジェットは反射的に言った。神経の末端がぴりぴりする。
    「もっと教示を仰ぎたいだけかもしれない」と、キャロライン。「とにかく、急いで」
    (『子供の眼』p534)

陪審が実際どのようにして評決にたどり着くのかは、陪審制度に関するもっとも興味のある疑問の一つだ。ヘンリー・フォンダ主演の米国映画『12人の怒れる男』(12 Angry Men、1957年)を観たことがありますか?『シネマクラブ(洋画編)』(ぴあ)のストーリー解説によると「殺人容疑の若者に対する裁判は、12人の陪審員の評決を待つばかり。11人は有罪に投票するが、たったひとり、希薄な証拠に疑問を持った男が無罪を主張する。彼らの白熱する議論と説得の模様を執拗に追い続ける密室劇。緊張の数時間ののち、ついに全員一致で無罪の評決に達し、心身ともに解放された男たちの安堵の表情が胸を打つ」。われわれ日本人が陪審制度に対してもつイメージにこの映画が大きく影響を与えていることに間違いはない。しかし、11対1が逆転して全員一致の無罪評決というのは極端なケースだ。
『復讐法廷』では最初の投票が有罪5票、無罪4票、白票3票(p311)と分かれた。『子供の眼』では3回目の投票の段階で、有罪か無罪かは明らかにされないが7対5に割れていた。

    「全員起立」判事補が歌うような調子で言い、ラーナーが判事席についた。
    ラーナーが、サリナスからキャロライン、そして陪審団へと視線を移す。「評決に達しないと記したメモを受け取りました」ジョーゼフ・ドゥアルテに目を据えて、「それに相違ありませんか、陪審長?」
    「はい、裁判長。意見がまっぷたつに分かれています」
    パジェットは息を詰めた。キャロラインがささやく。
    「やったわ」
    頭を巡らすと、ヴィクター・サリナスが失望の表情をありありと浮かべていた。てのひらが汗でじっとりと湿る。
    ラーナーがトゥアルテに話しかけた。「これからいくつか質問をします。注意深く耳を傾け、釈明や誇張なしに、それぞれの質問に答えてください。わかりましたか?」
    念入りな訓戒が、さらに緊張感を高めたようだ。ドゥアルテは声を出すのをはばかるように、ただうなずいた。この24時間で、自信に満ちた態度に綻びが見え始めている。
    キャロラインがささやいた。「激しくやり合ったみたいね」
    ラーナーが尋ねた。「陪審長、何回、投票を行いましたか?」
    ドゥアルテが背筋を伸ばす。「3回です」
    「有罪か無罪かは伏せて、最初の投票数がどう分かれたか、答えてください」
    ドゥアルテが少し間を置いてから答えた。「7対5です、裁判長」
    「では、最後の投票を行ったのはいつですか?」
    「けさ、9時半ごろです」
    ラーナーが眉をひそめた。「評議を進行させるうえで、証言を読み返したり、法に関してさらなる教示を加えたりして、本法廷が力になれることがありますか?」
    ドゥアルテがゆっくり首を振る。「そういう問題ではありません、裁判長」
    ラーナーが両手を握り合わせた。「あなたの感触では、陪審長、評決に達することは不可能のようですか?」
    「『はい』と言って」キャロラインが押し殺した声でつぶやく。「お願い」
    「そうです」ドゥアルテが答えた。
    ラーナーが確証を探すように、陪審員ひとりひとりの顔を眺め渡して、「それぞれのご意見をうかがいます」
    ひとりずつ、ゆっくりと、ラーナーが陪審員に、評議が行き詰まっていると思うかどうかを尋ねた。最初の5人は、そう思うと答えた。6番目のマリアン・セラーは、ためらった末に同意した。
    ルイーザ・マリンの番になる。「あなたは、この陪審団では評決に達しないと思いますか?」
    マリンがためらった。警官だった父親が死んでいるのを見つけたあとの数時間を除けば、今までこれほどの注目を浴びたことはなかったにちがいない。わが身の不安も忘れて、パジェットは同情を覚えた。
    マリンが震える声で答えた。「いいえ。まだ2日目です。もっと話し合うべきだと思います」
    パジェットは息を詰めた。今までとは反対の票を入れる心づもりがあるという意味だろうか?キャロラインがラーナーに目を据えてつぶやいた。「そんな意見に耳を貸さないで」
    ラーナーが両方の眉を吊り上げて、マリンに尋ねる。「さらに評議を続ければ、評決にたどり着く合理的な可能性があると思いますか?」
    マリンがかたくなな表情でうなずいて、繰り返した。「もっと話し合うべきだと思います」
    …………
    判事席で、ラーナーが両手を握り合せた。「陪審員の皆さん、審理には2週間かかりました。評議はたいへんだったことでしょうが、まだ丸2日も経っていません」
    「やめてよ」キャロラインが小声で言う。検察側のテーブルで、ヴィクター・サリナスが希望のきざしをすばやく感じ取り、居ずまいを正した。ラーナーの立場としては、無理に評議を続けさせる必要はないが、ルイーザ・マリンが続けさせるきっかけを与えてくれている。
    ラーナーが先を続けた。「そういう状況では、まだ吟味していない証拠があるかもしれません。陪審室に戻って、互いに礼節と敬意を尽くして評議し、評決に至れるかどうか、見きわめていただきたいと思います」
    ドゥアルテがゆっくりうなずく。マリンは腕を組み、誰の顔を見ようとしない。パジェットは、いつのまにか目を閉じていた。
    (『子供の眼』p535)

しかし、『復讐法廷』でも『子供の眼』でも、評議を重ね最終的には全員一致で逆転無罪評決となる。もちろん、逆転評決というダイナミックさがないと法廷ミステリーとしておもしろくないから、あたりまえといえばあたりまえの筋書きだ。

では、実際はどうなっているのか?
『陪審制の解剖学』が、シカゴ陪審制研究プロジェクトの調査結果を紹介している(p189)。
要約すると、255の陪審裁判を研究して、最初の無記名投票で陪審が全員一致で有罪としたのがそのうちのほぼ2割であり、無罪としたのがほぼ1割だった。言い換えれば、第1回投票で評議を終えたのは全体の3割に当たる。また、同研究によると、最初の投票における多数意見が最終評決の95パーセントを制している。最初は少数意見であったものが最終評決を制した例、すなわち逆転評決はわずか5パーセントである。しかもこの少数意見も、常に3人以上からなる実体のある少数意見だった。上の例でいえば、『復讐法廷』と『子供の眼』はこの5パーセントに入ることになる。あまりないことだが、起こることもあり、ストーリーに真実味を与えているのだ。
しかし、『12人の怒れる男』によって作り上げられたイメージは誤りということになる。
ということは、評議というものはふつうは重要ではないということである。9割以上の裁判では、陪審員は陪審員室に入る前に心を決めている。評決は公判中に陪審員がそれぞれ決めているもので、評議の間に決められるものではないということがわかる。
同研究によれば、全陪審事件のおよそ5パーセントでは、まったく評決に至らなかった(評決不能hung jury)。評決不能のおよそ3分の2は、無罪に固執する陪審員がいたためである。一般に信じられていることとは反対に、評決不能は1人の頑固者が起こすわけではなく、事件そのものが白黒をつけがたいきわどいものであったり、少数意見を何人かが支持したような場合に起こっている。

    「評決に達したということですね」ラーナーが言った。
    「はい、裁判長」
    ラーナーが執行吏のほうを向く。肩幅が広く、濃い口ひげを生やした制服姿の保安官補だ。「評決書を受け取ってください」
    ドゥルアテが黙って、執行吏に4枚の紙を渡した。陪審長が署名した評決書には、パジェットを相手取った4件の訴因がひとつずつ書き込まれている――第一級謀殺、第二級謀殺、傷害致死、過失致死。執行吏が法廷を横切り、用紙をラーナーに渡した。木の床に当たる靴音のほかは、何も聞こえない。
    4枚の評決書に、ラーナーが順に目を通した。1枚目で、その両眉が吊り上がり、そのまま動かなくなる。読み終わると、それを丸顔のアイルランド人書記に渡した。パジェットが今まで一顧だにしなかったその書記の手に、今、陪審団の評決が握られていた。
    ラーナーが陪審団に向き直り、穏かに言った。「陪審員の皆さん、書記が評決を1件ずつ読みあげます。そのあと、評決に誤りがないかどうか、ひとりひとりにおききします」
    ドゥアルテがうなずく。その後ろで、ルイーザ・マリンが頭を上げた。隣に座ったマリアン・セラーが、黙ってマリンの手を取る。
    パジェットは陪審から目をそむけた。一瞬、証人たちの顔が脳裏をかすめる――テリにカーロ、チャールズ・モンクにジャク・スローカム、エリザベス・シェルトンにジョージナ・ケラー。そして、アンナ・ベレス。
    書記が読みあげた。「サンフランシスコ市及びサンフランシスコ郡上位裁判所、訴訟番号93−5701、カリフォルニア州人民対クリストファ・ケニヨン・パジェット、第一級謀殺罪に関して、陪審は被告人クリストファ・パジェットを……」
    こちらに横顔を向けたキャロラインが目を閉じる。書記の言葉は、永遠に途切れたままかと思えた。
    「……無罪と評決します」
    動揺のざわめき。パジェットは呆然としながらも、2件目の訴因に備えて気を引き締めた。書記の声が遠くに聞こえる。
    「第二級謀殺罪に関して、陪審は被告人クリストファ・パジェットを、無罪と評決します」
    ……
    (『子供の眼』p540)

(当初作成日:3/25/2001

前のページに戻る ミステリーの楽しみ方の目次に戻る 次のページに進む

DANchan's Home Page のトップへ戻る