アメリカの刑事司法制度について − その2

OJシンプソン裁判 …刑事は無罪/民事は有罪


94年6月13日午前零時10分頃、アメリカン・フットボール界の伝説的な英雄OJ・シンプソンの別れた妻ニコール・シンプソンとその友人ロナルド・ゴールドマンの惨殺死体が、ロスアンゼルス市内ブレントウッドのニコールの自宅玄関先で発見された。

    94年6月13日午前零時10分、第一発見者の1人、ベルチナ・ボズテブから911番通報を受けて現場に急行したロス市警の4人の刑事の1人、トム・レンジは「血の海だ!」と叫んだ。半開きになった金属製の門の内側にニコールとゴールドマンが倒れていた。
    (『グレイゾーン』p31)

OJは深夜便でシカゴに行くが、事件を知らされてトンボ返り。ロス市警はOJを本部に連行し、事情聴取した。6月17日、OJは友人のAC・カウリングスと車で逃走、パトカーの追跡を受けた後、自宅で第一級殺人罪容疑で逮捕された。
これが後に「世紀の裁判」と呼ばれる「OJ・シンプソン裁判」の発端である。

犯行現場に残された犯人の皮手袋の片方が約3キロ離れたOJの自宅庭で発見され、さらにOJ邸にあった彼の愛車フォード・ブロンコの車内から被害者と同じDNA配列をもつ血痕も採取された。証拠としては採用されなかったが、犯行現場の地溜りに残された犯人の靴跡の模様とサイズに合う靴をOJが長らく愛用していたことも判明した。
状況証拠も揃っていた。OJは嫉妬深くニコールを自分の所有物として扱い、離婚後もストーカーばりにニコールの家をひっそりと窺ったり復縁を迫ったりしていた。

OJは、アメリカンフットボールの偉大なプレーヤーという以上に、アメリカの人口の13%を占める黒人のヒーローというもうひとつの顔を持っていた。47年7月9日、サンフランシスコの黒人居住区、つまり貧民街に生れたOJの幼少時代は苦難に満ちていた。5歳のときに、同性愛者だった父ジェームズは家族を捨てて姿を消し、生活は病院で働く母親ユーニスのわずかな収入にゆだねられていた。2歳のときから栄養失調による骨軟化症に悩まされ、歩くこともままならなかった。
フットボールを始めたのはガリレオ高校に入ってからで、花を開いたのはサンフランシスコ・シティー・カレッジ時代である。ランニング・バックとして2年間にラッシングで2445ヤードを記録し、50回のタッチダウンを決めた。67年に南カリフォルニア大学(UCS)に入ってからは一気にスターの座を駆け上った。3年のときには大学選手権でチームを優勝に導いき、最高の栄誉であるハインズマン・トロフィーを獲得。69年のドラフトの目玉としてバッファロー・ビルズに契約金35万ドルで迎えられた。途中でサンフランシスコ・フォーティナイナーズに移籍するが、79年まで通算11年間プロで活躍した。73年には2003ヤードという前人未踏の記録を樹立した。この記録は未だに破られていない。
こうして社会的地位とミリオネーヤーの夢をつかんだOJは、引退後もテレビや映画にたびたび登場していた。彼の知名度が落ちなかったのは、レンタカーのハーツ社のコマーシャルに17年も起用されたことが大きい。そして黒人にとっては夢の夢だった白人妻を娶った。

事件発生から7日後の94年6月20日、OJはイニシャル・アピアランス(「冒頭手続」または「初回出頭」)と呼ばれる手続のためにロス市裁に出頭した。

    「オレンソール・ジェームズ・シンプソン。これがあなたの名前ですね」
    判事パティ・ジョー・マッケイから人定尋問を受けた彼は、目を閉じて黙ったままだった。居眠りでもしているかのように、上半身を小刻みに揺すっていた。
    シャピーロ弁護士に促されて、「そうです」と答えるまでに、少し時間がかかった。
    「ミスアー・シンプソン、あなたは私が読み上げた容疑事実を理解できましたか?」
    判事は心配そうに尋ねる。
    「はい」とシンプソン。シャピーロは「シンプソンは疲れ切っており、非常に神経質になっている」と釈明した。
    「罪状認否に入ります。有罪を主張しますか、無罪を主張しますか?」とマッケイ。
    「無罪です」 ――シンプソンはこのときは、きっぱり答えた。

    この結果、大陪審か予審での起訴の可否を決めたうえ、事件は陪審裁判にかけられることになった。米国の司法制度では、被告が罪を認めれば裁判官はすぐに量刑の手続に入る。被告が無罪を主張した場合は「犯罪の審理は陪審によって行われる」と憲法第3条に定められている。

    (『グレイゾーン』p51)

このイニシャル・アピアランス手続に関する久保田氏の説明は誤解を生む。OJがイニシャル・アピアランスにおける罪状認否で「無罪」答弁をしたので陪審裁判にかけられたというような表現になっているが、イニシャル・アピアランスでは、いわゆる罪状認否手続は行われない。後から詳しく説明するように、イニシャル・アピアランスでは、下級判事のもとで審理が行われ、被告人に対する容疑事実が告げられ、憲法的な諸権利も説明され、さらに無令状逮捕で裁判所の事前チェックを受けていない場合には、「相当の嫌疑」があったかどうかが事後的にチェックされる。相当の嫌疑ありと判断された場合には、予審予備審問 )の期日が定められる。保釈手続もここで行われる。
イニシャル・アピアランスの後、大陪審予備審問起訴の可否が決められるが、実は予備審問の始まるまでの約2週間の間に、かなりの割合の事件が、不起訴(起訴の取下)処分や軽罪事件への変更により終結される。いわゆる司法取引の一種である。
起訴後、罪状認否手続が行われる。ここで有罪答弁をして司法取引に入る可能性も探られる。しかし、無罪答弁を行うと陪審審理が始まる。

検察は検察側に有利な大陪審で起訴の決定を行おうとしていたが、直前にロス市警がOJに脅えるニコールが警察に助けを求めた911番の録音テープを公開するというハプニングがあった。やり手のシャピーロ弁護士は、ロス地裁に「警察が漏らした911番のテープや他の情報は大陪審の裁定に著しく偏った予断を与えた」として大陪審の解散を要求した。判事はこの動議を受け入れ、大陪審を解散した結果、予備審問へ起訴の審理が持ち込まれることになった。

次の引用は、『最後の審判』でキャロラインが、予備審問をうまく使うことによって、公判を有利に進める作戦に出ようとしたことを、元判事の父親チャニングがO・J・シンプソンの弁護団と同じ戦法と評する場面である。

    「わかったわ。わたしが自分の家を担保にして、いくらか工面しましょう。でも、差しあたり2万ほど必要になる。父さんが出すにせよ、ベティーが出すにせよ」
    「何に使うのだ?」
    「検察側の"相当な理由"を忌避するために」間を置いて、「ジャクソンに予審の開廷を要求したの。あと10日しかない。闘い抜くのに、専門家の助けが必要なの」
    チャニングがこちらを向いた。「O・J・シンプソンの弁護団と同じ戦法か?」
    「そのとおり。そして、狙いも同じ。シンプソンの弁護団同様、負けるのは承知のうえなの。法廷が"相当な理由"を却下するとは思えない。でも、判事の許可さえ得られれば、検察側の証人を――たとえば、病理学者や鑑識のスタッフを――向こうの準備が整っていない段階で尋問して、こちらに有利な証言を引き出すことができるわ」
    チャニングがその案を反芻する。「あるいは」辛辣な口調。「不利な証拠を突きつけられたブレットに、有罪答弁取引を勧めることができる」
    (『最後の審判』p186)

大陪審の審理は非公開だが、6月30日から7月8日まで開かれた予備審問の模様は3大ネットワーク・テレビでも中継され、検察と弁護団が本番さながらの激しい論戦を展開した。わかりにくいと思うが、これは「起訴をするかどうか」の審理でいわゆる「公判」前の手続である。6日間の審理期間の後、7月8日、ロス地裁が起訴を決定した。
起訴の決定が大陪審で行われたのかそれとも予備審問で行われたかは、その後の公判の行方を占う意味でも大きな違いがある。大陪審は非公開で、検察が証拠を提出し、被疑者の犯罪を立証し、陪審員の過半数の合意が得られれば起訴に持ち込めるのだ。この間、弁護側は傍聴を許されず、審理結果を文書で知らされるのみである。一方、予備審問は、ミニトライアルとも言われるように、公開され、弁護側にも尋問の機会が与えられる。つまり、検察側の手の内がわかるわけだ。

ロス地裁の起訴決定を受けて7月22日に、OJに対する罪状認否手続が行われた。OJは「絶対に100パーセント無実です」という無罪答弁を行った。これでOJシンプソン事件は陪審裁判で裁かれることが正式に確定したのである。
公判の判事には日系三世のランス・イトー(当時43歳)が指名された。検察側は地方検事(検事長)のギル・ガーセッチの監督のもと、ウィリアム・ホッジマン、マーシャ・クラーク、クリストファー・ダーデンら腕利きの検事を揃えた。一方、弁護団は、ロバート・シャピーロのもと、人種のからむ裁判では全米一の弁護士と折り紙付きのジョニー・コクランほか、「ドリーム・チーム」の呼び名にふさわしい各界の権威で構成されていた。

予備審問で起訴が決定した94年7月8日から95年1月24日に公判が開始されるまでの半年間の間に行われた証人尋問・証拠調べ、陪審員の選考は、プレトライアルと呼ばれる。
プレトライアルでは、DNA鑑定人種差別問題が主たる争点となった。
ロスの司法当局は当時、ロドニー・キング裁判とこれが引き金になったロス暴動の悪夢にさいなまれており、OJ・シンプソン裁判を開始するにあたっても政治的配慮を行った。
判事に日系のランス・イトーを指名したのもこの一環である。人種差別問題が争点になるとき、白人でも黒人でもないアジア系が無難と判断されたのだろう。
犯罪が起きると、通常は事件の発生した管区の裁判所で法廷が開かれる。OJ・シンプソン事件はブレントウッドで起きているから、慣行によれば、ロス地裁サンタモニカ支部で行われ、陪審員もその管区の人口動態比で決められる。しかし、サンタモニカは白人の街である。そのままの人種構成比を陪審員に当てはめると、過半数が白人となってしまい、黒人のヒーローを裁く陪審員の構成が白人優位ではまずい。そこで検察側は裁判管区をロスアンゼルスのダウンタウンに変えた。ここであれば、白人の比率は40%である。さらに、検察は有罪になっても死刑を求刑することはしない旨宣言した。

陪審員の選定も手間取った。

    シンプソン裁判では、1000人のうち304人が、陪審員になる用意があると答えた。イトー判事は彼らに質問書(75頁分)を渡し、294項目の質問に答えを書き込ませた。姓名、人種、学歴、職歴などのほか、「この事件に関するテレビ、ラジオ、その他のメディアの報道に接してはならないとの裁判所の指示を守れるか?」「シンプソンが事件の容疑者と知ったときに思ったことは?」「シンプソンは有罪と思うか?」「異人種の結婚をどう思うか?」などさまざまな角度からの質問である。
    検察と弁護団はこの回答をもとに候補者と面接し、適任でないと思われる人をふるい落として行く。これがボア・ディア(予備尋問)と呼ばれるもので、候補者を忌避する方法としては、理由を明らかにする場合(チャレンジ=C)と、理由を明らかにしない場合(パーレンプトリー・チャレンジ=PC)の2通りがある。
    (『グレイゾーン』p75)

    11月3日、3週間にわたる選考で最終候補として残った39人の中から、検察が10人(黒人8人、白人2人)、弁護団も10人(黒人2人、白人5人、インディアン2人、中南米系1人)を理由を明らかにせずに忌避し、さらに7人が落とされた。
    ……
    「検察と弁護団の激しい人間チェスゲームから生き残り」(イトー判事)、陪審員として正式に選ばれた12人は、黒人8人、中南米系2人、白人1人、白人とインディアンの混血1人で、黒人が絶対多数を占める構成となった。学歴では、大卒2人、高卒9人、中卒1人。年齢は23歳から73歳まで。
    この集団をロサンゼルス・タイムズの裁判担当者が書いた「正義を求めて」には、次のように記されている。
    「アメリカの歴史上でもっとも有名になる陪審員の職業は、トラック運転手、郵便局員、コンピューター修理技師、環境衛生の専門家などさまざまである。バーバンの白人女性が人種差別は『たいした問題ではない』とえいえば、ミドルウィルシャーに住む黒人男性は『非常に深刻な問題だ』と、正反対な意見を述べる。シンプソンの熱烈なファンという33歳の独身女性もいれば、シンプソンのことなどまったく知らないと告白する72歳の主婦もいる。陪審団長を務める51歳の女性は自分の職業を聞かれて『街頭商人』と答えた。彼らは1日5ドルの手当を支給され、カリフォルニア州民の税金9百万ドルを使う世紀の裁判に取り組むわけである」
    (『グレイゾーン』p79)

12月8日に交代要員12人が決まり、陪審員24名の顔ぶれが揃った。95年1月11日、彼らは裁判所の指示に従ってロス市内のインターコンチネンタル・ホテルに隔離された。

    「部屋割がすんで、午後2時半ごろから昼食になった。食堂のテーブルが黒人陪審員、黒人交代要員、白人・中南米系と人種によって3つに分けられていた。ホテルも部屋も申し分なかったが、人種の区別があるとは思ってもいなかった。部屋のテレビは映らないようになっている。新聞や雑誌も読めない。部屋のカギは内からもかからない。それに監視員の目。家族への電話でも彼らがそばで聞き耳を立てている。顔を突合わすのはいつも同じメンバーで、外に出るときは団体行動。われわれが寝泊まりする5階には一般のエレベーターは止まらないようになっており、階段にはカギがかけられている。われわれは囚人より自由がないんじゃないかと思うようになった」(陪審員の一人、マイケル・ノックスの著書「ある陪審員の秘密日記」ドーブ・ブックス社)
    (『グレイゾーン』p82)

95年1月24日、検察側の冒頭陳述が開始された。ここからが陪審による審理だ。弁護団の冒頭陳述は1月25日に開始された。冒頭陳述には、検察と弁護団がそれぞれの審理に臨む基本的立場を明確にするという意義がある。ここで、法廷に喚問する予定の証人の名前や証拠品のリストが公表され、双方の手の内が明かされる。

検察による証人尋問・証拠調べ弁護団の反対尋問は、1月31日から7月6日まで行われた。証人58人、証拠品488点、速記記録は34,500ページにのぼった。検察・弁護団の争点は次のとおりである。

動機検察
シンプソンは異常に嫉妬深く、離婚後もニコールにつきまとっていた。過去にも暴力を振るい、殺すと脅していた。
弁護団
過去にいさかいはあったが、犯行には直接結びつかない。彼には新しいガールフレンドもおり、ニコールを殺す動機は見当たらない。
犯行時間と
アリバイ
検察
殺害時刻は夜10時15分から10時20分ごろと見られるが、シンプソンにはその時間帯も含めた78分のアリバイがない。
弁護団
殺害時刻は同10時45分から50分。シンプソンは10時50分過ぎには家に戻っているから、犯行は時間的にも無理。9時36分に同居人ケーリンとマクドナルドから帰り、以後は自宅にいてゴルフの練習。迎えの運転手に応答しなかったのは、シャワーを浴びていたからだ。
血液検察
血痕やDNA鑑定の結果、シンプソン以外の人物が殺したとは考えられない。
弁護団
ロス市警の血液採集方法には問題があり、彼の血液が警官によってばらまかれた可能性もある。
凶器検察
シンプソンはナイフを40日前に購入しており、これを使って2人を殺し、犯行後、血のついた衣類と一緒に凶器を処分した。
弁護団
凶器がナイフとは断定できない。凶器が発見できないことはシンプソン以外に犯人がいることを示唆している。

(出典:『グレイゾーン』p85)

一方、弁護団による証人尋問・証拠調べ検察の反対尋問は、7月10日から9月21日まで行われた。検察側・弁護団側合わせて証人数126人、証拠品は857点にのぼった。
弁護団は、ロス市警の捜査ミスをやり玉に上げる戦法をとった。そして、検察側の証拠が人種差別主義者の刑事のでっちあげだという印象をうまく陪審員に植え付けた。

検察と弁護団の最終陳述は9月26日から29日までの4日間行われた。最終陳述は、これまで法廷に提出され、論議された証言や証拠を踏まえ、相手の主張を論駁し、自分たちの主張の正当性を陪審員に訴えるまさに最後のチャンスだ。両エースが締めくくる。

    「シンプソンは真のアメリカの英雄である。彼が腐敗した、人種差別主義に毒された警察権力によって殉教者にされた。陪審員のみなさん、彼を無罪にすることによって、この組織に一撃を加えていただきたい。証拠のことなど忘れて、O・Jに無罪を言い渡すこと、それは人種差別主義と警察の不正行為を戒めるメッセージになる」と、コクラン弁護士。

    (ニコールが警察に助けを求めたテープを聞かせながら)「科学的な証拠がO・Jの有罪を裏付けています。『雑音』に耳を貸さずに正しい判断を!陪審員のみなさん、あなたたちが被告O・J・シンプソンを、ニコールとゴールドマンの2人を殺した容疑で、第一級殺人罪で有罪とするようカリフォルニア州民に代ってお願いします」と、クラーク検事。

    (『グレイゾーン』P146)

イトー判事は裁判を陪審団に引き渡すと宣言。陪審員は別室で陪審員団長を選出。審理と法廷手続がすべて終了、後は10月2日から開始される陪審員の評議と評決を待つだけとなった。
評議は4時間で終わった。考えてみれば、陪審員は95年1月11日にインターコンチネンタル・ホテルで隔離生活を始めて10月2日ですでに265日が過ぎていたのだ。誰もが陪審団が結論を下すまで2週間、長ければ1ケ月かかるのではないかと予想していた。それだけ重い事件だったわけで、コクランなどの関係者や報道陣がすでにロスを離れており、評決を当日公表することができず、翌日に回された。10月3日、陪審員全員一致で「無罪の評決」が発表された。

しかし、96年10月23日から始まった民事裁判では、一転OJは「有罪」となり、850万ドルの補償賠償支払命令と2500ドルの懲罰賠償支払命令が出された。

民事裁判と刑事裁判には大きな差がある。第一は立証責任だ。刑事裁判では、被告人は自分が無罪であることを立証する必要はない。有罪であることを立証するのは検察で、陪審員全員に「合理的な疑惑を超える」証拠を示さなければ有罪に持ち込めない。民事裁判では「証拠の優越」という証明基準が使われる。これは、全証拠を評価してわずかにでも原告有利といえれば原告勝訴、そうでなければ被告勝訴という基準である。
刑事裁判では陪審員の全員一致が原則だが、民事裁判では陪審員の多数決制になっている点も違う。
OJシンプソン事件では刑事裁判は前述したようにロスのダウンタウンで開かれたが、民事裁判はサンタモニカ支部で開催された。必然的に陪審員の人種構成も異なったものとなった。

11月17日、12人の民事裁判の陪審員が選定されたが、人種の内訳は、白人8人、黒人2人、中南米系1人、黒人とアジア系の混血1人と、刑事裁判の陪審員の人種構成と全く逆になっていることがわかる。最終的には、黒人1人が罷免され、白人1名が後任に指名されているので、白人9人、黒人1人、中南米系1人、黒人とアジア系の混血1人となった。学歴も当然ながら民事裁判の陪審員の方が高かった。

参考のために、OJシンプソン裁判の年表を掲げておく。『グレイゾーン』の巻末の年表をベースにし、若干修正・追加した。

OJシンプソン裁判年表
出来事
94613午前零時10分ごろ、ニコール・シンプソンとロナルド・ゴールドマンの惨殺死体がロス市内ブレントウッドのニコールの自宅玄関先で見つかるシンプソンは深夜便でシカゴに行くが、事件を知ってトンボ返り。ロス市警は彼を本部に連行し、事情聴取
17シンプソン、パトカーの追跡を受けた後、自宅で殺人容疑で逮捕される
20シンプソン、ロス市裁に出頭(イニシャル・アピアランス)
大陪審、シンプソンの起訴の可否を審理開始
22ロス市警、ニコールの911番電話の録音テープ公開
24シンプソンの弁護士シャピーロの要求に基づき、大陪審解散
30予備審問開始、シンプソンの起訴の可否を審理
78ロス市裁、起訴を決定
22罪状認否手続で、シンプソン、無罪答弁→公判へ
日系三世ランス・イトーが判事に任命される
27ゴールドマンの母親シャロン・ルッフォ、シンプソンに「不法死亡損害訴訟」を起こす
99ロス地検、死刑を回避し無期刑を求刑
26陪審員の選考開始
113陪審員12人決定
128交代要員12人決定
95111陪審員をホテルに隔離
24公判開始、検察の冒頭陳述
25弁護団の冒頭陳述
27シンプソンの著書「私にも言わせてほしい」、ベストセラーに
31検察、証人尋問を開始
315マーク・ファーマン、「人種差別用語を口にしたことはない」と証言
411ロス市警デニス・ファン刑事、現場の血液採取に際してミスを認める
54ゴールドマンの父フレッド、シンプソンを告訴
8DNA鑑定始まる。ロビン・コットン、OJの靴下の血液がニコールの血液と一致と証言
612ニコールの両親、遺児に代ってシンプソンを告訴
15シンプソン、血染めの手袋を試着
76検察の証人・証拠品調べ終了
10弁護団、証人・証拠調べ開始
829ファーマンの差別発言が記録されたテープ公表
96ファーマン、憲法修正第5条を盾に証言拒否
12検察、反対尋問開始
21弁護団の証人・証拠調べ終了
27検察の最終陳述終了
29弁護団の最終陳述終了、審理終了(結審)
102評議。4時間で終了
3陪審員全員一致で無罪の評決(結果を公表)
11シンプソン、NBCのインタビューを直前にキャンセル、ニューヨーク・タイムズに心境を語る
1115民事陪審公判前審理で、ハーバー判事、シンプソンの宣誓証言の公表を決める
96122シンプソン、原告弁護団に対して宣誓証言開始
228宣誓証言終了(合計10回におよぶ)
723ヒロシ・フジサキ、民事陪審の判事に指名される
823フジサキ判事、法廷へのテレビカメラの持ち込み禁止の決定
918民事陪審員の選考開始
102刑事裁判の証言で偽証罪に問われたマーク・ファーマンに3年の保護監察と200ドルの罰金刑
17陪審員の選考終了
23ロス地裁サンタモニカ支部で民事裁判開始
1122シンプソンが初めて証言、核心部分については「知らない」を連発
26シンプソン証言終了(合計3日間)
129原告弁護団の証人・証拠調べ終了
20子供2人の養育権裁判でシンプソン勝訴
9716シンプソンがイタリア製の高級靴を履いていた写真を陪審員に見せる
10シンプソン、被告弁護団に対して証言(2日間)
16被告、原告弁護団の証人・証拠調べ終了
22原告弁護団、最終陳述開始
28被告弁護団、最終陳述終了、評議開始
31陪審員の1人が罷免され、フジサキ判事は評議のやり直しを指示
24民事陪審、シンプソンに850万ドルの補償賠償支払命令
10民事陪審、シンプソンに2500万ドルの懲罰賠償支払命令
310フジサキ判事、賠償金支払を命じた評決を承認
29ロス地裁サンタモニカ支部、シンプソンの家財道具などを差押さえ
714シンプソン邸が競売にかけられ、銀行が263万ドルで落札

(出典:『グレイゾーン』p278をベースに一部修正・追加)

(当初作成日:3/25/2001

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