アイルランド人について − その2

アイルランド人に対する偏見


    「ポーランド人であるということの意味と、そのことから生じる可能性のある問題にどう対処するかということを、もっとずっと前にお嬢さんに話しておくべきでした。ポーランド人に対するアメリカ人の根強い偏見、わたしの考えではアイルランド人に対するイギリス人の態度とまったく同じように非難すべきもので、ユダヤ人に対するナチスの野蛮な迫害と対して変わらない偏見を、フロレンティナに説明しておくべきだったんです」
    (『ロスノフスキ家の娘』p50)

『ロスノフスキ家の娘』(新潮文庫)は、ジェフリー・アーチャーの4番目の長編小説で、名作『ケインとアベル』の続編である。ミステリーというジャンルには入らないかもしれないが、両方とも読むと元気が出る本でボクは大好きだ。

ポーランドの田舎でジプシー女が男の子を生んで死んだ。貧しい猟師の一家に引き取られ、ヴワデクと名づけられた。のちのアベルである。同じ日に、ボストンでは名門ケイン家に待望の男の子ウイリアムが生まれる。
ヴワデクはロスノフスキ男爵がジプシー女に生ませた子だったが、第一次世界大戦の勃発とともに、苦難の人生が始まる。アメリカに渡ったヴワデクは、アベル・ロスノフスキと名乗り、事業を拡張、バロン・グループを築き上げていく。銀行のエリートであるウイリアム・ケインとは不倶戴天の敵となる。アベルとウイリアムの執拗な戦いが『ケインとアベル』のテーマだ。しかし、運命の皮肉か、アベルの娘フロレンティナとウイリアムの息子リチャードは愛し合うようになる。

「ロスノフスキ家の娘」とは、アベルの娘フロレンティナのことである。こちらは、フロレンティナが米国大統領になるまでの物語である。

アベルは、フロレンティナにはきちんとした教育を受けさせるべく、典型的なイギリス人ミス・トレッドゴールドを家庭教師につける。冒頭の引用文は、このミス・トレッドゴールドがアベルに忠告する場面。

アイルランド人がイギリス人にいかに差別されているか。イギリスでは、アイリッシュは下層の労働者としてしか生きていけない。

19世紀半ばにアイルランドに起こったジャガイモ飢饉のことを大飢饉(ザ・グレート・ファミン)という。大飢饉により当時9百万人だったアイルランド人のうち、1百万人が餓死し、1.5百万人がアメリカ(一部はイギリス)に移民した。今や、本国の500万人に対してアメリカのアイルランド人は2000万人とも4000万人ともいわれる。

ヤンキーというのは、もとはニューイングランドの新教徒のことである。「(メイン洲ポートランド市の)ヤンキーには天国に通ずるプロテスタント教会があり、アイリッシュにはまっすぐに地獄に落ちる酒場がある」「ヤンキーたちは何世代にも渡って、アイリッシュを騒々しいだけで何の取り柄もなく、喧嘩好きで、年がら年中酔っ払っているみすぼらしい連中だと見下しながら育っていった」。これが、アメリカ人のアイルランド人に対する一般的な見方だろう。とにかく,「アイルランド」や「アイリッシュ」という言葉にろくな意味は込められない。

しかし、米国に移ったアイルランド人の中には成功している者もいる。ケネディレーガンはその最たるものである。しかし、イギリス人にしてみれば、信じられないということになる。

ケネディ家は、アメリカにおけるアイリッシュ・カトリックの成功物語の代表例だ。
大飢饉のとき、その父とともに渡米したケネディ家の二代目は、ボストンのスラム街に住んで酒屋の主人になり成功した。かれは貧しいアイルランド系の票を集めて政界に出た。三代目は、銀行家・事業家として成功し、1932年の大統領選挙でフランクリン・D・ローズベルトを支持し、その見返りであったか、駐英大使の職を得た。四代目である長男は第二次世界大戦で戦死。次男であるジョン・F・ケネディが上院議員になり、1961年大統領となった。

イギリス人がいかにアイルランド人を差別しているか、おもしろい引用ができればよいのだが、ロンドン等イギリスを舞台とするミステリーをあまり読んでいないので、適当なものが見つからない。
必ずしも適当ではないが、レジナルド・ヒルの『骨と沈黙』、ディック・フランシスの『利腕』、P.D.ジェイムズの『死の味』を取り上げよう。

まず、レジナルド・ヒルの『骨と沈黙』(ハヤカワ文庫)から、

    「ばかいうな。そうか、あのとき、君は休んでいたな。シーモアが婚約したとき、おれはこれはもう一時的なもんじゃないと悟って、ミス・マクリスタルのデータを警視庁の公安部に送ったんだ。ま、姻戚が正真正銘の過激派とわかったら、彼の経歴にブラスにはならんからな、そうだろ? だが、問題なかったよ。公安部は向こうの家族を徹底的に調べ上げたが、一家は<緑の服>を過激派と一緒になって歌うかもしれんが、興味の的はテロじゃなくてギネスだ」
    「公安部のお墨付きをもらってシーモアもきっと喜ぶでしょう」パスコーは無表情にいった。
    「いや、公安部は承認しとらんよ。連中から見りゃ、アイルランド人との結婚はよくない結婚だ。だが、おれはいってやったよ、つべこべいわずにまたジョン・マコーマッグのレコードに傷でもつけてろとな。ところで、……」
    (『骨と沈黙』p259)

本書はイギリス中部ヨークシャーの小都市を舞台としたダルジール警視とパスコー警部のシリーズ物第11作である。パスコーの台詞の前後はいずれもダルジール警視の言葉だ。

竹内靖雄著『ミステリの経済倫理学』によれば、現在活躍しているイギリス人の「警察官探偵」の御三家は、@P.D.ジェイムズの作品のアダム・ダルグリッシュ(主任警視)、Aコリン・デクスターの作品のモース(主任警部)、Bレジナルド・ヒルの作品のアンドルー・ダルジールである。
この順番にインテリ度が高い。何しろダルグリッシュは何冊も詩集を出している詩人である。
一番強烈な存在感をもっているのはダルジールで、警察の中に紛れ込んだハードボイルド探偵のような人物である。その人を食ったせりふ、辛辣な会話、偽悪的な態度、下品で傍若無人で大胆不敵な行動は普通の人間のスケールを超えていて巨人的である。それでいて恐るべきひらめきがあり、インテリ刑事のパスコーの何倍も分別があって、人間というものがよくわかっているので、その推理はレベルが高い。3人の中ではこのデブの巨漢が最高の名探偵かもしれない。

シリーズの中でも『骨と沈黙』は、殺人事件の捜査、フーリガンの取り締まり、自殺予告、中世聖史劇の上演と盛りだくさんでおもしろい。

さて、ダルジールの会話はここでも辛辣だ。<緑の服>というのは反英抵抗運動の象徴的な歌。ジョン・マコーマッグは、アイルランド生まれのテノール歌手。アイルランド人に公安部がどういう感情をもっているのかはわかるが、ダルジールの考えはわからない。

    「遅すぎるくらいだ。西へ行けば行くほど、住んでる者がどんどん役立たずで、怠け者になっていくな。ランカシャー、ウェールズ、アイルランド、アメリカって具合に。きっとメキシコ湾流と何か関係があるんだ。」
    (『骨と沈黙』p387)

これもダルジールのせりふ。

『愛蘭土紀行』の第一章に、ライフの写真家ジョン・フィリップスがアイルランドに上陸して早々に出くわした「事件」のことが書かれている。

    早速、物乞いが近づいてきて、「旦那、お恵みを」と言った。それがあまりにも堂々たる態度なので、思わず言われるとおりにした。五番目の物乞いが近寄ってくる頃には、「旦那」の小銭は底を突いていた。私が言い訳をしようとすると、物乞いは冷ややかな目を向けた。
    「地獄で火あぶりの目に遭え、このプロテスタント野郎!」
    こうののしると、物乞いはつばを吐いた。

このエピソードにはアイルランド人の2つの特徴が含まれている。ひとつは、アイルランド人に自助の精神がないということである。カトリックでは物乞いすることは教義には反しない。そして、もう一つは、「イングランド人=プロテスタント」対「アイルランド人=カトリック」という支配・被支配という図式から来るアイルランド人の「イングランド人=プロテスタント」嫌いである。「このプロテスタント野郎!」は強烈である。

次は、ディック・フランシスの『利腕』(ハヤカワ文庫)から、

    「見つけたよ」彼がいった。「金曜日の夜はそのまま給料袋をもって帰らなければならないという女房孝行な男で、たった今、大急ぎで一杯飲みに抜け出してきたんだ。そのパブは、厩舎の隣家のようなものだ。えらく便利なんだ。それはともかく、彼のいうことをお前さんが理解できるなら、なにしろアイルランド訛りがひどくて、外国人とはなしてるみたいなんだが、要は、その三頭とも種馬になった、ということだ」
    (『利腕』p56)

ディック・フランシスは30冊以上の「競馬シリーズ」を書き、そのいずれもが水準以上といわれる類まれな作家である。「競馬シリーズ」は唯一の例外を除いて同じ主人公は登場しない。その唯一の例外が、『利腕』の元障害競馬騎手で片腕の敏腕調査員シッド・ハレーだ。

「彼」とは、シッド・ハレーの友人チコ・バーンズ。シッドの調査に協力してくれるまさに「片腕」だ。
チコが電話で調査結果をシッドに報告しているところ。「アイルランド訛りがひどくて」というのは、単なる事実を述べているだけなのか、多少馬鹿にしたところがあるのかどちらだろうか。

最後に、P.D.ジェイムズの『死の味』(ハヤカワ文庫)から、

    トム・マクブライドの妻となって三十年のベリル・マクブライトは、夫よりアイルランド訛りが強かった。バーンズ神父は時々思うのだが、あの訛りは身についたというより、わざとそういうしゃべり方をしているのではないか。夫との連帯感から、あるいは他の人知れぬ理由から、寄席演芸風のステレオタイプな訛りを真似ている感じがする。珍しく緊張した時など、もとのロンドンの下町訛りが飛び出すのを神父も耳にしたことがある。
    (『死の味』p139)

アイルランド訛りのもう一つの側面がある。
『死の味』は、ダルグリッシュ警視長シリーズ第7作。P.D.ジェイムズのミステリは格調が高く、神を感じさせるものが多い。本書も聖マシューズ教会の聖具室で喉を切り裂かれた浮浪者ハリーと元国務大臣のポール・ベロウン卿の死体が発見されるところから始まる。バーンズ神父は聖マシューズ教会の司祭である。


トマス・ハリスの『羊たちの沈黙』(新潮文庫)は現代スリラーの最高傑作ともいわれる。若い女性を殺してはその皮膚を剥ぎとる連続殺人犯<バッファロゥ・ビル>。FBIは懸命に犯人を追うが、捜査は完全に手詰まりになっていた。次回を打開すべく新たに任命されたのがFBIアカデミーの女性訓練生スターリング。彼女は、9人の患者を殺害して収監されている元精神病医ハニバル・レクター博士の示唆をもとに、見えざる犯人の影に迫るが……

    <まさにその通りだ>。レクター博士は思った。<ジャックは頭のいい男だ―――スコットランド系アイルランド人的なあの頭の鈍そうな態度は人の目を欺く。味方を知っていれば、彼の顔は傷だらけだ。とのかく、あといくつか傷痕をつける余地はある>。
    (『羊たちの沈黙』p251)

ジャック、すなわちジャック・クロフォードはFBIの行動科学課課長で、映画ではジョディ・フォスター扮するスターリングのいわば上司である。「スコットランド系アイルランド人」は頭が鈍いことになっている。

    スターリングは、正式な系図はないが栄誉名簿や懲罰簿に名の残っている非常に気性の激しい家系の末裔である。スコットランドから追放され、飢えのためにアイルランドを逃げ出した先祖の多くは、危険な仕事に従事する傾向があった。スターリングと名のつく大勢の人間が、その危険な仕事で死んでいったり、懲罰として重りを足につけられて狭い穴にほうり込まれたり、目隠しをして舷側から突出した板を歩かされて滑り落ちたり、みんなが寒くて帰りたがっている中で調子外れな葬送らっぱで栄誉をたたえられたりした。酔っ払った男が利口だった鳥猟犬を思い出すように、連帯の食堂で酒を許される夜、将校たちが涙を流しながら思い出を語る者も何人かいた。聖書の忘れられた名前だ。
    (『羊たちの沈黙』p399)

ここにもアイルランド人(ケルト人)の悲惨さが書かれている。

しかし、「気性の激しさ」もアイルランド人の特徴である。
マーガレット・ミッチェルの『風と共に去りぬ』のヒロイン、スカーレット・オハラ(まぎれもなくアイルランド人の姓)が、最後の場面で「タラ(Tara)へ!」と叫ぶ。アイルランドのダブリンの北に「タラの丘」がある。タラにはアイルランドを統べる大きな王がいたという神話がある。ミッチェルが、スカーレット・オハラが叫ぶ「タラ」をタラの丘にダブらせているのかどうかはわからないが、『風と共に去りぬ』は、ある意味でアイリッシュ・ストーリーなのだ。『風と共に去りぬ』には、スカーレット・オハラの気性の激しさが何度も出てくる。アイルランド人はたとえ敗北に直面しようとも敗北を認めない。

クリント・イーストウッド主演の映画『ダーティー・ハリー』。チームワークを嫌い独力で戦うハリーは典型的なアイリッシュの性格とされる。スターリングにも女ダーティー・ハリー的なところがあると思いませんか。

『羊たちの沈黙』がいかにすばらしい作品か。ジョン・ダニングの『死の蔵書』(ハヤカワ文庫)にこんな描写があるので紹介しておこう。

    『羊たちの沈黙』は、私が5年間に読んだスリラーの中で最高の作品だった。……素晴らしい作品はまだ出版されている、ベストセラー・リストにさえ載ることがある、という説を証明してくれたのが『羊たちの沈黙』だった。トマス・ハリス。第一級の才能の持ち主だ。彼には何百年も生きてもらいたいと思っているが、万が一そうならなかったときのために、私は彼の作品を後生大事に仕舞い込んでいる。(p267)

次は、『太陽がいっぱい』で有名なパトリシア・ハイスミスの中期の長編ミステリー『ふくろうの叫び』(河出文庫)からだ。

結婚生活が破綻し、新たな人生を始めようと、ペンシルヴァニア州のラングレーに越してきた主人公ロバート・フォレスター。傷ついているロバートの唯一の楽しみは、幸福そのものに見える女性ジェニファーの姿を窓越しに眺めることだった。いわゆる覗きではなく、彼女が料理をしたり片づけものをしたりする姿を眺めるだけだった。ある夜、ついに見つかってしまった彼に対し、ジェニファーは意外な反応を示し、物語は彼女の恋人グレッグと彼の前妻ニッキーを巻き込んだ事件へと発展していく。

    グレッグは若いのに、無骨な顔をしていた―――ずんぐりとした大きな鼻、黒くて太い眉、節くれだった大きな手。前に見かけたときと同じグレンチェックのグレーのスーツを着ていた。襟の折り返しの片方に油染みがある。今日、ロバートはそれに気がついた。ベストの裾とズボンのウェストの間から、ワイシャツがはみだしていた。グレッグにはかなりアイルランド系の血が流れているのかもしれない。
    (『ふくろうの叫び』p67)

ロバートにジェニファーを取られたと被害妄想にかかるグレッグが、「アイルランド系の血が流れているのかもしれない」と書かれている。とにかく、アイルランド人は、いいことのたとえには使われないのである。

ラングレーという田舎町という閉ざされた社会で、ロバートの立場がどんどん悪くなっていく。とても怖い話だ。ロバート自身「狭い地域社会では口うるさい名もない人たちが、文字どおりにも比喩的にも人を絞首刑にする」と語っている。ロバート自身はいわば被害者なので、スコット・スミスの『シンプル・プラン』のハンクとは立場がまったく逆であるが、田舎町の恐ろしさという点ではひじょうに似ている。

ピーター・ラビゼイの『偽のデュー警部』(ハヤカワ文庫)は、古きよき時代のミステリーを思わせる独特の雰囲気をもった小説だ。チャプリンのロンドンへの凱旋で始まり、事件の舞台は1921年、大西洋横断の英国豪華客船モ−リタニア号である。

    お茶の時間になる頃には、問題の女性は殺害されたのだという噂がひろまっていた。おちついた上品な雰囲気を出すために十八世紀の様式で設計された一等ラウンジでは、鮭のサンドウィッチと銀のティーポットごしに驚愕的な殺人に関する仮説があれこれ取り沙汰され、下の方の甲板にはどんな恐怖がひそんでいるかわかったものではないという話をご婦人がたは口を大きくあけて聞いていた。短剣をもった悪漢、酔ったアイルランド人火夫、がつがつしている機関士、こそ泥を働く移民たち――それが三等船室にひそんで夜のくるのを待っている。……安全な人は誰もいない。考えただけでもぞっとする。逃げ道はないのだ。みんな船に閉じ込められているのだから。
    (『偽のデュー警部』p248)

花屋の店員アルマの恋の相手は歯科医師ウォルター・パラノーフだった。ウォルターの妻リディアは女優で、彼女はチャップリンを頼ってアメリカに渡ると言い出した。アルマとウォルターの恋を実らせるには、リディアをモーリタニア号船上から海へ突き落とすことだ。偽名を使い、完全犯罪を胸に乗船した2人だったが……やがて起こった意外な殺人に、船上に登場した偽の名警部が調査を開始する。

したがって、ここに出てくる「ご婦人がた」はイギリス人とみてよい。
どうもアイルランド人といえば酔っ払いというイメージが定着しているらしい。

アイルランド人は魚をあまり食べない。だから(?)海に囲まれていながら海洋民族にもならなかった。船で働く者も多いが、船長にはなれないし、ましてや船の所有者はいない。火夫あたりが一般的なのか。 『アイルランド歴史紀行』の高橋氏によれば、「アイルランドの戦艦(アイリッシュ・バトルシップ)」とは「艀」のことであるし、「アイルランドの台風(アイリッシュ・ハリケーン)」とは「べた凪」のことらしい。要するに、船で働くアイルランド人をからかう言葉だ。

アンドリュー・ヴァックスの『ブルー・ベル』(ハヤカワ文庫)は、バーク・シリーズの第3作である。
私立探偵バークの前に現れた女はベルと名乗った。圧倒的な肉体をもつストリッパーながら媚びを知らず、その心は無垢だった……ベルの手引で、少女売春婦だけを次々と襲う<幽霊ヴァン>を片づけてくれという依頼を受けたバークは、ニューヨークの暗黒街を探りはじめる。

    マゴーワンは奥の隅に近いブースにいた。アイルランド系の長い顔の上に帽子をあみだにのせ、口には葉巻をくわえている。ダークスーツに、昔は白かったシャツ、絶対にシルクなんかじゃないブルーのネクタイという恰好だ。おれはドアに背を向け、マゴーワンと向かい合って座った。おれたちは旧知の仲だった。
    (『ブルー・ベル』p153)

アイルランド人は、社会の中に溶け込んで、社会という巨大な精密機械の一つの歯車として自己を認識したり、歯車としての能力を発揮することは(いいかえればビジネスの組織の中でうまくやるということは)苦手だといわれる。この点は英国人や、アメリカにおけるWASPのお得意芸であって、アイリッシュ・カトリックのもっとも不得意とするところである。だからといって、反社会的ではない。

アメリカの大都市でアイルランド人居住地区が、プエルトリコ人や、黒人、イタリア人地域に次ぐ犯罪組織の温床だとされるが、「法と秩序」の側に立つアイルランド人も多く、そのことは、ニューヨーク市警の警察官の3分の1がアイルランド系で占められている事実からもわかる。アイルランド人マゴーワンはニューヨーク市警の刑事で、バークの友人だ。

アメリカ社会において、アイルランド人がその性格と才能のままでうまくやってゆける職業は、画家、詩人、作家、映画監督、俳優、スポーツマン、医師、弁護士といったいわば一人しごと。警察は例外なのだろうか。

『ブルー・ベル』のおもしろさはその登場人物のキャラクターの多彩さにある。主人公のバークは前科27犯である。バークの母代わりのママは中国人。兄弟同然のマックスはチベット人。バークの街での情報源はオカマのミシェル。バークが生き延びる術を習ったのは黒人のプロフから。グループの技術者通称モグラはユダヤ人。そして友人の刑事マゴーワンはアイリッシュだ。
バーク・シリーズだけで、人種論がかけるのではないか。

最後の引用は、ジェイムズ・エルロイの「暗黒のLA四部作」の第一作目『ブラック・ダリア』(文春文庫)からだ。

    ショートはわめきだした。「ベティの仕事ってのはおれのために働くことだったんだ! 映画の仕事を捜しているんだとか言ってたけど、嘘っぱちだったよ! あいつのやりたいことといえば、黒ずくめの服でブルーヴァードをしゃなりしゃなり歩いて男をひっかける、それだけだったんだ! 服を黒く染めるのに使って風呂桶を台無しにしてくれたよ、あげくのはてに、小遣いから弁償させてやる暇もなく家をとびだしやがって! あんな黒後家蜘蛛みたいななりで街をほっつきまわってみろ、痛いめにあうのも不思議はないんだ! それもこれもあいつのお袋が悪いんだ、おれのせいじゃないぞ! 不感症の掘っ建て小屋住まいのアイリッシュの馬鹿女め! おれのせいじゃないぞ!」
    (『ブラック・ダリア』p154)


最後にどうしても紹介しておきたいエピソードがある。高橋哲雄著『アイルランド歴史紀行』に「エンゲルスとアイリッシュ・シチュー」のタイトルで紹介されている話だ。

エンゲルスの内縁の妻メアリはアイルランド人で、そのせいか、エンゲルスはアイリッシュ・シチューが大好物だった。アイリッシュ・シチューは、羊肉と玉ねぎ、それと丸のままと薄切りのじゃがいもに塩、こしょう、タイムを振り込んで、水から弱火で時間をかけて煮込むだけという料理。
マルクスの娘からの「幸福感は」の質問に対して「シャトー・マルゴー 1848年」(『共産党宣言』が書かれた騒乱の年であり、アイルランドでは大飢饉から抜け出していなかったこの年も、ボルドーはよい年だったらしい)と答える美食家でありながら、同時にいかにも垢抜けしないアイリッシュ・シチューを好物と答えたエンゲルス。おもしろくありませんか?

(当初作成日:9/30/1998

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