ミクヴェ
リナはうなずいてタオルをたたんだ。ポテト・クーゲルを作らせたらサラの右に出る者はいない。彼女の手にかかれば靴でもごちそうに変わってしまうだろう。けれども今夜のリナは、サラの話に耳を傾ける元気もないほど疲れきっていた。もうすぐ10時になろうというのに、これからミクヴェの掃除をして、30枚の答案を採点しなければならない。
(『水の戒律』p1)
これは、フェイ・ケラーマンの処女作『水の戒律』(創元推理文庫)の冒頭部分だ。
ロサンゼルスの山間にある正統派ユダヤ教徒のコミュニティが、本書の舞台である。 ユダヤ教の戒律にしたがって調理された清浄な食品を食べ、安息日には静かに過ごすコミュニティの住民たちは、買物など必要最低限なこと以外は、俗世界との接触を極力排除して生きているため、レイプ事件の捜査もなかなか進展がない。デッカーはリナを介してなんとか彼らとコミュニケートしていくうち、リナが何者かに命を狙われるようになる。捜査にあたるデッカーとリナはお互いにひかれあうようになるが、2人の間には大きな壁がたちはだかっている。それは厳格なユダヤ教の戒律のもとにあるリナにとっては、異教徒との恋愛が許されないものだからである。ロサンゼルスという犯罪都市で日夜犯罪に立ち向かう熱血漢と、狭い世界で慎ましく信仰に生きるユダヤ人女性。この交わるはずのない2人が出会ったときに起こるさまざまな葛藤が、捜査の進行とともに展開される。この大人の恋(?)の行方の方が、なぞ解き・犯人探しよりもずっとおもしろい。 近年のミステリーは主人公の背景もさまざま、職業もさまざま、舞台も田舎から大都会まで、網羅されないところがないと言っていいほどであるが、<ユダヤ教徒のコミュニティ>という舞台設定は驚きであり新鮮だった。ユダヤ人が主人公であるミステリーで有名なものに、ハリー・ケメルマンの<ラビ・デイヴィッド・スモール>シリーズやジェームズ・ヤッフェの<ブロンクスのママ>シリーズなどがあるが、いずれも後から説明する保守派のユダヤ教徒である。それに対して、本書は正統派ユダヤ教徒のコミュニティを舞台にしている点が大変興味深い。 <ユダヤ人>、<ユダヤ教>というのはひじょうに興味深い存在だ。もう30年くらい前になるだろうか、高校生のときに、「水と安全保障を日本人はタダたと思っている」と喝破したイザヤ・ベンダサンの『日本人とユダヤ人』を読んで衝撃を受けたことを思い出す。ボクと同世代の人には同じような経験があるはずだ。
しかし、われわれが<ユダヤ人>、<ユダヤ教>を正しく理解しているとはとても思えない。 身近にユダヤ人がいないために、逆に一部の人が主張するユダヤ観がそのまま受け入れられてしまうという傾向がある。上記滝川氏は、「ユダヤ人の経済力」「ユダヤの陰謀」「日猶同祖先論」でユダヤ人がわかるという理解の仕方のことを、「ユダヤ誤解の3点セット」と呼んでいる。
「ユダヤ人の経済力」というのはロスチャイルド家の統率のもと、ユダヤ人が一致団結して世界経済を牛耳っている、あるいはアメリカを背後で操っているといった類の話のことだ。個々のユダヤ人実業家で成功した者はいるが、組織化されたユダヤ人の経済力なるものは存在しない。成功している人もいれば、貧しい人もいる。歴史的にみれば、ユダヤ人というのは極めて貧困な生活を強いられてきた人たちである。
「ユダヤの陰謀」は、世紀の偽書『シオンの議定書』をベースにしたシナリオだ。ユダヤ人が世界支配を企んでいるとする『シオンの議定書』は大正時代から日本でも取り沙汰されるようになった。ことに戦前、陸軍がヒトラーと同盟していたことから、盛んに日本にも紹介された。 最後は、日本人の起源はユダヤ人という説、すなわち「日猶同祖論」だ。たいていは、語呂合わせを根拠としている。たとえば、秦人縁起の社寺が京都太秦の広隆寺・大酒神社で、そこにある井戸の名称いさら井は、イスラエルの訛ったもの。したがって、秦族はユダヤ人であるという説。ばかばかしすぎる?やめましょう。 「マルコポーロ事件」を覚えていますか。文芸春秋の雑誌『マルコポーロ』がホロコースト否定記事を軽率にも掲載してしまった。ホロコースト否定とは、ナチによるユダヤ人虐殺はなかった、ヒトラーにユダヤ人抹殺の意図はなかったなどと唱える反ユダヤ運動のことである。文芸春秋は謝罪をし、廃刊にしてしまったが、一方で文芸春秋はユダヤ人からの圧力に屈した、言論の自由に反する等の議論もあった。もしも、これが欧米諸国であれば、言論の自由云々という以前にれっきとした犯罪行為である。ちなみに、ドイツ、オーストリア、フランス、スイスなどのヨーロッパ諸国では反ユダヤ主義を犯罪とする法律が存在する。ユダヤ人とかかわりをもたなかった日本ではやむを得ないのかもしれないが、グローバル・スタンダードからは大きく外れている。
ユダヤ人とは何か?これに答えることは難しい。しかし、少なくとも、ユダヤ人はユダヤ人的な生活をしている。生活に組込まれた何か、これを知ることが、ユダヤ人を理解する近道だ。
なんと美しいミクヴェだろう、とリナは思った。6年前にやむなく使うはめになったミクヴェとは比べようもない。あれはブルックリンに住んでいる夫の両親を訪ねたときだった。大雪警報がでている冬の寒い日のことである。最寄りのミクヴェは、穴のなかに氷のように冷たい濁った水がはいっているだけのものだったが、息を殺してとにかく身体を沈めた。家に帰ったときんは、全身が汚染されてしまったような気がしたものだ。本当ならミクヴェに浸かったあと入浴することは許されていないが、芯まで冷えきった身体をお湯で温め、皮膚に残った汚れやかすを洗い流すあいだ、夫のイツハクは見て見ぬふりをしてくれた。 神学院で学ぶ神学生の妻たちは、清潔なミクヴェを建設するよう強硬に訴えた。ミクヴェがあればこそ、女性は誇りをもって夫婦間の清浄の掟を遵守することができるのだと言って。そうして妻たちの願いはかなえられることになった。浴室のタイルやカウンター・トップは女たちの手で厳密に選び抜かれ、イタリアから輸入された。……もう女たちは、タハラト・ハミシュパハ――儀式用の水槽に浸かって魂を清めるという掟に従うために何時間も旅する必要はなくなったのだ。
(『水の戒律』p11)
<オハヴェイ・トーラー神学院>のミクヴェの管理人の仕事をしているリナ・ラザルスが、女性用のミクヴェの掃除をする前に、しみじみと感動する場面だ。
リナは傷ついた肌にそっと指を走らせた。「30分お風呂にはいっても消えなかったんですもの。そう簡単には治らないでしょう。そのままはいってもだいじょうぶよ」 ハラハーをめぐるこの短い問答は象徴的なものだった。ミクヴェに2度浸かるという行為にしても、それは同様である。レイプされたとはいえ、サラには夫と性行為を再開する資格がある。1回目の儀式で清めはすんでいるのだから。 けれども、ここでそんな議論をしてもはじまらない。サラは自分の身に起きたことを帳消しにするために、もう一度儀式をやりなおすことを望んでいるのだ。 リナはサラの背中や胸や腕に髪の毛がついていないか念入りに調べた。1本もついていないのを確認してから、いつもどおりの質問をはじめた。歯はみがいたか。トイレはすませたか。指輪やイアリングや義歯やコンタクトレンズなどの異物はすべてとりはずしたか。サラは機械的にイエスと答え、リナは浸水の許可を与えた。 サラは浴槽の8段の階段を降りていって胸まで水に浸かった。リナがうなずくと、眼と口を開けたまま身体を沈めた。頭のてっぺんまで水に浸かり、急いで顔を上げる。リナはいまの浸水が正式なものであったことを宣言した。サラはそれから2回浸水を繰り返して、顔を上げた。 リナはタオルをさしだした。サラはタオルを頭にのせて、祈りの言葉を大きな声で暗唱したあと、小声でなにかつぶやき、タオルを返した。それからさらに4回浸水を繰り返して、その都度認定を受け、最後に階段をあがってきた。リナは両手でシーツを大きくひろげ、サラの視界にはいらないように自分をすっぽり覆い隠した。ミクヴェからあがってくる女性は完全なプライバシーという栄誉を与えられる。 (『水の戒律』p58) レイプの被害者はサラだったのだ。サラは一度ミクヴェに浸かって帰宅する途中で襲われたのだ。レイプのショックがおさまり、警察の事情聴取を終えた後、サラは再度ミクヴェに浸かる。 「頭のてっぺんまで水に浸かり、急いで顔を上げる。リナはいまの浸水が正式なものであったことを宣言した。サラはそれから2回浸水を繰り返して、顔を上げた。」などどいうマニュアル的な記述があると、ボクは感激してしまいます。これが正しいのかどうか確認する術はないが、ミステリーを読む醍醐味ではある。自宅の風呂でやってみようという気になりませんか? 「ハラハーをめぐるこの短い問答は象徴的なものだった。」の「ハラハー」(原意は<歩き方>)は法規を意味するが、その権威の基盤は、成文律法だけではなく、古代から受け入れられてきた慣習、権威あるラビ(律法学者)の判定、学者たちの多数決など、要するにユダヤ人共同体成員の正しい<歩き方>を律すると考えられたすべての権威を含んでいる。
デッカーは苦笑した。「まあ、そうだな」 「わたしにとってはごく普通のことだわ」 「普通の基準も人によってずいぶんちがうんだな」デッカーはリナを見つめた。「でも、ユダヤ人全員がそうとはかぎらない。別れた女房はそんなことは一度もしていなかった」 「ええ、でも信心深いユダヤ人ならみんなそうするわ。わたしもそうよ」ひと息ついて、言った。 (『水の戒律』p140) これも極めて具体的な記述だ。「毎月少なくとも12日間、夫も妻もおたがいの身体に触れてはいけない……」ユダヤ教には改宗したくない!? デッカーが別れた妻ジャンはユダヤ人だった。しかし、リナのように戒律を守っているわけではない。重要なことは、ユダヤ人といっても色々な人がいるということだ。リナは、いわゆる正統派ユダヤ教徒。他に改革派、保守派などがあり、まったく戒律を守らないユダヤ人もいる。
ちょっと最近かげりが出てきたもののヘッジ・ファンドの世界で一世を風靡したジョージ・ソロスは、1930年にハンガリーのブタペストで生まれたユダヤ人である。父親が役人に賄賂を贈ってアウシュビッツ行きを辛くも逃れ、戦後になって留学するために英国に渡った。ソロスは、当初から「非ユダヤ的ユダヤ人」だった。政治的なシオニズム運動には加わらず、シオニスト・グループやユダヤ主義者との間に一歩も二歩も距離をおいている。ユダヤ人としてのアイデンティティよりも「私は差別のないグローバルな人間だ」というのがソロスの口癖だ。 こうなるとそもそも「ユダヤ人とは何か」という大きな問題にぶちあたるが、後述する。
バテシバはただ入浴していたのではない。ミクヴェに身体を浸していたのだ。 (『水の戒律』p198) バテシバは、ヘテ人ウリヤの妻で際立った美女であったが、入浴中の姿をイスラエル王ダビデに見られ、召されてその妻になり、ソロモンを生んだ。ダビデの死に際しては、ソロモンを後継者とするよう預言者ナタンらとともにダビデを説いた。中世の写本挿絵などには、ダビデが入浴中のバテシバを見る場面や、バテシバが病床のダビデに会う場面などが見出され、近世以降には、入浴や化粧の場面のバテシバが好んで描かれた。レンブラントにも《バテシバ》というタイトルの絵がある。 リナが読んでいた聖書は、いわゆる『旧約聖書』である。日本語の聖書を見ると、旧約聖書と新約聖書に分かれている。この旧約聖書がユダヤ教の聖書である。旧とか新とか呼んだのはクリスチャンだ。ユダヤ人は当然旧約聖書などとは呼ばないし、そんな呼び方を認めてもいない。以下単に聖書というときはユダヤ教の聖書、すなわち旧約聖書を指すことにする。 聖書はヘブライ語で書かれている(したがって、ユダヤ教の用語はほとんどヘブライ語で、ボクたちにとってなじみがない。これから色々なユダヤ教の用語が出てくる。「ユダヤ教関連用語集」をつくってみたので参考にして下さい)。だからユダヤ教聖書のことをヘブライ語聖書(Hebrew Bible)ということもある。ユダヤ人は聖書のことをミクラーと呼ぶ。これは「読む」という動詞から派生した語らしい。つまり、朗読されるものという意味だ。 タナークと呼ぶべきだというユダヤ人もいる。こういうことだ。日本語聖書とヘブライ語聖書が決定的に違うのはその構成だ。日本語聖書は、創世記以下の律法、ヨシュア記以下の歴史、ヨブ記以下の文学、イザヤ書以下の預言という構成をとっているが、ヘブライ語聖書は、創世記以下の律法(トーラー)、ヨシュア記以下の預言書(ネビイーム)、詩編以下の諸書(クトビーム)という構成をとっている。この3部の頭文字をとって、適当に母音をつけてタナークと呼ぶわけだ。 リナが読んでいた箇所を日本聖書教会の『新共同訳聖書』で探してみよう。サムエル記下11.1−11.27が該当しそうだ。
ある日の夕暮れに、ダビデは午睡から起きて、王宮の屋上を散歩していた。彼は屋上から、一人の女が水を浴びているのを目に留めた。女は大層美しかった。ダビデは人をやって女のことを尋ねさせた。それはエリアムの娘バト・シェバで、ヘト人ウリヤの妻だということであった。ダビデは使いの者をやって彼女を召し入れ、彼女が彼のもとに来ると、床を共にした。彼女は汚れから身を清めたところであった。女は家に帰ったが、子を宿したので、ダビデに使いを送り、「子を宿しました」と知らせた。 …… 翌朝、ダビデはヨアブにあてて書状をしたため、ウリヤに託した。書状には、「ウリヤを激しい戦いの最前線に出し、彼を残して退却し、戦死させよ」と書かれていた。 …… ウリヤの妻は夫ウリヤが死んだと聞くと、夫のために嘆いた。喪が明けると、ダビデは人をやって彼女を王宮に引き取り、妻にした。彼女は男の子を産んだ。ダビデのしたことは主の御心に適わなかった。」 「彼女は汚れから身を清めたところであった」とあることから、「水を浴びて」いたのがミクヴェだったとわかるのだろう。まだ、ミクヴェは続く。
「そうはいかないわ。でも、ありがたいことに、ロサンゼルスにはほかにもミクヴェがあるから、みんなここからいちばん近いところにいっているの。車で1時間くらいのところ」 「残念だけど、それが最良の方法かもしれない」 ちっともよくない、とリナは思った。が、ここでミクヴェの重要性を説いてみてもしかたがない。ユダヤ教徒にとってミクヴェは絶対的なものである。天然水をたたえた水槽は夫婦間の清浄を象徴する要なのだ。ミクヴェの水は死者を清めるためにも使われ、そこに浸水することは改宗を望む非ユダヤ人にとっても不可欠なこととされている。金属製の調理器具や食器類でさえ、浄化するためにそこに浸される。ミクヴェはユダヤ人の生活の核と言ってもいい。飲食物の規定、割礼の儀式、安息日などと同じように、ミクヴェも正統派ユダヤ教徒の生活の一部なのである。 デッカーにそれを説明しようとは思わなかった。もう疲れきっていたし、おそらく話しても理解してもらえないだろう。ユダヤ人でなければわかるはずがない。 (『水の戒律』p265) ミクヴェの中にいたリナが襲われそうになった。犯人はドアを開けようとしたが、鍵がかかっていたので、石を投げて窓ガラスを割った。そこから腕を差し込んで…。事件は未遂に終ったが、ミクヴェは閉鎖されてしまい、コミュニティの女性がやむなく他のミクヴェを利用せざるをえない状況になった場面だ。 ユダヤ教には、理論や思想としてのユダヤ教とともに生活のなかのユダヤ教という側面がある。ミクヴェ、カシュルート(飲食物の規定)、ブリット(割礼)、シャバト(安息日)…、前にも書いたように、ユダヤ人を理解しようとすれば、生き方としてのユダヤ教、生活のなかのユダヤ教を知る必要がある。 『水の戒律』では、ミクヴェはユダヤ人女性との関係でしか出てこないので、男性もミクヴェを使うのかなと疑問に思っていたが、『贖いの日』に次のような記述があった。
「きょうは許してあげましょう、お母さん」リナが横から言った。 男性は、新年祭と贖罪日の前には儀式用の水浴場、ミクヴェにいくのが習わしになっている。が、共同の浴場で水浴することを考えるとぞっとした。デッカーはリナに感謝の笑みを向けた。 (『贖いの日』p22) ジョナサン・ケラーマンの『殺人劇場』(新潮文庫)の中にも、ミクヴェの記述を見つけた。ただし、訳者は<ミフヴァー>ということばを使っている。
(『殺人劇場(上)』p559)
『殺人劇場』は、エスニック都市エルサレムでの殺人事件を扱った珍しいミステリーだ。エルサレムには世界各地出身のユダヤ人が集まっているほか、雑多な出自のアラブ人がイスラエル国民として住んでいる。事件の解決にあたる捜査班の顔ぶれをみても、イエメン系のユダヤ人の主人公シャラヴィ警部、ドイツ生まれのユダヤ人シュメルツェル警部補、中国系のユダヤ人リー警部補(通称チャイナマン)、キリスト教徒のアラブ人ダウード部長刑事と多彩だ。 ミクヴェの説明が詳しくなりすぎた。これでおしまい。 これからユダヤ人の生活を見ていくが、引用するフェイ・ケラーマンの残りの3作品のあらすじを簡単に示しておこう。 第2作目の『聖と俗と』は、デッカーの農場でクリスマス休暇を過ごしていたリナの子どもたちが黒焦げの人骨を発見するところから始まる。生きながら焼き殺されたという被害者の1人は、ハイスクールに通うまじめな少女だった。被害者と同い年の自分の娘シンディとダブラせ、デッカーは捜査にのめりこむ。 前作では、デッカーとリナは一度しかキスをしなかった。とてもイライラしたが、本書で2人の関係は進展する。リナが冷却期間をおくためにニューヨークの義理の両親のところへ引っ越す決意をするくらいだ。リナがニューヨークへ立つ日の前夜、2人ははじめて結ばれる。めでたしめでたし。
「わかった」 「だから、ここでお別れよ」 ぎこちない沈黙が垂れこめた。リナは微笑んだ。デッカーも微笑んだ。 「わたし、すごく緊張してる」 「おれもだ」 「あまり期待しないでね。3年近くも――」 「やり方は変わってないよ」 「そう、少し元気がでたわ」 デッカーは大きな声で笑い、リナを両腕に抱きあげて寝室に運ぶと、ドアを蹴って閉めた。 (『聖と俗と』p436)
第3作目の『豊饒の地』は、深夜、新興団地の公園で1人シーソーに乗る幼児をデッカーが見つける。パジャマは血まみれだが怪我をしている様子はない。だが、身元もわからない。ようやく発見された子どもの家は、凄惨な殺人事件の現場だった。 第4作目の『贖いの日』では、すでにデッカーとリナは結婚している。新婚旅行で、ニューヨークにあるボロ・パークを訪れるのだが、そこで偶然実の母親フリーダにめぐりあってしまう。デッカーはパニックに陥るが、行方不明のフリーダの孫息子を探す中で自分のアイデンティティを取り戻す。
(当初作成日:12/31/1998)
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