ユダヤ人の生活
(1)聖なる書物
(『水の戒律』p64)
『旧約聖書』はユダヤ教の根幹をなす聖典である。しかし、すでに述べたように、ユダヤ教には「旧約」という呼び方は存在しない。それはあくまでも「新約=神との新たな契約」という概念をもったキリスト教の分類に過ぎない。 ユダヤ教では、この39の書物から成る旧約聖書を、大きく『律法』(トーラー Torah)、『預言書』(ネイビーム Neviim)、『諸書』(クトビームKutuvim)の3つに分類し、3つ合わせてタナーク(Tanakh)と呼ぶ。この中でもっとも重要な部分にあたるのが、トーラーとして存在する5つの書である。引用に出てくるフマッシュ(Chumash)は、「5」という意味のヘブライ語で、トーラーをあらわしている。 これらは長い間、すべてモーセが著したということになっていたため、別名「モーセ5書」と呼ばれており、まさに「聖書のなかの聖書」として崇められている。したがって、トーラーは広くユダヤ教の教えをさすこともある。「トーラーに従って生きる」というような場合は広義で使われている。
イスラエルでは、小学校からトーラーは教えられ、高学年になると、ラシーの聖書注解書を用いて学ぶ。 ちなみに5書の内容を簡単に説明すると、
出エジプト記:ヨセフの後裔であるモーセによって導かれたイスラエルの民のエジプト脱出から、イナイ山における神との契約、後のユダヤ教の根幹となる律法の授与を記す。「創世記」が家族単位の共同体の物語であったのに対して、ここからはイスラエルという民族単位の物語となってくる。 レビ記:「出エジプト記」の最後の部分で記された祭祀規定を膨らませたもので、祭祀職が執り行う儀礼、供物や祭祀全般に関する神より与えられた律法を集める。具体的な項目は、供物規定、祭司の規定、食物規定に関わる穢れたもの・清きものに関する規定、贖罪日規定など。 民数記:「出エジプト記」の続編ともいうべき荒野での物語。シナイを出発した民の中から、神への不満を訴える者が現れた。彼らの言行は神の怒りに触れ、様々な試練が訪れる。民は自らの不信心ゆえに、神より与えられるはずの「乳と蜜の流れる」カナンの地を目前に、40年間、荒野をさまようという想像を絶する試練を受けることになる。 申命記:申命とは、神から律法を再び命じられるという意味で、他の4書に記された神との契約を、モーセの演説を通じて統合、再編成した律法集。現在の法律書にもっとも近い体裁をとる。ここでは過去の過ちを省みて、あらためて神の意志を探ることにより、神と人の間に交わされた契約と律法の再認識という作業を行い、それを通じて、より強固な民族の未来へつなげようとする。 ユダヤ教徒でもキリスト教徒でもなんでもないボクは、通して旧約聖書を読んだことはない。ウォルター・ワンゲリンのベストセラー『小説「聖書」(旧約編)』(徳間書店)を買ってきた。パラパラと読み飛ばしてみるとなかなか物語性があっておもしろそうだ。ラビ・シュルマンの次の言葉はなんとなくうなずける。
(『聖と俗と』p116) アブラハムの一神教を母体として誕生したユダヤ教、キリスト教、イスラム教は、それぞれ『旧約聖書』にあらたな聖典を加え、その独自性を形成した。キリスト教は『新約聖書』を、イスラム教は成文律法としての『コーラン』及び口伝律法の『ハディース』を加えた。そしてユダヤ教が加えたのが、『タルムード』(Talmud)である。トーラーが成文律法の集成であるのに対し、タルムードは口伝律法の集成である。
「シナイ山で神(ハシエム)がモーゼに授けられた戒律が基本になっているの。書かれたものもあるし、口頭で伝えられたものもあるわ。口伝律法はのちに書き記されて、アモライーム――優秀なラビのグループによって注釈がつけられた。最終的な法律は3世紀から6世紀のあいだにラビの投票で決定されたの」 デッカーは黙っていた。リナには彼の考えていることがわかった。 「今日的な問題については許容範囲があるわ。たとえば、電気。安息日に電気を使ってもよいかどうかといった問題はタルムードでは触れられていないから」 「そういうことはだれが決めたんだい」 「問題がもちあがった当時の学者」 「使ってもいいの?」 「いいえ。電気を使うことは火を燃やすのと同じことで、安息日には禁じられているの。だからといって、金曜日の夜を真っ暗ななかで過ごしているわけじゃないのよ。日が沈む前から明かりをつけておくの。タイマーでつける人もいるわ。要は明かりのスイッチに触れなければいいのよ」 「きみたちの教えがいかに複雑なものか、だんだんわかってきたよ」 「そのために神学院があるの。タルムードをすべて学ぶには一生かかるわ」 (『水の戒律』p298)
リナの説明とは若干異なるが、タルムードの成立は紀元前2世紀から紀元2世紀までの約400年間と言われている。その後、4世紀末にティベリアで編纂されたものを『エルサレム・タルムード』、5世紀末にバビロニアで編纂された全36巻のものを『バビロニア・タルムード』と呼ぶ。バビロニア版が広く普及しており、普通タルムードといえば、この版を指す。
主な内容は律法の施行規則で、法的に作成された契約書を思わせる。
「それはパヴァ・メツィア(口伝律法の一部)だよ」サミーがデッカーの手から本をとって言った。 「来年ぼくが習うことになっているんだ」 「奥さまのご家族のなかに学者の方がいらしたみたいね。これはタルムードといって、神学院では主にこれを研究しているの」 「こういう本なら物置のトランクのなかに1セットそろっているよ。みんなこんなふうに変わったレイアウトになっている。ここにヘブライ語で書かれた大きなブロックがあるだろ。で、それのまわりをまたヘブライ語のコラムが取り囲んでいる。これはどういう意味だい」 「真ん中の大きなブロックに書かれているアラム語は、ここで議論される法律上の質問よ。この本は遺失と拾得の法律からはじまっているわ」 (『水の戒律』p297)
中央にはミシュナ(Mishnah)があり、それと同化するようなかたちで同じブロック内に記されているのが、ゲマラ(Gemara)と呼ばれる400年の間ラビたちによって様々に議論されてきたミシュナをめぐる法解釈や注釈、問答などの記述で、そのなかにはバライタ(補完)と呼ばれるミシュナ自体には採用されていなかった口伝律法も含まれている。
このタルムードを生み出し、またできたあともそれを研究する学者のことをラビ(Rabbi)と呼ぶ。ラビは聖職者というより学者だと言われている。伝統的には、ハラハー(Halakhah ユダヤ教の日常規範)の内容を教授し、裁定を行い、そこに記された法解釈への疑問を解消することにより、ユダヤ社会を運営する指導者といってよい。また、シンゴーグでのトーラーの朗読をはじめとする祭祀儀礼の執行なども兼務する。
(『水の戒律』p41)
(2)安息日
……リナはデッカーを軽く小突いた。「楽しみならあるわよ」 「どんな?」 「安息日がそうね。金曜の夕食と土曜の昼食のためにくたくたになるまでどっさりお料理を作るの。みんながおなかいっぱい食べたあとには山のような洗い物が残る」リナは笑った。「でもはっきり言って、安息日は大好きよ。まず朝の礼拝にいくでしょ。それから、だれかを昼食に誘うか、または誘われてだれかの家にいく。おしゃべりをしたり、歌を歌ったり、聖書を読んだり、子供たちと遊んだり、食べたり、飲んだり……。安息日には電気はいっさい使わないの。明かりもつけないし、電話もとらないし、車にも乗らない。一日だけ外の世界との接触を断つことで浄化されるのよ、ピーター。ミクヴェに浸かるのと同じ。……」 (『水の戒律』p182) ユダヤ人の歴史を通じて、安息日(シャバットShabbat)はユダヤ人の生活の中心だった。ユダヤの格言に、「安息日がイスラエルを救った」("more than Israel has kept Shabbat, Shabbat has kept Israel.")というのがあるくらいだ。 今日、世界的に使用されている1週7日の概念や制度を発明したのはユダヤ人だ。その典拠となったのは創世記の「この日に神はすべての創造の仕事を離れ、安息なさったので、第7の日を神は祝福し、聖別された」(2:3)である。モーセの10戒には、「安息日を心に留め、これを聖別せよ。6日の間に働いて、何であれあなたの仕事をし、7日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない。あなたも、息子も、娘も、男女の奴隷も、家畜も、あなたの町の門の中に寄留する人々も同様である。6日の間に主は天と地と海とそこになるすべてのものを造り、7日目に休まれたから、主は安息日を祝福して聖別されたのである。」(「出エジプト記」20:8−11)とある。安息日は、神が天地を創造したことを確認し、その神がユダヤ人の歴史を救ったこと、イスラエルが神の民であることを記憶する記念日なのである。 1週は日曜日に始まり、土曜日に終るが、ユダヤ教では、金曜日の日没から最終日の土曜日の日没までがシャバットと呼ばれる安息日となり、実質的な休日となる。安息日が日没から始まのは、ユダヤ教では、創世記第1章の「夕べがあり、朝があった。第一の日である。」とあるように、1日は夕方、すなわち日没から始まるからだ。このため一般的な日曜日はユダヤ教における仕事日にあたり、第1日目という意味でヨム・リションと呼ぶ。
安息日は神聖な日であり、一切仕事をしてはならない。安息日がどれだけ重要かというと、「だれでも安息日に仕事をする者は必ず死刑に処せられる」(「出エジプト記」31:15)
(『殺人劇場(上)』p189) イスラエルでは、ユダヤ教徒の経営する商店の多くは、金曜日の午後2時頃になると閉じられ、翌日の土曜日は1日中休む。銀行は金曜日の午前中だけ開け、翌日は休む。交通機関も同様で、金曜日の午後になれば、バスの本数は徐々に減り、土曜日は全路線がストップする。笑い話をひとつ。
【エルサレム5日=村上宏一】安息日シャバットには労働をしてはならない、というユダヤ教の戒律は、イスラエル国内で厳守を主張する宗教派と、「市民生活を規則で縛るな」という世俗派の間でしばしば論争の種となる。しかし、エルサレムの宗教法廷に妻の不倫を夫が訴えた裁判で、妻の弁護士が「不倫の証拠写真を撮ったのがシャバットだから、証拠として無効」と論じたのには、だれしもあぜんとしたことだろう。 これに対する反論も、さすが宗教法廷と思わせるものだった。イスラエル紙マリーブによると夫側は、不倫を調査した私立探偵は非ユダヤ人だったから、安息日の戒律には触れないと論じたのだ。 シャバットには、自分たちが禁じられている仕事を非ユダヤ人にしてもらうという方便がある。労働省も、シャバットにユダヤ人が働く不法行為がないかを調べる仕事を、非ユダヤ人にさせている。夫側の弁護士はその事実を指摘し、「われわれは、これに倣って非ユダヤ人の私立探偵を雇った」と主張した。 (1999年11月6日付朝日新聞朝刊) 安息日の律法を破っていい場合があるのだろうか。これは昔からラビが議論してきた。すでに述べたように、割礼は安息日にも行われる。一般的に医療行為も禁止事項に数えられていたが、ラビたちは、生死に関わる問題は安息日に優先するという結論を下した。何がなんでも安息日の律法を守れということではない。リナはしばしば「生死に関わる問題は安息日に優先する」という解釈を持ち出している。
(『水の戒律』p52) 金曜日の2時〜3時になると、正統派ユダヤ人は安息日の準備を始めるために職場から戻る。安息日を迎えるために、色々な準備が必要だから、金曜日は結構忙しい。家をきれいにし、食事の用意をする。安息日は労働を禁じられているので、食事は予め作っておかなければならない。身体もきれいにし、清潔な服に着替える。タルムードには、安息日には3度食事をすることという戒律がある。安息日の夕べ、安息日の朝の礼拝の後、そして安息日の終る前の遅い午餐の3回だ。その中でもっとも豪華なのが、安息日の夕べの食事である。
5人はテーブルについて、“シャローム・アレイヘム”――安息日の天使を迎える詩――をうたった。それからダニエルがローラの手をとり、“勇敢なる女性”を古代イエメンのメロディで唱えた。妻と抱擁を交わしてから、子供たちの手に自分の手を重ねて、いつもより長く祝福のことばを唱えた。 (『殺人劇場(上)』p151)
これは、『殺人劇場』に出てくる主人公ダニエルの家の安息日の夕べの様子である。はっきり書かれてはいないが、ダニエルがシナゴーグに行っている間に蝋燭に火をともしたのは妻のローラのはずだ。 男性はシナゴーグに祈りに行く。まず詩編が6つ朗唱され、つづいてレハー・ドティー(Lecha Dodi)という有名な詩が美しいメロディーにのせて歌われる。レハー・ドティーというのはヘブライ語で「友よ、行こう」すなわち、「花嫁なるシャバットを、迎えに行こう」という意味である。安息日は「花嫁」あるいは「女王」にたとえられる。そして詩編の92と93が朗唱される。その後、夕べの礼拝(マアリブ)が続いて行われる。
主婦は、家庭に残って食卓を整え、男性が帰宅するのを待つ。シナゴーグから戻ると、父親は子供たちを祝福する。家族一同が揃ったところで、家庭で安息日の夕べを迎える儀式となる。
儀式として手を洗い、そしてパンの祝祷が続く。ヘブライ語ではパンのことをレヘムというが、安息日のパンはハッラー(challah)と特別の呼び方をする。残念ながら安息日の夕べの食事の様子が書かれた場面がないので引用できないが、後から述べる安息日の午餐の様子を参考にしてほしい。
正統派ユダヤ教徒は、安息日の朝をシナゴーグでの礼拝(シャハリート 朝の祈り)で始める。礼拝はまず、アド・オーラム(世界の主よ)の賛美で始まり、えんえんと続く。詩編がたくさん出てくる。そして、シェマア(Shema)の祈り、すなわちイスラエル民族の有名な信仰告白「聞け、イスラエルよ、主はわれらの神、主は唯一なり」(申命記6・4)である。
(『聖と俗と』p176) これは場面としては、サラの自宅で行われた土曜日の午餐だ。リナおよびその息子とともにデッカーも呼ばれている。ホレント(Cholent)・シチューは安息日の代表的な料理である。肉、豆、大麦などを入れてゆっくり時間をかけてつくる。
(『聖と俗と』p178) 安息日に歌われる歌のことをズミロットというが、安息日をトーラーの学習と喜びの雰囲気で過ごすために歌われる。
(『聖と俗と』p180)
食事の後にはビルカット・ハマゾン(birkat ha-mazon)という食後の祈りがある。安息日に限らず、正統派ユダヤ人は食後の祈りをするが、安息日には、詩編をまず朗唱するなど、やや祈りが特別に念入りに行われる。
……ラビが葡萄酒を注いだ銀の聖杯を捧げ持ち、物哀しい歌を詠唱して儀式を開始した。 「御身に、われらが神に、万物の主に、葡萄の実の創造主に、祝福を」 会衆が「アーメン」と合唱して応える。 (『聖と俗と』p190) 平日には日没前に行われる夕べの祈り(マアリブ)を、安息日には引き延ばして日没後40分たってから行う。マアリブの後、次の1週間を送る覚悟を新たにするために、ハブダラ(Havdalah)という儀式を持つ。
「アーメン」 ラビはスパイス入れを下に置くと、指先をろうそくの火に近づけて、明りの創造主である神を祝福した。それからハヴダラーの残りの部分、安息日の終りを告げる聖句を朗唱した。 まもなく、神の聖日である安息の日は正式に終わり、また新たな世俗の作業に明け暮れる一週間が始まる。 ラビは美しい滑らかな声で最後の祈りを唱え、葡萄酒をひと口飲んだ。のこった葡萄酒を銀の皿に空け、ろうそくをとり、その中に浸して火を消す。炎はじゅっという音とともに火花を散らし、やがてひと筋の煙になった。 (『聖と俗と』p190) ハブダラは「分離」という意味のヘブライ語で、蝋燭、ワイン、香料の祝祷から成る。ハブダラの終りに当たって、主人がワインを飲み干す。そして、カップの底に残ったワインで蝋燭の火を消して、部屋の明りをつける。新しい週が始まり、みんなで、「シャブア・トーブ(よき週を!)」と挨拶を交わす。最後に預言者エリヤの歌をうたう。これで安息日は終了する。
(3)シナゴーグ
ユダヤ人にも教会や寺院に相当する場所がある。シナゴーグ(Synagogue)と呼ばれる会堂である。シナゴーグはギリシア語だが、ヘブライ語では、ベイト・クネセット(Beit Knesset)という。特に、トーラーやタルムード等のユダヤ教の聖典を学習する場所という意味で、ベイト・ミドラシュ(Beit Midrash)ともいう。
祈祷書のある大事な部分は男子10人以上いないと声を出して祈ることが禁じられている。バル・ミツヴァのところで説明したように、この成年10人の定数のことをミニヤン(Minyan)という。公の礼拝はミニヤンで行われる。 シナゴーグのの中央正面に「聖櫃」がある。ヘブライ語では、アロン・ハコデシュ(聖なる箱 Aron Kodesh)と呼ばれ、トーラーの巻物が収められている。聖櫃の置かれた壁の方向をミズハラという。
(『水の戒律』p70) 正統派のシナゴーグでは女性の席は男性とはっきり区別されている。
(『殺人劇場(上)』p146) イスラエルでは、このようにビルの中に小規模のシナゴーグがあるところが多いのだろう。
(4)適正食品規定/食べ物
「刑事さん、レストランの食事はカシェルではないので食べられないんです。わたし、お弁当を用意してきました」リナは遠慮がちに言って、紙袋をもちあげてみせた。 (2人は公園のベンチに腰をおろす) リナは袋のなかから分厚いハンバーグをはさんだ特大のオニオンロールをとりだして、さしだした。 デッカーはそれをまじまじと見つめた。「これがハンバーガーってやつですね。長いことファースト・フードばかり食べていたから、本物がどういうものかすっかり忘れていましたよ」かぶりつくと、肉汁があふれて、あごにしたたりおちた。 ……リナは包みを開いてベージュ色の四角いものをとりだした。「ポテト・クーゲルです」 「ポテトも大好物です」 「ゼラチンで固めたハッシュド・ポテトと言ったらいいのかしら――」 デッカーは声をあげてわらった。「なんだかすごそうだな」 「でもけっこうおいしいんですよ」 デッカーはひとつ口にいれて、じっくり味わった。 「なんの味だったかな。そう、ラートケの味だ。大きくて分厚いラートケの」 リナは驚いた。 「そう、ほんとにそのとおりだわ」 「異教徒にしてはよく知っているでしょう」 リナは笑った。 「ひとつかふたつ言葉を覚えただけでしょ、刑事さん」 「3つか4つは知っていますよ。別れた女房がユダヤ人だったんです。あなたとは似ていないが」語調を和らげて、「彼女も彼女の両親もほとんどアメリカ人と変わらなかったから。でも、父方の祖父母はいまだに……ユダヤ人らしい暮らしをしています。彼女のおばあさんがよくラートケを作ってくれてね」 「おいしかったですか」 「最高に」 (『水の戒律』p81) 事実上リナとデッカーのはじめてのデートの場面だ。デッカーはどこかレストランに誘おうとするが、リナは弁当を用意している。ユダヤ教では、食べてよい食物と食べてはいけない食物を定めている。この律法のことをヘブライ語でカシュルート(Kashrut 適正食品規定)という。食べてよい食物のことを一般にコーシェル(Kosher)というが、これはベブライ語のカシェル(適正な)のアシュケナージ系の呼び方だ。リナはカシェルというヘブライ語を使っている。
「あ、ええ……、いただきます」 リナは袋のなかから紙コップをとりだすと、スプリンクラーのほうに歩いていった。コップに水をいれて、それを両手にふりかけ、ベンチにもどってきた。 「きれい好きですね」デッカーは笑いながら言った。「女性のそういうところが好きだな」 リナは笑みを返したが、返事はしなかった。気を悪くしたのだろうか。 「ほんの冗談ですよ」 彼女はうなずきながら小声でなにかつぶやいた。それからパンをひと口かじり、飲み込んでから、やっと口を開いた。「わかっています。食事のお祈りをしていたので返事ができなかっただけです。手を洗ったあとは、パンを食べるまで口をきいてはいけないことになっているので」 デッカーは呆気にとられてリナを見つめた。 「気になさらないで」彼女はあわてて言った。「たいしたことじゃありませんから」 デッカーは肩をすくめた。 (『水の戒律』p83) まだお互いをよく知らないため、お互いの些細なしぐさでも相手が気を悪くしたのかと心配になってしまう。食事の前のお祈りが終わるまでは口をきいてはいけなかっただけというユーモラスな場面だ。
「すぐにもどるよ」デッカーは席を立って厨房のほうに歩きだし、大型の洗面台の前までいった。洗面台の上には、両側に把手のついた真鍮のジョッキとペーパータオルがかかっていた。その聖杯に水を満たし、両手に2回ずつかけた。水気を切ってから手をふき、洗手の儀式の祈りを唱えた。テーブルにもどると、パンを前にして、また別の祈りをつぶやき、それからパストラミをはさんだライ麦パンにかぶりついた。 (『豊饒の地(上)』p66) ユダヤ人の食事は律法で規定されている。まず、儀式的に手を洗うこと、そのとき祝祷を唱えること、食卓について感謝の祈りを捧げること、そして食後の感謝の祈りが必要である。この一連の規定の中でカシュルートが要の役を果たしている。
なぜ、カシュルートのような規定があるのだろうか。衛生上の観点から定められたと言われることがある。 食品がコーシェルであるためには、レビ記11章によれば、動物についてはまず草食動物で、割れたひづめと反芻することが条件となっている。したがって、肉食類であるライオンはだめだし、豚はびづめは割れているが反芻しないのでだめだ。海や湖に住む生き物では、ひれと鱗のある物は食べてもよい。だから、エビ、カキ、タコ、イカはだめだ。鳥については、食べてはいけない名前(たとえば、ハゲワシなど)が、個別にあげられている。植物については特に制限はない。
(『豊饒の地(上)』p266) 聖書の根本的思想は、血は命であるということで、血を食べる(または飲む)ことを禁じている。肉を食べる場合には血を抜かなければならない。屠殺方法にも条件があり、もっとも苦痛の少ない方法で一瞬に殺さなければならない。頚動脈を鋭い刃物で一刀で処置する。屠殺専門家のことをショヘートというが、十分に訓練を受け資格試験を通る必要がある。
(『殺人劇場(上)』p296) そして、その動物に病気がないか肉を検査しなければならない。検査員をマシュギアという。検査に合格してはじめてコーシェルと認められる。
「そこはカシェル食品のレストランなの」 「そういえば、マイアミにカシェルのデリカテッセンがいくつかあったな。でもこのあたりにそういう店があるとは知らなかった」 「ヴァレーに大きなデリが一軒と、ロサンゼルスにおいしいレストランが一軒あるわ。けさいったのは、新しくできた乳製品のレストランなの。乳製品と肉類は一緒に食べないから、どちらか一方しかださないレストランでないとだめなのよ」 (『水の戒律』p373) 同じような会話が別の箇所でも出てくる。
(『豊饒の地(上)』p62) 肉と乳製品を一緒に食べることも禁止されている。出エジプト記23−19の「あなたは子山羊をその母の乳で煮てはならない」をラビが拡大解釈し、肉と乳製品は分けて食べるように規定されたのだ。肉と乳製品を一緒に食べると消化を妨げるという実際的な理由もあるだろうが、これも、聖書に書いてあるから守られるのだ。
(『豊饒の地(上)』p269) パルヴェ(Pareve)というのは、肉でも乳製品でもないニュートラルなコーシェル・フードに分類されるもののことだ。フレシグ(Fleishig)は肉に分類されるもの、乳製品に分類されるものはミルキッヒ(Milchig)と言う。ただし、ここではリナは、パルヴェを肉と乳製品以外の食物用の道具、フレシグを肉用の道具というくらいの意味で使っている。
(『水の戒律』p161) ユダヤ教徒の主婦はこのように、カシュルートにあうように適当に材料を変えて料理を作るのだ。
カシュルートについてはここまで。
(『水の戒律』p7) クーゲル(Kugel)というのは、色々な種類のものを指し、なかなか定義が難しい料理だ。クーゲルという言葉自体は一般的に英語ではプディング(pudding)と訳される。しかし、Jell−Oのようなデザートのことではない。別のところでは、「ゼラチンで固めたハッシュド・ポテト」のようなものとリナが説明している。
(『水の戒律』p81) 味が似ているというラートケ(Latkes)は、ハヌカ祭で食べる油であげたジャガイモのパンケーキだ。
(『水の戒律』p52)
クーゲルは添え料理あるいはデザートのいずれにもなる。添え料理としては、ジャガイモ、卵、玉ねぎなどをつぶして作るが、デザートには、ヌードルやフルーツを使って作られる。
(『贖いの日』p28) ゲフィルテ・フィッシュ(Gefilte Fish)は、鱒や鯉のすり身に卵やたまねぎを混ぜてだんごにして、スープで煮込んだ料理だ。 次は料理ではないが、ユダヤ人と煙草の話。
「かまわないどころか、大賛成ですよ」デッカーは煙草をとりだして1本すすめた。 ラビは首をふった。「それは煙草とは言えません。タバコの葉にスプレーをかけて加工し、フィルターで味を弱めたものです」銀色のケースをとりだしてふたを開け、1ダースほどの手巻きの煙草を見せた。「本物の煙草を試してごらんなさい」 デッカーはラビの煙草に火をつけてから、自分用に1本とって火をつけた。 ふたりは黙って煙草を喫った。 「いかがです、味の方は」 「じつにうまい」 「わたしの自慢のスペシャル・ブレンドです。トルコ産の煙草にラタキア煙草がほんの少しはいっています」 (『水の戒律』p42) トーラーやタルムードは、喫煙の習慣が始まる前に編纂されたから、煙草に関する戒律はない。吸うか吸わぬかはまったく個人の勝手だ。ユダヤ社会で煙草が議論されるのは、「煙を吸い込むときに、祝福の祈りを唱えるべきか否か」という点と、「安息日と祭日は禁煙とするかどうか」という点である。
「そちらは?」 ダニエルは首を振った。「せっかくですが、きょうは安息日なので、火を使うことはできないのです」 老人は警部を見て、頭のキパに気づくと、納得したようにうなずいた。 (『殺人劇場(上)』p213) 滝川氏の『ユダヤ解読のキーワード』によれば、17世紀の注解書に当時の喫煙習慣に触れたくだりがあり、それによると、安息日の終るのを待ちかねて、多数の人が路上に飛び出し、3つの星のまたたきを確認するや、一斉に火をつけてスパスパやり始めたという。星3つを確認すると、それが日没すなわち1日の終りとされた。 また、ユダヤ人は酒もよく飲むらしい。
(『贖いの日』p15)
(当初作成日:12/31/1998)
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