酸欠講習



 世の中には,様々な資格があります。

 自動車免許はかなりの人が持っている資格ですが,その他にも教員,建築士,医師,弁護士,税理士,宅建,ボイラー技師,労務士,危険物取り扱い主任者,環境測定士,フォークリフト,簿記,ふぐ料理……… 数え上げたらキリがありません。

 さて,そんな資格の一つに,『酸素欠乏作業主任者』という資格があるのをご存知でしょうか?

 例えば大きな槽や溝の中といった,酸素欠乏症が起り得る場所で仕事に従事する場合,それに関する資格を持った人の監視の下で作業を行わなければならないという法律があります。その資格というのが,この『酸素欠乏作業主任者』です。
 “酸欠”と略すことが多いです。そしてその資格を得るための講習を,“酸欠講習”と言います。

 私の職場ではそのような業務が発生する事は稀なのですが,それでもたまにそういった作業がおこり得るケースも無きにしもあらずなので,一応,念のため,誰かがその資格を取る事になっています。職場では既に一人がその資格を持っていたのですが,もう一人持っておこうということで,ある年,私に白羽の矢が立ちました。

 酸欠講習は二日間で,内容は一日目は講義,二日目は講義の続きと人形を用いた人工呼吸の練習で,二日目の後半に,両方の試験があります。
 筆記試験は,講義さえきっちり聞いていれば九割程度通りますし,それをクリアーした後に受ける実技試験も,基本的に合格点が取れるまでやり直しさせてくれますので,試験自体はさほど苦にはなりません。
 問題は,人工呼吸の訓練及び実技試験に,人形を用いるという部分に有ります。

 受講者は百人程度います。しかしながら,当然人形はそんなにありません。十数人のグループで,一体を使い回しです。つまり,チューする人形を,見知らぬ人間と共用するわけです。
知らない人達との間接キス,これがこの講習の最大の難点です

 さて講習当日,いよいよ人工呼吸の練習です。
 主催者が,大きなケースから,二つ折りのふにゃふにゃの人形を取り出します。背の高さは150cm程度ですが,これがまた頂けません
 あくまで人工呼吸用の人形なので,手足はおろそかに作られています。先細りの手足が,申し訳程度についております。さらに,頭もやたらでっかく,5頭身くらいです。
 そのくせ口元だけは比較的リアルで,人工呼吸し易いように,口が丸く開いています。

 どう見ても,出来そこないのダッチワイフです。

 場内も,少々ざわついていました。
 知人同士で来ている人の中には,ズボンのチャックを下ろすフリをする ユニークな 大ばか者もいます。

 さて,やがて班に分かれて練習する事になりました。
 私の班の担当者(インストラクター)が,方法を説明します。簡単に書くと,以下の通りです。
 @.消毒用エタノールを染込ませた脱脂綿で,人形の口元を拭く。
 A.その脱脂綿を人形の口の中に詰め込み,被災者の吐しゃ物の代わりにする(ここまでが準備)。
 B.“口中異物確認”といって,中の脱脂綿を取り除く。
 C.人形の鼻をつまんで人工呼吸する。
 D.息を吹きこむタイミングに合わせて,もう一人の補助が人形の胸をギュッギュッと押さえる。

 つまり,自分の唇を他人から守るのは,そのエタノール脱脂綿のみとなります。

 順番に人工呼吸練習を始めます。インストラクターの指導の下,顎の上げ方,鼻のつまみ方,胸を押すタイミング等,細かい事も教わります。
 人が練習をやっているときは,その他の人はそれを見ています。人の間違えも勉強になります。みんな,それなりに真剣です。

 私は,あらためて講堂をぐるりと見まわしました。練習場になっている大きな講堂には,沢山の人がいます。

 ……
 予想通り,男ばかりです。

 男同士で間接キスです。
 男に間接キスしないと,免許はもらえません
 色んな男がいました。

 ハゲオヤジヨレヨレサラリーマンビール腹メガネオヤジバーコード不精ヒゲ姉ちゃん

 ん??
 姉ちゃん!?

 いました,女性です!!!

 隣の班で,沢山のオッサンに交ざって,女性が練習をしています。
 しかも,“君に酸欠”って思うくらい,若くて綺麗な女性でした。

 私がその女性を見つけた時,丁度その女性の番でした。
 彼女は,頬を少し赤らめ,「すみません…」と俯いて申し訳なさそうに笑いながら,脱脂綿で人形の口をゴシゴシ拭いていました。

 「ああ,もう,しっかり拭いといて下さいよ〜」と,その女性の前に人形を使った太ったオッサン。補助の,胸を押さえる役に回ってます。
 鼻をつまんで一生懸命に人工呼吸をする女性。なんとか無難に出来たようです。
 さて,普通は自分の番が終わると人形はそのままにしておくのですが,その女性は,次のオッサン対策のためなのか,自分が終わった後も一生懸命拭いて,痕跡を消していました
 ちょっとした笑いが起こっていました。
 それでもその班は,一人の女性の存在のためでしょうか,比較的和気藹々とやっていました。


 悲惨なのは,私の班です

 熱心な方が多かったのでしょうか,どんどん練習して行きます。メンバーが一巡しても,ペースを落とすことなく,みなさん二回目,三回目と,ハイペースで練習します。

 その間,脱脂綿は次々と消費されていきます。

 しかしこの脱脂綿,当然のことながら,有限資源です。

 そして,私の班の脱脂綿は,明らかに他の班より減り方が早く,気付けば瓶の底の方に少々残すだけ… 班のどなたかが主催者に脱脂綿のお代わりを申し出ましたが,無いとのこと…

 仕方ないので,これまでは使い捨てにしていた脱脂綿を再利用する事になしました。みなさん,マイ脱脂綿をキープです。

 脱脂綿で拭いては人形の口の中に入れ,それを取り出して人工呼吸をした後は,捨てることなく握り締めてキープ。それの繰り返しです。

 やがて脱脂綿のエタノール成分は,蒸発し易い事もあって殆ど無くなり,その代わりに知らないおっさんの唾液自分の手垢がしっかり染込んでいました。床に落とした事もあったので,小さな埃も付着してました。

消毒能力に乏しい脱脂綿と化していましたが,まあ気持ちの問題です。最後の実技試験まで,その脱脂綿で頑張りました。

 全てが終わった後,その脱脂綿は妙にじゅくじゅくして色も黒っぽくなっていたようです。

 トイレで十分うがいをしてから,その講習会場を後にしました。

 因みに免許は,私の唇の犠牲のおかげで,しっかりゲットできました。

 

たまゆらの乱文 TOPへ

TOPへ