カーテンの隙間からベッドの上に延びた朝の光で,俺は心地よい眠りから目覚めさせられた。頭が少し痛い。今日は久しぶりの休日,ベッドの中で睡眠を貪るつもりでいたのだが,サラリーマンの普段の習性といおうか,この時間になるとどうしても目覚めてしまう。しかもカーテンをきっちり閉めていなかったので,そこから漏れ入った光によっても眠気が無理やりに,しかも中途半端に奪われる羽目になってしまった。
時計に目をやると,まだ七時前。休日といっても特に予定もなく,“寝る”という予定を奪われた俺はしばらくそのまま白い天井をぼーっと眺めていた。恋人でもいようものなら予定を埋められるかもしれないがそんな当てもない。
俺は仕方なくベッドから下り,玄関から新聞を取りだしテーブルに広げた。官僚の汚職事件,株価の暴落,中東地方で紛争,世相を反映するニュースばかりだ。新聞から目を上げて,リモコンでテレビをつけると,俺がお気に入りのアナウンサーの佐藤美加が朝のニュースを伝えていた。この界隈で起っている連続殺人事件のことを伝えている。そういえばこのマンションの住人も,最近はこの話題で持ちきりのようで,先日ゴミを出しに行った時も数人の主婦がその話をしていた。サングラスをかけたスキンヘッドの怪しい男を見かけたとか言って,警察の聞き込みでもそう証言したらしい。ニュースによるとまだ犯人は捕まっていないらしいが,物騒な世の中になったものだ。これも世相の反映か…
もう一度新聞のスポーツ欄に目を落とすと,昨日のプロ野球の結果と,競馬のメインレースの予想が書かれてあった。
(久しぶりに競馬でも行ってみるか…)
今日の時間のつぶし方を思いついた俺は椅子からゆっくり立ち上がって,洗面所に向った。慌ただしく朝の身支度をした後,昨晩にそこに置いたはずの眼鏡をかけようとした。しかし,置き場所にしている籐の箪笥の上にはなかった。もっとも殆ど無意識に置いているし,他の場所においていたこともしばしばあるのでいつものことと思い部屋の中を探した。
案の定,それはテレビの上に乗っていた。俺はその眼鏡を掛けようと手に取った。しかし手にとって見ると何となくいつもの眼鏡とは違った感じがした。少し重いような気もする。ただ,かけてみると度はきっちり合っており,佐藤美加アナウンサーが天気予報を読み上げているテレビの画面に映し出されている7:43という時刻のテロップも,はっきりと読み取れる。しかしかけた具合は,やはり違和感がある。俺は眼鏡を外してもう一度眼鏡を観察した。
やはり俺のものとは少し違う。俺のはもう少し濃い茶色のフレームをしている。それに何だ,この変なダイヤルは。右側のツルの付け根に,直径1センチ程度のダイヤルが付いている。良く見るとダイヤルは3ケタの数字からなっており,000から999まで数字を変更できるようだ。今は,005に合わされているが,一体これは何のために…
その時テレビから,佐藤美加アナウンサーの声が耳に入った。
『それでは,本日の各地のお天気をお伝えいたします…』
えっ,さっき放送していたのに?と思い画面に目をやると,確かに佐藤アナウンサーの天気予報コーナーが始まっていた。
『東京地方は午前中曇りで,昼からは雨…』
はっきりとは覚えていないが,さっき俺が聞いた予報と同じような気がする。画面に近づき,時刻のテロップを見た俺は唖然とした。
7:43……
これは確か俺が5分くらい前に見た時刻… 5分…? 俺は手に持った眼鏡をしげしげと見つめた。 005… まさか……
俺はその眼鏡を持って窓際に走った。二階から見えるマンション前の道路には,何も通っていない。俺はダイヤルを001に合わせてその光景をもう一度見た。するとマンションの前を,赤いコートを着た若い女が小走りに駅の方に向う姿が見えた。しかし眼鏡を外して見てみると,犬1匹通っていない。俺はゆっくり首を回し,道路の駅と反対側を見た。女がこちらに向ってきた。赤いコートを着て,駅の方に向って小走りに。
(一体これは…!?)
(未来が見える眼鏡なのか?)
(しかしなぜこんな物が…)
(夢か…?)
俺は恐くなり,部屋の中を見まわした。しかし目の前にあるのはいつもの俺の部屋。普段と何も変わったところはない。床に乱雑に置かれた雑誌,壁に掛けてあるブルゾン,その下に置かれたかばん,机の上のパソコン,特に変わった様子はない。クローゼットや箪笥,冷蔵庫までも開けて回ってみたが,俺の生活習慣を自分で見るだけの結果に終わった。俺は机の椅子に腰掛けて,机の上においてあるたばこを1本抜き取り少し振るえる手で火をつけた。その時,たばこの横に見なれた俺の眼鏡を見つけた。
(なんだ,ここにあったのか…)
手に持っていたダイヤル付きの眼鏡と見比べた。確かに似ているが,俺の眼鏡のフレームはやはり少し濃い茶色をしていた。しかしその他は,ダイヤル以外は殆ど同じものだ。。。
俺はいつもの眼鏡をかけ,もう一方の眼鏡を手のひらに乗せて考え込んだ。
(なぜ…?)
(どいう仕組みに…)
(誰が…?)
(本当に未来が…?)
(待てよ,ひょっとして…)
(そうだ,これさえあれば。これさえあれば…)
少し落ちついてきた。それとともに,俺の口元がほころんできた。俺はすばやく着替え,その眼鏡をシャツの胸ポケットに入れた。壁に掛けてあったブルゾンをすばやく着て,足早に部屋を後にした。
向った先は,東京競馬場。今日,ここでこの眼鏡の真偽を確かめてやる。
まだレース開始までには時間がある。パドックでは,第一レース出走馬のパドック周回が行われているようだ。しかし俺はそんなものに目もくれず,ターフビジョンに走って行った。
20分後くらいにこのターフビジョン横の電光掲示板に第一レースの結果が映し出されるはずである。俺は胸のポケットからダイヤル付き眼鏡を取り出し,カチカチと目盛を020に合わせて俺のめがねとかけ替えた。
(見えた!!)
確定の赤ランプとともに,
1着 6番
2着 4番
3着 9番
の文字が映し出されている。
眼鏡を外すと何も映っていない。しかし眼鏡をかけるとやはり同じ数字が見える。俺はその眼鏡を胸ポケットにしまい込み,いつもの眼鏡にかけ替えて発券所に向った。そして半信半疑で,E→Cの馬番単勝馬券を1,000円購入した。
発走までの時間を使って,売店で予想紙を買った。馬券を買った後に予想紙を見るなんて妙な気がする。ページをめくって1レースを探した。ダートコースの1600メートルだ。6番のラッキーサンダーには,全く印が無い。4番や9番には少しあるが,3番のミリオンスナイパーがグルグルの本命だ。場内テレビの単勝倍率を見ても2.3倍。一方,6番は85.6倍だ。
やがてファンファーレが鳴り,ゲートが開いた。ダッシュ良く飛び出した6番が逃げ,マイペースに持ちこんだ。俺の目はモニターに釘付けになった。そしてそのまま4コーナーを回り,4番,9番を従えてゴールに近づいた。おれの鼓動は最高潮に達し,手足が心なしか震え出した。
(まさか…?)
(本当に…?)
いきなりの大波乱に場内もすこしざわつきが起りかけたその時,外から3番のミリオンスナイパーが一気に追い上げ,ゴール手前で3頭を差し切り1着で入線した。
(なんだ…)
一気に力が抜けた。気付くと予想紙を力強く握り締め,そこだけ汗が染み込んでいた。
(そんなわけは無いよな…)
俺はがっかりした反面,少しホッとした気分になった。
ようやく周囲の人達の姿が目に入ってきた。それでも比較的高配当である。あちこちから悲喜こもごものざわめきが起っていた。審議にもなっていないようだし,このまま確定するのだろう。
『お知らせ致します。ただいまのレースは,1着入線しました3番のミリオンスナパー号は,騎手の負担重量不足により,失格となりました。繰り返します。ただいまのレースは…』
突然の場内放送に,俺は唖然とした。
(失格……?)
(じゃあ……!?)
頭の中は真っ白だ。何がなんだか分からない。当ったようだという事だけは,何となく理解できた。再び手足が震えた。
(まさか…?)
ざわめく場内。遠くの方から罵声らしきものも飛んでくる。怒って職員に詰め寄る者,発券機を蹴り上げガードマンに取り押えられる者,マークカードを放り投げる者,場内は騒然となった。そんな中で俺は一人で呆然と立ち尽していた。そしてふらふらとターフビジョンのある屋外に出た。
確定の赤ランプとともに映し出される,1着6番,2着4番,3着9番の文字。レース前に見たものと同じだ。一体何が起こったのか。俺は胸ポケットを見た。ダイヤル付きの眼鏡はやはりそこにある。そこに一緒に入れた馬券。取り出すと,E→C 1,000円の馬単馬券。
(取った… あの眼鏡のおかげだ。)
72,600円の高配当。俺はまだ半信半疑で払い戻しコーナーに向った。馬券を払い戻し機に投入し待つこと数秒,726,000円の大金を俺は手にした。周囲の羨望の視線。今度は大金を手に持ったことで手の震えが止まらなくなった。
俺は金をズボンのポケットに無造作に押し込み,もう一度ターフビジョンに向った。胸ポケットから眼鏡を取り出し,ダイヤルを合わせて2レースの結果を見た。今度は本命サイドでの決着のようだ。その番号をマークし馬券を購入した。
レースが始まり,予想通り2頭のマッチレースとなった。結局@,Fの1,2番人気の組み合わせで,350円の配当であった。100,000円購入していたので,350,000円になった。今度は,さほど驚かなかった。むしろ周囲の人の目が気になった。ポケットの中には100万近い大金が入っている。みんながそれを狙っているように思えて仕方ない。いや,眼鏡を狙っているようにも思えてきた。俺は,そっと胸ポケットの眼鏡に手をあてた。
(これさえあれば… これさえあれば…)
それからは,もはや眼鏡を疑うことを忘れていた。購入した予想紙は知らない間にどこかに紛失していた。俺は,ターフビジョンと発券所をひたすら往復した。3レースからは,払い戻しても金を持っておくことが出来ないので,馬券のままポケットに入れておいた。もはやいつでも当り馬券は手に入るのであるから今日はもうやめても良いのだが,ひょっとしたらいつか急に眼鏡の効力が失せるかもしれないという不安にかられ,稼げるうちに稼いでおこうとひたすら当り馬券を買い続けた。
慣れてくると,カチカチとダイヤルを調整して色々なレース風景を目にする余裕が出てきた。大本命の馬がレース中に骨折すること,新人ジョッキーがようやく初勝利を挙げること,障害レースで騎手が落馬し病院に搬送されること,女性騎手がメインレースでの勝利ジョッキーインタビューを受ける事等,レース結果だけではなくあらゆる出来事を見る事が出来た。予想紙に色々な書きこみを行いながらハズレ馬券を高額の流しで買っていたサラリーマン風の中年男を見ると,少し憐れに見えてきた。同時に俺は,自分自信がこの競馬場に君臨する王者のような錯覚に陥っていた。
天気予報通り雨が降り出した9レース前に,俺は競馬場を後にした。残りのレースは見るまでもなく適中しているし,さすがに少々飽きてきた。予定調和で緊張感のない競馬で,他の人のようにゴール前で熱くなる事もない。つまらないと言えばそれまでであるが,確実に入ってくる金のことを考えれば取るに足りない悩みである。
帰りはタクシーである。そのまま歓楽街に直行した。タクシーを降り際,運転手に10万ほど渡して釣りは要らないと言うと少々びっくりしていたが,競馬で大勝したといえば,「うらやましいねぇ。どうやったらそんなに儲かるか,教えて欲しいね。」と言って受け取った。俺は胸ポケットを軽く抑えながら,「今日は,運が良かったんですかね〜」と言って,タクシーを下りた。
酒,女,なんでも手に入った。面白いように美女が美酒を持って群れ集まった。まさにこの東京,いや日本,いや世界を完全に制覇したような気分に酔いしれた。
もはや俺には手に入らないものはないのだ。
そう思って俺は胸ポケットに手をやった。ポケットの中には眼鏡が入っている。
(これさえあれば… これさえあれば…)
俺はそれをポケットの上から軽くなでながら,タクシーで帰路についた。
ドアを開けると,暗い部屋が俺を迎えてくれた。この時だけは少し寂しさを感じないわけではなかったが,それも今の俺には取るに足りない悩みである。ブルゾンを壁のハンガーに掛け,俺は風呂場に向った。熱目のシャワーが冷えた体に心地よい。全身の汚れを流した後,バスタオルで体を拭きながらテレビに向ってスイッチを入れた。バスローブに着替え,冷蔵庫から冷たい水を取り出し,コップに一杯を一気に飲み干した。
(明日は会社か…)
(辞めるか…)
もはや働く必要はないだろう。俺はソファーに腰を下ろし,テレビを眺めようと眼鏡を掛けた。
ふと,視野に人の影が入った。
ドアの前だ。
俺は飛び上がらんばかりに驚き,ドアの方に体の向きを変えた。
サングラスとスキンヘッド…
俺はその男を一瞬のうちにそう観察した。
そしてその姿が,記憶の片隅にあることに気付いた。
連続殺人事件!?
まさか!?
その時その男の右手に,きらりと光るものを見た。
長いナイフのようである。
殺される!!
全身に震えが走った。
俺は慌ててソファーから立ち上がろうとした。
足が言うことを聞かない。
足がもつれ,俺はそのままソファーの足元に倒れた。
その弾みで眼鏡が外れ落ちた。
床に倒れたまま,目線だけが玄関の方に向いた。
男の姿は無かった。
隠れたのか?
俺はもう一度落ちた眼鏡を掛けようとした。
ダイヤルがついている…
さっき,いつもの眼鏡を掛けるつもりでこの眼鏡を掛けていたのか?
!!
じゃあ,男はいつ来るんだ?
それまでに逃げないと…
ダイヤルは?
001… 1分後!
タクシーの中で000に合わせたつもりだったのだが…
そういえば,ドアの鍵は掛けたか!?
確かめないと…
しかし,足がいうことをきいてくれない。
震えて立てない…
ガチャ…
ドアが静かに開いた。
サングラスとスキンヘッドとナイフ。
さっき俺が見た光景だ。
殺される!
俺は必死に逃げようとした。
足がもつれて立てない。
恐怖で声も出ない。
俺は殆ど手だけで,ドアとは反対の方に這った。
震えながら這って逃げようとした。
背後に近づく足音。
影が俺に覆い被さった。
そして次の瞬間,背中に氷の塊がぶつかったような気がした。
激しい痛みと冷たさが,同時に俺の体を支配した。
体中の力が抜けて行く。
手足の感覚が無くなり,ひんやりとした痺れたような感覚が広まる。
去って行く足音。
ドアが開く。
人が出て行く気配。
伸ばした手に,何かが当る。
しかし上手く掴めない。
何度も掴みそこなう。
カチカチという音がする。
眼鏡か。
力を振り絞り掛けてみる。
掛けてどうなるものでもないかもしれないが,無意識の行動である。
意識が薄れ行く。
テレビの画面が目に入った。
ブラウン管に映し出される佐藤美加アナウンサー。
『では次のニュースです。今朝,東京都練馬区のアパートで,男性が何物かに刃物に刺されて殺されているのが発見されました。殺されたのはその部屋に住む山下雄介さん29歳で,無断欠勤が続いたのを不審に思って尋ねてきた同僚に発見されました。警察ではその手口から,一連の連続殺人事件と見て捜査を行っております。』
山下雄介… 俺の名だ。
まだ死んでいない。
そう言ったつもりが声になっていない…
俺の目の前を大勢の人が歩き回っている。
背広を着た人が何かを喋っている。
警察官に何かを手渡している。
誰かが写真を撮っている。
幾度となくフラッシュが焚かれる。
壁やテレビ,テーブルから,指紋を採取している人がいる。
気付いてくれ。
助けてくれ。
俺はまだ…
『では次に天気予報です。昨夜まで雨を降らせ続けた低気圧は日本海側に抜け,関東一円は高気圧に蓋われるでしょう。明日,明後日の週末は,雨の心配はありません……』
週末…?
明日は月曜日じゃないのか…?
一体俺は…?
意識が,ますます薄れ行く。
助けてくれ。
気付いてくれ。
誰か,助けて… くれ…