ある日の帰宅(前編)
僕は,ようやく長い一日から開放されて,安堵の表情で大きな伸びをした。壁に掛かった時計を見ると,午後8時。オフィスには僕しか残っていなかった。
僕は椅子から立ちあがると手早く帰り支度を行なった。鍵掛けからオフィスの鍵を取り,廊下に出てドアを閉めた。鍵を一旦上着のポケットに入れエレベーターで1階に降り,守衛室のある夜間出入り口に向かった。このオフィスビルには10個のオフィスがあるが,夜間や休日は守衛室で鍵を一括管理する事となっている。どこのオフィスでも最後の人が鍵を守衛室に返すのが慣習になっていて,今日は僕の役目だ。
守衛室の前まで来た時,僕はふと下腹部に軽い痛みを覚えた。ひょっとしたらお昼に食べた照焼き定食がいけなかったのだろうか?少し変な匂いがしたが,結局全部平らげてしまった。
僕は一旦立ち止まり,エレベーター乗り場の横のトイレに入ろうと踵を返しかけた。しかし痛みが軽かった事と,ここのトイレが和式しかない事,それに僕の住むマンションがここから徒歩で15分程度の所にあるというので,家に着いてから用を済ます事とした。
僕は守衛室の窓を開けてポケットから鍵を取り出し,守衛に返した。
「今,終わったのかい。お疲れさん」
「ええ。それじゃ,失礼します」
この守衛はお喋り好きで,一旦捕まるとなかなか帰してくれない。僕は,長話しの相手にされないように伏目がちに挨拶して,守衛室の前を足早に通りすぎた。その時守衛がこちらを向いて何やら喋っていたが,長話のきっかけになりかねないので聞こえない振りをしてオフィスビルを後にした。
ビルを出て,僕は家路を急いだ。夜風が思ったより冷たかった。コートの隙間から体に当る冷気によって,腹の痛みが少し促進されたようである。急がねばならない。
ハックション!! 寒さで突如くしゃみが出た。
ウッ!! 不意に肛門が刺激された。
キュッ!! 本能が肛門を閉めつけた。
僕はその時,ブツがすぐそこまで来ていることを悟った。しかも今の刺激から察するに,きっと液状のものだ!痛みも一気に増した。ヤバイ,急がねばならない。僕は自然に早足で歩いていた。
カーン,カーン……
踏み切りに差しかかったところでその警報が鳴り出た。遮断機が僕の行く手をさえぎる。電車の進行方向は左から右だ。よりによってこんな時に… 僕は立ったまま足を交差させ,肛門に力を入れた。
ガタン,ゴトン,ガタン,ゴトン…
ようやく左から右に通過する電車。 早く通りすぎてくれ…
そして電車を見つめる僕の前で無情に点灯する,反対向きの左向矢印…
僕を笑うかのように鳴り続ける警報。
しかめっ面の僕の額には,脂汗が滲んでいる。
ようやく右から左に通過する電車。 早く通りすぎてくれ…
僕を笑うかのように鳴り続ける警報。
ようやく電車が通り過ぎ,遮断機が静かに上がった。僕はそれを待ち切れないかのように歩き出した。なるべく腹を刺激しない様に歩かなければならない。自ずと尻に力を入れ背筋を伸ばして歩いている。周囲の人が見ればきっと姿勢の良い人と思うかもしれない。しばらく歩いているうちに,少し痛みが和らいできた。
この痛みには周期があることを,僕は経験から良く知っている。痛みがピークに達してしばらくすると収まり,また少しすると痛みが走り出すのである。しかしながらその周期は徐々に短くなり,しかもピークが来た時の痛みは段々と大きくなってくるのだ。従って,今のうちに家までの距離を稼いでおく必要がある。あわよくば,次のビッグウェーブまでに家に辿りつくことが出来るかもしれない。僕は,スピードを上げて歩いた。
家まであと3分のところまで来た。右手にコンビニエンスストアがあった。
そうだ! ここでトイレを借りれば良いんだ!!
最近のコンビニエンスストアはトイレを開放しているところが多い。トイレを借りた人が,それだけでは申し訳いからと何かを買おうとする心理を上手く使った商売上の作戦であろうが,ここもトイレを開放しているはずであるである。実際,何度かここで用を足したことがある。
地獄に仏。。。 僕はそう思って店内に入り,右奥にあるトイレに向った。
『まことに申し訳ありませんが,防犯上の都合によりトイレをお貸しすることが出来なくなりました。ご了承下さい。 店主』
その張り紙を見て,愕然とした。 ピクピクッ… 来たっ!!
ようやく,僕の住むマンションに到着した。玄関を入り,エレベーターに向った。幸い,エレベーターは1階で利用者を待っている。
良かった… 僕はエレベーターに乗り込もうとした。
まてよ… ふと僕は足を止めた。
今までのパターンでいくと,次は僕がこのエレベーターに乗ってドアを閉めると故障するんだ。きっと神様は,次にそんなイタズラを用意しているのだ。そうはいくか。僕の部屋は3階だし,幸い今は小康状態を保っている。
よし,階段で上がろう。
そう思って,僕は階段で3階に向った。
3階には難なく到着した。
勝った!!
僕はホッとして,ポケットから部屋の鍵を取り出し,鍵穴に差しこんだ。いや,差しこもうとした…
入らない!?!?!?!?!?!?!?!?!?
どういうわけだ!?!?
鍵を良く観察した。オフィスの鍵だ!! 鍵を持つ手が,心なしかに滲んで目に映った。
僕の部屋の鍵につけているキーホルダーとオフィスの鍵のそれが非常に似ているので,きっと間違えて守衛にここの部屋の鍵を返したのだ。そういえば僕がビルを出る間際に守衛が何か喋ろうとしていたが,あれはきっと鍵を間違えていないか聞こうとしたのであろう。
仕方が無い,ビルに戻ろう。幸い,まだ小康状態が続いている。このうちにビルに辿りつければしめたものだ。
万が一途中で限界が来たら,踏み切り手前の工事現場に入ろう。その場合を想定してポケットティッシュを探した。生憎見つからなかったが,ハンカチは見つかった。昔の彼女に貰ったディオールのハンカチであるが,背に腹は変えられない。その時はこれに犠牲になってもらおう。待てよ,洗濯したらOKかな?
いや,今はこんなこと考えているヒマはない。そうしている間にもブツはさらに援軍を呼んで肛門を攻めてくるに違いない。肛門が防衛してくれている間にビルに辿りつく,今はそれだけを考えれば良いのだ。
僕は,足早にエレベーターの方に向った。