ある日の帰宅(後編)

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ガチャ。

エレベーターの方に歩いていた僕の背後で,ドアの空く音がした。僕は,何となく振り返った。隣の部屋のドアだ。ドアの影から,その部屋の主である西条麗子さんが顔を覗かせた。長い髪が良く似合う,清楚な感じの美人さんである。
廊下や近所ですれ違った時に挨拶や世間話をする程度であるが,密かに恋心を募らせている。僕は,これまで話した内容から,彼女は隣町の銀行に勤めていること,出身が僕と同じ青森県であること,趣味が洋裁であること,そして彼氏がいないことなどを知っている。

「あの,橘さん。こんばんは…」
「あ,ど,どうも。。。こんばんは」
心を寄せている女性から不意に声を掛けられて,少々戸惑った。ブツと肛門も驚いたのか,休戦状態に入った。
「今,お帰りだったの? あら,またお出かけ?」
「い,いや,そこのコンビニで弁当を買おうとしてたんだけど忘れちゃってね。。。もう一度買いに行くところなんだ」
「じゃあ,ちょうど良かった。あのね,晩御飯を作りすぎちゃったの。良かったら一緒に食べて頂けないかと思って,お帰りを待っていたんです。ご迷惑かしら?」
彼女は廊下に出てきて,そう言った。僕は天に昇る気分になった。まさか,意中の人からこのようなことを言われるなんて思っても見なかった。夢か?夢なら醒めないでくれ。
「迷惑なんて,そんな,とんでもない。いいんですか,でも…」
「ええ,どうぞ。ご遠慮なさらないで」
そう言って,彼女はドアを大きく開け,僕を招き入れた。僕は,恐る恐る彼女の部屋に入った。靴を脱いで玄関を上がり,彼女の後に続く。靴下は,指先に穴が開いていないやつでホッとした。足の匂いもOKだ。初めて見る女性の一人住まいの部屋。前の彼女の家にも何度か行ったが親と同居であったため,淡いピンクを基調としたこんな部屋はとても新鮮だ。
そしてほのかに香るカレーの匂い。いつもコンビニ弁当ばかり食べている僕には,久しぶりに食事にありつけた気がする。しかも麗子さんと二人っきりで!!僕は,どきどきしながら,勧められるがままテーブルに着いた。

ピク,ピクッ!! き…,来たっ!!
キュッ!! お尻に力が入った。
突然,ブツと肛門が戦闘を再開した。
すっかり忘れていた。。。。。。
どうしよう。。。。。。。

ゴロゴロ… 下腹部では,ブツが容赦の無い攻撃を仕掛けてくる。これまでよりも,その威力を一段と増している。
グルグル… 肛門も,全兵力を結集して防衛している。
あの時ビルにそのまま向っていれば,今頃はせめて工事現場には到達できていたであろう。後悔先に立たずである。

その時,新たな敵が襲来していることに唖然とした。
おしっこ…!!
この寒空のもとひたすら歩いて帰ってきたことで,膀胱は決壊寸前になっていたのだ。肛門の戦いに加えて,膀胱でも激しい攻防が繰り広げられ出した。あたかも太平洋戦争末期に,不可侵条約を破ってソ連侵攻してきた時の大日本帝国のごとく,もはや防衛する兵力に限界が見えてきた。

「あの〜,サラダもお作りしますので,もう少し待って下さいね。嫌いなお野菜とかありますか?」

こちらの内情を知らずに,麗子さんが話しかけてきた。
「い,いや。な,な,何でも大丈夫ですよ。」
僕は脂汗を手の甲で拭いながら答えた。

ムズムズ… 俺の肛門が,悲鳴を上げた。
ビクビク… 俺の膀胱が,SOSを発した。“モウ,限界デス。退避命令ヲオ願イシマス”

僕は,意を決した。仕方ない。トイレを借りよう。
ただし,許されるのは小だけである。小ならば,例えデートの最中でも平然と行くではないか。しかしこの状況で,小だけ排出するというのは可能なのだろうか。あるいは何とか達成出来たとしても,大を抱えたまま本当にカレーを食べられるのか。

ビクビク…
ビクビク…
あぁ…

「ドレッシングは何になさいます?イタリアンとフレンチと和風胡麻風味があるんですが」
「あ,は,はい。え,え,えーと,さ,最後のごま油のやつで,い,いいです」

ピクピク… “オ願イシマス。退避命令ヲ…”

後のことは後で考えよう。まずは小だけでも何とか解決しないと…
「あ,あの,ト,ト…,トイレを貸して頂けますか?」
「はい,どうぞ」
僕はトイレに飛び入り,ドアをバタンと閉めた。
落ちつけ,落ちつけ…
まず大きく深呼吸をした。
これからのシナリオを頭に描いた。
イメージトレーニングだ。
許されるのは小だけである。
絶対に大は不可である。
力の配分に注意しないといけない。
肛門を締めると,力のベクトルは肛門から内腹部に向かって内向きになる。その力をそのまま膀胱に外向きのベクトルとして伝え,膀胱のみを緩めて小を排出するのだ。
この時,少しでも肛門の力を抜くと大が出てしまう。
かといって力を入れすぎるとベクトルの伝播が上手くゆかず,小が出ない。
かなりの高等テクニックだ。
僕は頭の中でイメージを描きつつ,便座を上げた。
いざ!!

ちょろ,ちょろっ…  よし,成功だ!!
ぶり,ぶりっ…  し,しまった。後ろがゆるんだ。

じょろじょろじょろ…
ぶりぶりぶり…
だ,だめだ,中断だ!!

しかし一旦何とか中断したものの,もはや防衛力は残っていなかった。僕は慌ててズボンとパンツを下ろし,便座を下げて腰を下ろした。無条件降伏を受け入れることとした。

はぁ〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

それは,一瞬のうちに終わった。
こうなった以上,最善の策を講じなければ。まだ,幸いトイレに入ってからそんなに時間は経っていない。今トイレから出れば,大を勘ぐられることは無いはず。よし,すぐに後始末をして…
しまった!水を流していない!!臭いが充満してしまう!!!
カチャ ジャーーーーー
僕は慌てて水を流した。しかし,きっともう手遅れだ。どれだけの臭いがドアの隙間からこのワンルームマンションに広がったのだろうか?キッチンはトイレのすぐ近くだ…
そうだ,排気ファンだ!それを回せば被害を最小限に食い止められる!!一瞬の光明が見えた。
スイッチはドアの外だ…… 光が潰えた。

グルグル… 第2波がやってきた。しかし食いとめる体力も気力も無かった。せいぜい出きる事は水を流すくらいだ。
カチャ チョロチョロ…
しまった,まだタンクに水が溜まっていない!
僕は股間からトイレの中を覗いた。ブツが無情にも少ない水の中で舞っているのが見えた。
ああ… 僕は頭を抱えた。

カチッ ブゥーン…
突然,トイレの排気ファンが回った。彼女が外でスイッチを入れたのだろう。。

終わった。全てが終わった。。。。

タンクに水が溜まるのを待って水を流し,僕はトイレを出た。洗面所で手を洗い,排気ファンはそのままにしてテーブルについた。台所の換気扇が回っているのは,彼女がカレーを温めるのにガスを使ったからだと信じたい。部屋には,カレーとメタン系ガスが混ざり合った不思議なガスがほんのりと漂っていたような気がした。

僕は席についた。彼女が作ってくれたカレーとサラダが置かれている。
「あの,何飲まれます…?」 そう尋ねた彼女の顔が,微笑みながらも少し引きつっていたような気がした。
「お水でいいです。」 伏せ目がちにそう答えた。
僕の目の前に並べられたカレーとサラダ,そしてお水。彼女の前にも同じもの。
「いただきます」 僕は伏せ目がちにそう言って,スプーンに手をやった。
「どうぞ。。」 少し,こわばりがちに彼女。

黙々と食べる僕。  話題を探さないと…
黙々と食べる彼女。  テーブルを見つめながら…
サラダを食べる僕。  胡麻の味がしない。
水を飲む彼女。  あまり食が進んでいないようだ。
二人の間に流れる沈黙が苦しい。
静かな空気に響く,台所とトイレの排気ファンの音。

気付けば,カレーとサラダは空っぽであった。僕も水に口をつけた。ポケットをまさぐりハンカチを取り出し,口を拭った。ハンカチが少し黄色くなったが,これは洗濯すれば大丈夫だろう。彼女も,少し残しているが,終わった様子である。
「ごちそうさまでした」 ポケットにハンカチをしまいながら,彼女の顔を何とか見ながら僕は言った。
「いえ,どういたしまして」 彼女も伏せた目を上げて,微笑みながら答えた。“もう良いんですか”とか,“もっと食べて行って下さい”とかはなかった。
僕は椅子から立ちあがり,玄関の方に歩いた。靴をはき,ドアを開けた。
「どうも,ありがとうございました。ごちそうさまでした」
「こちらこそ突然すみませんでした。あの,お大事に…」

僕は部屋を出て,階段の方に歩いた。3階から1階に降りて外に出て,鍵を交換するためにオフィスビルに向ってゆっくり歩き出した。夜風はさっきと同じように冷たかった。違うところは急いで歩く必要がなくなったことだけだ。

寒かったので,上着のポケットに手をつっこんだ。手に鍵が当った。その鍵を手でもてあそびながらふと空を見上げると,星が瞬いていた。そして僕の頬を,一筋の涙が流れ落ちた。

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