私は,海岸沿いの道を走るバスの揺れに身をまかせながら,ぼんやり窓の外を眺めていた。電車を降りてバスに乗ってから30分くらい経ったであろうか。その間に,バスに乗りこんだ頃に降り出した雪が少し多くなってきているようだった。横では四歳になる娘の涼子が,疲れたと見えて心地よい寝息を立てていた。乗客は他にはいない。
ニ日前 ―――
昨日 ―――
今日―――
気付くと,バスは右手に海を眺めながら,緩やかなカーブを曲がっていた。少し先に小さな石仏を奉ってある小さな祠が見え,そのすぐ横に目的のバス停があった。
「ママ,こんなの落ちてたよ」 涼子がさっき降りたバス停の方から走ってきた。
しばらくそうしていた後,私は交番の中を振り返った。
「ねぇ,おなか空いちゃったよぅ。早くお友達のところに行こうよ」 涼子が,私の手を引張った。
「ねぇ,ママ。でも,お泊まりするのに,お金あるの?」
「大丈夫よ,何とかなるわよ。。。」
もう少し行くと,私の目的地の停留所があるはずだった。バス停の名前は忘れてしまったが,そのすぐ横にニ体の小さな石仏があったことは覚えている。大学生の時に美術部に入っていた私は,休みの日を利用して何度かここにスケッチ旅行に訪れたことがあった。バス停の近くには小さな温泉街と美しい海岸を見渡せる断崖があり,昼間はスケッチを楽しんで,夜は一緒に来た友人たちと温泉に入ったりおいしい料理を食べたりしながら夜遅くまで談笑していた事が,つい最近の事のように思い出されてきた。
私が娘の涼子と一緒にお昼ご飯を食べていた時に,突然,玄関のチャイムが鳴った。
「どちら様ですか?」 古いアパートに住んでいた私は,おそらく回覧版か何かだと思いながら,インターホン越しに尋ねた。
「春山鉄鋼のものです。ご主人はご在宅ですか?」 初めて聞く男性の声がした。春山鉄鋼とは夫の勤める小さな町工場である。
(夫は,既に出社しているはずなのに…)
私は不審に思いながら「少々お待ち下さい」と言って玄関まで歩み寄り,ドアスコープから外を見た。ドアの外には二人の男性が立っていた。一人は確か社長の春山守で,もう一人は夫と同じ職場の望月さんだった。
「夫は,もう出勤しましたが…」 私はドアを少し開け,一抹の不安を覚えながら春山社長にそう答えた。
「そうですか… やはり… 実はですね,お宅のご主人が会社のお金を持ち逃げしましてな,八千万。西城奈津美という女子社員も今朝から行方不明でしてね,その社員と一緒に会社の金を持って,姿をくらましてしまったんですよ」
「え,そんな。本当に……」
「ええ,そうなんですよ。私も信じたくなかったのですが…」 望月さんがふせ目がちに答えた。
「いずれにしても奥さん,このお金はきちんと返してもらいますよ。すぐにお金を返してもらえれば穏便に済ませますので。では」
そう言い残して,社長と望月さんは帰っていった。
私は玄関口に座りこんでしまった。何がなんだかわからなかった。まさか… そんなことって… 頭が混乱し,涙が溢れてきた。娘は母親の涙の理由がわからなかったが,一生懸命ハンカチで拭ってくれた。そのことがさらに私の涙を誘った。
私は夫の会社を訪れ,事務所の中でもう一度社長と望月さんに話を聞いた。彼らが言うには,持ち逃げされた八千万は新しい機械を購入するための資金で,それを管理していたのが主人であったらしい。私は,何とか返すので待ってくれるように手をついて頼み込んだ。事務所の外では,他の社員が好奇と怒りの目で私を見ていた。
返すとは言ったものの,そんな当てなどなかった。両親を早くに失った私に兄弟などはいず,すっかり疎遠になっている親戚だけではそんなことは頼めない。主人の両親も病弱で,殆ど寝たきりの状態である。
町の中を当てもなく歩き回り,途中でぐずり出した娘を背負って,アパートに帰ってきた。
階下で立ち話をしていた何人かの人が,私の顔を見るやそそくさと自分たちの部屋に散っていったり,口元に冷笑を浮かべこちらを見ながらヒソヒソ話をしていた。白い目や冷たい視線が痛かった。アパートには同じ工場に勤める人がいるので,多分その人から噂が広まったのだろう。私はうつむいて小走りに階段を上り,部屋に辿りついた。
部屋に入ってしばらくぼーっとしていた。すると,今度は電話のベルが鳴った。
「はい,平岡ですが…」心細そうに私が答えた。
「もしもし,平岡さん?ご主人いますか?」荒っぽい男の声が聞こえてきた。
「いえ,いませんが…」
「奥さんやね。あのね,ご主人が借りた三千万円,いつになったら返してくれるんや?支払期日はとっくに過ぎとるで。利息だけでも早よう払ろてえや!」
「え… わ…私,知りません。そんな…」
「何ぬかしてんねん!ガタガタ言わんとはよ払えや!それとも何か,借りるだけ借りて返せへんのか?泥棒やないか!!返せへんかったらどないなるか,わかっとるんやろなあ!!」
そう言って,電話が荒っぽく切られた。
私は頭の中が真っ白になって,テーブルの椅子に座ったまま呆然としていた。何がなんだかわからなかった。涙がまた私の頬を濡らし,全身が虚脱感に包まれた。どうして良いのか分からないまま,時間だけが過ぎていった。
「泥棒!」,「金返せ!!」 突然窓の外で,拡声器を通した太い声が響いた。私は耳をふさいで床に座りこんだ。娘の涼子は何となく母親の異変がわかるのか,私の横で大きな声で泣き叫んだ。電話が鳴った。電話に出るのが恐くて,そのままにしておいた。鳴り続けるベル,拡声器,娘の泣き声,私の頭の中はおかしくなりそうだった。
やがて遠くで,誰かが通報したのであろうか,パトカーのサイレンが聞こえた。途端に拡声器は無くなり,気付くと電話のベルも鳴り止んでいた。娘は私の膝にうずくまりながら寝入っていた。私もそのまま,知らない間に眠っていた。
朝早く,玄関のチャイムで目が醒めた。恐る恐るドアスコープを覗くと,アパートの大家さんと数名の住人が立っていた。私はドアを,少しだけ開けた。
「おはようございます。あの,平岡さん,あれ何とかしてくれないかしら?」
「あんな人がしょっちゅう来るんじゃ,恐くて子供を外に出せないのよ」
「うちには年頃の娘がいてね。万が一の事があったらどうしてくれるんですか?」
口々に苦情を言う彼らに,私は泣きながら,「申し訳ありません。何とかしますから… 申し訳ありません。すみません…」というのが精一杯であった。
ドアを閉めようとした時,自分の部屋のドアや壁を見て愕然とした。
『泥棒』,『詐欺師』,『ボケ』,『嘘つき』,『借金返せ!』,『殺すぞ』…
乱雑な字で書いた張り紙が,いたる所に張ってあった。私は泣きながら張り紙を剥がし破った。大家さんたちは,憐れそうに私を見ていた。
剥がし終えて部屋に転がり込むように入った。まだ眠っていた涼子を,しばらくじっと見ていた。
(死のう…)
ゆっくりと簡単な身支度をし,目を覚ました涼子の手を引張って,殆ど荷物を持たないで家を飛び出して駅に向った。涼子には,ちょっと遠い友達のところに行くと言った。
目的地は考えてなかったが,その時ふと昔よく友人たちとスケッチ旅行に出かけたこの場所に,もう一度来てみたくなった。そこにある断崖から飛び降りればいいだろう。私はそう思いながら,電車を乗り継いでここまできたのだった。
私は停車ボタンを押した。涼子は起こさない方がいいだろう。何も知らずに眠っている間に,一緒にこの崖から飛び降りる方がいい。そう思って涼子を抱えあげようとした時にバスが揺れ,その拍子に涼子が目を覚ました。
「ママ,もう降りるの?」
「うん,ついたよ。さあ,降りましょう」
「ここで?」
「そうよ,ママのお友達の家が近くにあるの。そこにお邪魔するのよ」 私は作り笑顔でそう答えた。
バスが止まり,私達はバスから降りた。走り去って行くバスを見送ったあと,私は周囲を見渡した。あの頃と殆ど変わっていないようだった。目の前には広々とした海が広がり,道路の端に近づいて下を見ると高い断崖であった。薄手のコートが冷たい風になびいていた。
(ここから飛び降りるんだわ…)
恐怖心は無かった。やっと解放されるという思いの方が強かった。
この三日間が,妙に長く感じられた。その間に,生きることが本当に嫌になっていた。信じていた夫に裏切られた口惜しさや自分自身の惨めさのために,また涙が出てきた。私はハンドバックの中から,用意してきた遺書を取り出そうとした。
あわてて遺書をハンドバッグに戻し,涙をさり気なく拭きながら涼子を見た。手には財布を握っている。
「どこにあったの?」
「あそこのバス停の椅子の上にあったの」
見れば,バス停には形ばかりの雨よけ屋根と長椅子が一つあった。どうやらその上にあったらしい。
私は財布を見た。黒い,男性用の財布であった。中を見ると,千円札が数枚と小銭,それと小さなお守りが入っていた。
「わぁ,あたしも見る〜」
涼子はそう言って,財布を取ろうした。
「ダメよ。これを無くした人は困っているんだから,交番に届けましょう」
バス停から崖と反対の温泉街の方に歩いて行くと,確か交番があったはずだ。私は涼子の手を引いて,交番の方に歩いていった。
交番は簡単に見つかった。涼子を入口のところに待たせておいて,私は中に入っていった。交番の中には穏やかな目をした初老の警官と,白髪のこれも優しそうな老人が向かい合いに座って何か喋っていた。
「あの,すみません。これ,そこのバス停のベンチの上に忘れてあったのですが…」 私は,警官に向ってそう言った。
白髪の老人が「あ,それです。私の財布です」と,嬉しそうに言った。
警官は「よかったですね。見つかって」と言って財布を受け取り,中身を確認した。「はい,中身はあなたがおっしゃったように,お金とお守りが入っていますね」 警官は男性に財布を手渡した。
「そうか,さっきちょっと疲れてそこに座った時に落としでもしたのですかな。いや,本当にありがとうございました。実は,このお守りは無くなった家内の形見でしてね。これが無くなったと思ってがっかりしていたのですよ。お金は戻ってこなくても良いんですが,このお守りだけはどうしても… いや,こんな大事なものを忘れてしまうなんて,私もどうかしていました。本当にありがとうございました」
「いえ,どういたしまして…」
「私が若い頃,家内が病気で亡くなったんです。家内もその時,自分の命が長くないことを何となく悟っていたようで,その時このお守りを私にくれたんです。私だと思っていつも身に付けておいてくれとね。それ以来ずっと肌身離さず持ってました。これがあると家内がいつも一緒にいてくれているみたいでしてね,困った時や悲しい時に勇気付けられました。それなのに今日初めて忘れてしまいましたよ。ははは,家内には申し訳が立ちませんな。でもあなたのような良い方に拾って頂いて助かりました。わたしにとってはどれだけお金を出しても買えない,大事なものというわけです」
「そんな大事なもの,忘れたらいけませんなぁ。無くなってしまったら,取り返しつきませんよ… 忘れちゃいかんですよ,本当に……」 今度は,今まで笑みを浮かべながら私達のやり取りを眺めていた初老の警官が,優しい表情で私の背後を見ながら言った。
私は弾かれたように背後を見た。交番の入り口にしゃがみこんで,膝を抱えながら無邪気に小さな石を積み上げて遊んでいる涼子の姿が目に入った。
「涼子……」
私は,不意に何かが込み上げてきたような感じがした。涼子のところに走り寄り,しゃがみこんでその小さな体を抱きしめた。
「痛いよぅ,ママ…」
それでも私は力を緩めなかった。涼子の温もりを感じているうちに,涙が出てきた。
忘れていた……
こんなことに気付かなかった自分が情けなかった。
涙が止まらない。体中の水がなくなってしまうくらいに,涙がどんどん出てきた。でも,今までの涙とは違う涙であった。
交番の中では,一人の若い警官が机に座って書類に何かを書き込んでいた。
(あら,さっきの二人はどこに行ったのかしら?)
私は涙を拭いて,涼子の手を引き交番に入った。
「あの…」
「はい,どうなさいましたか?」
「さっきここにいらっしゃったご年配の警官と,財布を忘れたとおっしゃっていたご老人はどこにいらっしゃいますか?」
「はぁ…?この交番にはそんな警官はいませんよ。それに財布を落とした老人なんて来ていませんが…」 若い警官はそう言って,訝しげに私を見つめた。
(それじゃ,さっきのは一体何?)
その時,警官の前の電話が鳴った。警官は受話器を取り上げ,何か喋りだした。机の引き出しを開け書類か何かを探している隙に,私は涼子の手を引いて交番を後にした。
電車の駅に戻ろうと,バス停に向って歩いて行った。石仏の前を通りかかった時,ふと石仏に目をやった。その顔が,なんとなくさっきの初老の警官と老人に似ているような気がした。
「あ,ごめんね。あのね,ママ,お友達のところに行くご用事なくなったのよ。その代わりに,この近くに温泉があるのよ。大きなお風呂よ。そこに入って,何かご飯食べて,お泊まりしよっか?」
「うん,するする。やった〜!!」
私と涼子は手を繋いで,ますます強くなった雪の中を,小さな温泉街の方に歩いて行った。その町並みは,昔と一緒であった。
違うのは,一緒に歩いているのが,友人の代わりに小さな我侭な宝物になったことだった。