加藤俊夫は,捨てようとした古い雑誌のページをもう一度パラパラと捲った時,その広告に気付いた。
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「人生の会」に入会しませんか?
あなたの人生をすばらしく変えてみます。希望が次々に叶います。
辛いことを一切排除して,あなたの人生を薔薇色に変えて見せます。
当会に入会して,効率的な人生を送りましょう。
綴じ込みのはがきに必要事項を明記して,そのままポストに投函して下さい。
無料サンプルと入会申込書お送りさせて頂きます。
正式なご入会手続きは,サンプルをご検討頂いてからで結構です。
(有)人生社
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この手の広告は,俊夫の読む雑誌にはよく掲載されている。金運や仕事運,異性運を高める財布やペンダント,ブレスレット等の広告が体験談とともに載っているのはよく見かけるし,この雑誌にも御多分に洩れず掲載してある。
しかし俊夫は,その広告には見覚えが無かった。この雑誌を買って読んだ時にもそれは見かけなかったような気がする。もっとも俊夫は,そんなものはインチキだと思っているので,特にきちんと読んでいるわけではない。体験談等も書かれていない小さい広告なのできっと気付かなかったのだと思い,その雑誌を捨てようとした。
しかしゴミ箱に捨てようとした手が,不意に止まった。どう言うわけか,その広告が気になったのだ。
別に彼が今の生活に不満足かと言えばそうではない。2年前に大学を卒業して東洋物産に入社して以来,順調に仕事を覚えてきているし最近は少し楽しくなりつつもある。ここ一番で自信の無くなる性格のためかまだ決まった恋人こそいないが,女性の友達は多くそういった意味での不満も無い。ただ,なぜか気になったのである。
俊夫はもう一度,広告を読みなおした。
(一体,何を送ってくるのだ?ペンダントや財布の類のものか?それにサンプルって何だろう?)
俊夫はますます興味を引かれた。
(試しにはがきを送ってみるか。どうせタダだし,サンプルとやらだけもらって入会届けを出さなければいいんだ)
俊夫は綴じ込みはがきを切り取り,名前,住所,年令等の必要事項を記入欄に書き込んだ。そして雑誌をゴミ箱に捨て,角の自動販売機にタバコを買いに行くついでに,その横にあるポストにはがきを投函した。
3日後,俊夫が会社から自宅のアパートに帰ると,集合ポストに夕刊やダイレクトメールに混じって,白い封筒が入っていた。差し出し人は(有)人生社となっていた。俊夫はそれを手にり,足早に自室に向った。
ソファーに座って封を切ると,中には案内状と“お金”と書かれた,縦4センチ,横10センチくらいの金色の紙が入っていた。俊夫は,案内文に目を落とした。
加藤俊夫様
先日は,幣社に「人生の会」入会の案内状請求をいただき,誠にありがとうございました。
さっそく無料サンプルと入会申込書をお送りさせて頂きます。
サンプルの使用方法は,その紙をライター等で燃やすだけで結構です。しばらく致しますと効果が発現致します。ご満足頂けましたら,同封の申し込み用紙に記入を頂き,郵送かファクシミリにて弊社宛てにお送り下さい。
なお料金ですが,入会金のみ1,000万円を頂戴致します。少々高くお感じになられる事と存じますが,貴殿のこれからの有意義な人生から見れば些細な金額であると存じます。
また,万が一サンプルによる効果の発現が無かったり不十分である等によりご満足頂けない場合は,申し込み用紙等はそのまま破棄して頂いて結構です。貴殿からの申し込みのご連絡が無い限りは,弊社から一切の連絡は致しません。
ご検討のほど,よろしくお願い致します。
(有)人生社
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俊夫は,読み終わっていささかばからしくなった。それに1,000万円って一体どういうことだ!?
(インチキ臭いな…)
俊夫はそう思って,たばこに火をつけた。
(待てよ。サンプルだけでも使ってやれ。どうせタダなんだし)
そして,一度封筒にしまった“お金”と書かれた金色の紙をもう一度取り出し,灰皿の中に入れてライターで火をつけた。火は瞬時にして紙を覆いつくし,やがて灰にした。俊夫はその光景を見終わるとたばこを灰皿に押し付けて火消した。
ゆっくりソファーから立ちあがり,シャワーを浴びた。昨日の残りのカレーで夕食を済ませた後ベッドにもぐりこみ,テレビを見ながらそのまま深い眠りついた。
次の朝,俊夫はいつもより早く目をさました。つけっぱなしにしていたテレビの音で起こされたのだ。いつもは遅刻との戦いで慌ただしい朝を過ごすのであるが,今朝はテレビの音が幸いしてか時間にゆとりがある。テレビを見ながらトーストとコーヒーの朝食を摂り,久しぶりにゆっくりと朝の時を過ごす事にした。朝刊に目を通す。経済欄と三面記事,スポーツ欄を軽く読み流してテレビ欄を見ようとした時,ふと新聞の片隅に,ロト6の当選番号が載っているのを見つけた。そう言えば,先週友人にそそのかされて,一口だけ買ったことを思い出した。確か,財布の中に入れたはずだ。俊夫は財布をあさり,中からそのクジを取り出した。
新聞には,02,05,19,20,26,36,そしてボーナス数字が08と記載されている。
そして俊夫は,自分の買った番号を見た。
02,05,19,20,26,36…
その瞬間,俊夫の体は凍りついた。
「ま,まさか…!?」
もう一度,見なおした。02,05,19,20,26,36……
何度見ても,新聞にも自分の持っているクジにも同じ6つの番号が書かれている。当選金額は,8500万円。みるみる俊夫の顔がほころんだ。
「これは,ひょっとしたら。いや,そんなわけ…」
俊夫は,昨日燃やした金色の紙を思い出した。本来そう言った事を信じない俊夫であったが,偶然にしてはあまりにも出来すぎていると思った。そして一度は捨てた入会案内をもう一度ゴミ箱から拾い上げ,机においてしばらく考え込んだ。
その時テレビでアナウンサーが,時刻が7時半になった事を告げた。家を出なければ。我に返った俊夫はあわててテレビを消し,当りクジと入会申込書が入った封筒を持って,家を飛び出した。
会社では,全く仕事が手につかなかった。クジが当ったのは嬉しいが,それと金色の紙と何か関係があるのだろうか?いや,偶然に決まっている。紙を燃やす前にクジを買っていたし,当選番号も決まっていたはずだ。でも… いくら考えても同じことを繰り返し思うだけで,納得のいく結論に達することは出来なかった。そのうち,自分でも気付かないまま,金色の紙を燃やしたことでクジに当ったと考えるようになってきて,入会しようという気持ちが出てきていた。
確かに胡散臭いところもあるが,既に8500万円あるから,1,000万円払っても充分すぎるほど残る。騙されたと思って入会してみよう。いざとなれば解約もできるだろう。俊夫は自分にそう言い聞かせて,会社から指定されたファックス番号に申し込み用紙を送信した。
そして数日後,また俊夫はポストの中に,この前より少し大き目の白い封筒を発見した。封筒を取り出し,足早に自分の部屋に向って行った。そして少し震える手で,その封を切った。
加藤俊夫様
この度は,弊社の「人生の会」にご入会頂き,誠にありがとうございます。
さっそく,貴殿のこれからの人生にふさわしい札の綴りをお送りさせて頂きます。
この綴りは初めは無地ですが,時折一番上の紙に字が浮き出て参ります。そうしましたらその紙を切り取り,先日差し上げましたサンプルの札と同様の方法でご使用頂ければ結構でございます。その度に貴殿の人生を良い方向にお導き致します。どうぞ,効率的なすばらしい人生をご堪能下さい。
なお料金につきましては,同封の振りこみ用紙にてお支払下さい。今後,それ以上の請求は一切いたしません。
(有)人生社
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挨拶状とともに,一冊の金色の紙の綴りと振りこみ用紙が入ってあった。
「札というのは,この紙のことだな」
俊夫はそう呟くと,封筒から金色の紙の綴りを取り出し,ぺらぺらとめくって見た。確かに何も書かれていない。俊夫はその綴りを机の引き出しにしまうと,シャワーを浴びにるため浴室に行った。シャワーを終えて,帰る途中で買ってきた弁当で夕食を済ませ,テレビを見た。
テレビを見終わりベッドに向う前に,机の引き出しを開けて綴りを見た。すると一番上の金色の紙に,
『女』
という文字が浮かび上がっているのを見つけた。
俊夫は少しびっくりしたが,そのページをはさみで切り取り,それを灰皿の上で燃やしてみることにした。
まだ半信半疑ではあるが,何が起るのか不安と興味が心の中を支配しつつあるのも事実であった。火が消えたことを確認して,部屋の明かりを消した。すこし興奮して寝つきが少々悪かったが,30分ほど経つと睡魔がやってきて,そのまま深い眠りについた。
次の日の夕方,俊夫は会社からの帰りに駅前の銀行で1,000万円を振りこみ,そのまま電車に乗った。座席に腰を下ろし本を読もうとした時に,一人の女性が近づいてきて隣に腰を下ろした。
「加藤君ですか?」 不意に後ろから,一人の女性が声をかけた。
「ええ…」 俊夫は,その女性の記憶がなかった。
「あの,お忘れでしょうか?小学校で同級だった,深江奈美です。」
「ああ,深江さん!」
俊夫は思い出した。小学校の3,4年生の時にクラスが一緒だった子だ。あのころはそんなに印象のある子ではなかったが,今はその頃の面影を少し残しながらも,一人の大人の女性に成熟している。二人は共に偶然の再会を喜び,車内で色々と話を弾ませた。
それ以来,二人は急速に親密になった。体の関係もできた。これまでも俊夫は何度か複数の女性と関係を持ったが,奈美ほど相性の良い女性はいなかった。俊夫はその虜になってしまっていた。
一方,会社での俊夫の業績はうなぎ上りであった。奈美と付き合うようになって仕事にも力が入るようになり,大口の契約や難しい取引を次々成功させてきた。上司も突然の変貌ぶりにびっくりしていた。
やがてその功績が認められ,課長補佐になった。このマンモス会社では異例のスピード出世であった。俊夫は,自分に対しても自信がついてきているのが分かった。
そんな日が1年くらい続いた。その間に,二人が半同棲の生活を送るようになっていた。ある日,奈美が風呂に入っていたとき,俊夫は例の綴りに,『結婚』の文字が浮かび上がっているのを見た。その存在を忘れかけていたくらい,久しぶりに目にする文字であった。俊夫は,その紙を灰皿で燃やした。
次の日,俊夫が会社の廊下を歩いていると後ろから彼に声をかけた男性がいた。振り向くと,東洋物産の次期社長と見られている,石山高志専務であった。
「君,加藤君だね。いや,日頃から君の活躍ぶりには感服している。一度,一緒に飯でも食わんか。どうだろう,明後日の祝日に私の家に来てくれないか」
俊夫は,あまりの突然の誘いにびっくりした。そしてこれが昨日燃やしたお札のおかげであることを直感した。確か石山には,紀子という美しい一人娘がいる。お嬢様大学で有名なS短期大学を卒業した後,今は家で花嫁修行中であることを聞いた事がある。石山が比較的年をとってからできた娘らしく,その溺愛ぶりは社内でも有名である。そしてひょっとしたらその娘が出世のためのエスカレーターになってくれるのでは!?
「はい,喜んで伺わせていただきます」
最近,富みに出世欲が湧いてきていた俊夫は,二つ返事で答えた。
「では,明後日の6時くらいに来てくれたまえ」
満足そうにそう言って立ち去る石山の後姿に最敬礼を送りつつ,俊夫はいよいよチャンスが到来してきたことを悟った。俊夫とて,一生今の奈美との生活を送りつづけるつもりは無かった。それに奈美には,最近少々飽きが来ている。これを機に手を切って,新たな一歩を踏み出すのだ。
2日後,石山の家には6時少し前に到着した。
出迎えた石山は,「おお,待っていたぞ。さあさあ,入りたまえ。紀子も今か今かと待っているんだ」と言いながら俊夫をリビングに招き入れた。リビングのテーブルには,豪勢なディナーが並んでいる。石山に勧められてテーブルについた時,キッチンの方から上流家庭の気品に満ちた妻の昌枝と,うわさに違わぬ華麗な紀子がその影に隠れるようにして入ってきた。
初めは緊張していたが,アルコールが適度に回るにつれて打ち解けてきて,四人で食事や談笑を楽しんだ。最後の方は完全にリラックスして,時折大きな笑い声も発するほどであった。そして和やかな雰囲気のまま,食事は最後のデザートのケーキで幕を下ろすこととなった。
「今日はどうもありがとうございました。大変楽しかったです」
玄関で俊夫は3人に向ってそう言った。お世辞ではなく,本当に楽しかったと彼は思った。
「いえ,こちらこそ本当にありがとうございました。大したおもてなしもできませんでしたが,これに懲りずまた来て下さいね」
「お気をつけて」
昌枝と紀子が声をかけた横で石山は,その光景を満足そうに見守っていたが,俊夫が玄関を出て駅に向って歩き始めた時俊夫に小走りで近づいてきて,小声で話しかけた。
「今日は本当にありがとう。いや,実はね,この前紀子が会社に来てね。私の忘れ物を持って来てくれたんだが,その時に君を見かけたと言うのだよ。それでえらく気に入ってしまってね。どうだろう。少し付き合って見てもらえんだろうか?いや,もちろん君が今,誰か付き合っている人がいれば,今言った事は忘れて欲しいのだが…どうかな?誰かいるのかな?」
その時,俊夫の頭には,今おそらく一人で寂しく食事をしているであろう奈美の事が浮かんだが,それをかき消し「いえ,そんな人はいませんが…」と石山に言った。
石山は嬉しそうな表情で,「そうかね。どうだろう,紀子を一度ドライブにでも連れていってくれんか?」
「しかし,私なんてとても…」 俊夫は心の中でほくそえみながらも,一応の謙遜の姿勢を見せた。
「いやそんな事は無い。君は非常に優秀だし,むしろ今まで甘やかしてきてしまった紀子に色々教えてやって欲しいのだよ」
「そうですか… わかりました。私なんかで良ければ…」
「そうか,ありがとう。紀子にもそう伝えておこう。紀子の事は,くれぐれもよろしく頼む」
少し気の早い石山の言葉に送られ,俊夫は駅に向った。駅に着きエスカレーターに乗って改札口に向った時,そのエスカレーターに乗る自分の姿をこれからの会社での自分の姿にオーバーラップさせながら,俊夫はニヤリと笑った。
家に帰ると,部屋に上がりこんでいた奈美が「遅かったわね」と言いながら俊夫を出迎えた。
「ああ」 俊夫は,少し不機嫌そうに言った。
「実はね…あの…私,赤ちゃん出来たの。昨日お医者さんに見せたら,もう3ヶ月なんですって。」
俊夫は,頭を石で殴られたような錯覚に陥った。こんなことならば,もう少し早く手を切っておくべきだったと,今更ながら後悔した。
「ねえ,いつまでもこんな生活してるんじゃなくって,きちんと結婚しましょうよ。赤ちゃんのためにも,ね」
「わかった。そうしよう」 作った喜びの笑顔で驚きを隠し,俊夫はそう答えた。
何とか説得して子供を始末させて,別れなければならない。俊夫はシャワーを浴びに風呂場に行った。シャワーを浴びながら説得の方法を考えた。
(しかしこの様子じゃあ,納得しそうに無いな)
(そうだ! お札だ!何か書いてあるかもしれない!)
彼はお札の綴りを思い出すと急いでシャワーを済ませ,まだきちんと拭き切れていない体をバスローブに包み,自分の部屋に行った。引き出しを開け,奥の方から札の綴りを取り出した。
『精算』
一番上の紙にはそう書かれていた。俊夫はそのページを破り,灰皿の中でそっと燃やした。
(これで奈美は,俺の事が嫌いになるのか… あるいはもっといい男を見つけるのか…)
次の日の夜遅く,俊夫はタクシーで出張先から自宅に向っていた。タクシーの中ではニュースが流れていた。
『次のニュースです。今日の夕方,○○線の△△駅で,若い女性が特急列車にはねられて死亡しました。目撃者の話によると,この女性はホームに立っていた時に,ホーム内で走り回っていた4,5人の小学生がぶつかりその勢いで線路内に落ちたところを,特急列車に跳ねられたらしいということです。現在警察ではこの女性の身元の確認を急ぐと共に,現場から逃げた小学生の行方を探しています。はねられた女性は30歳前後と見られ,水玉模様のワンピースとエルメスのショルダーバッグを所持していたと言う事です。なおこの影響で○○線のダイヤは大きく乱れ……』
奈美だ!!
奈美がお気に入りにしていたワンピースとバッグだ。しかも駅は奈美がいつも使う駅ではないか!!俊夫は血の気が引くのが分かった。まさかこんな形で… 言いようも無い不安と恐怖に体が震えた。気分が悪くなってきた。
(これで障害が無くなったではないか。しかも手を全く汚さずに…)
やがて最初の恐怖が過ぎ去ると俊夫はほくそえんだ。目の前に人生のレールがはっきりと見えたような気がした。
俊夫はそれから1年間の紀子との交際後,1月のとある日に都内の高級ホテルで晴れて結婚式を挙げた。俊夫は,ふと奈美の事を思い出した。遺体の損傷がひどすぎたのか,結局身元不明のままだったようだ。新聞も知らぬ間に取り上げないようになった。完璧な精算であった。
結婚した俊夫は,それまで以上に仕事に力を入れた。もともと頭は切れる方でり,実力もそれなりに備わっている。それに加えて義父の後押し,そしていざとなればお札があるという安心感も手伝って全てが良い方向に転んだ。やがてハネムーンベビーである男の子も生まれた。芳人と名づけられたその子は順調に成長し,自他共に認める幸福な家庭がそこにあった。俊夫はまさに順風満帆の人生を歩んだ。
また彼は,仕事上のここ一番のところでは,何度かお札の世話になった。
ある日,イタリアの新規ブランド『ルイス』が日本参入を計画する事なり,その流通に関して,日本商事,帝国商会それと東洋物産いずれかの一社と独占契約を結ぶと言う話が舞い込んできたことがあった。そのブランドは近年若い女性の間で人気が急上昇しているブランドであり,絶対にこの契約をとれという社長の命令が下った。
俊夫は日本の取引方法やそれにまつわる商法,流通方式,関税などあらゆることについて詳細にレポートを纏め,流通によるコミッションも,絶妙な数値を設定して,ルイスに対する自社の売り込みの作戦を立てた。
そしてルイスとの交渉に発つ前夜,引き出しからそっと札を取り出した。『ルイス』の文字が浮かび上がっていた。俊夫はいつものようにそれを灰皿で燃やした。
一週間後,ルイスから東洋物産に,一切の流通を東洋物産を通じて行う旨の回答書が送られてきた。
またある日,日本ではなじみの無いドイツワイン,『ラントアーデル』に俊夫は目をつけたことがあった。最近のワインブームに乗じて,東洋物産としても新たな商取引を行うべきであると主張したのである。そして自らドイツに乗りこみ,独占的な販売ルートの確保に成功した。
帰国後,彼はいつもの如く机の奥から,札を取り出した。『ラントアーデル』の文字が書かれていた。俊夫はそれを灰皿で燃やした。
数日後,日本でラントアーデルの発売が開始された。まろやかな舌触りと後に残らない爽やかさが受けて,一大ブームを巻き起こした。全国の百貨店や酒屋,更にはコンビニエンスストアに至るまでその販売窓口は広げられたがどこも売り切れ続出で,闇では30倍もの価格で取引されているという噂すら立った。マスコミもこぞってこのブームを取り上げ,その影響もあってどの店も入荷待ちの状態であった。
そうやって日を重ねるうちに,俊夫は40歳になった。彼の行く手を阻むものは無かった。その年に彼は東京丸の内支社長になった。これも異例の出世スピードであるが,彼の業績からすれば当然の結果であった。
またその合間に,仕事以外の目的でも沢山お札を使用した。
女,金,家族の健康,芳人の学業… 沢山の欲望や願いをお札によって達成してきた。公私ともども,大変有意義な人生であった。そしてそのおかげで,以前とは違って自分自身に大きな自信を持てるようにもなっていた。
そんなある日,俊夫は寝る前に書斎の机に引き出しの中に入れてある札を見た。
『出世』
札にはそう書いてある。そういえば明日は重役会議がある。そこで何かあるのだろうか。彼は内心で小躍りし,そして燃やすべくその紙をちぎった。
その下に,次の紙は無かった…
それが最後の一枚だった…
これまで常にこの札に支えられてきた。それがとうとう無くなったのである。
一瞬,大きな不安がのしかかってきた。
(これがなくなってしまたら,これからどうやって生きていけば…)
(後は俺の実力勝負か…)
俊夫は不安な気持ちを抑えて,最後の札に火をつけた。そしてそれが燃え尽きるのを見届けると,ゆっくり寝室に向った。
次の日の午後,会社の中は重役会議後に発表された新人事に,大きなざわめきが起っていた。
前社長が退いたあと社長についた石山高志から,加藤俊夫を常務付きに昇格させることが発表された。常務付きとは近い将来確実に役員入りすることが約束されたことを意味し,前代未聞の若手の抜擢であった。
もちろん義父でもある石山の力添えもあったであろうが,これまでの彼の業績からすれば,誰もその事で異を唱えることは出来なかった。俊夫の周りに人が集まり,みんなが祝福の言葉をかけた。しかも,羨ましいとおもう人はいたが,誰一人として妬んではいなかった。それだけ彼の業績が輝かしいということの証明でもあった。
その夜,俊夫は早めに帰宅をした。大昇進のニュースは紀子の耳にも達しており,家ではご馳走を作って彼の帰りを待っていたからである。小学生になる息子も交えて,久しぶりに家族水入らずで夕食をした。息子は学校で自慢するんだとはしゃいでいる。妻の紀子も近所の人に鼻が高いと大いに喜んでくれた。そんな光景を見ながら,俊夫はこれからの責任感の重大さを感じつつも,新たな気持ちが湧き上がってくるのを感じた。
深夜,彼は寝室に入る前に,書斎の机に向っていた。たばこに火をつけ,引き出しをそっと開けた。
昨日まではここに札があった。しかし今はもうない。あるのは使い終わった日めくりカレンダーのような,綴りの残骸だけである。
もう札を見る事は無いであろう。
以前は,確かに自分は何をするにも勇気が少し足りなかった。
そしていつも札に頼る自分がいた。
しかしこれからは違う。
もちろん札によって,その時々に成功した事は多々ある。
しかし,確かにその時はこの札の力を借りたかもしれないが,それだけではなかったはずだ。
実力が無ければ,ここまでこんなに早く昇ってこられる訳が無い。
だからこそ今の自分があるのだ。
そうだ,これは実力なのだ。
やればできると言う事を,札は教えてくれたんだ。
きっとそうだ。
おかげで十分に自信をつけることが出来た。
もう大丈夫だ。
後は自分一人で出来る。
ありがとう……
その残骸を見つめながら,俊夫は満ち足りた気持ちでそう思った。そしてもう必要無くなった綴りの残骸をゴミ箱に捨て,たばこの火を灰皿に押し付けて消した。
寝室に入ろうとした時,階下のリビングで電話が鳴った。
(なんだろう,こんな夜中に?)
俊夫は不思議に思って,階段を降りていった。そして降りていく途中で,電話の音がファクシミリの受信音に切り替った。俊夫は打ち出された紙を手に取り,リビングの電気をつけて,ソファーに座り読み始めた。
加藤俊夫様
平素は格別のお引き立てを賜り,厚く御礼申し上げます。
弊社からご購入頂きました札は,いかがでございましたでしょうか?
さて,『人が生きる』というものは,悲しいかな山あり谷ありでございます。折角の山を迎えたと思ったら次は谷に転がり落ちて次にくる山を待つ,あるいは必死になって登る,これの繰り返しでございます。そこで弊社では,人生の山の部分のみを連続して過せるるように,微力ながらではありましたが貴殿に協力させて頂いて参りました。有意義な人生を,効率の良く歩まれてきたと存じます。
ところでその人生の山と谷の数は,その人によって決まっているのが実情です。そして貴殿の人生における山の部分はこれで全て終りました。従いまして,残念ながら残すところは谷の部分ばかりでございます。
しかしながら,これから貴殿がこの谷の部分のみを歩まれるというのは,いささか不本意ではないかと存じます。折角ここまで密度の高い人生を歩まれてきたのですから,これから谷の部分のみをひた歩き,密度を下げてしまっては他の方の人生と全く変わらない人生になってしまいます。
そこで弊社では次の商品と致しまして,貴殿の人生をここで終焉させるサービスを用意しました。これにより貴殿の人生は非常に中身の濃いすばらしい人生として後世に残す事が可能でございます。
料金につきましては通常は500万円となってございますが,ただいま会員様向けのキャンペーン中でございまして,無料サービスとさせて頂きます。
本日,夜1時に貴殿宅に弊社社員がお伺い致しますので,よろしくお願い申し上げます。
なお,サービスに伴う痛み等に付きましては,それを最小限に留められるように研修,訓練を受けた弊社の特別社員により執り行わせてい頂きますので,一切の心配はご無用です。
(有)人生社
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俊夫は,読んでいるうちに手が震えてきた。
ボーン…
突然,壁に掛けた振り子時計が一時を告げた。
ふと背後に人の気配を感じた。
俊夫が振り向こうとした時,ナイフのようなものが左胸を背後から貫いた。
わずか,一瞬の出来事だった。
全身が冷たくなって行くような気がした。
痛みは殆ど無かった。
俊夫はソファーの下に倒れこんだ。
意識が遠のいて行く…
これまでの出来事が次々に思い出されてきた。
深江奈美との再会,石山紀子との結婚,イタリアブランドの開拓,常務付きへの昇進……
薄れ行く意識の中を,楽しかった思い出だけが走馬灯のように駆け巡っていた。