心中が成立する条件
――佇む女の独り言――
岩場の岬の先端に,その女は立っていた。
冬の夕風が,コートをなびかせながらその隙間から体を撫でるチャンスをうかがっている。
足元を見下ろすと,吸い込まれるように切り立った高い断崖の下で白い波が砕けていた。やがて小さな泡になり元の海の水に返る時,その上に次の新しい白い波がまた砕けた。
その女は,その波を見つめながら,ひとり佇んでいた。
(一体どこに隠れてしまったの…?)
(もう,四日も経ったじゃないの…)
(どうして…)
女は,流れる涙を拭こうともせず,しばらくそこに立ちつくしていた。
(あなた,どこに行ってしまったの?)
(どうして私と一緒に来てくれなかったの…?)
(いつも傍にいたかったのに…)
(一人じゃ,寒いのよ…)
(あなたの両手で,強く抱きしめられたい)
(その胸に,もう一度顔を埋めたい…)
(あなたの温もりで,この凍った体を溶かして欲しい…)
(私の前に現れて… お願い…)
(昨日も現われてくれなかった…)
(一昨日も,その前も…)
(明日はどうなの?)
(その次の日は?)
(いつになったら…?)
(冷たいわ…)
突然吹いた強い風が,女のコートを容赦無くめくり上げた。
女は左手でコートの衿を強く閉じ,右手をポケットに突っ込んでもと来た道を帰り始めた。
――橋本刑事の報告――
須藤警部補,今朝,海岸沿いで発見された遺体の身元が判明しました。
東京都豊島区に住む主婦,芝本京子,三十四歳です。正確な死亡推定時刻は不明ですが,おおよそ四日程度,経っているものと推定されます。
また,左手首に巻きつけられていた千切れたロープですが,その断面が,四日前の朝にやはりこの崖で発見された夫の芝本祐介,三十七歳の右手首に巻かれていたロープと同一のものであることが分かりました。その断面も一致した事から,おそらく崖から飛び込んで心中したものの,途中でロープが切れてしまったものと思われます。その後,おそらく潮流の関係で芝本京子の遺体だけが一旦沖に流されて,発見が遅れたと考えられます。遺書等は見当りませんでしたが,この状況から見て覚悟の心中ではないかと推定されます。
現在,心中の線を中心に裏付け捜査を行っています。
――須藤警部補の告白――
私は,橋本刑事の報告を聞いてほっと胸をなでおろした。
遺体が見つかった事に対する安堵である。
あれは二年くらい前だった。私はその時,初めて京子と知り合った。
京子は,妻の真理子が通っていた手芸サークルの仲間だった。二人はお互いに気が合い,よく帰りに喫茶店に寄っては色々な話をしていた。真理子は京子よりも五歳年上だったが,どちらにも子供がいないこともあってか二人とも実際の年令よりかなり若く見られたこともあり,二人は年令差を全く感じずに同い年の友達感覚で付き合っていた。
私が非番のある日,真理子が芝本夫妻を自宅に招いてホームパイティーを開いた。その時私は,京子とその夫である芝本祐介に初めて出会ったのだ。その日以来家族ぐるみの付き合いが始まったのだが,同時に私と京子の間柄も深い関係に陥った。初めのうちは抵抗感や罪悪感があったがそれも刺激の一つになり,そして最近では過激なプレーを楽しむまでに二人の関係はエスカレートしてきていた。時にはロープやロウソクといった道具を使い,お互いの配偶者には無い,未知なる部分を開拓する事に悦びを感じていた。
五日前のことだ。その日の夜,私と京子はとあるホテルの一室にいた。その日も存分に過激な痴態を演じ,その後の余韻に浸っていた時,突然京子が祐介と別れて私と一緒になりたいなどと言い出した。もはや夫の祐介には全く関心がなく,私のことしか見えていないらしかった。
私は,家庭を壊すつもりはなかったので適当にあしらおうとしたが,お腹の中に自分の赤ちゃんがいるなどと言い,挙句の果てには,そうしなければ家内や職場,マスコミにこの事実を暴露するとまで言い出した。最近,やたらと警察の不祥事が問題になっているので,そんなことをされれば格好のマスコミの餌食になるであろうし,間違いなく職場も追出されるであろう。
私は,とりあえずその場はなんとか京子をなだめ,彼女を車に乗せホテルを後にした。ホテル街を車を走らせていると,どうしようかなどと考えながら車を運転していた事が私の注意力を鈍らせたのか,あるいはたまたま雨であったこことも重なってか,あるホテルの一角から飛び出してきた人物に気付くのが遅れた。私は慌ててブレーキをかけたが間に合わず,次の瞬間鈍い音が車内に響いた。
私は車を止めて慌てて外に飛び,出し倒れた男を覗き込んだ時に更にショックを受けた。そこには京子の夫,芝本祐介が頭から血を流しながら倒れていた。彼は顔をしかめて何かうめいていたが,私の頭の中では自分の立場とこの状況が複雑に交錯し,混乱したままどうしたらいいのかがわからなかった。
その時,知らない間に傍らに立っていた京子が,「いっそのこと始末しましょうよ。その方が私達のためよ…」と,薄笑いを浮かべながらそう囁いた。私は無言で頷いて祐介を車のトランクに放り込み,京子の言うがままにその岬まで運んできたのだ。ここから下に落として,飛び降り自殺に見せかけようと言うのである。
岬につき,私は苦しそうにもがいていた祐介の体を抱え出した。私の背後からは,京子が覗きこんでいた。その時,私の頭の中でふとある事がひらめいた。
京子の隙を狙って,私は振り向きざまに彼女のみぞおちを力いっぱい殴った。彼女は小さなうめき声と共に地面に倒れた。そして私は先ほどプレーに使ったロープを取り出し,二人の手をロープで繋いで崖から落としたのである。
二人を投げ込んだ時点ではどちらも死亡していなかったので,解剖されて彼らの肺からは海水が検出される。うまくいけば心中で片付けられるであろうと思ったのだ。それに車のトランクに祐介を乗せる時には,血痕や毛髪が残らないように京子の着ていたコートを注意深く敷き,それも京子に着せて一緒に海に放りこんだので遺留品は無いはずだった。幸いモーテルからその岬に来るまで誰にも見られなかったはずである。私達の関係も,当然誰にも秘匿していたので,私は完全犯罪の自信があった。
今の橋本刑事の報告にもあったように,どうやら心中の方向に向っている。
遺体が無事出てきて私がほっとしたというのは,このような訳である。
私は橋本刑事に“ご苦労だった”と言って,タバコを深く吸った。
――須藤真理子の遺書――
あなた,先立つ不幸をお許し下さい。
実は私は,あなたに秘密で芝本祐介さんとお付き合いしていました。お互い家庭を持つ身でしたから,家庭を壊さないようにすることを約束した上で,大人のお付き合いをしていたのです。
先日,その祐介さんが亡くなりました。
でも私は知っていました。あの日,祐介さんが亡くなった日,あなたが車で祐介さんをはねるのを見てしまいました。私はその時,モーテルの出口で彼の姿が消えるのを見送っていたのです。助手席に乗っていたのは,京子さんでしたね。
そしてこの前奥さんの遺体も見つかって,岬から海に身を投げて心中したとテレビで報道されていました。その報道を見た時,それがあなたの仕組んだ事だと直感しました。
私は,祐介さんから,常々あなたと別れて自分と一緒になってくれないかということを真剣に言われていました。私も心の中では,祐介さんに傾いていました。でも,現実はなかなか難しかった。私はどうしていいのかわからず,ずっと悩んでいました。
その矢先,祐介さんはあなたに抹消されてたのです。これも私に対する天罰だと思って耐えようと思いました。私さえ黙っていれば,誰にも何も知られることはなかったでしょう。
でも最近,夢に見るのです。祐介さんが,私と離れ離れになって寂しいと…
私に傍にいて欲しいと…
そして,やはり私は祐介さんのいない世界は耐えられないことに気付きました。
あなたには申し訳ありませんが,私も彼のもとに参ります。あの岬で,彼と一緒になることにします。
もちろん,あなたのなさった事は誰にも申しません。他の人がこの事を知ることはありませんので,ご安心下さい。
このお手紙をあなたがご覧になる頃は,きっと私は岬で祐介さんと一緒になっているでしょう。
あなた,ごめんなさい。
さようなら。
真理子
――崖に立つ男の驚愕――
男は,その日,夕方のまだ日が明るいうちに家に帰った。大きな事件もなく,久しぶりに早く家に辿りついた。
家の玄関に近づいた時,彼は窓の明りが全く点いていないことを不信に思った。自分で鍵を開けて家に入り,ドアの内側の郵便受けに妻からの手紙を発見したとき,不吉な予感がした。
妻の遺書であった。
男は読み終わると,その場に座りこんだ。しばらくその場で,抜け殻のように座りこんでいた。
やがて男は立ちあがり,もう一度家を出た。
車に乗り,途中の花屋で妻が好きだった白いユリを買い岬に向った。
岬についた時には,辺りは暗くなっていた。先端から崖の下を覗くと,月明かりの中で白い波が生まれては砕け,そしてその波音が彼の耳に悲しげに響いた。
どうしてここに来たくなったのかは,自分でもよく分からなかった。ただ,何かに導かれるようにここにきたのである。
男は,自分のしてきたことを悔やんだ。
一体,自分は誰のために何をしていたのであろうか。その答えが見つからないまま,しばらくそこに佇んでいた。
男はユリを崖の下の波に投げ込んだ。ユリは揺れながらだんだんと小さくなり,やがて波の間に消えた。
不意に,男は背後に人の気配を感じた。
男は驚いて振り返った。
男は,そこに青白い顔をした,全身がずぶぬれの妻の姿を見つけた。
男は驚愕のあまり,その場にしゃがみこんだ。
妻は,小さな声で彼に囁いた。
(あなた,やっぱり来てくれたのね。あの人もやっぱり寂しいって言ってるわよ。はい,これあなたのよ…)
そう言って妻が差し出したのは,短い千切れたロープであった。
差し出した左手首には,千切れたロープが結んであった。
(早くこれをつけて,行ってあげて…)
(お願い… 早く……)
――佇む女の喜び――
(あなた,やっと来てくれたのね…)
(待ったわよ…)
(嬉しいわ…)
(もう,あなたを離さないから…)
(これからはずっと一緒ね…)
――橋本刑事の疑問――
今朝,例の崖の近くの海岸で発見された須藤警部補とその奥さんである真理子さんの遺体ですが,先日ありました心中事件と同じような状況です。
実は,その時に使われていたロープと今回用いられたものは全く同じものであることが判明したのですが,それが大変不思議なのです。つまり今回の心中でもこのロープは真ん中で千切れていたのですが,今回の須藤警部補と前回の芝本祐介のロープの切断面,および真理子夫人と芝本京子のロープの切断面が,それぞれ全く同じなのです。ですから,切断面だけから見れば須藤警部補と芝本京子,芝本祐介と真理子夫人という組み合わせもありうるのです。
もちろん投身した時が全く違いますので偶然と思うのですが,それにしてはあまりにもきれいに断面が一致するので一応この捜査会議で報告させて頂きました。これによって事件性を帯びるというではわけありませんが,今後の捜査の何かの参考になると思いまして…
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