美食のアルバイト

 

 俺がとある街角でその二人連れの男に声を掛けられたのは,ビルの谷間を吹き抜ける風に少しだけ春の優しさが感じられ出した,3月中旬のある日だった。

 街には,下宿先を求める新大学生らしき人達が,アパートやマンションの賃貸業者に集まっていた。洋服店で真新しいスーツを買い求める若者達は,新入社員達だろうか。デパートから老夫婦に手を引かれながら出てきた小さな女の子が持っている紙袋は,その大きさからしておそらく新しいランドセルに違いない。彼らは,それぞれの立場に違いがあるにせよ,新しい世界に飛びこんで行くことへの希望に満ちた表情をしていることでは一致していた。
 俺が数年前,古びた故郷に嫌気がさし,親の反対を押し切って単身この都会に飛び出してきた時も,やはりそんな表情をしていたのであろうか。故郷に錦を飾ってやるというのはやや仰々しいが,ここに来れば何でも手に入ると思っていたあの頃は,確かに未知への希望を抱いていた。しかし現実は違った。何の才能もない,誰のコネクションも無い俺を受け入れてくれるところはどこも無かった。それでも,最初は色々な仕事を転々としながらチャンスを伺っていた。時には妖しげなアルバイトに手を出したこともあったが,結局は都会に溶け込めなかった。
 そして,その日も特に行く当てもないままボロアパートを抜け出した。この都心の路傍に腰を下ろし,ぼーっとパンをかじりながら道行く人を眺めていた時に,その男達に声を掛けられたのだった。

 「失礼ですが,少しだけお時間よろしいでしょうか?」
 そう言って男の一人が差し出した名刺には,『未来食品(株)企画室長 村中浩二』と書かれていた。
 俺は初めて見るその社名に首をかしげた。
 「私どもは,これからの食糧難時代に向けて新しい食の開拓を目指す会社でございまして,実は我々の食品開発へのご協力を社外の方にも求めているのです。」
 もう一人の男がそう言いながら,『未来食品(株)食品開発部長 関谷学』と書かれていた名刺を差し出した。
 「はぁ…」
 俺は,パンの最後の一切れを口に放りこんだ。
 「もしよろしければ,私どもの会社で,アルバイトをお願いできないかと思いまして。もちろん,アルバイト代は十分にご用意させて頂きます。」
 関谷学が,俺の目を覗き込みながら尋ねた。
 正直言って何やら怪しげな雰囲気を感じなかったわけではないが,今のままの生活では今日の飯にも困りかねなかったことと,最近割の良いアルバイトを探すのも困難になってきていたこと,そして何よりも最近自虐的になってきていたことも手伝って,「どういう仕事ですか?」とアルバイトを引き受ける気になった。
 「簡単なデータ採取です。私どもが提供する食事を毎日とっていただき,その感想を聞かせていただいたり,定期的に血液検査や尿検査をするだけで結構なんです」
 関谷が答えた。
 「もちろん,最近問題になっているようなクローンの類や狂牛肉をご提供するわけではありません。我々の厳しい管理の元で作られた食事を提供させて頂きますので,そう言った事は全くご心配に及びません。どうですか?お手伝い願えませんか?」
 もう一人の村中が,俺の心中を察するように言った。
 「良いですよ,別に…」
 俺は,やや投げやりに引きうける旨を伝えた。

 もう少し詳細な説明と簡単な手続きをするからと,俺は彼らの会社に連れて行かれた。彼らの車で30分くらい走ったところにある,2階建ての白い建物であった。前には,『未来食品(株)』の看板が掲げられている。
 車を降りた俺は,彼らについて玄関をくぐった。玄関の内部はロビーになっていた。人の影はなく,正面には『関係者以外立入禁止』と掲示されたガラス戸と,その向こうに奥の方に続く廊下が目に入った。廊下を挟んで,左右にいくつかの部屋があるようだった。右手には螺旋状の階段があり,そこにも『関係者以外立入禁止』の立て札が置かれてある。
 「こちらへどうぞ」
 彼らは,俺を左手にある応接室に導いた。
 間もなくして,若い女性が熱いコーヒーを運んできた。勧められるままにコーヒーを口にしながら,彼らの説明を聞いた。
 「もし,どうしてもお嫌でしたら,このままお引取り頂いても結構ですが…」と前置きして,彼らはこのアルバイトの内容を説明した。
 まず,アルバイト期間は一年間である。仕事の内容は,会社が用意するマンションに住み,与えられる三食をきっちり食べ,定期的に血液検査や尿検査,その他の検査を受けるというものであった。但しこの業務は会社の商品開発のトップシークレットに直結するため,友人はもちろん親兄弟にもこの仕事の内容を喋ってはいけないとのことであった。
 アルバイト料は一日三万円という金額が提示された。更にマンションの家賃や光熱費,加えて身の回りの必要なものは下着から娯楽品までの一切を,会社が負担するとのことであった。
 俺は,耳を疑った。要は,食って寝て遊んでいれば,衣食住が完全に保証された上に毎日三万円もらえ,それが丸々浮くわけである。最後の「お引き受け願えますか?」という男の問いかけに,俺は二つ返事で承諾した。
 男たちは,食事以外は何をしていても自由だが,水とお茶以外は,絶対に出されたものだけをとる事,どうしても外出等で部屋でそれができない場合は,事前に申し出て弁当を用意させることをくどいほど確認して,契約書を俺に差し出した。そこには今しがた説明された事と,俺が約束を破った場合はそれまで支払われたアルバイト料の三倍の違約金を払わないといけない事,逆に会社が契約事項を履行しなかった場合はアルバイトの中止とアルバイト料一年分の五倍の金額を支払う事が書かれていた。
 俺は最後の欄に署名をして,拇印を押して男たちに返した。
 「では,さっそく今日からマンションの方に移動していただきます」
 そう言って,男たちは俺に鍵と地図を渡し,そこに移動するように命じた。
 「タクシーを呼びますので,それをご利用下さい。それと今のお住まいの荷物は,明日に新しいお部屋にお届け致します。引越しに関する手続きも当方ですべて行わせていただけますので,ご心配なき様にお願い致します」

 タクシーで,俺はマンションにやってきた。タクシー代は,もちろん会社が負担してくれた。
 部屋は四階の,見晴らしと日当たりが良い場所だった。六畳くらいの部屋が二つと,十五畳はあるかと思えるリビング,広い台所ときれいなバス,トイレが揃った,俺一人で住むには少々広すぎるような部屋であった。冷暖房も完備されており,重厚な高級絨毯の上にはテーブル,ソファー,ベッド,テレビ,ビデオ,オーディオなどの家財類もすべて揃っていた。
 俺はベッドに体を投げ出し,大きく伸びをした。
 (これから一年間,ここで暮らすのか…)
 そう思ってテレビのスイッチを入れようとした時に,玄関のチャイムが鳴った。壁に掛けてある受話器を取り上げると,「未来食品の者です。夕食をお届けに来ました」という声が聞こえた。
 「あ,はい。ちょっと待って下さい」
 そう言って部屋のドアを開けると,ワゴンを押した女性が立っていた。
 「今晩の食事です。お済みになりましたら,食器等をワゴンに乗せてそのまま部屋の外に出しておいて下さい。では失礼します」
 そう言って一礼すると,彼女はエレベーターホールに向って歩いて行った。
 俺はワゴンを玄関の中に入れ,その中を確認した。シチューやステーキ,サラダ等が入っていて,美味そうな匂いが鼻腔をついた。ビールやワインもあった。俺はそれらをテーブルに運び適当に並べて,まずステーキに少し口をつけてみた。さすがに少し気味悪かったが,そのとてつもない美味さにそんな不安はかき消されてしまった。
 今まで高級料理とはほど遠い生活をしていた俺は,またたく間に平らげてしまった。久しぶりの満腹感に満足しながら,言われたとおりに食器をワゴンに乗せてドアの外に出しておき,ソファーに寝転がってテレビをつけた。本当にこんなので良いのだろうか?少々疑問が頭の片隅に残っていたが,契約書にもそう書いてある以上余計な事は詮索しないでおくことにした。

 その日以来,俺は贅沢極まりない生活を送るようになった。
 食事は全く心配要らない。しかも豪勢な食事ばかりである。いくら豪華であっても同じものばかり食べていると飽きるものであるらしいが,出されるメニューは和洋中華に始まって,珍しい異国料理や,時には高級レストランのシェフらしきコック自らが目の前で料理を作る事もあり,飽きる事がないどころか,むしろ食べながら次のメニューを楽しみする毎日であった。友達や恋人でもいれば,たまにはその人達と外食を楽しみたくなるであろうが,幸いにも俺にはこの地にそういった人はおらず,この食生活に全く不満はなかった。
 ただ,さすがに美味しい食事を食べるばかりでは体が鈍ってしまう。少し太ってきたような気もした。その旨を会社に相談したところ,すぐに近くの高級スポーツクラブの会員権を購入してくれた。そこには様々な運動器具が設置してあり,インストラクターの丁寧な指導の元で,気持ち良い汗を流す事ができた。
 さらに部屋でも退屈しないようにと,様々なビデオやCDを次々と与えてくれた。一度,俺が高校生の頃に気に入っていたアメリカの超人気ボーカリスト,トニー・スミスのCDを頼んだ事があった。たまたま来日公演のニュースをテレビで見てその歌を聴きたくなったのであるが,その全CDとともにライブチケットが手渡された。しかも入手が非常に困難だと思われるアリーナ席の一番良いところで,俺は飛びあがらんばかりに喜んだ。当日は,「入場前にお召し上がり下さい」を手渡された豪華な弁当を持って出かけ,久しぶりのライブを堪能した。
 またある夜,俺がベッドに入ろうとした時に部屋のチャイムが鳴った。ドアスコープから覗くと,若くて美しい女が立っていた。ドアを開けるとその女は玄関口に入ってきて,「いつもお一人では退屈でしょう。今晩お供しますわ…」と妖艶な瞳で俺を見つめながらそう言った。靴を脱いで部屋に上り,唖然としている俺の手を優しく引きながら,ベッドサイドまで俺を連れて行った。そして俺をベッドに座らせると自分もその横に腰を下ろし俺の首に両手を掛けゆっくりとベッドに引き倒した……

 そんな生活を送っているうちに,アルバイト期間の一年はあっという間に過ぎ,今日一日を残す事になった。
 その間に,定期的な血液検査や尿検査,その他の簡単な身体検査をしてきた。それがどんな役に立つのかは分からないが,本当にこんな事でお金をもらっても良いのであろうかという,いささか申し訳ない気持ちで一杯だった。銀行の通帳には,毎日きっちり三万円ずつの振り込みが記載されていた。
 その日の夜,いつものように夕食を届けるチャイムが鳴った。これが最後のチャイムか…
 俺がドアを開けると,いつもの食事を運ぶ女性の他に,村中と関谷が立っていた。
 「どうも一年間ご苦労さまでした。お陰様で大変貴重なものを得る事ができました。心から感謝致します。本日で最後ですが,もうお仕事のことは忘れて,どうぞごゆっくりお食事をご堪能下さい。本日は,特別メニューをご用意しました」
 そういうと,いつもより大き目のワゴンを玄関口に運び,三人はエレベーターホールの方に消えて行った。ワゴンの中には,和洋折衷の豪華な料理が入っていた。酒もふんだんにあった。俺はテーブルにそれらを運び,最後の豪華な夕食を楽しむ事にした。
 明日からは,どうやって過そうか… とりあえずアルバイト料はたんまりとある。これで,しばらくぶらぶらするのも良いかもしれない。あるいは,一度田舎に帰ってみようか… 思えば俺が飛び出して以来,一度も帰ってなければ連絡さえとっていなかった。
 そんなことを考えながら,俺は豪華な料理を一口ずつ堪能した。
 一口ずつ味わいながら…
 ゆっくりと味を楽しみながら…
 一口ずつ,ゆっくりと……
 ゆっくり……


 ふと俺は,周囲のざわめきに気付いた。
 知らない間に眠っていた。
 目を開けると,薄暗い部屋の中の天井が目に入った。

 ここはどこだ…?

 頭を持ち上げようとしたが,頭が痛くていうことを聞いてくれなかった。
 俺は,体を起こそうとした。
 しかし今度は手足の自由がきかなかった。

 紐で縛られてる!?

 両足を縛られ,手も後手に縛られていた。

 どういうことだ?

 俺は,ゆっくり首を回して周囲を見た。
 どうやら,俺は大きな台の上に置かれているようだ。
 その台の周りに,何人かの人が座っている。薄暗い上に,みんな目のところに仮面をつけているので何者かはわからないが,その人達は何やら楽しそうに談笑している。
 白髪の男性,太った恰幅の良い中年らしき男,和服の老女,立派な口ひげをたくわえた老人,高級そうな黒い洋服をまとった女…
 一見,上流階級の雰囲気を醸し出している人達が,俺の回りを取り囲んでいた。

 不意に,明るい光が,俺の足元の方から差しこんできた。どうやらそちら側にあったドアが開けられたようだ。
 「皆様,大変お待たせを致しました」
 聞き覚えのある声が,俺の足元の方から聞こえた。関谷学の声だ。
 「この日のために,一年かけて良質の肉に仕上げました。ストレスを限りなくゼロにして育成してございます。世界各国の一流料理で栄養をたっぷりと与え,それに加えて身を引き締めるために適度な運動をさせて育てましたにで,適度に脂がのった最高の美味がご賞味頂けると思います。」
 部屋中に,「ほぉ〜」という溜息とも感嘆ともとれる声がこだました。

 俺が!?
 俺が,食われるのか!?

 「今はまだ睡眠薬が効いて眠っているようですが,目覚めて薬が抜け次第,わが美食倶楽部のシェフにより料理させて頂きます。」
 今度は,村中浩二の声がした。
 「それまで,食前酒をお飲みになってお待ち下さい」
 関谷がそう言った後,グラスに何かを注ぐ音が俺の耳に届いた。

 何だと!

 「やはり,ミソが一番美味いらしいですな…」 老人の声が暗い部屋に響いた。
 「ワタクシは,ちょっとそれは苦手ですかねぇ。もも肉あたりがよろしゅうございますわ,おほほほ…」 女が高らかに笑うのが聞こえた。
 「しかし,ツウは精巣が美味いと言いいますな… 精力もつくらしいですよ」 俺の頭のほうから,中年の男の声がした。
 「やだぁ,パパったら。もう,いやらしいんだから… いやよぉ,もお〜」
 「はははは…」 「おほほほほ…」
 俺の頭の方から聞こえた若い女の声に,一同が笑い声を発した。

 じょ,冗談じゃない!!

 俺は,みんなに気取られないように,ゆっくりと手に力を入れて紐を解こうとした。
 だが紐は思ったより固く縛られており,容易には解けそうもない。それでも俺は何とか解こうと,手に力を入れてもがいた。

 「あ,起きた!!」 仮面をつけた老人が叫んだ。

 まずい!!

 俺は,足と手を縛られたまま,体を回転させて台から転がり落ちた。俺が台と思っていたのは大きな紫檀のテーブルで,俺の周りに並べてあったと思われるメロンやパイナップル等の果物が,一緒に床に転がり落ちた。
 「こいつ,静かにしろ!!」
 そう言って,仮面をつけた村中が俺に襲いかかってきた。
 俺は,突進してくる村中の胸を,縛られた両足で思いきり蹴り返した。
 「ぐぁっ」という悲鳴と共に村中は後ろに飛んでいき,そこにいた関谷にぶつかり二人とも後に倒れた。
 倒れた拍子に,二人の仮面が外れた。
 部屋の中に,きゃーっという悲鳴が響いた。さっきの若い女が叫んだのだ。
 俺は,相手が怯んだ隙に,懸命に手の紐を解こうとした。
 「このやろう!!」
 起き上がった関谷が,長い肉切り包丁を手にして俺に襲いかかってきた。
 俺は体を回転させ,その攻撃をかわした。
 勢い余った関谷は,そのままテーブルの角で頭をぶつけて床に崩れ落ちた。
 「おとなしくしろ!!」
 もう一度,村中が襲いかかってきた。
 その時,手の紐が解けた。
 俺は右手で,村中の顔面を力いっぱい殴った。
 村中はそのまま,床に崩れ落ちた。
 彼らがうずくまっている隙に,今度は足のロープを解きにかかった。
 「こら,観念しろ」
 そう言って,客の一人と思われる一人の男が俺にのしかかった時に,足の紐が解けた。
 俺は全身に力を込めて,その男を力いっぱい蹴り返し,はねのけた。
 男は後ろによろめき,もう一度肉切り包丁をかまえて俺に向ってきていた関谷とぶつかった。
 「あうっ…」
 その男は,胸を抑えながら床に倒れた。
 関谷の持っていた包丁が,その男の胸に突き刺さっていた。
 そこから,真っ赤な血が床に広がった。
 「キャーーーー」,「うわー」
 部屋中に男女の悲鳴が響き渡った。
 逃げまどう客を押しのけるようにして,村中がもう一度襲いかかってきた。
 俺は,テーブルにあったナイフを手に取り,村中めがけて投げつけた。
 「ぐぶっ…」
 ナイフが村中の喉に突き刺さった。
 村中は床に倒れ込み,全身を痙攣させた。

 俺は懸命にドアの方に走った。
 行く手に立っていた老女を,力いっぱい殴った。
 「ぎゃ」という低い悲鳴と共に,老女は吹き飛ばされた。
 俺はドアから廊下に出た。
 背後では,「待て!」という関谷の声が聞こえた。
 俺は廊下の端に辿りついた。ガラス扉を押し開けると,そこはロビーであった。
 ここは,確か最初に連れてこられた,未来食品の建物であった。
 「待て」という声が,小さくなりながらももう一度聞こえた。
 俺はそのまま正面にある玄関から外に出た。

 外では,星が空一面に瞬いていた。
 その星空のもと,俺は懸命に走って逃げた。
 背後の声は,聞こえなくなっていた。
 俺はその白い二階建ての建物を背に,懸命に走った。
 後を振り向かずに,ひたすら走った。

 どの位走ったであろうか,俺の前に交番が見えてきた。
 俺は交番に飛び込んだ。
 交番にいた三人の警官は,俺の様子に驚いた表情をした
 「どうされましたか?」 その中の最も年配の警官が聞いた。
 「こ,こ,殺される… 助けてくれ…」
 「落ちついて下さい。どこですか?」
 「未来食品です…」
 「未来食品?」
 「この先の… 白い建物です…」
 「…分かりました。案内していただけますか。おい,君は本署に連絡して応援をよこしてもらってくれ」
 その警官は,本署への連絡に一人残し,もう一人の警官にパトカーのハンドルを握らせて,俺と共に現場に急行した。

 しばらく走ると,見覚えのある光景が見えてきた。
 「確かこの辺… あ,あれだ!!」
 俺は,パトカーの後部座席から,白い二階建てのビルを指差した。
 しかし近づいて見ると,そこにあるのは古びた廃ビルであった。看板もない。
 「この中に犯人が潜んでいるんですか?」 不思議そうに,助手席に座ったその年配の警官が尋ねた。
 「建物はこれですが,こんな廃墟じゃあなかったんですが…」 俺は不思議そうにそういった。
 「このビルは数年前からこの状態ですよ。」
 「でも『未来食品』の看板も出てたし,社員らしき人も…」
 「あなた,夢でも見たのではないのですか?」  その警官が,笑いながらそう言った。
 「そんなこと…」  俺はその警官の方を見た。
 「夢ですよ,きっと」  そう言って,その警官は俺の方を振り返った。
 助手席には,警察官の制服を着てニヤリと笑った村中がいた。
 運転席の警官も,笑いながら俺を振り返った。関谷が俺の方を見て笑っていた。

 俺は,パトカーを飛び降り,その場から走り出した。
 全力で,走った。
 後ろを振り返らず,俺は体中の力を振り絞って,その場から逃げた。

 遠くでパトカーのサイレンが聞こえた。
 空は,いつのまにかうっすらと白んできていた。  朝もやに響くパトカーの音が,次第に大きくなったような気がした。
 俺は細い小道に逃げ込んだ。
 「待て」という声が,背後から聞こえたような気がした。

 俺は最後の力を振り絞って全力で逃げた。
 細い小道から,大通りに出た。
 大通りを横切った。

 突然,右手の方からトラックが,派手なクラクションを鳴らし,急ブレーキの悲鳴と共に俺に突進してきた。
 次の瞬間,俺は大きな衝撃と共に地面に叩きつけられた。
 “ぐしゃ”という音と共に,俺は虫ほどの息をする一個の肉片に還元された。

 アスファルトの地面が,ぼんやり目に映る。
 パトカーがすぐ横で停まった。
 パトカーから降りてきた警官らしき人達の足が,視野に入った。
 俺は彼らの顔を確かめようとしたが,体に力が入らずそちらを向く事ができなかった。
 俺の周囲に,人だかりができつつあるのがわかった。

   そのとき,俺の視野の中に,道路脇の排水溝から一匹のネズミが顔を出すのが映った。
 そのネズミは,長く伸びた俺の腕に鼻を近づけ,様子をうかがっていた。
 (きっと美味いぞ…)
 俺はネズミにそう呟いて,深い眠りに落ちていった。

 

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