帝国製薬,静岡工場内にある新薬開発部第三研究所では,昼休みが終わって所員たちがそれぞれの業務を再開した。実験用マウスのデータ整理や顧客との打合せ資料の作成,忙しそうな午後の就業時間の始まりであった。
「佐久間君!! 何だ,これは?」
最新型のNMR分析機から採取したデータを解析していた佐久間静江は,部屋の壁際にある所長席から発せられた,不機嫌そうな川添忠雄所長の怒鳴り声に顔を上げた。
「はい?」
静江は所長席の前まで歩み寄り,机の上に置かれたレポート用紙を覗きこんだ。昨日彼女が提出した,現在進行中の新薬開発プロジェクトの中間報告書であった。現在,社ではこれまでにない新しいタイプの肝炎治療薬の開発が進められており,彼女はそのための新アミノ酸中間体の合成を任されていた。
「ダメだ,こんな報告は!!大体,スケジュールが遅すぎる。これでは東洋薬品に先を越されてしまうぞ!それに,誤字が多すぎる。何年仕事をやっているんだ!大体だな,君はいつも…」
川添は,ここぞとばかり怒りを爆発させた。もともと彼は,これまで何度注意しても失敗ばかりする静江をあまり好きではなく,事ある毎に彼女を眼の仇にしていた。
しかもその殆どが,所員が部屋に多いときを狙ってのものである。今回も部屋には多数の所員がおり,彼らは“またはじまった”と陰でささやきながらも,みんなはこの対岸の火事を楽しんでいた。
「明日のプロジェクト報告会までに,もうちょっとマシなものを纏めろ!!」
静江は,川添の机の前で直立不動でその怒鳴り声を聞いていた。顔を真っ赤にして,体を小刻みに震わせながらうつむいて立っているその光景は,上司から怒鳴られる部下の典型的な絵図であり,静江はその怒りに懸命に耐えているように見えた。
静江は,約8年前に南京大学薬学部の博士課程を卒業して同社に入社した時から,今の部署で仕事を続けている。大学を主席で卒業したほど頭脳明晰だった彼女は小学生時代から成績優秀であったが,なぜか色々なことで叱られつづけてきた。
小学校の時,夏休みの宿題を半分以上忘れて先生に怒られた。中学生の時は,部活によく遅刻して行き,そのたびに先輩に怒られた。高校の時は,化学の実験のときに自分の興味から勝手な薬品を混ぜて先生にこっぴどく叱られた。大学に入ってからは,アルバイトの時間に遅刻をしたり忘れたりして,アルバイト先のコンビニエンスストアの店長に叱られ,あわや解雇寸前まで行った。その他にも数え切れないくらい,他の人よりははるかに多くの時間を人から怒られて続けながら,これまで生きてきた。
そのうち静江は,怒られる事に奇妙な気持ちを覚えるようになった。彼女が怒られるのは,大抵がみんなの前で一人だけ呼ばれて大勢の好奇の目に晒されながら叱られるのであるが,いつの頃からかそれが快感に思えるようになってきたのである。他人の視線を感じつつ叱られたり罵声を浴びせられる時,言い様も知れぬ心地よさに全身が小刻みに震えてしまうようになってきた。
叱られているその姿は,他人の目には耐えているように見えるかも知れないが,実は心の中では恍惚の表情を浮かべていたのである。そしてその性格は会社に入ってもなお続き,むしろ強くなりながら今日に至っていた。
静江は川添に怒鳴られて,また例の快感が全身を包んでいることを知った。
(周囲の人達は,みんな私の後姿を見ていに違いない。どんな顔をして私を眺めているんだろうか… 私は,みんなの前にさらし者にされているんだわ…)
静江の耳に入ってくる川添の言葉の意味はもはや理解できなかったが,怒鳴られていると言う事と,背後に感じられるの多数の好奇の視線に,体が熱く感じられた。
「早く仕事に戻れ!」
川添忠雄がそう言って席を立ち,部屋を出て行った。
静江が我に帰って自席に戻ると,他の所員が口々に「大丈夫?」,「気にするなよ」と慰めの言葉を掛けてくれたが,その表情の中に面白いものを見たような笑みが含まれていた。
「ええ…」
静江はうつむいたまま静かに答えたまま,体の震えが止まるまでしばらくぼーっとしていた。
しばらくして,静江は第三合成実験室に行った。午前中に合成を開始した化合物が,そろそろできあがった頃であった。加温用オーブンから取り出したビーカーの中には,薄い黄色の液体があった。静江はそこから自分が合成した中間体を手馴れた手つきで抽出し,それの分析を行った。これまで何度も行っている手順であるので,目を瞑っていてもできる。そして出てきた分析結果も,これまで何度も確認した通りの結果であった。
「何度やっても,これができるんだわ」
静江は,その結果をこれまで何度も確認している。彼女が,従来になかった新しい合成経路を確立して得られたこの化合物こそが,今のプロジェクトで求められている新アミノ酸中間体であり,これによりライバル会社に圧倒的な差をつける新薬の開発に結びつくのである。
「これを報告したらみんな喜ぶんだろうけど…」
そう言って静江は分析データを細かく破り,合成した化合物と一緒にゴミ箱に捨てた。
翌日,第三研究所内の大会議室で新薬開発プロジェクト中間報告会が開催された。社長以下の重役クラスや,この新薬開発に携わる各部署のトップクラスの人を交えての報告会であった。
各部署の人が次々に報告を終え,静江の番が回ってきた。静江は,会議室の一番前に設けられたプロジェクター用スクリーンの前に進んだ。そして,昨日,川添に怒鳴られた報告書を,更に纏まりの無いものにした資料を元に説明した。あえて誤字も増やし,蚊の鳴くような声でボソボソと説明した。
「何を言ってるのか聞こえないよ」
どこからかそのような注意が飛んできた。それでも静江はその声を無視して,ボソボソ話しつづけた。
「ちょっと,待ち給え!」
社長の寺村が,そう言って話を遮った。
「このスケジュールでは,全然間に合わないんじゃないのかね。他の人達はスケジュール通りに進めているが,君はいつまでかかってこの中間体を作る気なのかね!!」
「もう,この研究を始めてから大分経つのではないのかね。全然進んでいないじゃないか!!」
次に,そう大声を上げたのは,この中間体の合成が遅々として進まない事に以前から不満を持っていた,塩田常務であった。
「川添君,どうするつもりなのかね!?」
「あ,いや… その… つまり…」
突然名前を挙げられた上司の川添は,しどろもどろであった。
一方,静江は至上の快感に浸っていた。特に今日は,会社のトップクラスをはじめとするメンバーの前で最上階層じきじきに責め立てられ,今まで味わった事がない苦悶の時間を楽しんでいた。会議室を包む静寂が,その快感を更に高めた。
実は,この中間体の合成経路はとっくに完成していたが,この快感を得るために敢えて虚偽の報告を行い,そして今日の特別のお叱りを,全身を細かく震わせながら味わっていたのである。ただ,それを悟られまいと下を向いて叱責に耐える振りをしていたが,葬式の場面で笑いを我慢すると一層笑いが込み上げてくるように,その快感はもはや立っていられないくらいのピークにまで増幅されようとしていた。
「もういい!!次の話題に移ってくれ!!」
塩田専務がそう怒鳴ったのをきっかけに静江はふと我に帰り,うつむきながら自分の席に戻った。
翌日,静江が研究所に出勤すると,所内の様子がいつもと違っていた。みんな沈んだ様子で,小声で話をしていたり,自席でぼんやり座っていた。
「おはよう… ね,みんなどうしたの?」
静江は自分の机の上にかばんを置きながら,隣の席の白田優子に尋ねた。
「あのね,川添所長が亡くなったのよ。今朝,車で会社に来る途中にダンンプカーと衝突したのよ。三丁目の交差点で。ダンプカーが信号無視して突っ込んできたんだって…」
「えっ… 本当に……」
「らしいわよ… 即死ですって…」
「そうなの…」
静江は,全身から力が抜けるような気がした。昨日まで自分に対して怒鳴り散らしていた人があっけなく死んでしまった。そう聞かされても,頭ではなかなか理解できなかった。
その日一日,静江は気が抜けたようにして過した。何かをしようとする気にもなれなかった。もちろん他の人と同様,昨日までそこにいた同じ職場の人が急に亡くなったことに対するショックはあるが,それ以上に自分を叱責してくれる人がいなくなってしまったことで,張り合いが無くなってしまったのである。
やがて,後任として第二研究所の深川敏二所長が,第三研究所長を兼任する旨が発表された。深川はその挨拶の中で,この新薬プロジェクトを必ず成功させ,亡くなった川添所長の墓前に報告しようと,所員達に力強く就任の挨拶をした。
この深川所長は川添と正反対の性格で人を叱ったりはせず,良く言えばいわゆる優しい上司で有名であった。部下の失敗に対してもその人を萎縮させないために決して怒鳴ったりはせず,適切な指導を通して能力を最大限に発揮させるようとした。
しかし,静江にはこれが物足りなかった。川添なら間違いなく大声で怒鳴るような事をしても,決して叱責することは無かった。故意にミスをした事もあったが,結局は温和な目で指導を受けるだけであった。
(つまらない上司だわ…)
(どうやったら怒ってくれるのかしら…)
静江は,そんなことを考えながら毎日を過していた。
ある日静江は,中間体の合成方法の改良を試みていた。最初に作った方法よりも,さらに収率をあげる合成方法を考案し,遅くまで残って実験を行っていた。その結果,新しい白金系の触媒を使うことで,今までは80%足らずだった中間体の収率を,ほぼ100%にする合成経路を発見したのである。
NMR分析機の前で分析データを眺めながら,彼女は自分の研究が完成したことを知った。もちろんこれまでに,怒鳴られるために隠していた内容でも画期的な発明であったが,ここにそれが完全なものになったのである。
(あのつまらない上司相手に隠しても仕方が無いし,そろそろ報告しようか?)
(でも次の報告会ではまだ隠しておいて,もう一度そこでみんなを怒らせてからにしようか…)
そんなことを考えながら,静江は手にした中間体の入ったビーカーを見つめていた。
「遅くまでご苦労さんだね」
不意に,背後で声がした。驚いた静江が後ろを振り向くと,いつの間にかそこには深川所長が立っていた。
「どうやら成功したみたいだね,例の中間体…」
静江が手にしたデータを覗きこみながら,深川はそう言った。彼は静江のノートや解析データを手に取り,それにあらためてもう一度目を通した。
「なるほど,見事な着眼点だね。これなら良い新薬ができるな」
「あ…,は,はい… あの… 明日,深川所長にご報告させていただこうと思っていました… 」
心の中で考えていたことを読まれた気がして,彼女は少し慌て気味にそう説明した。
「今度の報告会までには,きちんとデータが纏まると思いますので,その時には正式に皆さんにご報告できると思います…」
「いや,その必要は無い…」
深川の口から,思いがけない言葉が発せられた。
「え?どういう事ですか?」
「だから,その必要は無いって言ったんだよ」
深川は,静江のノートやデータかが顔を上げ,それらを机の上に置きながらそういった。口元には,うっすらと笑いが浮かんでいた。
「でも…」
「これは,私が報告させてもらうよ。東洋薬品にね…」
そう言うと,深川はその大きな両手で静江の首をいきなり締め上げた。
「あ… な,何をするん……」
静江は体をばたつかせながら,椅子から転げ落ちた。それでも深川の手は彼女の首にしっかりと食い込んでいて,床に転がった彼女の体に馬乗りになり,その力を一層強くした。
その時,彼女の体に,突然あの電流が走った。
なんとも言えない快感であった。
確実に命を奪い取られる,そう考えるだけで静江の下半身は絶望的な快感に疼いた。
「教えてやろうか… 君が,この中間体の合成に成功しているのは,私はとっくに知っていたんだよ。それに,理由は知らないが,君がそのことを隠している事もね。そのことを東洋薬品に話したんだよ。そうするとむこうはえらい乗り気でね,なんとかその情報を手に入れてくれって,私に金を掴ませたんだ。大金をね。私も何かとお金が必要でね,少しだけ考えて引き受けたよ。しかもそんな時に,上手い具合に川添が死んでくれた。私は社長に直訴してここの研究所長にしてもらって,今日の日を心待ちにしていたんだよ。いや,ご苦労だった。まあ,君には悪いが,まだ誰も合成に成功した事を知らないのでね,今のうちにデータをもらっておこうかなと思ってね… 実は夜中に何度か君の机を探したことがあるのだが,どこにデータが隠してあるのか分からなくてね… おい,聞いてるか?」
静江は薄らいだ意識の中で,深川の言葉をぼんやりと聞いていた。
(つまらない上司などではなかった。)
(今までで,一番すばらしい上司かも知れないわ…)
彼女は,全身にこれまで感じた事が無いような快感が走り抜けている事を感じながら,心の中でそう呟いた。
「このあと,君はどこかの山の中にでも隠すことにするからね。もう少しの辛抱だよ」
手足を痙攣させる静江を見ながら,深川はそう言った。
静江は,その言葉を消え行く意識の片隅で聞き終わると,これまでに体験した事の無い激しい至福の快感に包まれながら,その手足の痙攣を静かに止めた。