努力は必ず報われる


 高速道路のインターチェンジを降り,そのまま車を走ら海岸通りに出ると,眩いばかりの真夏のバカンスの光景が目に飛び込んできた。海岸にはカラフルなパラソルが立ち並び,ビーチは楽しげに波と戯れる子供や,寝転んで甲羅干しをする人達で賑っている。
 「やっと着いたわね…」
 助手席に座って窓の外を眺めていた山川良美が,運転席の石井一成の方を振り向いてそう尋ねた。
 「そうだね」
 一成は,良美の方に少し顔を向け,そう答えた。
 良美が窓を少し開けると,風が潮の香と共に車内に舞い込んできた。良美の長い髪がその風にたなびき,それによって可憐さが一層引きたてられた彼女の横顔を,一成は視野の端にそっと観察した。

 石井一成は,帝都大学の一回生であり,入学と同時に同大学の中で最も規模が大きいテニスサークルに入部した。そのサークルは主に帝都大学の学生を中心に構成されているが,周辺の女子大学から異性交際を目的に参加しているメンバーもかなり存在しており,隣接する南都女子大学一回生の山川良美も,そんな一人である。
 良美は,大きな目が特徴的な可愛い顔立ちをしており,一成は初めて彼女を見たときから,その存在が非常に気になっていた。そして,何人かのライバルを尻目に一成はこれまで彼女に積極的に接近し,彼らよりもやや抜きんでて親しくなることに成功した。
 良美も,一成の事はまんざらでもなかった。一成の,父親譲りの甘いマスクは彼女好みであったし,一緒にいて飽きさせる事の無い会話も楽しかった。彼女の気持ちは一成の方に惹きつけさせられ,知らないうちに彼の事を特別な異性として意識し始めるようになったのである。
 そんな間柄になったある日,一成は思い切って,「この夏休みに一度,二人で海に一泊旅行に行かないか」と,良美を誘った,良美は,躊躇いが無かったわけではないが,一成の積極的な誘いに結局は承諾した。二人はまだ肉体関係が無かったが,その良美の一瞬の躊躇に一成は,口には出さないながらも内心はその承諾をしたのだと心に思った。

 やがて車は,海岸通りに面する旅館の駐車場に滑り込んだ。
 「ここが,今日泊まるところだよ」
 一成は,始めて女性と夜を共にすることへの緊張を,少し震える手でタバコの灰を灰皿に落とす事で紛らわせながら,良美に呟いた。
 「きれいね。とりあえずチェックインしましょうよ。それから海に入ろう」
 良美もやや緊張していたが,それを隠そうと努めて冷静に答えた。
 車をパーキングエリアに止めて,二人は並んで旅館の玄関をくぐった。一成は,宿帳に住所や氏名を記入しながら,これからの二日を演出しようかと考えた。
 そして同時に,「大丈夫だ。失敗なんてしない。心配する事は何も無いんだ」と,自分に言い聞かせていた。



 石井一成が,その奇妙な能力とはじめて出会ったのは,今から思えば小学生の頃であった。
 その日は小学校で発表会があり,一成のクラスでは先生のピアノに合わせた踊りを披露する事になっていた。そして一成はその日まで一生懸命練習をして,自分のパートを完璧にマスターして発表当日を迎えた。
 しかし,その意気込みとは裏腹に,沢山の父兄の観衆に緊張したのか肝心の所で何度か間違え,終わってみれば散々の出来であった。参観していた両親は,間違えながらも最後まで頑張った我が子惜しみない拍手を送ったが,負けず嫌いの一成は,自分自身が許せなかった。
 その夜,一成は晩御飯もろくに食べずに布団にもぐり込んだ。そんな光景を両親は軽く笑いながら眺めていたが,一成は心の底から口惜しいと思っていた。せっかく練習したのにと,その口惜しさや恥ずかしさに涙を流しながら,知らないうちに眠ってしまった。

 「一成,いつまで寝ているの,早く起きなさい!」
 枕元で,母親の由香里の声がした。
 「うーん,今日は休む…」
 昨日のショックからまだ十分立ち直っていなかった一成は,母親にそう言って,ずる休みを決め込む事にした。
 「何言ってるの,今日は発表会でしょ。あんなに張り切っていたのに…」
 「え?」
 一成は驚いて布団から飛び出し,母親の顔を見た。
 「躍りの発表あるんでしょ。パパも楽しみにしてるわよ。さ,早く支度なさい!」
 「え,発表会は昨日だったでしょ…」
 「何,寝ぼけてるの。さ,早く顔を洗ってらっしゃい!」
 そういうと,由香里はさっさと部屋を出ていってしまった。後に残された一成は,どういうことなのか理解できず,しばらく布団の上でぼーっとしていた。
 「おはよう,一成。お父さんも見てるからな。がんばれよ」
 ドアから父親の正信が顔を出し,息子にそう声をかけた。
 (そうか,夢だったのか。本当は今からなんだ!)
 一成はようやくそう理解すると,もう一度やれる嬉しさが沸いてきた。
 「うん,頑張る!」と父親に元気に答えると,急いで学校に行く支度を始めた。
 やがて発表会本番。一成は,夢とは言え,一度ステージを体験した強みとそこで失敗した反省を糧に,今度は完璧な躍りを披露することが出来た。躍りが終わってステージに整列し,多数の父兄に混って一際大きな拍手を送る両親の姿を見つけた時,彼は自分の出来映えに有頂天になった。
 その夜,夕食の時に両親に自慢げにこと細かく説明しながら,失敗したのは母親の言う通り夢を見ていたのだろうと考えた。

 やがて高校生となり,忘れかけた頃にまた似た体験をした。今度は数学の中間テストのときであった。
 もともと一成は勉強が嫌いではなかったが,テスト前にはいつも以上に一生懸命勉強した。そしてその中間テストの時も,万全の準備をしてテストに望んだ。そしてテストの後,ほぼ完璧な結果を期待できる手応えを感じた。
 しかし下校中に友人とそのテストの話をしているうちに,色々なところで間違っていることを知った。しかも単なる計算間違いや勘違い,見落としなどの初歩的なミスばかりであった。これが肝心なところで間違っているのならまだしも,そのうっかりミスに相当のショックを受けた。家に帰って明日の試験科目である現代国語と英語の勉強をしている時も,せっかく勉強したのにと,ずっとそのことが悔やまれていた。勉強を終えてから床についた時も,その憂鬱な気分は消える事は無かった。
 翌朝,彼は教室に入って,まず最初の国語に備えてノートを見直し始めた。その時,隣の席の友人が「お前,何を見てるんだ?」といって一成のノートを覗き込んだ。
 一成がその友人のノートを見ると,友人は数学のノートを見ていた。不思議がって周囲を見渡すと,みんな数学のノートや教科書を見ながら最後の確認をしていた。
 「バカだなあ,お前。今から数学だぜ。国語は明日だろ」
 反対側の友人が,そう言って笑った。それにつられて,教室のあちこちから笑い声が聞こえてきた。
 「え?」
 彼は驚いて,教室を見渡した。みんな数学の勉強をしている。みんな自分の方を見て笑っている。一成は唖然としたまま,友人たちの笑い声だけを聞いていた。
 その時,先生が試験問題の入った封筒を持って教室に入ってきた。
 「では今から数学の試験を始めます。ノートや教科書は,かばんの中にしまって下さい」
 一成は,呆然としたまま教室中を見渡した。
 (一体どういうことなんだ…)
 「石井君,早くしまいなさい」
 先生にそう声をかけられ我に返った一成は,首をかしげながら国語のノートと教科書をかばんにしまった。
 先生が,数学の問題を裏向けにして配り始めた。やがてチャイムが鳴ると,生徒は一斉に問題用紙を表向けにして問題にとりかかった。
 (あっ!!)
 一成がその問題を見たとき,彼は心の中で叫んだ。昨日の問題と全く同じ問題がそこにあった。
 (どういうことなんだ?)
 不思議がりながらも,一成は試験問題に取組んだ。しかし一度解いた問題である。解答欄には,すらすらと正解が記入された。もちろん今回は初歩的なミスはなく,完璧な解答用紙が完成された。そして次の試験科目である古文でも,昨日と全く同じ問題が配られた。一成は,少し気味悪がりながらも,見覚えのある問題の解答を記入した。
 (正夢?予知夢なのか?それにしては,あまりにリアルだった…)
 その時一成は,小学生の頃の発表会のことを思い出した。そして自分には,ひょっとしたらそういう能力があるのかもしれないと,漠然と感じるようになった。

 そして彼がそれを能力だと知ったのは,それからしばらくしたある日曜日,学校で所属している野球部の対外試合に出かけた時のことであった。四番を任されている彼はその日に備えて猛練習を行い,その試合に臨んだ。
 しかし自分の思いだけが空回りして,散々の出来であった。折角のチャンスに打席に立っても三振や凡打で全く得点に結びつけることができず,守っても何でもないフライを落としたりトンネルして,終わってみれば自分のせいでチームは大敗してしまった。チームメイトからは気を落とすなと声をかけてくれたが,一成は返す言葉もないほど落ち込んでいた。
 夜,布団に入った時,これが夢だったらと思った。
 (そうだ!!ひょっとしたら,明日目が覚めたら,また日曜日ということはないのだろうか!?)
 一成はこれまでのことを思い出し,淡い期待を抱きながら眠りについた。
 やがて朝がきた。早くにセットした目覚ましで起きた一成は玄関に走って行き,新聞を見た。日曜日の日付であった!!
 その瞬間,一成は自分の能力を確信した。そしてその日は,一成は練習の成果を存分に発揮し,チームの大勝利に大いに貢献した。

 それから彼は,ことあるごとにその能力を発揮した。クラブ活動はもちろん定期試験や体育祭,友人関係に至るまで,やり直しながら成功を収めてきた。
 彼はそのうち,その能力のことを理解するようになった。つまり,必ず努力することが必要である事を知った。どうせやり直せるのであるからと努力を怠っていると,朝起きても時間は普通に進んだままで,やり直すことができなかった。一生懸命に頑張って,それでも結果が伴わなかった時だけ,その能力の恩恵を受けることができたのである。
 大学受験も,彼の必死の頑張りとこの能力のおかげで,超難関大学と言われる帝都大学に入学することができたのであった。

 そして大学に入って良美に出会ったその日から,彼は良美を自分に振り向かせるために様々な努力をしてきた。
 新入生歓迎コンパでは彼女に積極的に話しかけ,彼女が映画好きだと聞けば自分も映画雑誌を買って勉強したり,彼女をドライブに連れて行くために車の免許を短期間で取ったりと,彼女の気を惹くために相当の努力をした。またその合間をぬって勉強そっちのけでアルバイトに精を出し,得たお金で高価な誕生日プレゼントもした。
 そんな努力をしても,時には思うように事が運ばなかったこともあったが,そんな時は一晩寝ればやりなおすことが出来た。その甲斐あって,一成はこの一泊旅行に“スムーズに”良美を誘うことが出来たのである。



 「もう,いいわよ」
 “恥ずかしいから着替えるところを見ないで”という良美の言いつけで,部屋に備えられた風呂場で水着に着替え,良美が部屋で着替えるのを風呂場で待っていた一成は,良美のその声を聞いて風呂場から出てきた。良美は黄色いビキニに着替え,上半身には白いTシャツを着ていた。
 一成は,そのTシャツの下に隠された豊かな隆起に一瞬戸惑ったが,下心を悟られまいとビーチボールやパラソルを手際よくもって,「じゃあ,行こうか…」と冷静を装いながら良美に言った。

 旅館から出た二人は,そのまま海岸に出た。
 彼らのホテルのある位置が,他のホテルとやや離れた,そのビーチの一番端に位置したためか,二人がやってきた場所は人がまばらであった。海の家や売店もやや離れたところにあり,その前が人だかりで騒がしいのとは対照的に,彼らの選んだ場所では,恋人達が静かにめいめいの時を過ごしていた。
 彼らも松の木の近くに自分たちの場所を確保した。そして大きな浮き輪を一持って,一成が海のほうに向って行くと,良美はTシャツを脱ぎ捨て,小走りで一成の後を追っていった。
 海に入った二人は,一つの浮き輪につかまって沖に向った。一成は,自分の顔のすぐ横にある良美の顔をそっと見つめた。髪が水に濡れ,頬にはついた滴は,太陽の光で輝いていた。
 「ねえ,石井君。私ね,実は,泳げないの。おぼれたら助けてね…」
 良美が,海水が目に入るのを防ぐために細めに開けた目で一成の方をいたずらっぽく見ながら,そう言った。
 「へぇ,そうなんだ。じゃあ,しっかり持ってなきゃね…」
 そう言うと,一成は良美の肩にさり気なく手を回した。細い彼女の肩が,一成の腕の中に包まれた。そして二人は,それがある種の了解であることを,お互いに目の中を覗き込み合うことで理解した。

 その時,一成はふともう一方の手で掴んでいた浮き輪に違和感を感じた。不思議に思って浮き輪に目をやると, さっきまでしっかりと膨らんでいた浮き輪が,半分くらいに萎んでいた。
 「あれ,空気が抜けてる!!」
 一成は,萎みかけた浮き輪を見て,そう叫んだ。
 「ちょ,ちょっと… イヤよ! 何とかしてよ!!」
 現実に引き戻された良美は,そう言うと一成にしがみついた。
 空気はしっかり入れたはずだったので,小さな穴が開いていたのであろう。
 一成の手の中で,浮き輪がさらに一回り小さくなったような気がした。
 「こ,こら… ちょっと,手を離してくれ…」
 「イヤよ,私,泳げないって言ってるでしょ!何とかしてよ」
 「こら,溺れる… うわっ…」
 一成は,救助を求めて海岸の方に目を向けた。
 しかし海岸は,絶望的な距離の向こうにあった。知らないうちに,かなり沖の方まで来ていたのである。
 「やめろよ… そんなに強くしがみついたら…」
 「いや,溺れちゃうわ… た… た… 助けて……」
 「う… あ,足が… 足が攣った……」
 「えっ… い,いやよ…」
 知らない間に,一成の手から,萎みかけた浮き輪は離れていた。
 「あ… あぐ… うぐぐ…」
 「あ… た,たすけ……」

 一成は,かなりの水を飲んで,意識が朦朧としてきた。いつもなら水の中は平気であるが,突然の出来事で体が言うことを聞かなくなってしまっていた。
 知らない間に,良美の姿は見えなくなっていた。
 しかし,もはや彼女にことに構っていられなくなっていた。自分自身が,確実に海の中に沈みつつあった。
 (こんなことなら,海なんかに来るんじゃなかった…)
 溺れながら,一成はこの旅行を後悔した。
 もがけばもがくほど,一成の体は水の中に沈んでいった。
 やがて一成の手足は,ほとんど動かなくなった。もはや,力は残っていなかった。
 彼の体は,波のリズムに合わせてゆらゆらしながら,海中深くに沈んでいった。
 (今,眠ることが出来れば,もう一度やり直せるのだろうか…)
 一成が,水の中で最後にそう思ったのを最後に,その意識は無くなった…



 “おぎゃー!おぎゃー!!”
 分娩室に,元気な赤ん坊の産声が響いた。
 「おめでとうございます。元気な男のお子さんですよ」
 赤ん坊を取り上げた助産婦が,そう言いながら母親の手にその赤ん坊をそっと手渡した。
 「ありがとうございます」
 「ご主人に似ていますね。きっと美男子になりますよ。名前はもう決めているんでしたよね」
 「はい。男の子だったら“一成”にしようって,主人と決めてたんです」
 「そうなんですか。良いお名前ですね」
 「一度しかない人生,しっかりと成功できるようにと思って,その名前に決めたんです…」

 


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