私は,最終電車が好きだ。
特に,余り混み合っていない最終電車が,昔から好きであった。
最終電車には,様々なドラマがある。いや,正確には,その日の舞台の役目を終えたキャスト達が,無防備な自分をさらけ出す場所であろう。そんな人達を見るのが,私は昔から好きであった。
そして今日,私はその最終電車に乗り込んで,車両の最後部にあるドア横の座席に座っていた。電車の揺れに体をまかせながら,まばらな乗客の車内を観察していた。
女性が,生まれて間も無い赤ん坊を抱きかかえて,向こうの方に座っている。こんな夜遅くに小さな子供を抱えて,大変そうだな。
小学生くらいの男の子もいる。手提げカバンの中身は,参考書やノートの類だろう。こんなに遅くまで塾通いをしているのであろうか。
学生服を着た青年は,高校生くらいか。教科書とノートを膝の上に広げているところを見ると,もうすぐ試験があるのであろうか。
大学生くらいの男性が,大きなスポーツバッグを足元において眠っている。おそらくクラブ帰りで,練習疲れなのであろう。
その斜め前に,若いサラリーマンが座っている。新しいスーツを着て真新しいカバンを持っている装いは,入社間も無い新入社員であろうか。
大きなスーツケースを抱えて寄り添い会う若い男女の2人連れもいる。新婚旅行からでも帰ってきて,新居へと向っているのに違いない。
席の一番端の肘掛用パイプに体をあずけて居眠りしている中年のサラリーマンは,仕事疲れと日頃の睡眠不足を,少しでも解消しようとしているのであろう。
座席の長椅子に寝転んでいる酔いつぶれた男性は,仕事の憂さを酒の力を借りて発散してきたのであろう。
何となく,人生の縮図を見ているような気がしてきた。
そして,私の前にある窓ガラスを見た。私が映っている。
(今からどこに行くのだ?)
私は,窓ガラスに映った私に尋ねた。
(さあ…)
窓ガラスに映った私は,寂しそうにそう答えた。
(この電車に,どこから乗ったのだ?)
私は,もう一度,窓ガラスの私に尋ねた。
(忘れた…)
窓ガラスの中の私は,力なくそう答えた。
(疲れたな… 少し寝るか…)
(ああ,そうしよう…)
私達はそう言い合うと,ゆっくり目を閉じた。
電車の揺れに身をまかせながら,眠りに落ちていった。
やがて私は,駅名を告げる車内アナウンスとドアの開く音で,それまでの心地よい眠りの世界から呼び戻された。私は,目を薄く開けた。
電車が,一つ目の駅に停まったようである。
小さい赤ん坊を抱いた女性が,私のすぐ横のドアから降りる後姿が,私の目に映った。女性の顔は見ることができなかったが,後ろ向きに抱かれた赤ん坊が私を見ていた。そして赤ん坊は,母親の肩越しに私に向って小さくてを振った。
私も小さくてを振って,もう一度目を閉じた。
私にも,あんな頃があったのだろうか…
そう思いながら,私はもう一度目を閉じた。
やがてドアの閉まる音がして,電車はまた動き出した。
しばらくして電車は,次の駅に停まった。
私はまた,目を薄く開けた。小学生くらいの男の子が,私の横のドアの前に立っていた。ドアが開き,男の子が降りていった。電車を降りた男の子は,窓の外から私を見た。
私と目が合った。男の子は優しそうな微笑を浮かべ,そのまま歩いて行った。まだ純真そうな,奇麗な目だった。私も思わず微笑み返した。
ドアが閉まり電車がまた動き出した。私もまた目を閉じ,軽い眠りに落ちていった。
やがて次の駅に着いた。
私が目を開けると,高校生風の学生服の若い男が,私の横のドアに向って歩いてきた。足取りは軽やかである。
ドアが開いて降り際に,彼は私に「第一志望の大学に合格できたんです。一生懸命,勉強した甲斐がありました」と,嬉しそうに話しかけた。
「そうか,よかったね。これからも頑張れよ…」
「はい,ありがとうございます」
彼は私にそう答えて,ドアから出ていった。
確か私もあの頃は,クラブ活動と受験勉強の両立に一生懸命であった。クラブはサッカー部のキャプテンを務め,勉強も学年で上位の成績であった。
しかしクラブ活動は,途中で断念せざるを得なかった。高校二年生の時に,試合中に右足を骨折したのである。単なる骨折ならまだしも,折れた大腿骨が皮膚を突き破って外部に出てくるという重傷であった。仕方なくサッカーは断念し,それからは学業に専念した。
そのおかげと言うべきか,私は,超難関と言われた大学に合格できた。
その時は色々と辛かったが,今から思えば楽しかったかもしれない。目標に向ってがむしゃらに走りつづけていたあの頃が,懐かしく思い出された。
しばらく走って,電車は次の駅に着いた。
知らない間に眠っていた私は,ドアの開く音で目を覚ました。ちょうど車内アナウンスも,駅に着いた事を告げていた。
先ほどまでドア付近に立っていた大学生くらいの青年が,ホームを歩いているのが見えた。少し足早に,改札の方に歩いているのが目に入った。肩から大き目のカバンを下げ,そのカバンからはテニスラケットのグリップがはみ出している。
私も,学生の頃はテニス部に所属していた。そしてその頃,初めて女性と付き合った。同じクラブの,一学年下の後輩であった。勉強も面白く,クラブ活動と異性との交際… あの頃の時間はあっと言う間に過ぎ去った。できる事なら,もう一度あの日に帰りたい…
私は,もう一度目を閉じた。
やがてドアが閉まり,電車が動き出した。
次の駅に着いた。
今度は,車内アナウンスや扉の音ではなく,斜め前に座っていた若いサラリーマンが,持っていたカバンを落とす音で目が覚めた。
見ると,その若いサラリーマンは落としたカバンを拾い上げ,散乱した内容物を,顔を赤くしながらかき集めていた。私の足元にも,ボールペンが一本転がってきた。私はそれを拾い上げた。
若いサラリーマンは,「すみません」と言いながら私に近づいてきた。「まだ,どうも電車通勤に慣れていないので…」
言い訳するサラリーマンに,私は微笑みかけながらボールペンを差し出した。
「ありがとうございます」
そう言って,サラリーマンは私の手からボールペンを受け取り,足早にドアから出ていった。
私も,会社に勤めて最初の頃はあんなだったのであろう。初めて社会に出た事の新鮮味と緊張が入り混じって,何がなんだか分からないままに,時を過ごした事を記憶している。
新入社員…
懐かしい響きを想い出しながら,私はまた目を閉じた。
次の駅では,新婚の二人連れが降りた。周りの光景は目に入らないようだ。二人で寄り添いながら,ホームを歩いている。
電車が動き出し,ホームを歩く二人を追い越した。その時,二人の顔を見た。希望と愛情に満ち溢れた表情で,お互いを見つめ合っていた。
私も,会社に入ってしばらくして,人並みの結婚をした。ごく普通のサラリーマンの家庭で,必ずしも裕福とは言えなかったが,それでもあの頃は楽しかった。
今までは親の庇護の元で暮らしていた二人が,今度はお互いを支え合いながら生活を営むようになった。些細な事で喧嘩もしたが,その次の日は手をつないで映画に出かけた事もあった。その頃は,その日その日が勉強と成長の毎日だったのだ。
そんな昔の事を回想しているうちに,また私は眠くなってきた…
電車が,次の駅に停まった。
その時,私の耳によろけるような大きな足音が飛び込んできて,今度はそれで目を覚ました。
先ほどまで眠っていたサラリーマンが,目を覚まして慌てて私の横のドアに駆け寄ってきていたのである。まだ 少し寝ぼけているのか,少々足元が怪しい。
「危なかった… もう少しで,寝過ごすところだったよ。こう毎日終電まで残業したら,体が持たないな… 明日もまた始発で出勤しないといけないんだ。最近,仕事量だけが増えてね。これだけ頑張っても,明日になったら私の席が無くなっているかもしれないって,そればっかり考えてしまってね。家に帰っても,落ちつかないよ…」
そのサラリーマンは,不意に私に,力無くそう呟いた。
「がんばってくださいね…」
私が小さくそういった言葉に,疲れ果てた表情でコクリと頷くと,その男はホームに出た。その男は,足を引きずるようにしてホームを歩いた。肩を落とし,俯きながら,トボトボとホームを歩いていた。
私は,動き出した電車の窓からその光景を眺めながら,自分のことを頭に浮かべた。
確かに,その男の言う通り,いつどうなるかわからない。それは私にとっても同じ事だ。
今,私が仕事をする上で私を支配しているものは,会社への貢献や仕事への興味,出世,昇給などの要素ではなく,いつどうなるのか分からないという不安であった。
何が不安なのかは,実はよくわからない。
仕事をしている間だけ,不安な気持ちを忘れられるのである。決して不安が解消されるのではない。単に,その気持ちを忘れられるのである。
今も不安である。ただ,今はその不安な気持ちよりも,眠気の方がやや勝っているだけだ。
私は,もう一度目を閉じた。
次の駅の到着を告げた車内アナウンスで,私は目を開けた。
酔いつぶれた男が,千鳥足で私の横のドアまで歩いてきた。酔いつぶれているのであろうか,ドアの横にある手摺につかまって立っているのがやっとである。立ちながらも,眠っているようである。
「大丈夫ですか?」
私は,その男に声をかけた。
「ああ,大丈夫ですよ。すみません。ちょっと飲み過ぎただけです。いや,生きて行くのがちょっとイヤになりましてね。疲れました。それでお酒をいっぱい煽りましてね。別にそんな事しても解決するわけではないんですが… ははは… いや,失礼しました。あなた様にこんな話をしても仕方ないですよね…」
男はそう言うとドアを降り,また千鳥足でホームを歩き始めた。皺くちゃになった安物っぽい背広を着て,まるで行く宛てがないシャボン玉のように,ふらふらと歩きつづけた。
その時,ふとそれが私の姿と重なった。
長年勤め続けていた会社で,突然の人員整理の方針が発表され,その中に私の名前があったのである。
その話を聞いた時は,頭の中が真っ白になった。
私は,これまで一生懸命頑張ってきたつもりである。特にこれといって会社に利益をもたらすような事をしたわけではないが,それでも真面目に働く事こそ,私の生きがいであった。
真面目に,コツコツと…
私のニ十余年の会社生活を一言で表すと,そんな言葉が当てはまるかもしれない。
雨の日も,風の日も,それが会社のためと信じて頑張ってきた。
人員整理…
寝耳に水というのは,まさにこのことだ。
これからどうやって過ごしたら良いのか…
家族にも言えず,その日以来,毎日街を歩き回っていた。
ここ一月,いつもと変わらずに「行ってきます」と言って,毎朝家を後にしていた。宛てもなく歩いて,私は街の雑踏の中を毎日歩き回っていたのである。
初めのうちは,色々な求人雑誌を見たりして,これからのことを考えた。しかし,若い人や,何か才能や技能を持っている人ならまだしも,私のようなものを欲しがるところは無かった。
そして疲れた。
そう,疲れたのだ… もう考えるのはよそう。 考えるのはよそうと決めたではないか…
私は,もう一度目を閉じた。
誰かが,私の肩を揺らした。
目を開けると,車掌が私の肩に手をかけていた。
「お客さん,終点ですよ」
車掌は,悲しそうな目で私を覗き込んでいた。
「ああ,終点ですか… あの,車掌さん,私,大変疲れているのですが… もう少しここで休まさせ頂けませんか」
私は,車掌にそう聞いた。
「…… 別に,良いですよ。もうこの電車は走る事はありませんから。ゆっくり休んで下さい」
「そうですか。ありがとう」
私は車掌にそう言うと,もう一度目を閉じた。
私は目を閉じて,さっきまでの乗客のことを思い出した。
母親に抱かれた小さい赤ん坊,小学生くらいの児童,高校生や大学生らしき青年,新婚さん,サラリーマン達,いずれも自分の姿を見ているようであった。あたかも,この電車が,私のための最終電車であるように思えてきた。
疲れた…
この最終電車はよく眠れそうだ。私は知らない間に,深い眠りに落ちていった。
「お母さん,おはよう。お父さん,昨日は結局帰ってこなかったのね」
眠そうに目を擦りながら布団から出てきた娘は,母親にそう聞いた。
「そうなのよ。何でも昨日は仕事が忙しくて,会社に泊まるかもしれないって言ってたからね」
「へぇ,そうなんだ。忙しいのね,お父さん」
そう言うと,娘はテレビのスイッチを入れた。
「…次のニュースです。昨夜一時過ぎ,JR●●線の△△駅付近の下り線路で,中年の男性が最終電車に牽かれるという人身事故がありました。運転手の話によるとこの男性は,線路の柵を乗り越えて線路の上にふらふらと歩いており,発見と同時に急ブレーキをかけたが間に合わなかったという事でした。この男性は身元を示すものは所持しておらず,現在警察では自殺と見て,この男性の身元確認を急いでいるということです。なお,この男性の特徴は,年齢は四十から五十歳くらいで,右足の太ももに大きな古い傷跡があるということです。では次のニュースです…」