<靴下の穴>
壁に縫いつけて、そっと唇にキスを落とす。 あいつは何も答えない…… 誰もいない下宿に戻るのも慣れてきた秋。帰り道は少し寒くなってきた。そろそろ手袋を買おうかな。でもその前に、靴下に穴が空いちゃったからそっちが先だ。練習室は土足禁止だから穴が空いているとやっぱ恥ずかしい。 通学用にもらった先輩の自転車は、いい加減に錆びていて、漕ぐたびキコキコと音がする。そろそろ油、差してやらないと。 そんなことを考えていると、あちこちの街灯が一斉につき始めて、地面を薄白く照らした。空ではすっかり夕焼けは終わって、一面の藍色を一粒の星が輝いている。 一番星、見つけた……なんてな。 下宿の自転車置き場にきちんと並べてある自転車は入る隙もなく、仕方なく屋根のないところに止めて鍵を閉める。それをポケットに入れて替わりに玄関の鍵をまさぐる。と、別の乾いた感触がした。ああ、さっき女子がくれたアメだ。指でつまみ出す三角のいちごみるく味。包みを開いて口の中に入れると懐かしい味がして、胸の奥がじくっと滲みた。 いかん、 そんなことより家の鍵。あれがないと入れない。早くしないとサッカー始まっちまう。 それなのにジーパンのポケットもジャンパーのポケットもリュックの中もくまなく探しても全く見つからない。 もしかして、練習室で落としたのか? ……仕方ない戻って探すか。 がっつり落ち込んでまた自転車置き場に戻ろうと振り向くと、 「沢〜!」 と、俺を呼ぶ声がした。 「沢」というのは、俺のサークル内でのあだ名。俺の名は水沢だけど、サークルの女子というのは縮めて言いたくなるモノらしい。他の同期も、熊谷はくまちゃん、桶谷はオケタンとか呼ばれている。何でも縮めて言えばいいってもんじゃないだろ? と、思いつつも便利なこともあってみんなそのあだ名で呼び合うようになってしまった。 その名前を考えるのはたいてい朋香。両手でバックを抱えてブーツで転けそうになりながらこっちに走ってくるあいつだ。 「トモ、こっち」 手を振るとあいつは、 「鍵、落ちてたよぉ!」 って! 怒鳴るなよ。近所迷惑だって。この下宿は男子専用だから女子が来たなんて知れたら後で何を言われるか判らないんだから。 ま、これで家に入れるから、いいか。 あいつは俺の前まで来ると、はあはあと肩で息をしながら鞄の中から見慣れた鍵を出し、「はい」と、差し出した。 たしかに俺の鍵。 「サンキュ。どこにあった?」 受け取るとそれはほんのりと温かかった。 「うん。練習室に落ちてた」 そいつをポケットに鍵を突っ込んで、 「寄ってく?」 と、誘ってみた。わざわざ届けてくれたんだからお茶くらい煎れるし……、 「ううん。先輩待ってるし」 ぴくっと、自分でも驚くくらい眉毛が痙攣した。 「先輩?」 「うん。ちぃ先輩。なんで?」 なんでって、ちぃ先輩すっげぇたらしって噂だぞ? 今年だけでものりちゃん先輩と園田と関、それに……今度はお前!? 「ご飯食べに行って、そのあと家まで送ってくれるって」 「おまえなぁ、お持ち帰りされたらどうすんの」 「お持ち帰りって、何を?」 にこにこにこにこ。って、満面の笑み。 「だから、どっか連れ込まれても知らないってこと」 するとあいつは俺の肩をばしんと叩いた。 「いやだぁ! そんなことないって。先輩そういう人じゃないし」 叩かれたところがヒリヒリ痛い。凶暴なヤツだな、まったく。 それから、先輩はおもいっきりそういう人だから忠告してんだっての! 「だって、先輩だよ? お友達未満だよ?」 「おまえなぁ。男女の間に友情なんてあるわけねぇだろ!」 むかつく。なんかめちゃくちゃむかつく!! 「あるよ。だって」 当たり前でしょ? って言うように俺の顔をのぞき込みながら、あいつは言った。 「沢は友達、でしょ?」 ……沈黙。 安心しきった顔するな。まったくわかってないところが超マジむかつくんですけど! 噛みしめると奥歯に挟んでいたアメがばりっという音と共に砕け、安っぽいミルク味が鼻に抜けた。 「ちょっとこっち、来い」 「なあに? なんかあるの?」 ちょこちょこ付いてくるあいつに、更に腹立たしさを感じながら下宿裏の壁にあいつの肩を押しつけた。 「え?」 さすがに怯えた顔。そういうお前の顔見たことなかったな。むくむくとどす黒い気持ちがあふれてくる。そういう顔、もっと見たい。 「目ぇ、つぶれよ」 って言いながら、そっと唇にキスを落とす。 あいつは何も答えない。 唇を離すと、ぱちくりと見開かれた黒目がちの目から、みるみるうちに涙が零れて……。しまった、と思った時には遅かった。 肩から手を離すと、あいつはそのままずるずるとそこに座り込んで、 「ご、ごめ……ん」 って、涙ぐみながら両手で口を押さえた。 なんで「ごめん」なんだよ。いきなりキスして、なんで怒らないんだよ! 「先輩、待ってるか、ら……ね、じゃ」 そう言い残してあいつはうさぎのようにぴょんととびあがると、そのまま走り去った。 しばらくして車の音がした。あのエンジン音は先輩の。 「……やべぇ」 明日つるし上げかもなぁ。 ああ、次会ったらどんな顔をすればいいんだ? 自分の失態を後悔しつつ、持ってきてくれた鍵をポケットから出した。少し冷えたそれで玄関を開けると、すえた匂いが部屋から流れ出て俺を迎える。 あいつがいてくれたら、少しはこの部屋もマシになったかも、なんて考えながら靴を脱いで上がると直にフローリングの床の感触を感じて、情けなさ倍増。靴下、穴、あいていたんだ。 「ちくしょ……」 こんなことで泣くなんて冗談じゃないのに、目の前がにじんでいく。 好きとか嫌いとかじゃなくて。 ただ、キスを、したかった。 そういうのって、あいつにはわからない。 でも……謝るべきだよな。 携帯を取り出して、メールを打つ。 電子音と共に文字になる俺の、気持ち。 『いきなりごめん。でもおまえがす』 そこまで書いて、電源ごとそれを消した。 end |