<五月蠅い>

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 音とは、物の響きや人や鳥獣の声、物体の振動が空気などの振動として伝わって起す聴覚の内容、またはそのもととなる音波そのものを指す。
 つまり、その音は相手に届いたときはじめて、「音」と認識される。相手が受け取るか受け取らないかなど考えもせずに。

 特に近代から現代にかけて発展した文化は、便利と共に世界に音をあふれさせた。
 テレビから流れる音。
 車が道路を走る音。
 人のしゃべり声。
 隣の家の洗濯機の音。
 階下の子どもが走り回る音。
 それらは頼んでもいないのに俺の耳に飛び込んでくる。
 中でも一番五月蠅いのは、斜向かいの家から流れてくるピアノとへったくそな歌だ! 毎日午後八時からきっかり一時間。それが聞こえてくるとマンガのようなさけび声をあげながら目の前のまとめかけのレポートをビリビリと破りたくなる衝動に駆られる。

 五月蠅い五月蠅い五月蠅い五月蠅い!
 アレに比べたら五月の蠅などかわいいものだ。

 思いきり立ち上がると反動で椅子が倒れて床で跳ねた。頭をばりばりと掻きながら玄関を出ると、古い廊下と階段を思い切り足音を立てて降りきり、斜向かいの家の前に立った。
 俺が住む安アパートの前にこれ見よがしにそそり立つ瀟洒な建物。噂では県会議員の家だという。
 しかし! 県会議員だろうがなんだろうが、もう我慢の限界だ!

「五月蠅い!」

 腹の底から思い切り怒鳴りつけてやったら、ピアノ音がぴたりと止まった。
 ふん。思い知ったか!
 少しすっきりした俺は、部屋に戻ってレポートの続きを始めた。これを今月末までに仕上げないと単位がもらえない。俺にとっては死活問題なのだ。
 しかし安アパートの壁は薄く、いつもの騒音にプラス、裏から新築マンションを建てる重機の音、さらにお隣からアヤシイ声まで。壁が薄いってわかっているのに彼女なんぞ連れ込むな!
 こうなったら仕方がない。最終手段だ。
 引き出しから耳栓を取り出して耳にはめる。
 音はほぼ遮断され、耳の奥には血液が流れる音だけ。
 俺は安らかな気持ちでレポートに向かった。

 この有効と思われる手を最終手段としたのにはわけがある。
 忘れもしない受験まっただ中の中三の冬。耳栓をしていて母の呼び声に答えなかった俺は、いつの間にか後ろから来た母に胸ぐらをつかまれ右頬をはり倒されたあげくきつく叱られた。
「何度も何度も呼んでいるってのに、何で返事をしないの! そんなのしてたらいざというときに何も聞こえないわよ!! 強盗が入ってもあんたしらん顔で勉強してることになるわよ!」
 ヒリヒリ痛む右頬を抑えながら激高する母の顔を見上げながら、なんて物騒なことを言うんだと思ったが、可能性は拭いきれない。それ以来耳栓を封印していたのだが単位がかかっているとなれば話は別だ。

 どれくらいたっただろう。遮光カーテンの向こうは昼なのか夜なのかわからない。時計を見ていないと時間が過ぎていく感覚がない。音がないだけで集中できるものだ。
 どやどやと廊下を走るっていく足音がするのは飯に出ていく隣のカップルだろう。何やら焼ける臭いもするし、腹も鳴っている。口の端っこから流れていたよだれをそれでふき、そろそろ飯にするかとふり向いたときだった。
 黒い煙がドアの隙間から流れ込んできていた。
「ったく、誰だよ廊下で魚焼いてるのは」
 そう思って立ち上がると、分厚い遮光カーテンの隙間から赤色灯がチラチラと危険を知らせているのに気が付いた。次の瞬間、振動と共に扉が叩き壊され、中に入ってきたのは映画のワンシーンのような重装備の男達。一人が近づいてきて何か言っているけど何を言っているのか全くわからないが、この煙が魚や肉を焼いたものではないことは理解できた。
「ちょ、ちょっとまってください。これだけは!!」
 レポートが入ったノートパソコンだけを抱えて男に連れ添われて窓に待機していたはしご車のゴンドラに乗った。
 安アパートは三階から音もなく赤い炎を上げて燃えさかっていた。昔は白かった灰色の壁を炎が黒く舐めていく。音を消したテレビのような非現実的なショーは、その日の夜遅くまで続いた。

 全焼で骨組みだけが黒く焼け残った三階建て安アパートをノートパソコンだけを抱えて見上げていた。大家さんがいろいろとなんだか話していたようだけど、聞こえなかった。同じアパートの人たちも同じように見上げてはいたが、そのうち荷物を持って一人一人、この場を去っていっき、最後には警察と消防と俺だけとなった。
 俺はあの瀟洒な建物の壁にもたれかかって座り込み、肺の中の空気を全部出し切るようにため息をついた。
 なんで財布を持たずに出ちゃったんだろう……。
 金が一銭もないということは、ファミレスで一杯のコーヒーを頼りに夜を明かすことが出来ないと言うことだ。明日大学に行こうにも10キロの道を歩いていかねばならないということだ。頼れる人もない。実家は500キロ彼方。大学に泊まり込むという手もあるが、不審者扱いされるのがオチだ。
 火事よりもよっぽど強盗のほうがいいじゃないか。母に悪態をつきながらこれからのことを考えていたら、誰かが俺の肩を叩いた。
 見上げるとゴージャスなかんじのおばさんが俺の前に立っていた。口が「あの」と形作る。しまった。耳栓をしたままだ。
「ちょっと待ってください」
 そっと耳栓を抜いたとたんあふれる音の洪水。それが耳の奥にある鼓膜を否応なく震わせて脳に伝わる。その中で彼女の声だけが優しかった。
「行くところがないのですか?」
「あ、はい」
「ずっと、というわけにはいきませんが、次の下宿が決まるまで私の家にいらっしゃいませんか?」
 太めのおばさんの声が、天使のささやきに聞こえるあたり、俺はどうにかなってしまっていたらしい。即答で了承していた。
「よろしくおねがいします!」
 深々と頭を下げる俺に彼女はゆっくりと微笑み、言った。
「いいえ、昼間のお礼です」
 その笑顔は本当にこわくて全身が凍り付いた。
 昼間のって、怒鳴りつけたあれか? もしかしてあの仕返しなんじゃないのか?
 しかし仕返しの不安より、単位がかかったレポートだけは仕上げたいというささやかな願いを是が非でも叶えたかった。

 こちらへどうぞと連れて行かれたあの家は、玄関だけでもだだっ広くてめちゃくちゃゴージャスなのに、中に入ればシャンデリアと高そうな玄関マット。出されたスリッパはふっかふかで、廊下の床はさらにふっかふかだった。本当のお金持ちなのだと思ったら、何やら情けなくなってきた。二階に上がって通された部屋は元々は誰かの部屋だったらしく、ベッドやたんすが所狭しと並び、ベッドの横の壁には5年前大流行したビジュアル系バンドのポスターがデカデカと貼ってあった。
「昔使用人が使っていた部屋ですわ。こちらをお使い下さいね。それから」
 そして彼女は手を出した。
「耳栓は没収です」
 にっこりと笑う彼女に、俺は観念して耳栓を差し出した。
「おなかがすいたでしょう? キッチンに用意してますから、どうぞ」
 キッチンの言葉におなかが反応した。ぐぅと鳴る音に俺は屈服するしかなかった。お手伝いさんが出してくれた白いご飯となにやらごちゃごちゃ入ったスープをごちそうになった。うまかった。
 食後のコーヒーまでいただきながら、俺はそっと聞いた。
「あの、なんで親切にしてくれるんですか?」
 すると彼女はゆったりとした二重あごをふるわせながら笑った。
「困ったときはお互い様でしょう?」
 その言葉に裏はないだろうなと勘ぐっていたその時。あのピアノの音が聞こえた。このところずっと聞こえてきていた歌だ。
「あのお……」
 これは拷問でしょうか。
「私たちも困っているのですよ。ですのでお泊めする代わりに、一つお願いを聞いていただけないでしょうか」
 そう言っておばさんは立ち上がると、優雅に手招きをするので仕方なく付いていく。
 応接室のふっかふかのじゅうたんを踏んでいくと、奥の方にグランドピアノが置いてあった。どんだけ金持ちなんだこの家は! 若干の殺意を覚えながらピアノに近づいていく。
 そこにいたのは、俺と同じくらいの年の女だった。手を止めておびえた様子でこっちをじっと見ている。そのうちぽたぽたと涙を落としながら泣き始めた。
「梨音さん、こちら今日の昼間に怒鳴り込んできた方ですよ。火事で焼け出されたのでうちでお世話することになったの。えっと、名前はなんでしたっけ?」
 言ってなかっただろうか。
「奥田です。奥田孝。律大工学部の三年です」
「あらそうなの。ほら、ごあいさつなさい」
 おばさんがピアノの前で泣いている女をうながすと、彼女は涙をハンケチでそそとぬぐい、
「ワタクシ聖音大二年の林野原梨音です。よろしくお願いします」
 深々と頭を下げられて、俺も思わず深々と頭を下げた。あの丘の上のお嬢様学校か。
「あの、五月蠅かったですか? 耳栓で死にかけるくらい五月蠅かったですか?」
 そんなこと言われても……本当に五月蠅かったのだがそう言うわけにはいくまい。
「昼間のことは謝る。レポート作成中で気が立っていたんだ」
「でも五月蠅かったんですね」
「……」
「やっぱりそうなのね!」
 号泣する彼女を母親は抱きしめて頭を撫でた。
「そんなことありませんよ。あなたはとても上手よ」
「でもでも! この方は五月蠅いって、五月蠅いって怒鳴ったんですのよおお!」
 いい年して鼻をすするな。そもそも何でこんなお金持ちなのに音がだだ漏れなんだ。
「この部屋、防音とかしてないんですか?」
「防音はしてますが、閉め切った部屋はこわいみたいで、気が付くと窓を開けてしまうので困っていたところなのですよ」
 おほほほとおばさんは笑った。だからあんなに大音量で聞こえてきていたワケか。甘えにも程がある。
 俺の中でぶちんと何かが切れた。
「あ……んのなああ! 窓開けて中途半端な歌なんざ歌うんじゃねぇ! 何様のつもりだ。人に聞かせられるまでは防音室でやるのが礼儀ってもんだろ! 一人で練習するのがこわいだと? 何甘えてんだ、小学生でもあるまいし! 舞台では一人だろうが! そんな根性なしは歌う資格はねぇ! やめちまえ!」
 怒鳴る俺を、娘さんは硬直して凝視し、おばさんは何故か優しいまなざしで見ていた。
 しまった。これから寝泊まりさせてもらおうとしている家の娘さんを……。
 するとおばさんはくるりと娘さんに向き直り、きりっとした顔で言った。
「いいですか、梨音さん。奥田さんには毎日あなたの歌を聞いていただきます」
「そんな、お母様!」
 まさか、あの歌を毎日至近距離で聞かされるのか?
 あまりのことに言葉を失っていると、おばさんがこちらに向いて有無を言わせない口ぶりできりりと言った。
「一ヶ月後にオーディションがありますの。上位入賞者は3月に四鳥居ホールで演奏することになっています。それまでこの子の力になっていただきます。合格までの衣食住は保証致します。住み込みのバイトだと思ってくださいね」
 ものすごい威圧感だ。言葉を失っていると、おばさんはやさしく娘の肩を抱いた。
「この子は歌が大好きなのですが、今ひとつぱっとしないといいますか……私も夫も音楽は素人で、この子のどこが悪いのか全くわからないのです。お願いします。是非ともこの子の力になっていただきたいのです」
「でも俺、多少の経験はありますが、素人ですよ?」
「いいのです。お客がいた方がはげみになりますから」
 そう言われて俺も腹を決めた。このご時世で住み込みのバイトが見つかるなんて、俺はついてるのかもしれない。
「わかりました」
 これも衣食住充実のためだ。我慢、我慢。
「早速奥田さんに聞いていただきましょうね。梨音さん」
「はい、お母様」
 娘さんはステレオに向かうと、スイッチを入れた。
 毎日聞こえてきて俺を苦しめたにっくきピアノ伴奏と共に彼女が歌い出す。

 これ……
 ああ高音が……
 そこはそうじゃない……ってのに!

「おい!」
 びくっと彼女の体が硬直した。
「おまえの音、全然届いてねぇ!」
「届いて、ない?」
 うるうるした目で俺を見上げるな。
「おまえが歌ってるのは、中田義直のさくら横ちょうだろ? 恋を想う歌だってのに、お前のは夜桜宴会じゃねぇか! 高音にぶら下がるな! 支えがないからふらっふらだ! それにこのピアノ伴奏、学生か? 録音してもらうなら教授クラスにしろ! ピッチがあってねぇんだよ!」
 畳みかけると、ものすごくいい顔をした彼女がいた。
「は、はい! わかりました!!」
 うれしそうに頬を染めるな。Mかおまえ。
「もう一度、最初から」
 ステレオのスイッチ入れて、ピアノ伴奏聞いて、……出だしっからだめじゃねぇか! 「上ずってるぞ! 腹とケツの穴締めろ! うつむくんじゃねぇ! 上っ面の技術だけが歌だと思うなあああ!」


 それから俺は大学に行く間と寝ている間以外は特訓につきあうこととなった。おばさんが言ったとおり、衣食住は保証されている。親にも、
「おたくのご子息ですが、火事に遭われて、ほんとお気の毒で、ご近所でしたので、下宿先が決まるまでこちらでお世話させていただきますわ。ええもちろん、ご迷惑だなんて、おほほほほ」
 等と連絡されてしまったため、逃げようものなら親に通報されかねない。
 梨音は(面倒だから呼び捨てにしてやる!)音大に行くくらいだから歌い方等は一般人よりうまい。技術だけならかなり上位に行くと思う。ただ微妙に、本当に微妙に音がずれる。それが耳障りで困る。
 しかし教え始めてからは成長が著しく、夜桜の下の酔っぱらいはもういない。
 午後9時を過ぎ、そろそろ休もうかと思っていたときだった。梨音がへろへろと楽譜を整えながら聞いてきた。
「あの……奥田さんはどこで歌を習われたのですか?」
 いきなり言われて少し考えた。
「ピアノは三歳から高校卒業まで。声楽の基礎は少年少女合唱団に所属していた頃習った」
「え? それだけなんですか? すごく詳しいですね。音も正確ですし」
「絶対音感があるって言われたことはある。おまえはいつから歌を?」
「私……」
 梨音ははずかしそうにうつむいた。
「昔から好きなんです。私、歌以外はなにをやってもダメで、勉強もあんまり好きじゃなくて、仕事をするなら音楽関係がいいなぁって。だからたくさんの人に聞いて欲しくて。教授は『君の実力なら大丈夫』と言ってくださるのですが、すごく不安で。奥田さん、私、受かるでしょうか」
 心配そうな声に俺は顔をしかめた。
「その後ろ向きな考え方何とかしろ。これから受けるってのに落ちる心配だけか? 少しは本番どうするのか考えているのか? まあ大丈夫だとは思うが」
 目の前にあったから何となく梨音の頭を撫でていて、はっとして手を引っ込めた。悲鳴でも上げられたらやばいと思ったが、彼女は何にも言わず赤い顔でうつむいていた。疲れたのか? 風邪でもひかれたら大変だ。
「俺、レポートあるから部屋に戻るな。おまえも寝ろよ。寝不足だといい声が出ないぞ」
「は、はい。おやすみなさい」
 梨音の声を背中に俺は部屋を出て自分にあてがわれた部屋に向かった。今日こそレポートを仕上げてしまわないと。扉を閉めてノートパソコンの電源を入れて、上着のポケットから新品の耳栓を取り出した。これで今日は朝まで集中だ! そう思ってはいたのだが……。
 ケータイの目覚ましがブルブルとポケットの中で震えて、朝が来たことを告げた。顔を上げれば画面一面に訳のわからないローマ字が並んでいる。キリのいいところまではやったことは覚えているが、いつの間にかキーボードに突っ伏して眠ってしまったらしい。データが消えていないことを確認してから、DELキー押しっぱなしで意味不明の文字を消していく、その時ふとかたわらにクッキーの皿がお茶と一緒に置かれているのに気が付いた。不格好で手作りっぽい。お手伝いさんかな? それともおばさんかな? 今日はやけにサービスがいいなぁと、手を伸ばしたら人の気配を感じた。ふり向くと梨音が立っていた。
「え?」
 自分の声が耳の中で震える。
 梨音は俺に手を伸ばすと柔らかい指で頬に触れた。いつも歌うとき見つめている口が、いつもと違う言葉を紡いだが聞こえなかった。彼女は困った顔でもう一度同じ事を言ったが、俺が困惑している間にさっと表情を変え、ばたばたと部屋を出て行ってしまった。
 いつ入ってきたんだ?
 ゆるゆると耳栓をはずしてノートパソコンの横に置くと、昨日から着ていた服を着替えた。ふと、冷め切った紅茶の横にあるクッキーをつまんだ。悪いのは形だけで素材も味も申し分なかった。まさか梨音の手作りか?
 足取り重く朝食に降りていくと、目を赤くした梨音がうつむいて廊下に立っていた。
「あの」
 そう口を開きかけたのを、俺が止めた。
「今日も帰ったら聞くから。それからクッキー、うまかった」
 照れくさくて上目遣いでそっと彼女の顔を見ると、梨音はうれしそうに頬を染めていた。俺もほんのりと笑ってはみたが、いつの間に来たのか、梨音の後ろでおばさんの鬼の形相に硬直した。
「二人とも、いいかしら」

 食卓に三人が座るのと同時におばさんが話し始めた。給仕してくれるお手伝いさんはともかく父親である県会議員氏も触らぬ神に祟りなし精神で我存ぜぬの姿勢を貫き新聞に目を通しながら黙々と食べている。
「奥田さんにはとても感謝しているの。梨音さんの歌は格段によくなって、先生方にお褒めのお言葉を頂きましたわ。でも梨音さんを部屋に連れ込むなんて……」
 冷めていく朝食を前に、俺はおばさんへの憤りを隠せなかった。俺が梨音相手にそんなことするかよ。
「お母様、奥田さんは悪くありません。私が勝手に」
「おだまりなさい!」
 おばさんの金切り声に隣の県会議員氏が口をはさもうとしたが、鬼の形相に黙り込んだ。
「奥田さんには新しい下宿に移っていただきます。後で不動産やさんに案内してもらいますから、荷物をまとめていただけますか」
 怒りで腹の中がどうにかなりそう。これ以上おばさんの顔を見るのも嫌だ。俺は即座に席を立った。
「お世話になりました!」


 新しい下宿はひとり暮らし専用マンションだ。家具付きのところだったから、買いそろえなくて済んで助かった。
 引っ越し早々レポートを徹夜で書き上げて提出。留年は回避された。ほっとしつつカップ麺で夕食を取る。わびしい生活だが自由でいい。なによりここは壁が厚くて静かだ。
 でも、静かすぎても落ち着かないものだな。
 パソコンを立ち上げて、ソプラノ歌手のアルバムを再生。梨音を教えているときに参考にとレンタルしたやつだ。
 何曲か後にさんざん聞いた歌が始まった。
 加藤周一作詞・中田喜直作曲 さくら横ちょう。
 梨音と違う安定した高音。豊かな叙情性。目の前に満開の桜が咲き誇っているかのように思えるから不思議だ。でも、若い果実のように青臭くいきいきとした声ではない。
 この歌のように、あいつはここにいない。また会ったとしてもあのおばさんがいるんだ。梨音との間にはなにも始まらない。

 ふと、上空から幻の花びらがひらひらと舞い落ち、俺の頬に触れた。
 梨音が俺の頬に触れたときのように。

 これじゃない。
 俺が聞きたいのはあの歌だ。青臭くて音がはずれる度にイライラするあれだ。急いでケータイから、考え得るだけの知り合いにメールをばらまいた。
『聖音大のコンサートのチケット、手に入らないか?』

 数日後、チケットを持っているという同じ学部の女と学内のカフェテリアで待ち合わせた。友達が聖音大にいるのだそうだ。
「悪いな。無理言って」
 彼女は高そうなバッグから一枚の紙切れを取り出した。
「奥田君が音楽好きなんて知らなかった。知り合いでも出るの?」
「ちょっとな」
 そう言われて差し出されたパンフを見て愕然とした。梨音の名前がない。俺は慌てて立ち上がり、チケットをカバンに入れた。
「これチケット代。いろいろサンキューな」
 財布から二千円出してテーブルに置くと急いで外に出た。ケータイから電話をしてみたが、梨音の家は留守電で誰も出やしない。こうなったら家に直接行くしかない!

 電車に乗って、通い慣れた道をたどっていく。見慣れた街角の中にあるはずの前の下宿先は、早々に駐車場になっていた。なんだよ。早すぎるじゃないか。そう思っていると、彼女の家から相変わらずのへたくそな歌が聞こえてきた。またピッチがあってない。他にも言いたいことが山ほどあるのに。チャイムなんて押したらきっとおばさんに追い返される。さてどうしたものかと思っていると、音が止まり、窓から梨音が顔を出した。その時の顔はびっくりしすぎていて目が飛び出るほどだった。
「奥田さん!?」
 自然に笑みがこぼれる。なんだ。平気そうじゃないか。
「よう。花でも見に行くか?」

 俺たちは電車を乗り継ぎ、大きな市民公園に来ていた。ここには早咲きの桜があって、毎年この時期にきれいなピンク色の花を付ける。去年物好きな悪友が提案した早すぎる花見の場所を探した。あやふやな記憶を頼りに砂利道を歩いていくと、地味な色の木立の向こうに淡い色を見つけた。急ぎ足でその真下に出る。
 咲き誇っていたのは河津桜。ソメイヨシノよりも大きく鮮やかなピンクの花を満載した枝は、音もなく風に揺れていた。
「きれいだろ? 本番前に咲くこれを見せておきたかったんだ」
 すると梨音は顔を曇らせた。
「オーディション、残念だったな」
 落ち込ませてしまうだろうかと思ったが、そうではなかった。梨音は思い切り俺に頭を下げたのだ。
「ごめんなさい。あんなに教えていただいていて、申し訳ないとは思ったんですが、私、棄権したんです」
 意外な言葉に俺は聞き直した。
「棄権? かなり歌えるようになっていたのに」
「歌うと、つらくなってしまって……」
 梨音の声がだんだん小さくなっていく。
「たくさんの人に歌を聞いてもらうんじゃなかったのか? 辛いから棄権するなんてその程度だったのかお前!」
 俺の怒鳴り声に犬を散歩しているおじいちゃんが目を丸くして通り過ぎていく。俺はすぐさま恐縮して口をつぐむと、梨音が珍しく口をとがらせた。
「奥田さんに聞いてもらえないのに」
「はあ?」
 なんで俺?
「奥田さん、あの時の返事、聞かせてください」
 あの時、といわれて聞こえなかった梨音の言葉のことだと見当が付いた。
「悪い。あの時耳栓していたから、何言ってるのかわからなかった」
 すると彼女は惚けたように口を開けたが、すぐほっとしたように微笑んだ。
「そうだったんですか。私てっきり……」
 なんなんだよ、それ。
「じゃあもう一度言ってくれないか?」
 梨音ははずかしそうに顔を伏せ、それでも思い切ったように顔を上げた。
「もう二度と言いませんから、ちゃんと聞いてくださいね。あの」
 そこまで言って彼女は口をつぐんだ。
「どうしても言わなければいけませんか?」
「すぱっと言ってしまえ。すっきりするぞ」
 このままでは俺がすっきりしない。
「じゃあ、言いますよ?」
 小首をかしげて、かわいいじゃないか。
「オーディションに受かったら、ふたりっきりで桜を見に行きましょうって、言ったんです。それで」
「桜、見に来てるけど」
 話を分断した俺をにらみ、梨音は思い切りむくれた。
「ええそうです。今見に来てます。奥田さんに先を越されたんです!」
 梨音はくるっと後ろを振り返りうつむいた。何かをこらえるように肩が小刻みに震えている。まるでウサギみたいだ。
「それで?」
「あの歌のように花を見て、何かを始めるでもなく一緒にいられたらいいなって」
 もごもごと口ごもる梨音ははずかしそうに顔を伏せた。
「……え?」
 戸惑う俺に梨音がはにかみながら微笑む。
「にぶいです。奥田さん」

音とは、物の響きや人や鳥獣の声、物体の振動が空気などの振動として伝わって起す聴覚の内容、またはそのもととなる音波そのものを指す。
 つまり、その音は相手に届いたときはじめて、「音」と認識される。

 だが梨音が発した「音」を瞬時に理解することは出来ず、10秒以上経過した今になって、そのはずかしげな仕草に納得がいった。
 梨音のくせに、俺のことをにぶいなんて言うとは許せん。
 俺は梨音をぎゅうぎゅうと強く抱きしめ、耳元でささやいてやった。

「五月蠅い」

 先に言うな。 
 





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