<優等生の価値>

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 キスをして、家の前でバイバイした。


 家人はただいまも言わずに風呂場に駆け込む。脱ぎ散らかした服をもどかしく洗濯機に突っ込み、風呂場の扉を開けると、シャワーのコックを思いきりひねった。まだ冷たいままのシャワーに体を当てると、心臓が思い切り飛び跳ねた。ぶつけた肘と膝に水がかかってひりひり痛い。

 どうしてこんなことになってしまったのだろう。
 きっと、千ヶ瀬君は酔っていただけに違いないのに。

 唇に手を当てる。
 手の感触は千ヶ瀬君の唇の感触とは違って硬いし温かさも足りない。
 それに、鼻をくすぐる香りもなかった。それが恋しいと思った。もう一度キスしてほしいと思って……頭を振る。

 水滴と一緒に体の中からアルコールが流れ出て体が醒めていく。それと反対にやっと温かくなってきたシャワーに体をゆだね、ぽたぽたと髪からしたたる滴に視点を合わせる。
 ぼんやりと見ていたら、目頭が熱くなった。

「っく……」
 声を殺さなくては。家人に気付かれては困る。

 何故涙が出るのか、判らない。
 飲みに行きましょうと言われただけなのに、酔った勢いでキスしただけなのに……、どうして泣けるんだろう。
私は千ヶ瀬君に好意を持っていた。
 でもこんなに心が苦しくなるなんておかしい。きっと、まだ酔っているんだ。
 そう。酔ってるんだ。

 これは、恋じゃない。



 そして、千ヶ瀬君の採用試験があり、千ヶ瀬君は無事合格。課長も部長も出来る部下ができたって喜んでいた。
 私はいつも通り朝のお茶を男の人達に配って歩いた。女の子達はこういうこと、好きじゃないみたいだけど、これも気持ちよく仕事をして貰うためには必要なことだと思うし。
「あ、白井さん」
 目の前にお茶を出すと、部長が言った。
「今度千ヶ瀬君のお祝いをしようと思うのだけどね。今度の土曜日がいいと思うのだが……海岸で場所取りを誰かに頼んで貰ってくれないか」
「……海岸……ですか?」
 はて、海岸で何をしようと? 
「白井さん忘れてる? 今度の土曜日は花火でしょう?」
「ああ……そうですね」
 大抵仕事をしてるから忘れてたわ。
 この会社から一キロくらい離れたところにある海岸で毎年花火大会が開かれる。それはそれは盛況で毎年交通渋滞がすごいの。帰りの電車なんて、花火の客でごったがえしてめんどうったら。
「じゃあ、頼んだよ」
 自分で頼んでくださいよね、部長。
 と、言ってみたかったけど、まあいいか。
「あ、そうそう。女の子は浴衣がいいね。みんなにそう伝えてくれ」
「それは部長本人から指示を出してください。私が言ったところで聞いてもらえませんから」
 きっぱり。
「ははは……そうだな、あ! 千ヶ瀬君!」
 部長がいきなり立ち上がって手を挙げた。その視線の向こうに千ヶ瀬君がいた。
「では、失礼します」
 一礼して、私はその場を立ち去った。千ヶ瀬君とはあの夜から話をしていない。向こうは話したそうだけど、私はずっと避けていた。話すこともなかったし。
 そのままの足で部署内の宴会部長と呼ばれている大野君のところに行って、さっき頼まれた場所取りの話をすると、大野君は笑顔で答えてくれた。
「海岸で場所取り? オッケーオッケー。やったげる」
 軽く引き受けてくれる大野君に、私は安堵する。これで他の人を頼まずに済むし、彼に頼んでおけば安心だわ。
「そのかわり、差し入れ頼むよ。とりあえずビール何本かとおつまみね」
「はいはい」
 暑い中取ってくれるのだからそれくらいはしないとね。
「千ヶ瀬さんの歓迎会と兼ねて、……なんだよな?」
「そう部長は言ってましたけど?」
「じゃあ、全員参加だな。シートとか……何枚いるかなぁ……」
 ぶつぶつ言っている大野君の言葉にかちんとくる。
 はあ!? 全員参加なんて冗談じゃないわ。
 向こうの方で林さんたちが千ヶ瀬君に絡んでる。浴衣がどうのって聞こえてくるよ。
「今度の土曜日だが、全員浴衣着用で頼む」
 なんて、部長の声が聞こえると彼女たちがきゃあって喜んで……。
 こ、こういうのを殺意というのよ、きっと。ふつふつと胸の奥から沸き上がってくる部長への怒り。ああ……ここに包丁が無くてよかった。あったら絶対絶対刺してる。

 今日も残業。千ヶ瀬君と。
 ここのところ話したそうで必ず残業する千ヶ瀬君。理由はわかっている。あの夜約束したものね。採用されたら彼のおごりでご飯を食べに行くって。でもどうしてもそんな気持ちになれなくて。
「……いつ行きましょうか」
 なんて言ってくれるけど、行きたくないの。本当に。
「ごめんなさい。仕事が終わったらすぐに帰らないと。母の手伝いをする約束なの」
「それはずっと続くのですか?」
「……ええ」
 ずっと。と、考えて、この前の林さんと同じことをしているなんて。あの子のこと言えないわね。
「でも今度の土曜日は来るんですよね?」
 名残惜しそうに言うんだけど、ここはキッパリ!
「仕事よ。その日も」
「じゃあ、僕も手伝」
「結構よ。私の仕事ですから」
 自分の仕事を人になんて任せられないもの。千ヶ瀬君のあのコロンの香りがすぐそばでして、クーラーで冷え切った肩が千ヶ瀬君の温かみを感じる。すぐ後ろに立っているんだ。と、思って、すごく辛くなった。
 逃げ出したい。今すぐに。
 ものすごい感情の渦が私の中を駆けめぐり、それに押し流されそうになる。流されたら、涙が堰を切りそう。
「じゃあ、土曜日の仕事が終わったら、一緒に飲みましょうね」
「……千ヶ瀬君、まだいるわよね? 私はこれで帰りますから、あとお願いしますね」
 そう言って今までやっていた書類をさっさと片づけて立ち上がると、そのまま更衣室へと急いだ。後ろで千ヶ瀬君が何かを行っていたみたいだけど……聞こえないふりをした。


 そして、問題の土曜日。
 集合場所である会社の前に総勢三十人の部署メンバーが集まっていた。
「花火大会に行くのにその格好ですかぁ?」
 と、林さんに言われてしまった。女性も男性も浴衣や甚兵衛を着ているのに、私はいつものスーツ。手に手にうちわやつまみやお酒が入った鞄やスーパーの袋をさげて、ホントにこれから行くぞ〜ってかんじ。
「ごめんなさい。急ぎの仕事があるの。先に行っていてください。私は後から行きますから」
「そぉですかぁ。じゃあ、千ヶ瀬君先に行きましょう」
 ハートマークを飛ばしながらにこにことしている女子達の中心に、なにか言いたげな紺の浴衣の千ヶ瀬君。
「じゃあ、あとで」
 と、付け足すように言って、行ってしまった。

 ずきっと、心にヒビが入った。
 おかしいな。なんでこんなにも痛いの?
 前は彼にまとわりつく女の子達がかわいくてうっとおしかっただけなのに、何故こんな気持ちになるのかしら。仕事に支障が出るわ。
「……あ、白井君」
 と、甚兵衛姿の課長がこちらに声をかけてきた。
「はい?」
「大野君に差し入れしてくれた?」
「はい、昼休みに」
 炎天下の中行ってきたわよ。差し入れ持って。大野君は日に焼けた笑顔でありがとうって言ってたけど、あれはかなり疲れてたわね。倒れてないといいけど。
「ありがとう。ところで、君は行かないのかい?」
「まだ仕事がありますので」
「そう? そんなに急ぎの仕事はなかったはずだよ。それに」
 にやにやとしている課長。な、なんなの、この笑い。
「今日点検のためにビル全体が停電になるから仕事は出来ないよ」
 ……か、課長も刺したくなってきた。なのに課長はにこにこして、
「着替えてきてね」
 なんて言う。仕事が出来ないんじゃ仕方ない……か。
「……わかりました。では後ほど行きますので」
 課長に一礼して、私は家に戻るために駅へ急いだ。

 家に着くと、自室に入った。
 そこには昨日のうちに掛けておいた浴衣が寂しそうに待っていた。万が一でも行く気になるかも知れないと思って用意だけしておいたのよね。
 それを持ってシャワーを浴びに行く。
 汗を流してさっぱりした肌に、ぱりっとのりのきいた浴衣が気持ちがいい。帯を締めて髪を無造作に上げる。ゴムで止めた後組紐でそれを縛って玉の付いたかんざしを挿し、薄く化粧をして、「行ってきます」も、もどかしく、私は家を出て……絶句。
 家の前に千ヶ瀬君がいた。ななななんで千ヶ瀬君がいるの!?
 ……と、考えていたら、課長のにこにこ顔が浮かんだ。そっか、課長に頼まれて断り切れなかったのね。課長も課長だわ。主賓の千ヶ瀬君を私なんかの迎えによこすなんて。
「……行きますよ」
 浴衣姿の千ヶ瀬君はいつもと違ってなんだか怖い顔をしていた。
 それはそうよね。8時を過ぎちゃったから花火大会行ったところで終わりを見られるかどうか。
「ごめんなさい」
 一応、謝っておこう。だって、せっかくの花火だったのに。

 私たちはそれからずっと無言で駅まで歩いた。
 そして、人でもみくちゃになりながら満員電車に乗って、会社の近くの駅で降りてそこから海岸まで歩くことにした。
 その間も始終無言だった。だから、鼻緒が擦れて痛かったけど、言い出せなかった。

 海岸にたどり着く前に、花火はフィナーレを迎えた。
 堤防の向こうに見える色とりどりのスターマイン。
 大きな花火、小さな花火、ぱちぱちとはじける火花達。
 なんて、綺麗なんだろう。

 いつも会社の窓からビルの向こうに小さく見える花火を見るだけだった。それがこんなにも綺麗なものだったなんて。これじゃ、みんな見に来るはずよね。

 そして、大音響としだれ柳のような光が頭を垂れ、水面にたどり着くのを見届けると、人々から拍手喝采が起こった。思わず私も手を叩いていた。音楽ならブラボーっていうんだろうな。花火はたまやかぎや、だっけ??

 それが終わると、銘々の家に帰るんだろう、人達が退去して帰り支度を始め、歩き始めた。人波に揉まれそうだわ、なんて思っていると、千ヶ瀬君が手を繋いでくれた。
「……終わっちゃいましたね」
「怒ってるわね。みんな」
「大丈夫ですよ。みんなには帰るって言っておきましたから」
「……え?」
 どういう、こと?
「これから少し付き合ってくれません? 一緒に飲むって約束したでしょう?」
 そう言って、笑顔のままの彼は、私を置いて出店へと走っていってしまった。
 
 ぽつん、と、残されてしまった私は人混みに流されないように、近くの電柱にもたれて立った。そうしないと下駄で擦れた足が痛くて。
 暫く待っていると、人混みを掻き分けながら千ヶ瀬君がやってきた。
「ビールにたこ焼き、枝豆。いやあ、店じまいだからって安くしてくれたんですよ」
 両手にいっぱい抱えてきた彼は満面の笑みだった。
「行きましょう。せっかくですから」
 何故そんなににこにこしているんだろう。私ははぐらかして、避けていたのよ?
「さあさあ」
 って、背中を押されて、私は堤防を降りることになってしまった。

 誰もいなくなった海岸は、さっきまでの人混みが嘘のようだった。海岸といっても砂浜ではなく石がごろごろしている。堤防はさっきまでの花火客が残していったゴミが散乱し、あんまり綺麗とは言えなかった。
 水際には若い子達が花火をしていて、花火大会の余韻を楽しんでいるみたい。

 巾着の中からハンカチを出して海を一望できる場所に座ると、千ヶ瀬君がビールを渡してくれた。
「……ありがと」
 ぷしゅっと缶を開けると、彼もそうしてプルタブを引っ張って、こつんと私の缶に当ててきた。乾杯ってことね。私は観念してそれを一口飲んだ。ほろ苦い後味が、なんだか泣けた。口を開いても何を喋っていいのか判らない。その代わりもう一口ビールを煽った。もうちょっと飲めば気持ちよくなれる……かな? でも、あんな失敗もう二度としたくないし。
 たこ焼きをつついて、枝豆をもさもさ食べる。
 千ヶ瀬君も何も喋らない。

 あんまり静かで、思わずため息をついた。
 寄せて返す波の音。
 夜の海なんて初めて。

 さっきまでいた若い子達がにぎやかしく帰って行き、海岸は私たちだけになってしまった。
 居心地が悪いなぁと思っていると、千ヶ瀬君が言った。
「花火大会、来たこと無いんですか?」
「うん。いつも仕事してたし。それに……」
 来たくなかったし。
 そんなに魅力を感じるものではなかったのよ。去年までは。浴衣なんて機能性に疑問があるし、動きづらいし。
 ……ああ痛い。下駄なんて脱いでしまおう。足を揃えてするすると足を抜くと、その上に足を置く。やっぱり豆が潰れて皮がぺろんとめくれていた。
「それに?」
 千ヶ瀬君が私の言葉を繰り返す。うう〜ん。どう説明したものか。
「……なんでもない」
 そう答えて暗い海を眺めた。
 下駄からの開放感が心地いい。仄暗い街灯のおかげで足下は少し明るいのがいいわ。このまま波打ち際まで行ってみようかな。
 どきどきする胸がアルコールと一緒に私の考えを奪っていく。隣にいるだけで冷静になれないなんて、私らしくない。
 と、怒った顔をした千ヶ瀬君が、
「足、痛かったんですか?」
 って、聞いてきた。
「うん……まあ」
「血が出てるじゃないですか」
 って言って、私の足下にしゃがむと、足に手を当てた。
 ぴりっとそこから電気が全身を駆けめぐり、その甘さに顔が熱い。
「大丈夫よ。これくらい」
 私はビールの缶を置くと、そのまま波打ち際まで歩くことにした。
 ちゃぷちゃぷと波に足を浸すと、潰れた豆に滲みた。海の水は火照った体には少し冷たくて、心地がよかった。
 もう少し向こうまで行ってみようかなぁ……。
 浴衣の裾を少し持ち上げて、くるぶしまで。もう少し持ち上げて向こうずねまで。
 …と、なにかが髪からするりと抜けて水の中へ落ちた。
「……あ」
 しまった。今のはかんざしだ。浴衣に合わせて買ったのに。
 この辺り、だったかな? 足で探ってみるけどわからない。
「どうしたんですか?」
「かんざし、落ちちゃって」
 すると、千ヶ瀬君は浴衣なのにざぶざぶと海に入ってきて、海の中に目をこらしたり、手を突っ込んでくれたりして探してくれた。私もそうしたんだけど、暗くて全然見つからない。袂を押さえながら水の中に手を入れると、
「濡れますよ?」
 そう言う千ヶ瀬君も裾が濡れている。
「……あ、ありましたよ」
 千ヶ瀬君が私のすぐ後ろでそう言った。
 よかった!
 と、思って振り向くと同時に、砂利に足を取られて海の中で転んでしまった。腰まで海水に浸かってしまった。千ヶ瀬君は呆れたようにこちらを見下ろしていたけど、そのうちくすくす笑いだした。
「よく転ぶんですね」
 浴衣が足下にまとわりついて嫌な感じ。袂が水を吸ってすごく重い。
「……バカだと思ってるでしょ」
 私も思うもの。どうしてよりにもよって千ヶ瀬君の前ではこんなにバカをやっちゃうんだろうって。いつもならこんなところで転ぶことなんてしないし、そもそも男の子と飲むなんてこと、しないのに。
 体が波と一緒にゆらりと揺れて、心も揺れてしまう。
 千ヶ瀬君は微笑むばかりで私に手を差し伸べてくれた。その手が何故か憎らしく思えて、思いきり引っ張っぱると千ヶ瀬君はそのままぐらっと倒れて、海の中に膝建ちになってしまった。千ヶ瀬君はどうして引っ張ったのかと瞳で訴えてきてたんだけど、ふっと口元で嗤った。
「あなたっていう人は……」
「ほら、バカにした」
 千ヶ瀬君はくすっと笑って濡れた手で私の髪にかんざしを挿した。彼の手に付いていた水滴が私の髪を頬をぬらす。
「濡れてしまいましたね。帰りましょうか」

 帰ろうと言われて、急に胸の奥が痛んだ。
 あの夜と同じ痛み。
 どうして千ヶ瀬君の前だと苦しいんだろう。
 これは恋じゃない……と、思いたいのに。でも。


「帰……ら、ない」
 心の方が悲鳴を上げた。

 帰れない。このままじゃ。
 と、考えて、何を考えて入るんだろう、と、頭を振る。

「あ、ほら、浴衣が濡れちゃったし、親に言い訳するのが面倒で……」

 千ヶ瀬君はゆっくりと立ち上がり、私の手を掴むとぐいっと引き上げてくれた。その顔が怒っているような気がして、居たたまれなくて私は彼に背を向けた。

「ホント、あなたって人は……」
 後ろから聞こえる声は、呆れかえっているように思えた。
 そうね。私も呆れるもの。何してるんだろう、私。迷惑を掛けてばかり。
 濡れた足下が冷えて、体のそこから冷えていくみたいだわ。
 と、後ろから千ヶ瀬君の手が伸びてきて、後ろから抱きしめられ……。

「そういうとこ、……好きです」
千ヶ瀬君の声が、耳元を擦った。

 そのとたん、苦しくて、苦くて、それでいて甘い感情が、胸の奥からあふれてきて……

 十代の小娘のように「帰りたくない」と、泣いた。

 千ヶ瀬君はそのまま耳元で「いいですよ」と、ささやいた。



 優等生でいることが、私の価値だと思っていた。
 それを壊す勇気が無くて、ずっと守ってきた。

 でも、もう、いいって、思った……。



 そして……

 次の朝は、とても穏やかで、気怠くて、甘かった。
 優等生を捨てても、私が私だったことがなんだか可笑しくて、千ヶ瀬君に昨日の葛藤を話してしまった。
 呆れるかも、と、思ったのに、
「……ったく」
 って、言いながら千ヶ瀬君は、私の頬にキスをして、

「そういうとこも、好きなんですよ?」

 と、笑った。


おしまい










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