家についての考え方はいろいろあるが、最近、賃貸のままでいいのか、それともどこか気に入った所に持ち家を得るべきか考える。
そうは言ってもご多分にもれず、予算は極めて限られているし、好みとしては庭がほしい、そして都心に出るのに便利が良いのが好ましい。どこを妥協するか、という選択をみんなしているんだろうなぁ。
そんな私の迷いをよそに、植物たちは初夏の賑わいを見せている。この安らぎをなくす暮らしは淋しすぎるなぁ。
勝手口からなんとなく外に出て、辺りに植えた植物や雑草に触れる、という一瞬も、知らず知らずにほっとする瞬間になっている。どこにいたって自分が作り出そうとすれば同じような状態は作り出せるんだろう。決心次第であることには変わりない。
年をとったら家賃を払えなくなる、という現実的な点かな、要因は、、
きょうは昼ごろからは晴れるとかいう予報だが、今のところ五月闇というにも近い外の様子。アジサイの彩りが美しい梅雨どきの日。
我が庭はいま、キュウリ、トマトが伸びつつあり、ユリが数日前から一気に開きだしたところ。ギボウシの花茎もニョキっと出始め。みなさんと同じく、毎日変化があって楽しいところです。
こことところ近所のネコたちがあまり来なくてさびしいところです。ネコってどうして急に来なくなったりするんでしょうか。そして昨日は、見たことのないネコが庭に座ってこっちを見ていました。不思議。なわばりが変わったのかなぁ。
これまで網戸がない掃きだし口の窓を開けてカーテンだけにしておくと、いつの間にかネコがはいりこんでいて、「コラッ!」とつまみ出していたりしたのに、ちっともはいってこなくなると、とってもさびしいー。
今年は、湯たんぽを出す必要も感じなかった去年の冬に比べ、
湯たんぽが毎日活躍しています。
すでに見直されて久しいこの昔ながらの道具のすぐれていることは、非の打ち所がないくらいです。
もちろん朝、湯たんぽのお湯で顔を洗っています!ちょうど適温で具合のいいこと。
東京でも何度も雪が降り、家の入り口の雪をどけたりしました。路地の奥なので、出られなくなったら困るので(?)。
庭の柿の木も雪化粧し、霜柱でざくざくになる日もいちだんと多いこの冬です。東京では霜柱も近年減ったような気がします。
そういえば霧なんかもあまり出なくなってしまいました。
たしか以前は、霧で徐行運転するために電車が遅れるなんてことがよくありましたが。
この冬は、趣味の琴を弾いたりすることも始めました。
ちょうど今ごろの曲、宮城道雄作曲の「初鶯」など、障子の外で雪がしんしんと積もっているのを感じながら弾くのも気持ちの洗濯になります。
「鶯の初音めづらし 梅一樹 たずねて来鳴く、、
あすよりは なれて鳴かなん 散る花の深さも知らで、、」
今朝のNHKニュースの中で富士山の見える金時山に登る人たちのことを伝えていましたが、
日常のいろんなことをふっと忘れるひとときを持てることは幸せであり、次へのエネルギーの源になるものです。
金時山に登って富士山に会うことでまた生活に返っていく人たちと同じように、今の私にとっては、下手たけど琴を弾いて、その曲に描かれた世界にはいっていくことが、浄化のときかもしれません。
またこの古い家にも、この琴の音が栄養になってくれるといい、などと思います。この家には長生きしてほしいから。
なんとなく気ぜわしく過ごしているうちに、またまた季節は巡って冬になった。
これではちっとも「日々を楽しむ」になってないなー、という日も多いのが昨今の現実.
今年は柿が去年の分までよく実ってくれた。
幸い心待ちにしてくれる人たちがいて、宅配便で送ったりして楽しんでいます。
古い家には大概庭に柿の木があったもののように思いますが、この頃はそういう家も東京ではだんだんと減っているように見受けます。
うちの庭の柿は木が大きくなりすぎて、上の方は高すぎて採れません。もっと小さく育てられなかったものかなー、と下からはるかに眺めるばかり。一体樹齢何年なんだろう??
戦後すぐの頃は庭の柿で飢えを凌いだなんていう話も聞いたけど、この木はその頃からあったんだろうか?
収穫といえばついでに、稲作のほうも、みごと穂が出て一応お米ができたのです。
刈り取って目下乾燥させているさいちゅうです。ほんとはもう脱穀していいんでしょうが、なかなかその段取りにはいれないのが実情、、
暖かすぎる日が続いていたのが、急に冬が到来したここ数日。
枯葉を掃き、湯たんぽを出し、毛布を干し、火鉢の炭を買い、、
来たるべき季節の準備はなんとなく楽しいものです。
障子に映る影も長くなったようです。
9月は、「なんだかんだ、あれやこれや」と、生活のことでもがいているうちに過ぎていった。つまりは、時間的に忙しいわけではないのに、ホームページの更新に着手する気持ちの余裕がなかったのだ。いつもながら「人の一生って、この分でいったら短いなー」などと思うが、そういう自分を受け入れて生きるしかないのだ。その辺はけっこう楽天的なので、世に言う鬱病などにはならないと思うけど、心の中でちょっと「とほほ」と感じていることは確かだ。
あのひどい暑さが去り、家の周りの空気は、しーーん と静まり返り、大気が地面にすーっと沈んでいくようだ。
夏の暑さでくたびれた植物の手入れに庭に出ると、なんと、ギボウシのかげにガマくんがくつろいでいた。
地面に半分ほど埋まっている、いぼいぼの背中が見えるでしょうか。
ネコたちに見つからなければいいが、、と少し案じていましたが、その後数日するといなくなっていました。
夕方、家の裏手で、「ドサッ、ドサッ」とはねて移動する姿が見られたので、住みかを少し移動したらしいことがわかりました。
きっと、私たちよりもこの家の周囲には詳しいんでしょう。
気ばかり慌ただしい私をよそに、植物たちは時節の到来をちゃんと知っています。
そして、まだ青いと思っていた柿の実が、いつの間にか少し色づいているではありませんか。
去年は10個もとれないくらいでしたが、今年は期待できそうです。
「喫茶 古い家」を訪ねてくれる人たちのお土産にできるといいなー。
「猛暑」なんていう言葉がいつからできたのかわかりませんが、
このごろは、「真夏日」ではとても言い表せない、ひどい暑さの日が増えました。
以前の記憶の中では、夕方になれば涼風が吹いてきて、「ああ、やっと暑い夏の一日が暮れていく、、」という、ほっとする感じがあったように思いますが、今では夜も暑さから解放されない日々。
風景だけは少しほっとさせてくれて、目だけ涼しくなった日にとったのが上の写真。
夕焼けが美しい日でした。中央線沿線ではあちこちで阿波踊り大会が開かれるこの時期、静かな夕景色と賑やかなお祭りの声が、夏の終わりを彩っています。
上の写真をフラッシュ撮影するとこんな感じ。
目を涼しくさせてくれるガラスのものを茶箪笥に。
角度によっていろいろに見えて、表面が滑らかなのが気分を穏やかにさせてくれる瓶、、
選んでくれた人の気持ちも想像して、見るとにっこりするような物です。
人は年をとってくると、こういう周りの人たちとの関係から生まれる思いが増えていくから、若い時にはなかった滋味がそなわっていくのでしょうか。
「年はとりたくないね〜」というのも本当ですが、年をとったからこそ、という良さも持っている年寄りになりたいものです。
わが古い家の庭付近では、こんな光景が繰り広げられています。
木の上で待ちかまえているのが、トラ2匹のおや猫なんですが、今では親子という自覚がなくなりかけているようで、どうも一緒に遊んでいるように見受けられます。
田んぼも相変わらずこんなふうにされて。
稲葉そよぎて秋風ぞ吹く、、、、、というのはもう少し先になりそうですが、何もなかったようでも少しの記憶がまた自分の中に蓄積した、何十回目かの夏。
夏の終わりがさびしいのは、凋落の季節というだけでなく、この、記憶の蓄積ゆえのようでもあります。
時期が来てアルバイト先を退職したところ、こんなすてきなお花をもらいました。
きれいなお花、みんなに見てほしくてここに載せまーす。
椅子を買いました
実はこの家には椅子がありませんでした。
すると、長く家にいると、食事のときもパソコンで作業するときも座布団や畳に座っ ているので、だんだん足が痛くなることは事実。
でも、それも慣れでして、休み休みやっていれば平気なんですが、ちょっと贅沢し て、こういう折り畳みの椅子を買いました。
帰宅してほっとひと息で、お茶を片手にぼーっとするとき、
庭仕事をしたあとに、やっぱりお茶を片手にきれいになった庭を眺めるとき、
パソコン作業後に、またまたお茶を片手に歌舞伎のビデオなんか見て気分転換するとき、
が目下、一番この椅子の活躍のとき。
座り心地がよくて、一度座ったらなかなか立てなくなります。肘掛けの手触りが滑らかで、するすると手でなでていると心も滑らかになる気がしてくるし、深めに座れるのでゆったりと体を休められます。
左右の広さも広めにできているので座った足の左右に余裕があり、背もたれの柔らかさ加減も気持ち良い。
とまあ、この椅子の宣伝のようになりましたが、大変気に入っているというわけです。
小さな古い家にこの椅子がずっと出ていては、ちょっと窮屈ですが、折りたためるのでだいじょうぶ。折り畳むときの手触りがまた、木と革なので、金属と違い柔らかくていいです。各部が折り畳めるようにぴたりと加工されている手仕事感も、好きなんだ。
今、お茶の間の前の庭はチューリップの球根を上げたあと、青いビニールシートを敷き込んだ小さな「田んぼ」になっています。
ささやかな暮らしのささやかな楽しみ、試み、っていうところです。
日々生きるのは、苦しきことのみ多い、、というのは大げさだけど、うっとうしいこともままある。が、いいことも多い。

古道具市で買った建具を蝶番でつないだものと、知り合いの古い家を壊すときにもらった瓦と一緒にあじさいを飾ってみました。赤い団扇がはいるとぐっと色っぽくなるような。
日々いろんなポーズで楽しませてくれるクロシロちゃん。
ある日こんな清楚な花が庭に咲いていた。
「梅雨」、「じめじめ」、というイメージが強い六月がやってきました。
今年は今のところ、まださらっとしていてたすかります。
生活上のあれやこれや、またパソコン上の不具合などがあり、更新がとだえとだえになっていて、反省! ほんとうはもっともっと更新するべき、と思っているのに。
あちこちでドクダミ(十薬)がさかんに咲くのが見られるようになりました。
嫌われつつも、よく見ると白い苞と真ん中の黄色がさわやかで美しく、うちでもこんなふうに壺に入れて飾っています。
裏庭の塀ぎわにドクダミ群生地(?)がありまして、あんまり群生していたのを抜き取って範囲を狭めて保存しています。減らして空けた場所に朝顔の種をまきました。
庭は季節につれて変化しています。トマトとキュウリ、順調です。たった3本ずつの苗ですが、私が世話するには適量です!

ご存知のとおりキュウリは今、一日でにょきっと大きくなるので、二日ほど前にとった写真のこのキュウリはすでに大きくなって私たちのお腹の中にはいりました。
ミニトマトは、うちの庭は日当たりが抜群ではないので、まだ赤くなりません。
それでも、毎朝、今日はどうなったか、風で枝が折れてないか、と、眺めています。
キュウリはすでに、支柱のてっぺんまで伸びてしまったので、これからどうしよう〜、と思っています。
ちょうどユリが咲き初めました。
この時季にアジサイとユリがあってほんとによかった、と思うくらい清楚な花ですね。
ギボウシやミズヒキの隣りで光彩を放っています。


裏庭に笹だか竹だかわかりませんが、生えてきたのを、今のところそのままにしています。
お風呂の窓の外側のところなので、ま、雰囲気として悪くないかな…などと思って。

玄関まわり。ギボウシを株分けして鉢に揚げたもの、ミニヒマワリなど。
冬の間、陰になって日当たりが悪いので、あまり地面に植えず、時季になってきれいに咲いた鉢のものを置いています。

気分屋であまり植物にとってはありがたくない管理者だと自覚していますけれど、ぼちぼちと庭とおつきあいしています。
これはなんてことない庭の一部の写真ですが、この中央の細長い土のところは、実は「ネコの道」です。
最初引っ越してきたときは、それに気づかず、何か植えたりしてしまったのですが。
ちょうど写真の上のところが塀の切れ目になっていて、ネコたちはそこからこの庭に飛び降りてはいってくるようになっていたのです。
飛び降りて着地する地点は、いつもドスッという衝撃を受けるので草もはえずに地面が固くなってます!
であるから、それに気づいてからは、その区域には何も植えないようにして、今年、ミニトマトとキュウリを植えるときに、余っていたレンガを置いて道のようにしたのでした。
これは種もみをまいたプランター。
…なのに、中に子ネコが…。
こら〜 やめて〜…と叫びたくなる光景でした。
まだ初夏というには早い時期ですが、雨上がりの緑濃い情景は、春より少し先の季節の匂いを思い起こさせます。
ざーっと降ったあと、急に晴れ間が広がったので、思わずカメラを持って外に出ました。



雨をしとどに浴びた植物たちが日光を受けて元気を増している姿は、はつらつとして気持ちいいものです。雫が輝いて見えます。
この古い家も、まるで植物たちと同化したように、雨上がりの陽光の中にたたずんで見えます。平屋のせいかな。


前は「古い家」が好きというだけで、べつに「平屋」にはこだわっていなかったけれど、この家に出会ってから、平屋の佇まいが、とても好きになったように思います。
そこで営まれるであろう質素で着実な暮らしの、かそけきあり方に、共鳴するからかと思います。
大げさなもののない、見栄のない、心に栄養がいく暮らし。
住んでる家がどうだろうと、心の姿勢には変わりない、という考え方もできますが、やはり暮らしに触発されて心のありようは微妙に変わるもの。
ガラガラっと引き戸の玄関を開けて電球の灯った部屋に帰ってくつろぐ、という暮らしにほっとする感じのあるのは確かです。
もちろん好みはいろいろですが。

玄関の辺りもしっとりと濡れて梅の木から木漏れ日が。
知らないうちに咲いていた草花も輝いて見えます。


スズメが餌を食べにやってきたところが撮れました。後ろのフェンスの左のほうに小さく写っています。餌のお皿に降りたところを撮ろうとちょっと待ってみましたが、さすがに警戒してそれは撮れなかった!

シュロの葉も日光を通してあおあお。

クロシロちゃんは、たぶん喧嘩で足を負傷して養生中、、

「穀雨」という時季だけあって、このごろよく雨が降ります。
降れば降っただけ、あとの晴れにはいっそう地面がぬくもった感じが強まり、植物が生気に満ちてくるのを感じます。
何か夏に向けて私も作物をと思い、準備としてこの間、庭を耕し肥料を鋤き込みました。
初心者でも収穫が望めるものの代表、キュウリ、ミニトマト、ゴーヤにしようかな。あと、小松菜の種がまだ余っているので、それも端っこにまいちゃおう。
バジルや青じその苗を買ってきて、また去年のように裏庭にハーブガーデンを作ろう。バジルを摘んですぐパスタに混ぜて食べるのなどは、うれしいですよね。お豆腐やトマトにちょっと青じそをのっけるの、夏にこたえられません。
朝顔とハーブの棲み分けはどういう区分けにしようか。
、、などと、園芸好きの仲間には楽しい季節がやってきます。
いま、コデマリがきれいですね。
うちのは、引っ越してきて小さな苗を植えたもので、まだほんの小さい木ですが、無事咲いたので、剪ってきて飾っています。コデマリはこういうバックに合うと思います。
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家の北側にもすっかり陽が当たるようになったのでふきん類を干すにも乾くのが速くなりました。
そのほか、ついでに最近の台所から。
大根の葉を栽培(?)中
はや15,6年使い込んだ、木べら竹べらペア。
炒め物からしゃもじ代わりまで、何でもこれですみます。(すませます)
なんとなくフライ返しを買わないまま、これらで代用しているんですが、どうしても
困ることはあまりない(たまにはあるということ)。そしたら、先日、ホルトハウス房子さんという料理家の方も、道具を、「少し気に入ったくらいでは買わない」とか書いていたので、ちょっとニンマリ。いいのがあったら買うつもりではいるんですが。
なべ。
なべは洗うのが楽なのがいいですねー。このなべのおかげでどれだけ洗う時間が助かったか!
しかも焦がしてもだいじょうぶ。
ところで最近、近くの農産物センターで地元のキウイなどを作っている農家がそこで飼っているという放し飼いの鶏のタマゴを買うようになりました。
ずいぶん前から、タマゴがあまりおいしく感じられなくなっていたけど、なんとなくたまには食べていました。
せっかく23区をちょっと出た所に住むなら地元でできた野菜やタマゴを食べたいもの、と思います。いつもってわけにいかないけど、できるときだけね。
ご飯のできるのを待ちかねて、台所との境目に陣取ったまま寝入るクロシロちゃん。
暖かくなり出してから、ある日ひょっこりと庭の花が咲いているのを発見してびっくりすることがあります。
これはアメリカンブルーというのでしょうか?名前をよく覚えていませんが、去年買って、花が終わったあと地面に降ろして植えておいたもの。暖かい光を浴びて俄然勢力をつけ、たくさんの花を咲かせています。
みなさんのお庭と同様、草花がこんな感じに萌えだしました。
この家を借りて二年近く。ちゃんと計画した庭でなく、結局はきれいだと思った草花を適当に植えている庭になっています。茶庭のような整った庭にも惹かれるのですが。性格や諸事情により、、

どこの家でも今、庭やベランダは春の花や新芽でにぎやかですね。
ところで、味噌の仕込みは本当は秋にするそうですが、まだかろうじて間に合うそうで、先日行いました。うちの歴史上2度目の仕込みです。
左のが、みそ玉の状態。
右のが、みそ玉を樽につめているところ。
みそを作るために、質の良い大豆を買い求めて煮たわけですが、やっぱり良い豆だけあって、煮ている途中で食べてみると、ほんとにおいしくておどろくほどでした。
ひたすら3時間ほど煮て柔らかくなった豆をすり鉢ですってつぶします。
うちにある小さなすり鉢でするのは、けっこうたいへん!
二人で作業するけどすり鉢やすりこ木は一つしかないので、ボールや麺棒も動員。
無言でつぶしにつぶした大豆に麹と塩を混ぜてみそ玉ができるという段取りでした。
でき上がるのが楽しみです。
無言で体重をかけてする作業のあと、乾いたのどに、、
今年のお花見は、上野で。
場所とりで混雑する公園のまっただ中を避け、国立博物館の中にはいると人も減って少し落ち着けます。
すっかり日脚が伸びて、夕刻になってから宵闇が広がるまでに間があります。
昔から春の宵をうたった俳句や短歌が多いのもうなづかれます。
この雰囲気や匂いのようなものを呼吸して過ごす時間が長いんですから。
秋の灯点しどきも、さびしい風情に溢れていますが、
春の宵の、この、期待がふくらんでくるような甘いような気分を誘う時間の流れは、
また違う感慨を呼びます。


このような夕刻にはやはり、白熱灯の赤みのある光りがいいですね。
なぜかホームセンターなどで電球を買おうとすると、白い光の蛍光灯は「安売りセット」なんていうふうになってお買得なのに、赤い光の蛍光灯は安売りになっていません。
赤い光のものを買う人は少ないのでしょうか。
事務所なら白い光でいいけれど、家では赤い光がいいなー、と思う人は少数派なのか??
情緒形成にも及ぼす影響あると思うんだけど。
ある日の灯点しどきの室内はこんなふう。
二人以上のときは紙のフィルターを使いますが、一人のときはこんなのを使ってコーヒーをいれています。
もうかれこれ15、6年も使っているので、随分年期がはいってきました。ちょっと表面がくぐもってくると磨いたりして、きれいにすると気持ちよかったりします。
物をなが年使って経年変化の出るのはいいものです。愛着がわきますよね。
今日のコーヒーそのものは、こだわりでもなんでもなく、JRの駅に置いてあったパンフレットのクーポン券でもらったレギュラーコーヒー(ラベルは関係ない店のもの)をお手軽にいれて飲みました。
暖かい日には、そろそろ花でも買いに行こうかと思う立春の候ですが、また寒さが戻ると、窓から冬枯れの庭を眺める日に逆戻り。
それでもそうこうするうちにおひさまの通り道が、次第に変わって来て季節は着実に動いています。
冬至ごろにはこのフェンスのほんの上のほうにしか日が当たらなかったのが、今ではこんなに深く日が射しています。<
これは夏の間ハーブを育てていた裏庭。
今度の夏にはここにゴーヤを植えようかと思ったほど陽射しがあったのです。
夏と冬ではずいぶん違うものだと改めて実感。
生まれてこのかた何十回となく夏と冬を過ごしてきたのに今さら。
梅のつぼみ
上野の縁日で、マッチ棒くらいのを買った椿。何年前だったのか。今年も無事に花をつけてくれました。
家の周りの暖かい場所を見つけてネコたちが、、
春を待つ玄関付近
暖冬とはいえ大寒を過ぎたこの頃、北風の冷たい日もあります。今日などはやっぱり風にあたると「冬」 を実感。
この古い家も冬の空気に囲まれています。青空と北風、関東地方の冬らしい日。
寒いながら空はあおーいので、干し物をしながら思わず歌でも歌いたくなるような日。
歌といえば、この間、安野光雅氏と藤原正彦氏の対談形式の「世にも美しい日本語入門」(ちくまプリマー新書)という本を読んだら、戦後すぐのころ、三鷹あたりの路地裏で子どもたちが「かーってうれしいはないちもんめ」などと遊んでいた、という話が出ていました。
この家はさぞかし、そういう声を聞いていたことだろうと想像しました。
明治大正ごろに日本に来た人が、日本人はしじゅう歌っている、という印象を持ったとのことですが、今はそんな光景はなくなったように思います。
唱歌や童謡を聞くと、なぜか心を揺さぶられる、という感性が消えていくのは惜しいと、私などは思います。この本でもそういう意見が書かれていて、うれしくなりました。
さすがに切ってくるほどの花はなくて、いまはツタの葉などを挿しています。
挿す花もなくて一壺の春を待つ 二石
それでも
「地の底にあるもろもろや春を待つ たかし」
という句そのままに、庭の地面をみてみるとチューリップやユリの芽が出始めています。チューリップはちょっと早すぎるんじゃないかと、また上から土をかけてやりたくなるんですが。
植物も寒中で休眠中のため、庭に出る時間もめっきり減る時期。野菜くずを埋めに行ったりするのが主な庭仕事??
なぜか小松菜がわさわさと繁ってきました。
食べられそうな葉がたまると、抜いてきて食べます。
父母の家の庭になったみかんやゆずをもらったので、ジャムにしょうかと考え中。
壁の絵もやっと変えました。
上の本で勧めていた鴎外の『即興詩人』、読み始めました。文語文が心地良い流れです。字面も旧仮名遣いが美しく。でも、長いんですよね。読み終えられるか?
雨や曇りの日が多いと読書が進むんだけど、晴れていると、外に目がいってしまうので思索的な方面は止まってしまうのが常です。
まだまだ冬まっさかり。猫たちは日なたで丸く。
12月にはいっても暖かい日が続いていると思っていたけれど、葉が落ちて木々が丸坊主になってくると、いよいよ、人目も草も枯れる「冬ざれ」という感じが深まってきます。昔に比べれば寒さもずいぶん柔らかい気がして、少なくともこの東京の多摩あたりでは、厳しい冬、というほどでもありませんが。

菊も枯れていっそう冬らしさを醸し出しています。菊は盛んに咲いているときは、もちろん秋の空気を清らかに彩りますが、枯菊となってからも、なんとなく季節を感じるのに欠かせない雰囲気を持っています。
菊好や切らで枯れゆく花の数 太祇
枯菊に尚色といふもの存す 虚子
枯菊と言い捨てんには情あり 松本たかし
枯菊となりてののちの日数かな 安住敦
など、枯菊に風情を見出す感情は多いようです。
今年は、暖かいまま落ち葉の季節になったので、柿落葉が、青いままのものも多かったようです。この家の柿の木は、幹でネコたちが爪とぎをするのでちょっとかわいそう、、
先日、大家さんから脚立と長いハサミを借りて、柿を収穫。少ない収穫でしたが、ひときわ美味しく感じられました。高ーい所のはとても届かないので鳥たちへ。
今年は障子を張り替えようと思い、一枚ずつほそぼそとやってます。昔ならある日に一斉に行ったんでしょうが、怠け者なのでそれも億劫で、、写真は、一枚張り終わって乾かしているところ。
夏目漱石の作品で、たしか『明暗』だったかに、障子の張り替えの場面があるのを思い出します。曇った寒い冬の日に、主人公の妻が頭の痛いのを我慢しながら居候している夫の弟と二人で障子を張り替えるという場面。いかにも寒々として手や足が冷たそうな感じが出ていました。
庭の草花も立派に紅葉。後ろは早くも芽を出しているユリ。
ネコもお互いくっつき合ってダンゴ状になっています。
冬枯れは、いかにも寂しいものだけれど、天気のいい日は日向が気持ち良くぽかぽかとするし、またクリスマスを待つ季節でもあるというわけで。
街にクリスマスソングが流れてくると、長年の習いか、なんとなく華やいだ気分になって、師走気分も盛り上がり、ちょっと家にもクリスマス風なものを飾りたくなります。
茶箪笥の飾り棚に小さなクリスマスツリー、玄関の額にクリスマスカード、、くらいですが。
冬至が一番日が短いとはいえ、もうそれに近いくらい日が暮れるのが早い。
この家は平屋なので、短日をより感じるようです。冬が近づくにつれ、お昼を過ぎるともう、なんとなく気忙しく感じられるようになります。
短日の塀にもたせて帚あり 素風郎
短日やばたばた閉ざすみやげみせ 播水
短日や粗朶に紛れて火吹竹 今夜
などと、昔の人も日の短くなる頃にはなんとなく慌ただしく感じて過ごしていたらしい。
今年は11月にしては暖かいのでまだ冬を実感するほどではないけれど、もう菊の葉が黄色く枯れて来たのをみれば確実に師走の足音はしてきているようです。
夜が長いということは、そろそろ読み応えのある本を用意して冬籠りも、またおつです。
関東では今ごろの季節には乾燥した晴れが続くので蒲団もよく干せて気持ちいいものです。
今年は庭の柿はウラだったようで、去年の豊作からすると、収穫はあまりないようです。それでもいくらかは赤く実っているのが写真でわかるでしょうか、、
ニャンコも昼のうちによーく日光を吸収しようといっしょうけんめいです(?)
冬至芽をとろうと、菊の植え替えをしました。来年、芽を挿して育てる気です。
いきなりゴミの写真から始めるのもナンだと思い、いま美しい小菊の写真を載せてみました。菊は強くて、5月に挿し芽をして以来たいして世話もしなくても、今花盛りでうれしいです。鉢に挿したものは玄関の前に移動させたりして用いています。秋を表すのになくてはならない小道具。どうしても強いものが残って色数が減ってくる傾向にあるようなので、来年はまた種類を増やしたい、、
きっと今日あたりはあちこちで菊花展があると思われるので出かけてみたくなります。
そして題名の「野菜くずやたまごの殻」のことですが、、
こんな手付きボールみたいなものにその日の分を集めておいて、庭に埋めています。生ゴミ処理機を用意しようかと最初思いましたが、ただ埋めるだけでもべつに不都合もないようです。野菜くず、お茶殻が主です。去年の落ち葉が腐葉土になっている場所と重なっているので、さぞかし肥沃な土ができている??かもしれません??

おまけで、小松菜の芽が出たところを見てください。そろそろ間引くといいのかなー?お味噌汁の具くらいにはなるかな?

額の絵もやっと替えました。ひとつだけ写真を。古布で晩秋の感じのでるものをいれてみました。冬のモチーフのものがないので、なにかいい絵などないかなー。

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