毎年の挨拶
本日は4月1日。むかしの話でございます。
我がおふくろは84才で天寿を全うした。
我がおやじは、おやじの兄貴(私の叔父さん)の嫁の妹を嫁にとった。兄弟が姉妹とそれぞれ結婚した。里は、我が家から500メートルと、村仲間の嫁とりであった。
おふくろは晩年、軽い認知症にかかった。昼過ぎになると外出する。「おばあさん、散歩?」と声をかけるとにこっと笑った。暫くすると近所の人から、「おばあさん来ているよ」と連絡が入る。せいぜい500の範囲が散歩の範囲であった。おふくろはケーキが好きで、よくケーキを買ってきてくれた。ある時迎えに出かけたらケーキ屋さんで土産を買っていた。ガラスケースのこちらから、これとこれとこれと指差している。新しく入った娘さんはまだ慣れないのか、「おばあさん、これとこれと言われてもこちらからどれだか分かりません。おばあさん、名前を言ってください」。
おふくろは・・・・『よねです』
これもふる~い噺でございます。
学生テニスの夏合宿は金沢は小立野のお寺を利用した。古い貸しふとんをただ同然で借りた。すえたカビの臭いがする。
ふとんが温まってくるとモゾモゾと動くものがある。虱である。進駐軍のDDTを思い出す。虱はホワイチイチイとか、きたんばえともいう。虱を取って地面に落とすと北を向いて歩き出す。
登山で道に迷ったときは羅針盤代わりとなる。それを信じて山を降りて道に迷った人がいた。その虱は与太郎だった。
丸々と肥った虱である。「俺の血を吸ったか。一寸の虫でも命あるものは殺してはいけない」と、親父から教わっていた。本堂の柱の小さな節穴に入れ、割り箸で栓をした。
翌年の夏合宿も同じお寺を借りた。割り箸の栓を見つけた。
「そうだ、去年虱を閉じ込めた。どうなったかなぁ」
虱はすっかり痩せ細りミイラになっていた。
「悪かったなぁ、こんなに痩せてしまって」
手のひらで眺めているとモゾモゾと動き出した。
「蘇生したか、良かったなぁ。おうおういいよ、少し血を吸いな」
虱は手首のほうをカリカリと噛んでいる。
その内にすうーと血管に入った。途端にバターンと絶命した。
『しらみがホトケ』 |
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春永の夢
近藤でございます。
これも、中央線での出来事でした。
終電近くで、車内で立っているのは、あたくしだけでした。
その時、ひだり方から、見上げる妖艶な視線を横顔に感じました。
それとなく顔を向けると、視線の源は、年の頃は二十七、八、三十でこぼこ、白いといったら白い。朝、食べた、おみおつけのワカメがあばら骨の三本目に引っかかっているのが透けて見えるようでした。
色の白い中高(なかだか)のなんともいえない、い~い女で、お白粉ッ気なんざぁ微塵もないが、生地がきれいなのか、あァ絵の中から抜け出たようないい器量。
「姐さん、イキだね」
『あたしゃ、カエリだよ』
一方あたくしは、誰がなんと言おうと、焼きざましの堅餅よりか、堅いんでございましてね、石橋の上でもって転ぼうもんなれば、石の方で「痛い」っていうぐらい。
その時は、それだけのことでございました。
乗り越した駅は三つですみました。
その年はそのまんま暮れまして、
一陽来復あらたまの新年を迎えました。
久しぶりに、本当に久しぶりに、シティホテルのバーで飲みました。
カウンターにかけてチビチビやっておりましたら、いつぞやどこかで感じた、あの妖艶な視線を感じます。
もしや。・・・・・・・ 本当でした。
ちょいと隣にィ柔らかいのがこしてきたような、高揚感です。
で、どうもその女が、あたしにトォンと来ておりまして、「情事(いろごと)なんてのは顔や姿でできるもんじゃねえんだよ」と、勇気百倍。
ここが思案のしどころで、むやみにニヤニヤしちゃあいけない。かといって、まるっきり知らん顔もできないから、お世辞の一つもいって、隣の席に移りました。
どうも、あの人とは、あっという間に深間になっちまう気がしております。
浮名が立ちゃ、それも困るし、世間の人に、知らせないのも惜しい仲、桜満開の季節のおしらせでございます。
(2007.4.1日)
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ヘボゴルファーのため息
『あとどのくらい? 歩いて5分です』
静岡県のとあるゴルフ場のことでございます。
5番ホール、496ヤード、パー5、右ドッグレック。
その日は朝から調子が悪く、ダボとボギーの繰り返し。
ロストでキャディーさんにも迷惑をかけた。
そろそろビシーといきたい。
風は軽いアゲインスト。パワーフェイドで、右、山すそ狙いで攻めよう。
スタンスよし。グリップチェック、OK。イメージを高め、スイング。
チョロ。第二打は出すだけ。まだ300ヤードぐらいはありそうだ。
第三打は、得意のピッチングの距離を残すところまで運んでおこう。
『キャディさ~ん、残りどのぐらいあるの~?』
『そうですねー、残りは~、歩いて5分です。』
『すぐ、打って下さい』
次の6番ホールは、156ヤードのパー3。
軽いフォロー。グリーン左手前は深いバンカー。
グリーン奥は浅いバンカー。ピンは右奥。得意の6番アイアンで攻めよう。
スタンスよし。グリップよし。イメージを高め、スイング。
ナイスショット。
ピンの三メートル前に落ち、真っ直ぐに向かっている。
当たれ。残念。
ピンをかすめて転がり、奥のバンカー。
第二打は、下りのパンカーショット。
トップ。
今度は手前の深いバンカー。第三打は出ただけ。
20メートルほどのパットが残った。
『キャディさ~ん。このライン、フック?、スライス?どう、打てばいい?』
『すぐ、打ってください』
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興福寺 阿修羅 (甘酸っぱい少年の憂い)
東京からの転入生で海野君という生徒がいた。お父さんは大きな会社のえらいさんだった。いつもさっぱりとした服を着ていた。もの静かで頭が良く優しい子であった。またたく間に女の子の憧れとなり、人気を独り占めした。本人は迷惑そうであった。地元のやんちゃ達は何かにつけ意地悪を工夫するが、そんなことは意に介さず、やんちゃ達のまわりにくっついていた。女の子達にいちゃいちゃされるのを拒んでいる風であった。放課後、海野君は暗くなるまで、ひとりぽつりと鉄棒で 遊んでいるのをよく見かけた。「一緒に帰ろうか」「ぼく、もう少し遊んでいく」。いつもの優しい顔で少しはにかんでいた。遠くの何かを見つめているような目をしていた。
四十数年ぶりの同窓会で、彼はオランダのお姫様と結婚して、スイスのお城に住んでいるという噂を聞いた。興福寺の阿修羅を始めて見た時、海野君の顔が目に浮んだ。知的で内に秘めた思いがにじみ出ていた。「山のあなたの空遠く、幸い住むと人のいう・・・・」カール・ブッセの詩を口ずさんでいた。
男はだれしも人生の中で「思春期」を通過する。壊れやすく、繊細で、ナイーブで、子供と大人の狭間に立つ微妙な空気に包まれる時期がある。一才前後の赤ん坊をあやしているとき、一瞬そんな表情をするときがある。昔は、街で見かける中学生にも、思春期を感じる子供の顔があった。心はまだ少年のままなのに、顔と身体が日に日に大人っぽくなっていく。周囲の仲間や大人たちを漠然と意識し、物静かな異性を具体的に意
識し始める、ほんの短い人生の期間がある。こんな時期の少年は心の中でどんな世界を見ているのだろうか。
興福寺の阿修羅の顔は、少年の思春期の顔である。
奈良はひとり旅がふさわしい街である。興福寺の阿修羅像は、昔、奈良国立博物館のホールの中央に立っていた。まだガラスケースに囲まれてはいなくて、手を差しのべると細い二の腕に触れることができるほど、まじかに見ることができた。思えば、三つの顔と六本の腕、しかもいつ折れても不思議ではないような華奢な仏像である。そのまま風にさらわれてしまいそうである。「よし、俺が守ってあげるからね」と、頼まれてもいないお節介を焼きたくなる。きりっと締まった顔がそんな淫らな心を見透かしているようで、思わず心の中で「冗談、冗談」と苦笑いをすることになる。奈良に行くたびに私は阿修羅といつも一時間は対話している。
阿修羅像は、今、興福寺の宝物館のガラスケースに収められている。いつ行っても長蛇の列である。西日が差し込む晩秋のころが一番よい。 |
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東大寺・戒壇院の四天王
近鉄奈良駅を下りてまっすぐ東に向かうと、興福寺の芝生のにおいがしてくる。
さらにまっすぐ進むと奈良公園の端に出る。公園といっても樹木の生い茂るそれではなくて、広~い芝生の公園である。ここまでくると人ごみも半数ほどになる。食事のために奈良の町に入っていった人、興福寺を尋ねた人など、それぞれのお目当ての方へ分かれて行く。聞き耳を立てると鹿の気配がする。奈良の鹿は人間を過剰に警戒するのでもなく、せんべいを強請って、まとわりつくのでもない。なんとなく敵か味方か、人間様を大きく見つめているのかもしれない。人の声が大きくなったところが東大寺の参道である。左に折れるとそこは土産物屋が並び、善男善女で賑わっている。
南大門(なんだいもん)の高い敷居をまたぐ。一時ひんやりとする。運慶作の国宝、仁王さんが睨んでいる。
仁王さんは本堂を向いて立っておられる場合と、参道を睨んでいるお寺とある。なぜだか訳は知らない。程なく大仏殿の回廊にぶつかる。団体客の多い大仏殿は次の機会にして、本日は人の少ないところ、静かなところの方へ進みたい気分である。回廊に沿って左に進むと、松林の間に一筋の道がある。何の案内も出ていない。右の古ぼけた築地塀(ついじべい)を伝う。この道は、大仏殿の喧騒がかすかに聞こえるがめったに人と
は行き違わない。「戒壇院」とかすかに読める板看板の架かった小さな山門をくぐると、声を潜めたくなるほどの静寂である。
「ひと目だけよろしいですか」師走に入り風花が舞うほどの寒い日であった。拝観時間が迫っていた。重い木戸を開けて堂宇に入る。堂宇は一層冷え冷えとしていた。リングのような壇の上の四隅に四天王が待ち構えてた。ずっと怖い表情を浮かべている。35年前にはじめて会ったときは、壇上に登ることができ、手を伸ばせば肩に触れるほどの近さのところで、一人締めできた。どんなに怖い顔をしていても、こちらが鼻歌交じりの気分の時でも、大声で怒鳴ることも、喚き散らすこともない。受付
の人がやさしそうな年配の人であることを確認して、「上がらせて頂いてよろしいですか」小さな声で「どうぞ」と言って上り口の衝立を横にしてくれた。
口元をきりっと下げる持国天(じこくてん)、眉間にシワをよせ、鼻息の荒い多聞天(たもんてん)、ウェストがくびれ筋肉質の広目天(こうもくてん)、白い歯を剥き出しにして、目を大きく開いた増長天(ぞうちょうてん)。私は遠くを見つめながらやっぱり静かに怒っている広目天の「怖さ」のほうが、全身で怒りを爆発させている増長天より、怖いような気がする。いつの間にか自分の眉間にもシワが寄っていた。
戒壇院の四天王は客仏ではないかと思う。本尊のいない戒壇院に四天王だけが祭られているのはなぜか。三月堂の日光、月光菩薩と作り方と年代が同じだというし、しかし、三月堂には本尊に相応しい四天王があるし、日光、月光菩薩と四天王に相応しい本尊はどこへ行ったのか、などと思い巡らせていた。
仏像めぐりはひとり旅がお勧めです。 |
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夫の定年 妻の定年
わたしの後輩に、定年の日に妻から「わたしも定年にさせていただきます」と言われるのではないかと心配している者がいる。
そう言われたらどうするの、と聞くと、後輩は、「いいだろう、じぁ退職金を半分わけてやろう」と答えるつもりだと見栄をはる。わたしは彼らが職場結婚であったので夫婦ともよく知っている。先日、何かの会で奥様を見かけた時、息子さんの自慢話を一通りお聞きした後「ところで、最近、彼は元気?」とそれとなく尋ねたところ「息子にくらべたら、主人なんて全然魅力なくて。最近わたしがスーパーに買い物に行こうとしていたら、主人が『一緒に行ってやろうか』と言うのですよ。わたし本当は、一緒にこられると、足手まといになると思ったんだけど、そう言ってはいけないと考えて『じゃ、お願いします』って言ったんです。そしたら、買い物袋を提げてわたしの後からついてくるのですよ。」と言う
「いい旦那さんじゃないの?」
「なんだか最近、急に優しくなって、休みの日なんかどこか散歩に行こうと誘ってくれるようになったの。今までそんなことなかったので急にどうかなったのかと心配しているのですよ」
わたしは、思い切って聞いてみた。
「かれは、定年離婚されると困るから急にやさしくなったのではないですか」
そんな話をした後で、彼女はふと真面目な顔になった。
「愛なんてものじゃないけど、夫にみじめな思いだけは絶対にさせたくないって気持ちはありますね」
まさにそれが愛なのだなぁと、口には出さなかったが、わたしは思った。
世の中の夫婦には、いろいろな愛のかたちがあるのだとも、わたしは思った |
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「工賃10万円」実現に向けて
障害者自立支援法が施行されて、福祉の内容が大転換された。「福祉」から「就労」への大転換である。障害者福祉政策が、措置から契約へ転換された。施設の運営についても、「管理」から「経営」へ変わり、厚労省は、決められた単価で良いサービスができない施設は、福祉の世界から「退出」してもかまわないという指針まで出した。どんな障害があろうとも、「自立して地域で暮らす」という理念が先行して、自立するための収入の確保や、地域で暮らすための施策も立てないまま法律は施行され、施設運営者だけでなく、サービスを受けている一人ひとりの障害者の不安が高まっている。ローマ法を持ち出すまでもなく、歴史的な悪法である。悪法は直ぐには改正されないという歴史的事実も見過ごせないことが、またやっかいなことである。フリードマン菌が世界の隅々まで蔓延してしまって、福祉の世界にまで競争原理を導入してしまった。介護サービス事業の会社の社長が、専用ジェット機で遊びまわっている。
しかしながら、評論家であれば自立支援法の悪法ぶりを見つけ出して、あれもだめこれもだめと、あげつらっておれば愉快なことであるが、私は、名古屋ライトハウスの現場を預かっている。悪法は悪法として批判しながらも、利用者一人ひとりのへのサービスが、今までより悪くならないよう戦っている。
「自立して地域で暮らす」という理念は、正しい。しかしながらその理念を実現するプロセスが間違っている。配慮が足りないと言っても良い。
まず、「自立」するためには、自立できる収入の確保が必要である。現在の平均工賃は、月額1?2万円と言われている。障害者年金を加えても、110万円程度であり、この水準は、生活保護の水準よりはるかに低い。工賃水準を上げるための施策を実施する前に、サービス料を徴収することを先行した手順が第一の間違いである。一年遅れで、工賃倍増計画とか、工賃ステップアップ事業を始めている。厚労省が設定したこの事業が目指す工賃水準は、月額3万円である。現状のまさに倍増であり、その目標を実現するのもかなりハードであることは承知している。しかし、障害者福祉政策の目標がこの水準で良いのか。3万円を実現したとしても生活保護の水準よりもまだ低い。厚労省はなぜ月額10万円を目指すと言わないのか。10万円を最終目標としてそのステップとしてまず3万円を実現するといえば、現場を預かる者としてもファイトが湧く。3万円を目標とするか、10万円を目標とするかによって施策は全く違ってくる。
障害者自立支援法のもう一つの理念である「地域で暮らす」ための施策も遅れている。その結果、寮生活をしながら仕事を続けている利用者の皆さんに、不安をあたえている。寮の解体の期限を法律で決め、新しい生活の場の提示をしていないための不安である。これが第二の問題である。
我が名古屋ライトハウスは、先人達の血の滲むような努力の結果、250人を超える障害者の人たちに働く場を作り、その平均工賃は月額7万円を超えている。今こそ名古屋ライトハウスが、日本の障害者就労のトップランナーとして、月額工賃10万円の実現を目指して、名誉ある地位を確立したいと、強く願っている。
なお、月額工賃10万円実現ための具体的な事業内容について、以下の通りと考えている。この「私も働くぞ、プロジェクト」は、社会福祉法人鉄道身障者福祉協会の懸賞論文で、第一席になったものである。
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ライトハウス近藤さんと懇談 ~ひまわりレポートより~ 書き手:せこゆきこ氏
名古屋へ車で帰り、午後からの会議に出席し、夕方から名古屋ライトハウスの理事、近藤豊彦さんと懇談しました。八田ひろ子元参院議員や佐藤典夫名古屋市議も参加しました。近藤さんは障がい者の雇用を確保し、収入をアップするために、災害用缶詰パン工場をつくったり、バリアフリーのホームページつくりなど様々な新しい取り組みをしてきました。今ホテルなどから出される生ゴミを使って肥料をつくり野菜や花つくりに挑戦しています。
いつお会いしてもそのバイティタリティに元気をもらうのですが、今日は、普通学級に通う視覚障がい児の点字教科書の問題についてお話をうかがいました。視覚障がい児が盲学校ではなく、一般学校へいった場合点字の教科書は支給されないのです。そのために子どもや親、担当する先生も苦労しています。点字教科書などをつくって個別に援助していた近藤さんたちが働きかけてようやく文部科学省は予算化したのですが、対象になると思われる2500人のうち400人の予算しか確保されていません。近藤さんは、一般校のうち、どれだけの視覚障がい児が学んでいるのか文部科学省が把握する事が必要だと考えていますが、なかなか進まないので、近くNPO法人で独自に調査するそうです。また教科書も点字本はかさばるので学校用と家庭用の2冊確保したい、教科書だけでなく副教材についても、また学校から家庭へもちかえるプリント類なども点字にかえる(すでに名古屋では近藤さんたちが機械を設置して協力をしています)ことや視覚障がい児を指導する先生たちの援助をする専門家の配置などを提案しています。それらについても近藤さんたちはボランティアなどの力をもっと活用できるようにと提案しています。ぜひ国会や名古屋市会でもとりあげられるよう約束しました。
不破前議長には「庶民の暮らしを視点に大河小説を書いて欲しい」と願っている近藤さんに最近の不破さんの著作や党創立85周年記念講演のパンフを差し上げました。また11月4日に行われる愛知赤旗まつりのご案内したら「へえ、三味線やそすけがくるのか、みんなによびかけるよ」と言っていただきました。
その後近くにあった視覚障がい者の寮をたずね、以前夏祭りでおあいした障がい者の2人の方にお約束した85周年記念講演のビデオを差し上げたら「こんな貴重なビデオを観せていただけるのですか」と喜んでいただきました。「また、今度感想を聞きに伺います」とお話ししたのです。 |
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北向きの部屋 ~改訂版~
私は本が好きである。読書も好きである。が、本が好きである。40年間買い続けて、今や蔵書は一万冊を超える。古本市場で高価な値段のつく本もある。先日、家内がその本を読んでいた。「だめだよ、その本読んだら」と思わず声を出すと、家内は納得いかない顔で「読んではいけない本があるのですか」と芝居口調でいう。家を出ている子供たちにも大げさに話す。いつも大笑いとなる。出張をする時は、いつも全国古書店案内を持っていく。知らない街を歩いて辿り着くと廃業してしまっていたということが最近目立つ。一度でいいから、ステッキで示してこの本棚の本全部とか、せいぜい店一例全部買いたいのだが、そういう本を揃えている古本屋は少なくなった。出張のたびに宅急便が届くので、家内は機嫌が悪い。書庫は、北向きの部屋が良い。
日焼けした本を見ると火傷をしているようで痛々しい。廉価本とはいえ、西日の当たる店先にほこりまみれの本を平気で並べている古本屋には二度とは行かない。本を大切にしない店主は信用しないことにしている。そういう店には、奥に入っても良い本には出会えない。新刊で読んで感銘を受けた本が、僅かのあいだに100円コーナーに並ぶ。この本が100円!?と悲しくなる。同じ本を二冊も三冊も買ってしまうことになる。こういうデリカシーを家内は最近になって理解してくれるようになった。作家も古本屋へ行くことはある
かと思うが、魂を絞り出して書いた自分の本がこんな扱いを受けたらと、作家の心情を察すると心が痛む。宅急便が届いた日は心豊かな日となる。本を綺麗に拭いて、帯を読み、装丁をながめ、まえがき、目次、あとがき、解説を読む。ハトロン紙で包んで一冊の作業が終わる。夜更かしの日となる。馴染みの古本屋さんから「いい本がはいりましたよ」と電話が入る。大作家の初版本が、帯つきで、200冊でたかだか5万円である。半分くらいは、既に蔵書している本であるが、全部届けてもらうようにしている。
古本の量販店が全国に進出して古本の価格破壊が起きている。古本マニアにとっては嘆かわしいことで、下取りがあまりに安いために良い本が市場から消えてしまった。初版三千部程度の本は、これらの量販店には出回らない。いつ読めるのかはっきりしない本を新刊で買い続ける負担は大きく、かといって古本屋めぐりをしても良い本には出合えない。本好きな者にとっての嘆きは私一人ではないだろう。
永年の夢が叶って、自分だけの書庫を持った。休日はほとんど此処で一日を過ごす。ドアを開けると古書の匂いがたまらない。「ああ、俺の城」だと心が弾む。好きな作家の本は目の高さにしまってある。井上靖、安岡章太郎、有馬頼義、高橋和己、黒岩重吾、井出孫六、水上勉などは、ほぼ全部の本が揃っている。直木賞、芥川賞の本もある。あぁ、この本は松本で手に入れたとか瞬時にタイムスリップする。
気が向くと古本の入れ替をする。この作家との会話はひとまず終わって、新しい作家の本を目の高さの棚に移し変える。古本は本棚に二重に入れてある。板で作ったゲタをはかせてあるので奥の本も見ることは出来る。揃えるだけの本はどうしても奥の列になる。
小説を多読するせいか、読後感だけが記憶に残りストーリーはほとんど忘れてしまう。二十年、三十年と経ってから読み返すと、あぁこんなストーリーだったのかと新しい本を読んだ時のような気持ちがする。ごく稀ではあるが、酒の席とか雑談の時などで本の話が出て、「あの本はこうこう書いてあるところに、俺は感動した」などと語られても、その本は間違いなく読んではいるのだが、相手が言うところは思い出せない。本当にあなたはその本が好きなのか、と怪訝そうな顔をされるときが本当に悲しい。
対談集とかエッセーは、比較的内容を覚えている。真ん中ぐらいのところの見開き右側の、終わりの辺りに、いい文章があったなぁ、と記憶しているものである。三島由紀夫の『反貞女大学』には、若い女性に軽く話すときに使える文章があったなぁ、とか、小林秀雄と岡潔の『人間の建設は』、文学者と数学者との対談でも、道を究めた人同士では話が通じるものだなぁ、とか、小泉信三の『海軍主計大尉小泉信吉』には、息子が出征するにあたり、心残りなく勤務させたいとの思いで、息子宛に書いた心に残る手紙があったなぁ、とか、懐かしい本のことが昨日のことのように思い出す。
「名文」とは何ぞや。どうも字を追ってみて情景が思い浮かぶような「視覚的」な名文がある。詩がその典型である。詩の場合には、リズムも重要な要素である。志賀直哉の『暗夜行路』、三島由紀夫の『金閣寺』がこれに該当する。森敦の『月山』も目で文章を追っていくと情景が見える。最近では、伊集院静の小説も私にとっては名文である。名文のもうひとつのカテゴリには、音とか「音色的」な名文がある。小説を、声に出して読むというのではなくとも、美しい日本語が聞こえてくるような文章である。幸田露伴の『五重塔』しかりである。吉田健一の『金沢』なども句読点のない長い文章であるが、美しい日本語が聞こえてくる。
点字図書館の仕事をしていたときに、「点字文学百選」に挑戦した。四年越しの仕事であった。直木賞作家の井出孫六さんに選書をお願いし、解説も書いていただいた。解説については井出さんが執筆に追われたため、最後の三十冊は私が書いた。十五歳までに読んでおきたい、少年少女文学百選と銘打って、感覚と文字が少し大きい初歩の点字と、普通の規定の点字、録音はカセットテープとCD、さらに大活字図書の五媒体でそれぞれ100タイトルを作るいう大事業であった。
『坊ちゃん』あり『小僧の神様』あり、『走れメロス』もある。100年経っても名作は名作である。目が不自由な人にとっては、点字では漢字が読めないとか、音だけで聞くので文字の意味の違いが理解しにくいとか、いろいろとハンデがある。しかしながら、本物の文学に近づいてほしい、との願いを込めて集めた。「点字文学百選」について、井出孫六さんがエッセーで書いており、『片手の音』という本に載った。子供が偶然にその本を読んで、「お父さん、すごいね」と喜んだ。
サラリーマンとして規定年数を無事クリアした現在、黄金の60代を読書三昧で過ごしたいと願っている。 |
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不機嫌な時代
福祉施設運営者仲間で、時候の挨拶のように交わされる、「不機嫌なはなし」から何とか脱却して、明るい話題を語り合うことができないものか、と思う。
「予算が削られて施設運営が大変だ」とか、「職員のベースアップもできなくて、モラルを高めていくことができない」とか、「設備・機器が古くなって故障ばかりするが、修理する予算もない」などなど、暗い話題には事欠かない。
酒の席での肴としての話題であれば、「そうだよ。俺のところも大変だよ」と話を合わせることもあるが、本気で「不機嫌なはなし」をくどくど言われると、黙ってはいられなくなる。「やっていけないのなら、やめたら」と、つい辛らつな言葉を発してしまう。
「そんなことで、盲人福祉は良いのですか」と、目が据わってくると、「あなたが代われば上手くいくよ」と、とうとう喧嘩腰の言葉が出てしまう。疲れだけが残る悪い酒となる。
組織は、民間であれ福祉であれ、「企業30年説」という、サイクルがある。誕生という、
(1)創業期、少年から青年という
(2)成長期、大人になった
(3)成熟期、そして老いていく
(4)衰退期である。
確かに、30年どころか、50年、100年を過ぎても今なお成長を続けている企業もる。これらの組織は、その時代その時代に社会の変化を取り入れて、新しい業態に自己変革した結果である。
自己変革できずに社会から消えていった有名企業はいくらでもある。
我々の業界は、今、どのポジションにあるのであろうか。成長期はとうの昔の話であり、成熟期の終わりかひょっとすると衰退期に入っているのではないかと思う。だから、私自身あせっているのである。毎日、不機嫌なのである。
この難局をどう乗り切るのか。業務の合理化・経費の削減等の対策では、当面は凌げるとしても、大きな流れを変えて、再び成長期に戻すことはできない。
10年、20年先までの組織の延命策は、組織の理念の再構築以外にはない。「初心に返り」、創業の精神を取り戻し、ともかくチャレンジする覚悟である。
障害者自立支援法が成立し、障害者福祉の基本理念が根本的に改正された今、チャンスといえばチャンスである。
法律的には、身体障害者福祉法34条適用事業に加えて、地域生活支援事業の受託を受けることが解決の糸口であると、考えている。 |
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百匹目の猿
船井総合研究所会長の船井幸雄さんの「百匹目の猿」を読んだ。「思い」が世界を変える、という副題がついている。本の帯には、多くの「思い」が一定数に達したとき・・・・、それは「真実」になる、と宣伝している。宮崎県串間市、石波海岸沖に辛島(こうしま)という島があります。周囲4キロほどのこの島には、海水浴をしたり、餌づけされた日本猿が棲息しており、「サル学発祥の地」といわれている。この猿に始めてサツマイモの餌づけをしたのが、近くの温泉旅館の女将でもある三戸サツヱさん(89)。50年前に大発見があった。はじめの頃、猿たちは、サツマイモの泥を手や腕で落として食べていました。
1953年のある日、一歳半のメス猿が泥を川の水で洗って食べ始めました。
メス猿のこの行動は、やがて若い猿たちや母親猿たちにまねられ、4?5年の内には、ほとんどの猿たちがイモを川の水で洗って食べるようになりました。ところがおもしろいことに、12歳以上のオス猿は、イモ洗いが群れに定着してから十年経っても、イモ洗いをしなかったのです。この話は、組織や会社の研修などの機会に取上げられます。いつも新しいことに挑戦するのは、感受性の強い若者である。しかも、女性である。女性の力をビジネスに生かそう。と語られたり、権力を持った
ボス猿は最後まで取り残される。皆さんも100目の猿になることのないように、心しなさい。という教材として語られます。
100目の猿の話はさらに続きがあります。この猿のイモ洗い現象は、ある時、大分県の高崎山の猿たちにも同じことをする猿がいることが発見されました。これは辛島の猿に定着してからのことですが、高崎山の猿たちとは何の関係もない猿たちです。共通点といえば、同じニホンザルということだけです。
高崎山の猿たちのイモ洗いは今でも続いています。アメリカの科学者のライアル・ワトソンが「生命潮流」という著書の中で、この猿のイモ洗い現象が遠く離れた辛島から高崎山に伝播した現象を「百匹目の猿現象」と名づけて発表しました。
世代から世代への継承であれば遺伝ということで説明できますが、同じ時代に距離をこえて伝わり共有されるとは不思議なことです。
ワトソンは、ある行為をする固体の数が一定量に達すると、その行動はその集団だけにとどまらず、距離や空間をこえて広がっていく、ということを科学者が発表したのです。何となく科学的というよりは荒唐無稽な珍理論のように感じます。ところが、80年代のはじめ、イギリスの科学者、シェルドレイクがこの仮説を証明して、「形の場による形の共鳴」として発表し、生物・物理学界で大きな話題となりました。
今では、理論として認められております。(ここまで、船井幸雄著、「百匹目の猿」の要約引用)私自身の長いサラリーマン生活を振り返ってみると、結果として、組織を乱すような言動があったように思う。 仲間と群れることを避け、同じ仕事をするのなら少しでも他人と違うやり方ができないか、他人と違う考え方はないのかを追求してきたような気がする。その上で、もし良い結果が出たならば、有頂天になっていた。周りの人にも自慢げに、「それ見よ」と話した。同僚や先輩達からすれば、可愛くない、鼻持ちならない人物と見られていたのであろう。「本物は伝わりやすく、時代をこえて理解される」などと一人強がって生きてきたようである。そのことだけが自分自身の存在証明であり、今どきの言葉なら「自己実現」の欲求であった。
先日、家内にこんな話をしたら、「落語の手遅れ医者だね」と言われた。皮肉っぽい言葉の端にも少しばかりの尊敬の気持ちも読み取れて、それはそれで好い会話であった。サラリーマン生活の最終コーナーで、今さらどう生きようかと悩んでも、それこそ手遅れでもある。
家内の言葉は、『今さらくよくよしても始まらない。自分の好きなように生きたら』、と励ましてくれているものと理解した次第である。
《Super positive thinkig》。これだけが最後に残された私の唯一の持ち味かもしれない。
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「見えないものを見る楽しさを求めて」 著者:究 土彦 序文
人間の歴史は戦争の歴史でもある、と文化的進歩人なる人たちはしたり顔で発言する。こうした言葉を聞いたり文章を読んだりすると、私は胸の奥に重い鉛を抱いたような暗い気持ちになる。戦争はいかなる理由があろうと回避しなければならない。人と人との争い、国と国との争いのような根本的な問題は、戦争では解決できない。戦争の犠牲になるのは常に一般の市民である。
人間は本来、優しい心を持っているものである。他人を傷つけたり殺したりするようなことは、母から、父からは受け継いではいない。
作家の、究 土彦さんは戦争に駆り出され、シベリアに抑留され、筆舌に尽くせない苦労をされた。その間の真実は家族にも話したくない体験であったことだろう。俺の一生はどんな人生であったのか、何故こんな運命を背負わなければならないのか、ひとり考えられた時もあったことであろう。
しかし究 土彦さんは帰国後、そのような運命を心の奥にしまいこみ、何事にも積極的に、明るく、前を向いて生活された。しかし70歳の時、さらに失明という試練に遭う。ここでも究 土彦さんは、奥様と二人三脚で運命には負けない生き方をされた。金婚式の事を話題にする頃、奥様は、究 土彦さんの腕のなかで、「幸せだった。ありがとう」の一言を残して、天国にいかれました。
処女作「ロシア物語」とこの「見えないものを見る楽しさを求めて」の根底には、人に対する愛が語られてる。究 土彦さんの作品から受けた影響は、文体とかいうことではなくて、いわば一人の人間として生きていく態度の問題であった。人間の心の内を、様々に彩色するようなことはこの作品にはない。つねに直言、つねに断言、それはあらゆる過剰なものへの嫌悪であり、乱用を拒絶している。
究 土彦さんは倫理的な人である。 |
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憲法論議のゆくえ
(2005年11月20日現在)衆議院選挙の結果、国民は自民・公明の保守勢力に政権を委ねた。得票率では圧倒的な勝利ではなかったが、議席数では憲法改正を発議できる議席を獲得した。その後の政治は、小泉総理の退陣のリミットを背景に、改革の名の下に意見の違いのあった問題が、矢継ぎ早に改正され、与党内での議論はもとより、野党との議論も結論先にありきの感である。
社会保障や教育、産業育成については、民主主義の原則である多数決で進行するのも、国民の選択の結果だといわれればやむおえない面もある。しかし、私は、こと憲法改正、特に憲法9条の条項についてはもっと慎重に議論を進めるべきであると考えている。憲法の制定過程がどうのとか、自衛権がどうのとか、現憲法が想定した国際連合の現状がどうのとか、憲法解釈上の議論はそれなりに論理的知的好奇心をそそるものであるが、問題は、「平和を実現する技術」について、知恵を出し合うことが大切であると
考えている。
憲法改正を急ぐ人たちは、「平和の理念」を標榜しながらも、他国からの侵略があったときに、「座して死ぬのか」と迫り、「平和ボケ」と議論を展開する。他国が日本を侵略してきたときには、「竹やりで戦う」というだけでは議論としては説得力に乏しい。しかし、「平和を実現する技術」を二重三重に準備し、それでも圧倒的な戦力で侵略されたときには、最後は竹やりで戦うという憲法を持つ日本は、いさぎよいと私は思う。そのような憲法を持つ国民であることを、私は、誇りに思う。
現憲法の前文(まえぶん)には次のように定められている。『日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであって、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。われらは、平和を維持しようと努めている国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思う。』これほど格調高い憲法を持っている国は日本以外にあるだろうかこの平和の理念をうけた規定が、第9条である。この前文と9条の規定があったればこそ、60年の平和が実現できたのだと、私は信じている。 |
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ボランティアを高く評価する社
ポール・ニューマンは、アメリカのコネチカット州に、小児ガンの子供の為のセンターを主催している。ゴルフ場ぐらいの広さの敷地に、ボートに乗れる池があり、乗馬を楽しめる芝生の広場があり、病院、ホテル、レストランもある。ヘリコプターの発着場もある。私財を投じ、世界の篤志家の協力を得て運営している。
不治の病の子供たちに、一週間とか半月、家族と共に過ごして、楽しい思い出を作って欲しいという願いである。私は10年前に仕事でこのセンターを訪ねたことがある。ポール・ニューマンが三時間にわたり施設を案内してくれた。日本味噌の前掛けを記念品で持っていったら大変喜んでくれた。自分で販売しているスパゲッティを作ってご馳走してくれた。ギャラはすべてこの施設に使っている。ポップコーンとスパゲッテイを毎日食べているとうれしそうに話してくれた。日本には、ほんの一部を除き、まだ、元気がない。企業の経営者にも明るさがなく、発言にも自信がない。高度成長時代には、将来への希望と日本を幸せにしているという自負があった。サラリーマンは退職後に夢を持てず、官僚は目的を失って変革を恐れ自己防衛に走る。選挙で大勝した小泉政権も、はっきりとした日本の進路を示してはいない。子供たちも偏差値競争に疲れている。ちょっとした事でキレてしまう恐れもある。そんな中で、いつも元気なグループが一つある。ボランティアのグループである。「私たちの力で、この冷たい社会を温かいものに変える」。そういう熱い思いがふつふつと湧き出している。
老いも若きも、男性も女性も、いやもうその熱気はすさまじい。ボランティアの仲間の人と話をすると、私も元気になってくる。日本の閉塞感を打ち破り、人間が本来持っている、ぬくもりに満ちた暮らしをつくりだすのは、いままでの政治家ではなく、ボランティアの力だと思う。ひたすら儲けを追う人や、ひたすら地位と権力を求める人たちは、古いシステムとともに、舞台から退場していただくしかない。
構造改革の過程で、多くのサラリーマンが失業した。その受け皿として、NPOが取りざたされた。3万を超えるNPOが活動を始めた。しかし、給料が払えるようなNPOはほとんどない。人間らしく生きたいと願う多くの人が、生活の為の最低限の収入が保証され、社会に直接大切な、意義ある仕事ができる環境が整えば、今の競争の社会から、新しい環境に移動することも可能である。
しかし、残念ながらまだ日本には「ボランティア」があたりまえの社会にはなっていない。行政のサービスと、民間のサービスと、NPOのサービスがバランスよく調和され、人間らしく生きる社会に組み込まれる日が近いといことになれば、日本も元気を取り戻すことになる。愛・地球博には三万人のボランティアが参加した。会期中、五日間だけの活動といわれ、もっと活動したいという人たちの不満が残った。
確実にボランティア人口は増えている。
NPO、ボランティアの活動は、GDPベースで30兆円と推定されている。
100兆円ぐらいを分担するような社会ができれば、さらに楽しい社会ができると思う。
「ボランティア」。これが、いま、もっとも注目されるキー・ワードである。 |
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近藤豊彦のおすすめ本 小泉信三著 「海軍主計大尉小泉信吉」 文藝春秋刊
私家版発行は、昭和21年。小泉家から親戚知己に配られた。
その頃は郵便物の検閲が行われていたのであるが、局員が小包のこの本を読んで、感動のあまり、小泉家をおとない、一冊、分かたれんことを乞うたと伝えられている。
私は、社会人二年制の時、今で言う、仕事のミスマッチに悩んでいた。そんな時にこの本に出会った。それ以来、11回の引っ越しをしたが、この本だけは手元から離していない。自分の息子が出征するにあたり、「心残りなく勤務させたい」との思いで息子宛に書いた手紙がある。以下にその手紙の部分を引用します。
『君の出征に臨んで言って置く。吾々両親は、完全に君に満足し、君をわが子とすることを何よりの誇りとしている。僕は若し生まれ替って妻を択べといわれたら、幾度でも君のお母様を択ぶ。同様に、若しもわが子を択ぶということが出来るものなら、吾々二人は必ず君を択ぶ。人の子として両親にこう言わせるより以上の孝行はない。君はなお父母に孝養を尽くしたいと思っているかも知れないが、吾々夫婦は、今日までの二十四年の間に、凡そ人の親として享け得る限りの幸福は既に享けた。親に対し、妹に対し、なお仕残したことがあると思ってはならぬ。今日特にこのことを君に言って置く。今、国の存亡を賭して戦う日は来た。君が子供の時からあこがれた帝国海軍の軍人としてこの戦争に参加するのは満足であろう。二十四年という年月は長くはないが、君の今日までの生活は、如何なる人にも恥ずかしくない、悔ゆるところなき立派な生活である。お母様のこと、加代、妙のことは必ず僕が引き受けた。お祖父様の孫らしく、又吾々夫婦の息子らしく、戦うことを期待する。 父より 信吉君』
ぜひ、ご一読ください。
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北向きの部屋
流行作家・原田宗典さんの朗読会を開催した。原田さんのエッセーの中に「視覚に障害のある人はどうやって芝居を楽しんでいるのか知りたい」という一節を見つけた職員が、「見えなくても、せりふを聴くだけで芝居は十分楽しめる」とつづった一通のメールが、この催しのきっかけであった。私は、本が好きである。読書も好きである。が本が好きである。40年買い続けて、今や蔵書は1万冊を越える。古本市場で高価な値段のつく本もある。先日、家内がその本を読んでいた。「だめだよ、その本読んだら」と思わず声を出すと、家内は納得いかない顔で「読んではいけない本があるのですか」という。家を出ている子供たちにも大げさに話す。いつも大笑いとなる。
出張するときはいつも古書店案内をもっていく。知らない街を歩いてたどり着くと廃業してしまったということが最近目立つ。一度でいいから、本棚一本とか、せいぜい棚一列全部買うといいたいのだが、そういう本を揃えている古本屋はない。出張のたびに宅急便が届くので、家内は機嫌が悪い。
書庫は、北向きの部屋が良い。日焼けした本を見ると火傷をしているようで痛々しい。廉価本とはいえ、西日の当たる店先にほこりまみれの本を平気で並べている古本屋には、二度とは行かない。本を大切にしない店主は信用しないことにしている。そういう店には、奥に入っても良い本には出合えない。
新刊で読んで感銘を受けた本が、僅かのうちに100円コーナーに並ぶ。この本が100円?と悲しくなる。同じ本を二冊も三冊も買ってしまうことになる。こういうデリカシーを家内は最近になって理解してくれるようになった。作家も古本屋へ行くことはあるかと思うが、魂を搾り出して書いた自分の本がこんな扱いを受けたらと、作家の心情を察すると心が痛む。宅急便が届いた日は心豊かな日となる。本をきれいに拭いて、帯を読み、装丁をながめ、まえがき、目次、あとがき、解説を読む。ハトロン紙で包んで一冊の作業が終わる。夜更かしの日となる。
朗読会ではいろいろな作品を披露してくれた。武者小路実篤の「進め、進め」が良い。『自分達は後悔なんかしていられない、したいことが多すぎる。進め、進め』『こんな歩き方でもいいのか。いいのだ。
一歩でも一寸でも、信じる道を進め、進め』50年前の詩であるが、現代でも色あせてはいない |