『全体目次』  『小説目次』  『本作目次』  『前へ』  『次へ』

 

  クライズヒルズ刑務所

 このゆりかごからの脱獄がまったくの不可能であることは、明瞭歴然である。いや、それどころか、いつまで正気を保っていられるのか、そちらのほうが心配であった。この隔離房は囚人の精神を破壊するための道具としか思われなかった。一週間もしないうちに破滅の時はやってくる、との予測は万更大げさではないだろう。無音の状態が、いかに人間の精神を萎ませるのか、ジャクリーンは本で読んで知ってはいたが、いざ、自分がその立場になってみると、本の記述が甘く思えるほどである。時計もとりあげられているので、時間の経過は給食によってでしかわからない。いずれ、扉の下の開閉口がガチャガチャと開けられ、食器が差し入れられる音を、腹をすかせた犬猫がエサに飛びつくような感覚で、待ち焦がれるようになるのではないかとジャクリーンは思った。
 サラについて変質者であるルイス・パーマーから得た知識で想像していた独房のイメージとは少し違っているようにも思えた。彼女は地下室の、ジメジメしたコンクリート剥き出しの部屋に幽閉され、日々、鞭だの、拷問ベッドだの、そういった奇怪な道具を用いられて苦しめられていると考えていた。写真にもそういう風景が写っていたのだ。もしかすると、こことは違う場所が他にあるのかもしれない。面会にきた時の彼女には痩れや疲れはあっても精神の破綻はみられなかったから、このゆりかごに長らく入れられていたとは思えなかった。
 サラの情報も折りをみて探っていかねばなるまい。
 それにしてもこの退屈! ボールペンの一本でもあれば、この永遠とも思える時の流れを癒すこともできるだろう。なにしろ落書のできる白い壁には事欠かない……。
 睡眠時間は電子ブザーが短くなって告げられる。だが消灯はされないので、慣れなければ白昼夢をみているような浅い眠りしかできないようだ。それでもジャクリーンは努力をした。留置場での処遇を思えば、これでもまだ楽かもしれない。睡眠こそ、すべてのエネルギーの源であるのだ。
 次の日の朝──たぶん朝だろう──朝食のあとに、看守の三人組が房の扉を開けて入ってきた。
 「どうだ? 第一日の気分は」
 「別に……」むっつりとジャクリーンは答えた。いずれ、この看守のうちの誰かを懐柔することになるのだろうが、今はまだ機嫌のいい顔をする必要はない。あまりに早い改心は敵の疑念を巻きおこすだけなのだ。暴力的な弾圧をまねかず、かといって媚びすぎもせず、その中間を狙ってお芝居するのが、今のところの作戦だった。
 彼らは手錠と足錠をはめて、彼女を房の外へ連れ出した。
 「どこへ行くの」ジャクリーンは落ち着いた声で訊いた。
 「労働だよ。お前は懲役囚なんだから当然だろ」
 どんな労働でもあの房の中で一日過ごすよりはマシだろうから、ジャクリーンに異存はなかった。ふと、暗い疑念が横切った。このままレイプされるのではと思ったのだ。労働とは肉体奉仕、娼婦のように身体を売るような種類のものではなかろうか、と。
 それはどうやら杞憂に終わったようだ。彼女は倉庫のような場所に連れていかれ、机の前に座らされた。その机には大きな笊がひとつと、皿がふたつ置かれていた。笊には赤と白のビーズ玉がザクザクと入っていた。
 「このピンセットで──」と若造がいった。彼の手には先の細い小さなピンセットが握られている。「赤玉と白玉をこっちの皿に選り分けて入れるんだ。玉はそれぞれ五百個ずつ入っている。二時間でどれだけ作業ができるか、それによってペナルティが変わってくる」
 「ペナルティ?」
 「能力給だからな。それに応じてこれからの給食が良くなったり悪くなったりするんだ」
 「魅力のある仕事だわ」ジャクリーンは不貞腐れながらピンセットを受け取った。
 若造一人を残して、他の二人は倉庫を出ていった。暴れだす心配でもしているのか、彼女の足は鎖付きの皮ベルトにより椅子に連結された。
 「はじめ!」若造の声が轟く。
 小さなピンセットでビーズ玉を摘むのは神経の疲れる作業だった。それ以上に、弁護士を颯爽とこなしていた人間がこんな単純労働をやらされるところこそ、ミソなのだ、とジャクリーンは考えた。インテリには耐えがたい屈辱だろうと、彼らは思っているに違いない。(その努力に免じて少しは憂欝な顔もしてやらなくちゃね)ジャクリーンの余裕は確固たる信念からもたらされたものである。必ずや脱獄するという信念……その前にはこの程度の辱めは微々たる話にすぎないのだった。
 ジャクリーンの演技するげんなりした表情に、若造は露骨に嘲笑を浮かべて、彼女を歓ばせた。
 「お前、弁護士のくせに空手もやるんだってなあ」
 人間は優越感に浸ると雄弁になるものだ。この隙の多い若造こそ懐柔の標的には最適かもしれない。
 「そうよ」ジャクリーンはできるだけそっけなく答えた。男を漁る初歩的な方法だ。
 「ふん、可愛い顔してるくせに、お転婆なんだな。有段者か」
 「だったらどうだっていうの。手錠に足枷じゃ、腕前をご披露するわけにはいかないわよ」
 ジャクリーンの言葉に若造はケラケラと笑った。彼女を見下ろしていた監視台から降りてきて、傍らにヌッと立った。なれなれしく肩に手を置き、ヤニ臭い息を吹き掛けてくる。
 「そんな単純な手に乗る俺様だと思うか」とジャクリーンの鮮烈なブロンドヘアを指にからめながら弄ぶ。「俺を挑発してやっつけようとでも思っているんだろう。ン?」
 バカはお前のほうだ、とジャクリーンは内心ほくそ笑む。
 「残念ながら拘束具の鍵はここにはない。どんなに色仕掛けでたらしこもうとしても、無駄な努力ってわけさ。防犯体制は完璧なんだよな、これが」
 無教養な哄笑をつづけ、若造はジャクリーンの頬を指先でつついた。どんな情報でもベラベラ喋ってくれるのは有り難い。それに、言葉とは裏腹にこの若造が自分の魅力に惹かれているのはまず確実だとジャクリーンは確信した。指先は頬を撫で、ぽってりとした唇に触れる。冷然とした無表情を押し通し、ビーズ玉の選別に専念するふりをするジャクリーン。まだ、拒絶するのは早い。
 「お前がたぶらかそうとしたハンサムボーイの名前はエリック・ガードナーというんだ。覚えておきな。呼ぶときはちゃんとミスターを付けるんだぞ」
 散々、柔らかな朱唇をいじくりまわし、さらに指はあごから喉に降りていき、囚人服のボタンを一つ外し、白い胸もとをユルユルと撫でつけだす。そのまま、服の中へ滑り込もうとするのは時間の問題だった。
 ジャクリーンはくるりとエリック・ガードナーなるチンピラ看守に向き直った。
 「それで、何か御用?」
 大人の女の迫力に、エリックはつい立場を忘れてたじろいだ。何しろ今までみたこともないような美女なのだ。素っぴんとはいえ、艶かしさは抜群である。チッ、とエリックは舌打ちし、彼女の官能美を台無しにするように金髪をグシャグシャに掻き回した。
 「お前なんか、いずれ俺たちにハメ回されることになるんだ。その時になって吠え面かいたって遅いんだぞ」エリックは吐き捨てるように監視台へ戻っていく。
 (知能低くして、粗暴。エリック・ガードナー)心のメモに、ジャクリーンはそう書き込んだ。
 二時間もビーズ玉をみつめていると、さすがに眼が疲れてきた。目尻の小皺がふえそうだった。彼女の前の皿には赤玉と白玉が山のように積まれている。すべてとはいかないがかなりの成績であろうと思われた。
 「どの程度の能力給を戴けるのかしらね」プレイボーイ誌を読み耽っているエリックに声をかけた。会話は重要なストレス発散だ。ゆりかごへ戻る前に適当に顎の運動をしておいたほうがいいだろう。「ミス・九月よりは能率がいいと思うわよ」
 むろんグラビアを飾る巨乳モデルよりも、ジャクリーンのほうが魅力的でもある。その誘惑はエリックも無視できないようだった。
 「ミス・九月はお前のように歳を食っちゃいないよ」といいながらも、雑誌を閉じて降りてきた。エリックは警棒をくるくると回しながらテーブルのうえのインテリ女の成果を眺めていた。
 「なんだ。一粒も選り分けられなかったじゃないか」
 「え?」
 ジャクリーンが振り向くよりも早く、エリックは二枚の皿をもちあげてザラザラと笊のなかへ戻してしまった。ジャクリーンの二時間に及ぶ作業は一秒で元の木阿弥になったわけだ。
 「147番っ。作業能率ゼロ。サボタージュ。社会復帰への意欲、皆無。ペナルティの必要あり。本日の給食は昼抜き、夜二分の一。──とまあ、こういうことになるわけだ」
 エリックはそばかす面を醜く歪めて嘲笑した。この仕打ちが、バストへの猥褻行為を拒否した先程の一件に対する報復であるのは明らかであった。ジャクリーンは心のメモのエリック・ガードナーの項目に『陰湿』と付け加えなければならなかった。
 エリックは警棒の先でジャクリーンの冴えた額を小突きながら、「いっただろう。ここでは看守にどう思われるかが、命にもかかわる重大事なんだよ。囚人はそれだけ心に念じて暮らしていけばいいのさ。わかったな」と、説教する。マニュアルどおり、どの新人に対しても同じ台詞をいっているようでもある。
 時間がくると、ジャクリーンは再び三人の大男たちに囲まれてゆりかごへ戻った。どうやら、一日はこれですべて終了したようだった。あとは二度の食事──エリックが宣告したように昼はなかったが──が運ばれてくるだけ。それ以外は彼女は完全に黙殺され、無音の空間で過ごさねばならないのだった。
 次の日も午前中の二時間、ビーズ玉の作業をやらされた。違うのは監督官がエリック・ガードナーからあのゴツゴツ顔の男に替わったくらいである。ローテーションを組んでいるらしかった。
 彼の名前はゴードン・フラビウス。ゲルマン系らしい。ゴードンもまたよく喋った。退屈しているのは囚人だけではないのだろう。もちろん美女相手にいくら高圧的になっても赦される立場なのだからその特権を行使しない手はないのだ。
 「女弁護士がブタ箱にぶち込まれるなんざ、世の中も捨てたもんじゃねえ」
 ゴードンはとくにその事実が気に入っているらしく、『女弁護士』を繰り返し口にするのだった。
 「スピルマン所長は、ここはブタ箱ではないといっていたわよ」
 機会をみつけては探りを入れることをジャクリーンは忘れなかった。部下が上司をどう思っているか。その組織の機能を知るうえで重要なファクターであろう。
 「あれはジョークだろ」とゴードン。「頭のいい人間ってのは洒落た台詞をいってみたいものなのさ。スピルマン所長のおつむは俺たちなんかじゃ及びもつかない回転でまわっているからな」
 スピルマンに対する部下の評価はそう悪くないようだ。それはジャクリーンにとってあまり愉快な現状ではない。
 「弁護士ってのはよ」ゴードンはまだこだわっている。「いつも刑務所へ面会にくる立場じゃねえか。自分の担当した犯罪者に会いによ。そいつが逆に塀の内側で手錠はめられているんだから、こんな痛快な話はないわな」
 ゴードンは、今日はブロンドを頭の後で束ねているジャクリーンの横顔をうっとりと眺めている。
 「どんな気分なのかねえ。ミイラ取りがミイラになったようなもんじゃないか」
 「私は一応、控訴している身ですから」ジャクリーンは素っ気なく答える。
 「ふん、控訴なんて無駄な足掻き、やめちまいな。時間と金の浪費だぜ」
 無言のジャクリーン。彼女も本気で控訴審に期待しているわけではなかった。それはほとんど脱獄のための偽装工作の一環といっていい。つまり、警察であれほど抵抗していた彼女が突如従順に刑務所側の勧めに従い、控訴を断念したとしたら、当然彼らは疑念を抱くに違いないだろう。尻尾を巻いて油断を引き出す作戦も緻密にやらねば信憑性がないのだ。ジャクリーンとしてはサラがなぜ途中で控訴を取り下げたのか、自分を使って調査しようとの目論みもあった。
 「どうせすぐに取り下げることになるだろうぜ」
 ゴードンは馴々しく彼女の肩に手を置きながらいった。
 「どうしてわかるの」
 「みんなそうだからよ。一週間もたてば、ここの居心地が良くなって出ていきたくなくなるのさ」
 ガハハと大笑いするゴードン。彼の手はすべやかなジャクリーンの肩を何度も往復し、その感触を楽しみ、そして素早く胸もとへ忍び込んできた。
 「……」ジャクリーンは拒否すべきかどうか迷った。拒否すれば昨日のようになんらかの報復を受けるのは眼にみえている。問題はそれに屈したとみせるべきかどうかだ。彼女はとっさに頭脳をフル回転させて計算する。答えは昨日よりも態度をいくぶん後退させ、妥協する信号を送っておいて、そして拒否する。それだ。
 ゴードンは丸ごと素肌の乳ぶさを掴んだ。彼の大きな手をもってしても、すべての肉丘を収められず、それが彼を有頂天にさせた。力を入れて握り締めると乳ぶさは柔らかく潰れたが、グンと形を取り戻そうとする弾力もじゅうぶんで適度に芯の強さも残っていた。
 「耳たぶが真っ赤じゃないか」
 事実である。両耳はトマトのように紅潮している。これは演技ではなく、本物の噴辱のあらわれだが、効果は覿面だった。味をしめたゴードンはしだいに大胆な手つきになって、ギュッギュッと揉みしごきはじめた。乳ぶさに男の脂ぎった手のひらが覆いかぶさった。クライズヒルズ警察でパターソン保安官以下、愚劣な警官たちに乳ぶさを拷問にかけられた時、彼女は連続する拷問の果てに朦朧としていて、ほとんど意識がなかった。乳ぶさへの辱めがあったのに気付いたのは後になってからのことだ。しかし今はまったくのしらふの状態である。仕方がないリスクとはいえ、決意の結果とはいえ、身の毛もよだつ汚辱なのはたしかであった。
 その想いがいっそうつのるのは、ゴードンの手管が女体の扱いに慣れ切っているのが、ひしひしと伝わってくるからだ。底から持ちあげるようにすくい、人差し指と中指の間に乳首を挟んで刺戟しつつぞんざいに揉みにじる。かと思うと乳首を摘み出し、コリコリと潰しながら、上下左右に肉丘全体をゆさぶったりするのだ。明らかに女性の弱点のいびり方を知りぬいた淫技で、こんな男に侮辱されているのかと思うと心まで汚される気分であった。
 「お前、半年前まで亭主持ちだったんだってな」彼女の記録はすべて頭に入っているゴードンだ。「半年もご無沙汰となりゃ、身体が疼いて仕方のねえ頃だろうよ。セックスを知った身体には辛いよなあ」
 ジャクリーンが無抵抗なのをいいことにゴードンはゴツゴツした鼻面を彼女の首筋に埋めてくる。線の美しさはもちろん、肌理のこまかい凝脂の肌の濃厚さ、そこからたちのぼる肌の艶かしい匂い、成熟した女だけが持つ蠱惑の身体にゴードンは股間を熱くしないわけにはいかない。吸い込まれるように、首を背けてただ耐えているジャクリーンの、透明感のある瑞々しい頬に分厚く妙に赤い唇をヌッと突き出していく。
 「いやっ」とうとうジャクリーンは叫んだ。身体をひねり、彼の拘束から抜け出した。「そんなに親しくなってはいないでしょう。会ったばかりなんだから」
 すげなくこういわれると、ゴードンも白けた表情になる。まだレイプまではいく状況でもないだろう。陽も高く、ここでは人目につきやすい。
 「チッ、売女のくせに……」
 それでも我を忘れて乳ぶさを愛撫した引け目を感じているのか、エリックと違ってゴードンはジャクリーンのビーズ玉作業をすべてご破算にはしなかった。『作業不熱心』で、夕食の中の一品を配給停止されただけだ。ジャクリーンは心のメモのエリック・ガードナーの次の欄、ゴードン・フラビウスの欄にエリックとそっくりの評価を書き込み、ついでに『案外御しやすい』と付け加えた。
 三日目の作業場は前の二日間とは少しばかり様子が違っていた。三人目の男──彼はまだ名乗っていない──はじっと蛇のような眼で作業するジャクリーンをみつめているだけだった。寡黙は何を考えているのかわからないので、不気味ではある。ジャクリーンもゆりかごの生活に飽き飽きしているので、無言の行には耐えられなかった。自分から話しかけることにした。
 「お名前は?」
 男はややしてから、「知ってると思ったがね」といった。
 「どうして? 初対面のはずよ。それともどこかで」
 「私の名はフィル・パーマー」
 「パーマー?」ジャクリーンはピンセットをもった手を止めた。どこかで聞いた姓だったからだ。彼の顔をしげしげとみつめる。そういえば似た風貌の人間と会ったような記憶が……。あっ、とジャクリーンは声をあげた。フィル・パーマーがニタリと口元を歪めた。
 「弟がだいぶ世話になったらしいな」
 「あなたはルイス・パーマーの兄!」
 「その通り。しかし礼なんかいわなくてもいい。弟が世話になったお返しに、お前の妹をこってり世話をしてやったからな」
 変質者ルイスの兄は弟とそっくりの含み笑いをした。ジャクリーンはぞっと戦慄する。謎のひとつがこれで解けたのだ。ルイス・パーマーがなぜあんなに刑務所の内部事情に詳しかったのか、どうしてサラの陰惨な拷問シーンの映った写真を所持していたのか、すべてはこの男が原因なのだった。
 「妹はどこにいるの! 会わせて!」
 ジャクリーンは思わず叫んでいた。警戒されると困ると思い、いずれを機をうかがってと思っていた言葉が口をついて出てしまった。
 「忘れられては困るな。お前は面会にきた肉親でも弁護士でもないんだ。ただの囚人なんだぞ、147番。独房暮らしの囚人同士を会わせるのは規則違反だからな。それでは懲罰にならないだろう」
 ジャクリーンは懸命に昂奮を呑み込んだ。「彼女もゆりかごにいるのね──」
 「フン、自分の家族の心配ばかりじゃ困るな。あんな淫売の娘より、私の弟のほうをちゃんと心配してほしいね。もう少しでお前の空手で障害者にされるところだったんだからな」
 フィルの目付きは皮肉たっぷりの色合だった。
 「……サラは淫売じゃないわ。あなたの弟こそ変質者じゃないの」
 「さあね。少し変わった趣味をもっているかもしれないが、犯罪を犯して刑務所にぶち込まれるような人間よりはずっとマシさ。そうは思わないか」
 「私たち姉妹は犯罪なんか犯していないのよ。女性を鞭で叩いたり、宙吊りにしたり、そしてその写真を撮って売り捌いているほうが裁かれるべき犯罪者に決まっているでしょう」
 ジャクリーンがいいおわらぬうちに、フィルの平手打ちが飛んできた。ビシャリといい音をたてて、ジャクリーンの頬が鳴った。美貌がぐらりと揺れた。その一撃で結んでいた髪がほどけ、顔の半分がブロンドに隠れた。
 「ジャンキーのくせに生意気をいうんじゃない」
 フィルの声は荒立ってはいない。感情をコントロールできる人間らしい。
 「あなたたちはどういう教育を受けたの。ルイスにも殴られたわ」
 火照った頬を押さえながらジャクリーンはいった。
 「クライズヒルズでは高慢な女はお仕置きされるのが当然なんだよ」
 フィルは涼しい顔で答えた。そしてそっと手をのばし、垂れた髪を耳の後へ掻きあけてやる。
 「綺麗な顔だ。妹よりも美人だな。親からもらったものは大事にしたほうがいいぞ。姉だけでも原型をとどめていないと産み育てた親は泣くに泣けないだろうからな」
 「どういうこと。あなたたち、サラに何をしたというの」
 ジャクリーンはフィル・パーマーの手を払いのけて迫った。
 「詮索するな。お前は自分の心配だけしていればいいのさ。俺たちの命令を聞き、スピルマン所長の教えにしたがっていれば、いずれ会えるときがくるかもしれない」フィルは再び柔らかいブロンドに手をのばし、やや腫れた頬を手の甲でさすった。「というのはもちろん公職の看守としての建前だ。哀れな弟、ルイスの兄としての個人的な恨みはまた別問題。いずれきっちりその落とし前は付けさせてもらうさ」
 赫らんだジャクリーンの頬を悲鳴を絞りとるほどに抓りあげ、フィルは哄笑した。
 作業はほとんど進んでいなかったが、ジャクリーンはその日制裁を課せられなかった。
 (フィル・パーマー。要注意人物だわ。冷静さと残忍さが同居した、最も危険な性格。しかも家族への偏愛は異常。弟の仇である私はただではすみそうもない)
 ゆりかごで空手の型を練習しながら、ジャクリーンはフィルの印象をまとめてみた。のびやかな右足の蹴りが鋭く空を切り、きれのいい腰の回転から繰りだされる廻し蹴りがフィル・パーマーの、そしてジョージ・スピルマンの幻影を打ち消した。
 (負けないわ。絶対に。負けるもんですか。自分のためにもサラのためにも)
 フィルに打たれた痕も生々しい頬に汗をしたたらせ、ジャクリーンは奇声を発して飛び蹴りを壁に食らわせた。
 次の日の夕食前まではいつもと変わらぬ一日であった。ビーズ玉作業の担当は順番からいえばエリック・ガードナーだったが、ゴードン・フラビウスがその任についた。規則性をもたせるのは危険なのか、それとも単にエリックの都合が悪かったのか、定かではない。もう少し様子をみなければなるまい。
 ゆりかごの電子ロックが解除される音がし、扉が開いた。夕食の配膳ではなかった。三人の看守たちがドカドカと部屋に入ってきたのだ。
 「147番。これに着替えろ」とフィル・パーマーが叫んだ。
 彼が投げてよこしたのは黄色い布地、広げてみるとそれはポンチョであった。中南米のインディオたちが日常着ているような地味なものではなく、派手で、どこか人をバカにしたつくりになっている。
 「正装してどこへエスコートしてくれるというの」
 ジャクリーンはいぶかしげに看守たちをみた。
 「つべこべいわずにさっさと囚衣を脱いでポンチョをかぶるんだよ。下着もとって素っ裸の上からだ」
 「あら、ここで脱ぐの。スッポンポンに」
 「そうだ」ゴードンとエリックが腰の警棒を引き抜いた。
 「……あなたたちの前でストリップをするわけね」
 ジャクリーンは冷然といった。自分でも驚くのだが、そういう理不尽な命令に対する怒りはさほど沸いてこないのだった。いずれこういう事態にたちいたるであろうとは十分予想していたし、看守たちが連れていこうとしている怪しげな場所への好奇心がそそられたからだ。ひょっとすると脱獄のためのチャンスがふくらむかもしれない。こんな下劣な男たちの前で裸を晒してもちっとも羞恥心は起きないだろう。ジャクリーンは郡警察で拷問を体験して以来、腹がすわっているのだった。
 ジャクリーンは囚衣の上着を脱いで、上半身をみせつけた。男たちの眼が異様に輝く。ダイナミックなボディはあくまで白く、豊満である。ブリブリした双乳は今にもミルクがこぼれだしてきそうである。
 ズボンをおろすとパンティが露出する。その下には熟れ切ったプッシーが息づいているのだと思うと、ムッと盛りあがっているふくらみに、注がれている視線は熱く火照りだす。くびれたウエストから三十女の脂ののった腰付き、それに官能的な脚線美が次々に男たちの眼を楽しませた。ジャクリーンはさっとポンチョをかぶり、生唾ものの肢体を包み込む。そしてパンティをめくりおろして脱ぎ捨てた衣類のうえへ落とした。
 「さあ、どこへでも連れていって頂戴」
 ポンチョは太腿の中程までしかなかったので、優美なボディラインこそ拝めなかったが、綺麗な二肢の造形はじっくり堪能できる。とはいうものの、やはり全裸を目撃できなかった恨みは残る。彼らがその気になればヘアヌードなどいつでも強制できるのに、それをしないのは何か理由があるからだろうと、ジャクリーンは憮然としているエリックやゴードンを腹の中で嘲笑しながら思った。フィル・パーマーだけはいつでも冷酷な視線を彼女に送ってきていた。脱獄を決意しているジャクリーンの心中を見透かしているようでもあり、要注意であった。
 ジャクリーンは手錠と足錠を厳重にほどこされ、さらに目隠しまでされてゆりかごから連れ出された。かなり歩いた。一定に保たれているゆりかごの室温が途絶え、急にカッとのぼせあがるような暑さがきた。それはジャクリーンを狂喜させた。外の世界なのだ。目隠しを掴み取って、たぶん西の空をオレンジ色に染めているであろう夕焼けを眺めたい衝動にかられた。やっとのことでそれを押さえても彼女の形のよい鼻腔はいっぱいに広がり、新鮮な外気を吸い込んでいる。かすかな自然の胎動も聴き逃すまいと耳をそばたてている。たった三四日ゆりかごに幽閉されていただけなのに、これほどまで身体は自然の刺戟に飢えていたのだ。いまさらながらクライズヒルズ刑務所の非人間性を思わずにはいられなかった。
 ガソリンの匂いが鼻をついた。車に乗せられるのだ。刑務所の外へ出るのだ。ジャクリーンは胸の高鳴るのを覚えた。むろん、そうであれば警戒は厳重なものであるわけだが、ゆりかごから脱獄する大変さを思えば、ずっと隙が多いといわなければなるまい。ずいぶん思い切ったことをするものだと、ジャクリーンは驚いたが彼らにはそれだけ自信があるのだろう。
 車は重いエンジン音を響かせながら走りだした。バンのような大型車でジャクリーンの両側には二人の看守ががっちりとガードしている。
 十分か二十分、揺られた後、車はウィンカーをあげてゆっくりと減速した。裏道ばかり走ったのか、行き交う車の気配はほとんど感じられなかった。当然、ジャクリーンは曲がり角の数をかぞえ、その間隔の長さを脈拍から類推し、ルートを頭のなかの白地図に記入していた。それがどう役に立つかはわからないが、役に立たない根拠もないのだ。
 停車した車からジャクリーンはおろされた。植物の匂いがする。乾燥した砂漠地帯のクライズヒルズにはあまりないはずの花々だ。どこかの庭だろうか。いや、この匂いはいつか嗅いだ記憶がある。それはどこだったろうか。必死に記憶を探った。
 「──ジャクリーン・ドーセットを連れてまいりましたっ」とフィル・パーマー。
 その堅い感じからして、目上の者であろうか。彼らの目上といえば……。
 ドアの開く音がし、ジャクリーンは室内へ連れ込まれた。
 「やっと来たわね!」
 女の声だ。嗄れた黒人のものと思われる。二の腕をグィと掴まれた。
 「ご苦労さん」と女は看守たちにいっている。「いつものように向こうでバーベキューをやっていって頂戴。アルコールは控えめによ。まだ帰りもあるんだから」
 男たちのリラックスした気配が遠ざかっていき、ジャクリーンの身柄はこの女の手に委ねられたようだった。しかしそれは楽観できるほどの状況の変化ではなかった。なぜなら二の腕に食い込んでくる女の指の強さときたら半端なものではなく、骨が砕けてしまいそうな握力だったからである。
 「痛いはねえ。少し加減して頂戴な」とジャクリーン。
 「ヘヘヘ、シンデレラのつもりかい。だけどへらず口はちっとも変わってないんで、あたしゃ、安心したよ。ブタ箱にぶちこまれて、腰砕けになっちまったんじゃないかって心配してたんだ。そうでもないらしいじゃないの、弁護士先生」
 ジャクリーンは無言であったが、その声の主が誰であるか、ここがどこであるか、もう気付いていた。それならそれで度胸もすわる。
 階段をしばらく上がり、廊下を歩いていき、部屋のドアがノックされた。
 「うむ、入れ」
 聞き覚えのある声に招き入れられた。部屋の中にはバロック音楽の低い調べが流れていた。それに香水の薫りも。彼女の五感はますます敏感になっている。
 「ポーター、アイマスクをとってやれ」
 命令どおりにジャクリーンの顔から目隠しが取り外された。瞬間的に照明に眩んだ視界が、しだいに落ち着いてくる。
 「……スピルマン……」
 ジャクリーンは正面のソファにふんぞり返っている銀髪の中年男をみつめた。彼は紫色のガウン姿で琥珀色の液体の入ったグラスを片手にもって足を組んでいた。
 「やあ、ミス・ドーセット。久しぶりだな。元気そうじゃないか。あいかわらず美しい。惚れぼれするポンチョ姿だ」スピルマンはそういってゲラゲラと高笑いした。「ポーター、客人にさっそく夕食の用意だ。とびきり腕をふるえよ。記念すべき第一夜だからな」
 ジャクリーンが振り返ると、黒人女の使用人、ポーターがその巨体を恭しく折り曲げてスピルマンに一礼していた。ジャクリーンをちらりとみると、白い歯を剥きだしてニッと笑った。彼女とは二度目の対面だったが、このアマチュアレスリングの強豪は空手有段者の女弁護士に並々ならぬ関心を示しているらしく、眼光は曰くありげに光っているのだった。
 「まあ、座りたまえ」
 ポーターが出ていくと、スピルマンは彼の傍らにあるソファを指し示した。
 ジャクリーンはそこに腰をおろした。ここは初めてこの屋敷を訪れたときに通された部屋であった。深いペルシャ絨毯とヨーロッパ調の家具が品よく並んだ広い部屋である。テラスがあって、そこからはクライズヒルズの街が見渡せるのだ。いまはそこから明度を落として青い闇にとけこまれそうな夕焼け雲が浮かんでいるのがみえた。
 「お招き戴いて光栄ですわ。なにしろ退屈をもてあますような生活ですから。暇つぶしには絶好の話相手ですものね、あなたは。スピルマン所長」
 ジャクリーンは皮肉っぽくいった。


  奇妙な返却

 「フフフ」とスピルマンは嬉しそうに口元を緩める。「パターソン如きがいくら責めようと、あっさり去勢されるようなタマだとは思っていなかったよ」
 「パターソン保安官とはずいぶんご親密なようね」ジャクリーンはいった。
 「クライズヒルズの住民で親密でないものはいないのだ。日々、情報の交換は密にしておる」
 スピルマンの、ジャクリーンをみる目付きがけがらわしいものになる。
 ジャクリーンは視線をそらし、ホームバーのほうをみた。「さっきの話からすると、夕食をご馳走していただけそうね。だったら私にも食前酒をもらいたいものだわ」
 「おっと、これは私としたことがうかつだった。せっかくはるばる足を運んでくれたゲストに気を使わせるとはホスト失格だ」
 スピルマンは立ちあがり、ホームバーへ向う。
 「テラスにでてもかまわないかしら」とジャクリーン。
 「もちろんかまわんよ」
 スピルマンのこの無警戒ぶりは絶対の自信からくるものだとジャクリーンは思った。手錠と足錠のままでは逃げだせないのは事実だが、それ以上に彼女に今現在逃げだすつもりがないことを、スピルマンは知っている感じである。あまりいい気持ちではなかったが、ジャクリーンは重い鎖を引きずりながらテラスへでた。空にはそろそろ星が瞬きはじめていた。空がこんなに高く感じられるのは囚人の職業病みたいなものである。遠くにちらほら街の明かりがみえる。そしてすぐ下をみおろすと照明にうつしだされた青いプールが広がっている。プールサイドで、パーマーら三人の看守たちがバーベキューのセットを囲んで騒いでいた。あのプールにここから身を投げるのは可能だろうとジャクリーンは計算した。しかしこれではすぐに捕まってしまう。拘束された身体ではうまく泳げないだろうし、ポンチョは水を含んで倍以上に重くなるだろう。
 スピルマンがアルコールを作ってテラスに出てきた。サクランボを浮かべたカクテルグラスをジャクリーンに渡した。透明なカクテルは甘い香りをたちのぼらせている。
 「明日もいい天気になるだろう」陰りのない月の出を確認してスピルマンがいった。「美しい君と君の前途洋々たる将来に乾杯しよう」
 グラスをかかげると、小さな音を響かせてグラスの縁を触れ合わせた。
 「やがて訪れるであろう、あなたの悲惨な末路にも──」
 ジャクリーンはプールの水よりも青い瞳でスピルマンをみ、そしてグラスに唇をつけた。とたんにゴホゴホと咳き込んだ。猛烈なきつさなのだ。食道がカァーッと焼け、胃がよじれる。
 「美味しいだろう。テキーラ入りのカクテルは」スピルマンはカラカラと笑い、まだ咳のとまらないジャクリーンの肩を抱いて部屋のなかへ入った。「食事の前に君にはシャワーを使わせてあげよう。相当、ご無沙汰しているだろう。熱いシャワーは心地いいぞ」
 ようやく落ち着いたジャクリーン。スピルマンのテッシュで洟をかみ、ソファに腰をおろして彼を睨みつけた。
 「フフフ、今度は悪戯はなしだよ。そのくすんだ顔を洗ってきなさい」
 「風呂に入れさせて、食事をとらせて、それから私を抱くつもり?」
 直截的なジャクリーンの言葉にスピルマンは、ほほう、とおどけた表情をする。
 「覚悟はできているというわけだ。なるほど、それもいいだろう。君には真の女らしさが欠けている。肉体的な美しさだけでは駄目だ。内面を磨かないとね。それにはセックスがいちばんいい処方箋だ。女の歓びを知れば、おのずと男に対する敬愛の念も沸くだろう。未熟な囚人の成長に寄与するために、刑務所長が汗するのは当然のこと。君がぜひにというなら抱いてやらないでもないぞ」
 スピルマンはそういいつつ、ジャクリーンのブロンドを指に絡めた。
 「レイプするのにそうやって理屈をつけるのが、ご趣味? 屈折してるわ」
 「レイプ? 誤解してはいけない。私は互いの了解がない限り、ベッドを供にするような真似はせんぞ。あくまで君が懇願したときだけ、私は一肌脱ごうといっている」
 「私があなたに恋心なんて抱くと思うの」
 「チンパンジーの中にはエサ欲しさに雄に腰を振る牝がいるのだそうだ。女が男に身体を開く動機は、何も恋ばかりとは限らない──」
 「……」ジャクリーンは憤怒の炎を瞳に浮かべている。それがスピルマンの趣味。スピルマンの快楽……。
 「シャワーを浴びるのかね。浴びないのかね」彼女のあごに手をかけ、顔を起こした。
 「……浴びるわ……」ジャクリーンは絞りだすようにいった。熱いシャワーで肌を洗う誘惑には勝てなかった。刑務所に入ってからまだ一度もバスを使っていないのである。身体中が不潔な汗でネバネバしている。悔しいが、この屋敷のバスルームならば広々としてきっと気持ちいいだろうと、瞬間的に脳裏に浮かべていた。いや、シャワーとなれば手錠も足錠も外されるだろうから、逃げだすチャンスもある、と一応、良心に対する言い訳も考え付いた。
 スピルマンに肩を抱かれたまま、バスルームに連れていかれる。予想どおり、大理石造りの清潔な浴室であった。
 「まあ、浴槽にもつかりたいだろうが、我慢しておけ。食事もすぐだからな。シャワーですませろ。よく洗えよ」と、スピルマンは手錠を外し、ジャクリーンのヒップをポンチョ越しに叩きながらいった。足の拘束はそのままだ。彼はバスルームを出ていった。意外な紳士的態度であるが、油断はできない。
 ジャクリーンはポンチョを脱いで全裸になった。たわわな乳ぶさ、ゆたかな双臀。ダイナミックな肉体からムンムンする女の色香が匂いたっている。股間の茂みがみっちりと女陰を覆っている。
 シャワーの温度を手で計りながら頃合をみて、一気に顔からかぶった。さっと湯気が身体をつつみ、肌がピンク色に染まっていく。拘置所での急かされるように入る集団入浴ではまったく味わえない満足感が胸に広がった。あそこでは温度も最低限に押さえられていた。それに粗末な石鹸しか与えられない。ジャクリーンはボディシャンプー──女性用のものが置かれているのに不審を抱きつつも──を手にとって、全身にこすりつけていった。顔面、胸、下腹部、ヒップ。ピンク色の肌はすっかり白い泡まみれとなる。
 その時、バスルームの扉がいきなり開けられた。獣の呼吸音が聴こえ、まず二匹のドーベルマンが姿を現した。そしてその後からスピルマンが入ってきたのだ。ジャクリーンは本能的に背中をみせ、シャンプーが流れる成熟したヒップを片手で覆った。
 「私はまだ抱いてほしいなどと頼んでいませんよ。それともあっさり主義を変えたんですの。急にレイプしたくなった?」
 一瞬の羞恥が去ると、ジャクリーンはスピルマンのほうへ振り向いた。乳ぶさも股間も隠さず堂々と胸を張った。惨めな姿を晒すのは何とも腹立たしい。かえって男の征服感を増長させるだけではないか。ジャクリーンは誇り高き自尊心を火照った裸身にみなぎらせて、スピルマンを見返すのだ。しかし犬……。贅肉がまるでない筋肉の塊のような精悍な体付きの二匹のドーベルマンは不気味で恐怖感を感じないわけにはいかないのだ。双生児のようにそっくりな彼らはもうもうと立ち昇る湯気にもさしてたじろいだ様子もなく、バスルームのなかにジャクリーンの白い裸身を認めると──鋭いその嗅覚で濃厚な女体の芳香を嗅ぎつけたのだろう──スルスルと滑るタイルの上を器用に歩いて足元にすり寄ってきた。
 「犬が君に会いたいといったんでな」とスピルマンはつづいて彼女の前に立った。
 「ずいぶんと能弁な犬のようね」ジャクリーンはスピルマンを見据えていったが、心はふくらはぎや脛に黒い身体をこすりつけて甘えてくる二匹の野獣に取られている。
 「紹介しよう。ウィリーとウィローだ」
 スピルマンは二匹を指し示したが、ジャクリーンには見分けられなかった。
 「大丈夫。厳しく躾けているからね。主人の命令には絶対服従だよ。襲いかかることはない」
 「女の身体にまとわりつくように命令したの──あっ……」
 一匹が彼女の足を割るように二肢の間に身体を入れてきたのだ。短い尻尾を小刻みに振ってたいそうご機嫌のようだが、短毛とはいえ犬の毛がブラシのように皮膚にあたり、こそばゆい。軽く手を振って追い出そうとしたが、まったく黙殺されてしまう。
 「女性の肌が好きなのだ。それも白人じゃないといけない。うちにはポーターしかいないからな。たまに白い肌とスキンシップさせてやらないと、欲求不満が募ってしまう」
 「ペットは飼い主に似るというけれど……」
 ジャクリーンは鎖つきの不自由な足を精一杯動かして犬の身体をようやく跨いだが、今度は違う一匹にじゃれつかれて小声をあげている。バランスを崩すたびに、太腿の付け根のデルタの茂みがチラチラして、スピルマンの網膜を刺激する。白い熟れ切った脚線美にほっそりとした暗黒の獣が絡みつく対比は地獄絵でもみているような気分にさせた。水滴を飛ばしながらゆれうごくたわわな双乳の丸みにも尖った犬の顔との鮮やかな対照が感じられる。その視線に気付いたジャクリーンはキッと表情を硬くして、睨み返した。
 「さすがはいい度胸している。美しいぞ」
 スピルマンは口笛を鳴らした。ドーベルマンたちは彼女の両脇に鏡像のようにお座りをした。女神を護衛する従者のように。
 スピルマンは彼女の手からシャワーのノズルを静かに奪うと、身体の乳液を洗い落としはじめた。
 「急がないとディナーに遅れる」
 あごを突き出して気の強い精神をあらわにしたジャクリーンの美貌にシャワーを吹きかけた。シャンプーの白い水泡が弾けながらしたたっていく。さすがに眼を閉じたが、ジャクリーンは顔を背けることもない。濡れたブロンドの頭髪が後に流れてオールバックの状態になった。シャワーはしだいに火照った裸身をおりていき、噴辱に起伏している胸と下腹のローションを弾き飛ばした。そして綿毛のような密茂の、根に沈んでいた泡をも流し落とした。
 「後を向きなさい」
 「自分で回ればいいでしょう」
 「つまらない意地を張るんじゃない」と、スピルマンは指をパチンと鳴らした。すろと今まで置物のように微動だにしなかったドーベルマンが獰猛な唸りを洩らしはじめたのだ。
 「どうやら犬は腹を空かせているようだぞ。胸の肉でも与えてやるかね。ジャクリーン・ドーセット」
 「信じられないほど卑劣な男だわっ」
 ジャクリーンは眼を細めて吐き捨てたが、ゆっくりとこちらへ背を向けた。再び指が鳴り、犬の唸り声もピタリとやんだ。
 「ムクムクと巨きな尻だ」
 スピルマンは嘲笑しながらツンと上を向いた美臀にシャワーを浴びせる。熱い湯が肉に弾け、その一部は深い谷間に流れこんで、ブロンドの陰毛がまわり込んできている裾野からしたたり落ちた。双臀はつきものが落ちたように輝きに満ち、瑞々しさを取り戻し、ハードボイルドのゆで卵のように張りつめていた。
 背中から肩先へもたっぷりとシャワーをかけてやると、とうとう完成したヴィーナスの裸像のようにジャクリーンの大柄な肉体は本来の若々しさと成熟ぶりをスピルマンに見せ付けるのだった。
 「……バスタオルとドライヤーは洗面所にある。さっさと支度をしてテーブルまで来るんだ」
 陶然と視線を彼女の肉体に吸い寄せられていたスピルマンは、ふと我に返り、そう言い残すとバスルームを出ていった。主人が去ってもドーベルマンは彼女のそばを離れなかった。離れるどころか、洗面所までついてきてぴったりと影のように寄り添いつづけるのだ。見事な監視ぶりである。エリック・ガードナーやゴードン・フラビウスを懐柔できたとしても、このウィリーとウィローを手懐けることはほとんど不可能であろうと思われた。
 バスタオルを身体に巻きつけ、鏡の前の椅子に座り、ドライヤーを頭髪にかけていく。鏡に映る自分の顔は少々痩れてはいるものの、まだじゅうぶん魅力的なものである。しかしこんな生活が何ヵ月もつづけば、きっと陰険で翳りのある人相に変貌していくのであろう。その前に脱出できるかどうか、まさに人生のすべてがかかっているといってもよかった。
 頭髪にウエーブが戻ったが、それでもふくらみをもたすまでには至らず、ジャクリーンはオールバックのまま背にほとんどを落として整髪した。生え際から冴えた広い額が露出して、それでも美しさが殺がれるようなことはない。
 彼女はポンチョをかぶるとドーベルマンを引きつれて──連行されて──部屋へ戻った。
 スピルマンは待ちかねたように彼女を食堂へエスコートした。長いテーブルに二組の食器と豪奢な肉料理のフルコースが並べられていた。
 「ステーキだわ!」
 ジャクリーンは思わず子供のように叫んでいた。その軽薄さを後悔してすぐに毅然とした顔つきに戻ったが、スピルマンに椅子を勧めていたポーターは大笑いをする。
 「まるでアフリカの飢えた子供ね。お腹の鳴る音も聴こえたわ」
 「仕方がないさ。刑務所の飯が口に合う人間はそういるものじゃない」
 スピルマンは同情を示したが、その通りである。いや、ジャクリーンの場合、警察に逮捕されて以来、この二ヵ月間、まともな食事をしていなかったといっていいのだ。冷えた宇宙食のような官食ばかりである。それに刑務所へ移ってからの三日間は看守たちの陰湿なイジメの結果、三食ろくに取らされていないのだ。目の前で香ばしい肉の薫りととろりとしたウースターソースの匂いを嗅いだだけで、ぐうと腹が鳴り、唾が口に沸いてくるのをどうしようもなかった。哀しい人間の性であり、それをついてくるスピルマンの残酷さに憤りを覚えざるをえない。
 「まあ、いいから座りなさい」
 立ち尽くしているジャクリーンを促した。ジャクリーンは無表情を通して椅子に腰をおろしたが、視線を統御しているのは理性ではなく食欲である。
 「ポーターは一流ホテルの厨房で働いていた経験もあるんだ。舌が蕩けそうな腕前さ。遠慮なく召し上がれ。すべて君のものだ」
 仰々しくナプキンを襟元にかけたスピルマンはまずコンソメのスープをスプーンですくい優雅に口に運んですすった。それからフォークとナイフを手にすると、血のしたたるような分厚いステーキを鮮やかに切り取った。まろやかなソースのかかった肉片を口中に放りこみ、咀嚼音を響かせながら嚥下していく。……
 ジャクリーンの辛抱もそこまでであった。震える手でフォークをひっつかみ、グサリとステーキに突き刺すと、そのまま本体をもちあげて、それこそ犬のようにかぶりついた。ナイフで切ることすらもどかしいのである。口のまわりをソースでベタベタにするのもかまわず、ジャクリーンは眉間に皺を寄せ、眼球を剥き出しにして、肉と格闘するのだった。むろん、スープも器に直接口をつけて、ズルズル音をたてて飲み込んでいく。
 スピルマンもポーターもジャクリーンの凄まじい喰いっぷりを唖然としてみいっていた。旺盛な食欲は別に珍しくはなかったが、彼女のそれには逞しい生命力が溢れ返っているのだ。残酷な運命に気力を萎えさせることもなく、それどころか、ファイトをみなぎらせて立ち向かおうとしているのが手に取るようにわかる。まったく無益なファイトには違いないのだが……。
 数分間、無言で腹を満たしていたジャクリーンはステーキを平らげたところでようやく落ち着きを取り戻し、ナプキンで口元を拭った。ポーターの注いだ冷えた赤ワインでもって口中の火照りを和らげた。ライスもコーンもアスパラガスサラダも跡形もなく皿から消えている。
 「フフフ。どうだ、うまいだろう」
 スピルマンは余裕綽綽として食事を進めていた。ステーキもまだ半分を余している。
 「……最高だわ。あなたの使用人は力が強いだけじゃないようね」
 餓鬼のような浅ましい姿を目撃された恥辱もあったが、ジャクリーンの心を奪っているのはスピルマンの残しているステーキであった。食欲は癒えるどころか、増進してしまったといっていい。粗食に馴染んで乾燥しきった胃がこの料理を受け付けたことで美食を思い出し、いっそうの欲求を脳髄に送ってくるのである。
 その熱い視線をスピルマンが感じないわけがない。
 「これも欲しいのではないかな?」意地悪く、フォークで取って、かかげてみせる。
 ジャクリーンはたまらずこっくりと頷いた。
 「『ください。ご主人様』といえたらくれてやるぞ」
 「……」唇を噛むジャクリーン。喉まででかかる屈辱の言葉。理性と誇りが必死に押さえつける。
 「いえないのなら、これは犬のエサだ。いつもそういうコースになっているから、犬たちも期待しておる。みろ、もうあんなに涎を垂らしておるわ。さっきの君みたいにな」
 ジャクリーンが振り返ると、窓際に並んで座っているドーベルマンは耳をピンと立ててじっとスピルマンのかざす肉片を睨んでいる。黒い斑点ののった赤い舌がだらりと下がり、白い気泡混じりの唾液が次々に絨毯に垂れている。
 「ああいう顔をしていたぞ。弁護士先生」スピルマンは勝ち誇ったように高笑いをした。「それで、どうする? あいつらは従順に私の命令をきく。君はどうだ。私としては可愛げのあるほうに恵んでやりたいわけだがな」
 ジャクリーンは決断を迫られたが、無言である。それでも心のなかでは計算を巡らせていた。奴隷の言葉を吐くのは腸の煮え繰り返る思いだが、その腹は同時にあの肉片を消化したいと叫んでもいた。問題はスピルマンの心を油断させるにはどちらがいいかという問題である。ここは食欲に負けたふりをして屈服するのが自然なのか、それとも彼のイメージのなかにある気丈なジャクリーン・ドーセットを演じつづけるほうが自然なのか。不自然さは懐疑心を呼び、たとえば牢獄の警戒を厳しくさせるであろうことは、以前、考えたとおりである。
 結論は、一時的な屈服をみせても、この程度ならば赦されるであろう、であった。もっともとりあえず理知的推論の結果を装っているものの、本音は食欲の渇望感に促されたものなのだ。インテリらしい合理化であると、ジャクリーンは内心苦笑した。
 スピルマンが犬のほうに肉を投げやろうとするのを、慌てて押し止めるジャクリーン。
 「おや、どうした。いう気になったのかな。『ください。ご主人様』と──」
 「いうわ……。そうすれば本当にくれるのね?」
 「私は嘘はつかんぞ。ばかりか、ジャンヌ・ダルクの口からその言葉を聴けるんだったらデザートをつけてやってもいいくらいだ」
 ジャクリーンは大きく深呼吸した。
 「それほど大げさなことでもないと思うがね」スピルマンはシャワーを浴びて濁りの取れたツルツルの彼女の美肌に見惚れながらいった。どうすればこんないい女が育つのだろう!「さあ、どうするんだ。この肉が欲しいのか、欲しくないのか」
 「……くださいませ、ご主人様……」か細い声が魅惑の唇から漏れてきた。
 「ン? なんだって。ポーター、今何か聴こえたか?」
 「さあね。お腹がごろごろ鳴る音は聴こえましたがね」
 「うむ、これでは話にならんな。ウィリー、ウィロー、これはお前たちの物だ」
 「待ってっ。ちゃんといったわ。くださいませ、ご主人様」
 「もっと大きな声でだ!」
 「くださいませ、ご主人様!」
 「もっともっとだ」とスピルマンはジャクリーンに何度も何度もいわせた。この気性の激しい女の胸に隷従感を刻ませるために。そして己れの征服感を満足させるために。
 ジャクリーンは器に与えられたステーキの残りを今度はフォークとナイフを巧みに使い分けて、食べていった。「おいしい……」彼女の口から漏れてくる嘆声はまさに腹の底から沸いてくるのだった。
 「君は一時的な満腹感を手に入れるためにウィリーとウィローの消えない恨みを買ったわけだ。彼らのおやつを横取りしたのだからな」
 口をモグモグさせながらみると、犬たちはもう尻尾を振っておらず、三白眼を光らせた視線をジャクリーンに向けているのだった。まるでテリトリーに侵入した敵を射竦める目付きであった。
 「私ごと食べたそうな顔をしてるわね」
 「君を食べたいのは彼らだけではない」一足早くスピルマンの前に運ばれてきたきいちごのアイスクリームを舌に乗せながらいった。「もちろん聡明な君のことだ。わざわざ刑務所の規律を破って私邸に呼んで、フルコースをおごるという破格の待遇をする私の魂胆に気付かないわけはないだろうね」
 ステーキのお代わりを平らげたジャクリーンにもデザートが与えられた。
 「……女囚を選んでは自分の性の享楽の道具にしてるのね」甘酸っぱいきいちごの美味に頬っぺたが落ちそうであった。「エサを与えて、まるまると太らせてから貪ろうってわけ?」
 「フフフ、さっきもいったように決して無理強いはしていない。いつの時も本人の自由意志を尊重している。ほとんどの場合、お互いの不利益のない結果になるのだが、君とはとくにそうなることを望んでいる」
 スピルマンはジャクリーンの表情を盗みみた。甘いアイスクリームに舌鼓をうっている幸福そうな横顔は女子大生のようなあどけなささえ連想させる。まだ瞼に焼き付いている豊満な裸体とはどこかアンバランスだが、ひとたび弛緩から立ち直れば知性と理性が横溢する怜悧な美貌が蘇るのだ。煮て喰おうが焼いて喰おうが最上の女なのである。
 「……サラも……」とジャクリーンはいった。「妹にもこんな辱めを?」
 「この場でその話題を口にするのはどうかと思うね」スピルマンは受け流す。「彼女の名誉とプライバシーにも気配りせねばならんし」
 「ひどい人間ね。あなたって男は」ジャクリーンはスプーンを置いた。容器には融けた跡すら残っていない。「ウィリーとウィローよりも人間性がない。獣以下よ。虫酸が走るわ。あなたなんかに抱かれるくらいなら、死んだほうがマシよ」
 「フン、デザートを食ってしまえば思い残しはないということか。これほど贅を尽くしてやったのに侮辱で返すとは。飼い犬に噛みつかれたようなものだ」
 「いったでしょう。スピルマンさん。この女は性悪だって。初めからガーンとやったほうがいいってさ」ポーターが口を尖らせた。
 「おあいにく様。人間の義理には恩義に感じても、獣の心もない変質者には人間的な感情は沸いてこないものよ」ジャクリーンはスピルマンを冷たく睨みつけた。
 その美しさときたらどうだ。シャワーでピカピカに光った頬や額、キリリと吊り上がるブロンドの眉。鼻筋が通り、意志の強固さを示すような上向きの鼻。そして肉感的な朱唇。それらの火の打ち所のない造作がすべて自分への敵意を滲ませて憎悪の感情を表出している。自分へ対する愛情が欠けらもない人間の顔こそ、スピルマンがもっとも偏愛する女の顔である。そこには虚飾がない。媚がない。憎しみは自分を美しくみせようとする女の本能を抑止する。それらを乗り越えてなお、戦慄するほどの魅力を発信するジャクリーンの美は彼の理想といっていいのだった。
 「吠え面かくぞ、ジャクリーン・ドーセット──」
 スピルマンは憎々しげに微笑を浮かべる。そうすることが彼女の憎しみをいっそう煽るのを期待して。
 ジャクリーンにとっても、ここは演技のしどころであった。空腹も満たし、思い残すところなく怒りをぶちまける。ここはまず相手の鼻面を殴り付けてやり、来るべき、屈服の演技をより効果的にする伏線とするのだ。
 「どうするの。スピルマン。暴力で犯す? それも結構だわ。おやりなさい。だけどあなたの主義とやらには背くことになるわね。あなたが暴力を用いれば、私はあなたのモットーを打ち負かしたことになる。私の勝ちだわ。スピルマン」
 「さあ、それはどうかね」スピルマンは自信ありげにニタついた。そして口笛を吹き、ドーベルマンを手元に呼んだ。黒い猟犬が彼のガウンに身体をすり寄せて甘えている。「エサを与えてもらった主人には絶対服従がペットの使命なのだ。恩には何かを与えて返すのが飼われているものの義務だ。私はそれに違反することを赦さない。例外はなしだ。躾とはそういうものなのだ。君が私になにものも与える気がないというのなら、恩も帳消しにするしかない。エサを返してもらおう」
 その言葉を聴いて、厳しかったジャクリーンの表情がふっとゆるんだ。薔薇色の唇から白い象牙質の歯がのぞけた。
 「それは無理ってものだわ。ステーキは私の胃で消化の真っ最中よ。手術の準備をしているうちに跡形もなくなっちゃうでしょう。それともそのロボットのような下僕たちに噛み殺させる? 怨恨は立派な殺人の動機になるから、さぞやズタズタに引き裂いてくれるでしょう!」
 スピルマンは声をあげて笑い、犬の頭を撫でた。「そんな愚かな命令はくださんよ。調教前の牝犬を殺すなんてヤボはしない。君は必ずこのドーベルマン以上の奴隷に躾けてみせるさ。それにはまず、私が主人だということを身に染みさせなければならない。主人とは自分の命令を絶対に実行する人間なのだ。どうしても君には私の与えたものを返還してもらわねばならん」
 「だから、どうするつもりなのよ……うっ……」
 ジャクリーンは突如、自分の下腹に違和感があるのに気が付いた。片手で鳩尾あたりを押さえた途端、恐ろしげな音を立てて腹が鳴った。ゴロゴロと腸壁を掻き毟るような刺戟が後につづき、さしこむような鈍痛が彼女の美貌をしかめさせた。
 「……い、一服、盛ったのねっ……」
 「声は出さないほうがいいぞ。肛門の括約筋が弛む。ノーパンだから、ほんの少しチビッても椅子が汚れる」
 スピルマンの笑いをこらえきれない顔。部屋の中央にビニルを広げて敷き詰め、そこに病人用のおまるをポーターが準備する様子。それらを絶望的に眺めやりながらジャクリーンは苦痛に呻き、罵りを絞りだしつづける。
 「君が素直にベッドインしてくれるとは思わなかったからねえ」スピルマンは葉巻に火をつけた。パターソン保安官が吸っていたのと同じ種類だ。「先手を打っておいたわけだ。もちろんイエスといえばすぐに解毒剤を与えていたさ。強烈な効き目の下剤だ。それも大量に混ぜておいた。普通なら気付いたはずだが、よほど餓えていたんだな。やはり飢餓は人間の神経を参らせる、根絶すべき悪だよ」
 スピルマンは立ちあがり、おまるから二メートル離れたところに置かれた安楽椅子に深々と背をもたれた。二匹のドーベルマンはおまるに好奇心を示し、臭いを嗅いだり、内部に尖った鼻面を突っ込んでペロペロ底を舐めている。
 「うう……お、お願いよ。スピルマン……トイレへ、トイレへいかせて……」
 今や蒼白になったジャクリーンの美貌は歪み、脂汗が滲んでいる。こめかみに青筋まで立てて苦悶はひどくなる一方のようだ。ひっきりなしに下腹部は不気味な唸り声を轟かせていた。
 「私の申し出を蹴った以上、もう君はゲストでもなんでもない。ただの女囚だ。私のトイレなど使わせる必要のない下賎の者だ。このおまるでじゅうぶん。さ、早く私の与えたものを返してもらおうか」
 人を小馬鹿にしたような煙の輪が、スピルマンの頭上へ昇っていく。
 ジャクリーンはポーターに肩を抱かれてテーブルの椅子から立ちあがり、おまるの近くに連れてこられる。二三歩あるいたところで、彼女は身を縮かめてうずくまってしまう。
 「で、でちゃう……」
 「だらしがないよ。空手ウーマン! 精神を統一して肛門に神経を集中させな。まだ五分は我慢できるはずだ」
 ポーターは彼女の腕をとって強引に引きずりだす。足枷を外した。
 「駄目っ。無理しないで……うーむ……」
 へっぴり腰で丸くなっているジャクリーンにドーベルマンが低く唸りつけている。ステーキを横取りした張本人であるのをわかっているのだ。しかし、彼女の肌に浮く生汗のかぐわしい匂いを濡れた鼻に察知すると、彼らの態度は豹変し、媚びるように身体をこすりつけてくる。
 「ああ、やめて」ジャクリーンは犬の舌に首筋を舐められてうろたえた。ほんの少しのバランスの崩れであっても直腸が暴れだすというのに、二匹の大型犬の体重を浴びせられてはかなわない。踏張るわけにもいかず、手を振り回すわけにもいかず、ジャクリーンは犬たちの狼藉にされるがままである。
 「犬は赦して!」悲痛な叫びも黙殺されてしまう。
 とうとう狂気のような便意に耐えかねて、ジャクリーンはおまるを跨ぐしかなかった。卑劣なスピルマンは犬を遠ざけると、身を乗り出してじっくりと観賞する態勢に入った。惑乱する女弁護士の表情を正面から見据える。屈曲する下肢の、揃った丸い膝小僧がガクガクと振るえている。
 ポーターは背後からポンチョの裾をまくりあげ、汗ばんだ臀丘を晒した。
 「こんなにでかいケツをしてるのにもう降参かい!」黒人女の使用人はポンチョをそのままグィと引きあげ、ジャクリーンの下半身をもろだしにする。「汚れたらかなわないからねえ」
 しかしジャクリーンは抗議する余裕もなく、しだいに間隔をせばめて襲ってくるようになった便意にダラダラと汗を噴いている。おまるに屈みこんだ彼女の下半身も、せっかくシャワーで綺麗になった肌をオリーブオイルを塗りたくったようにぬらぬらと濡れさせ、犬の嗅覚をもっていなくともムッとする臭いを放っているのだった。彼女には膝をしめて跨ぐらを隠そうとする意志があるようであったが、発作的な便意はそういった力を弛緩させてしまうのか、どうしても開き気味となり、鮮やかな恥毛の底まで覗き込めた。


  
『前へ』  『次へ』