2004年冬

04/01/03

 僕は占いという奴が苦手でございまして、毎朝視聴しているめざましテレビのエンディングで 星占いが流れ始めると、即テレビを切って出社します。仮に、その星占いとやらで僕の星座であるところの 魚座が最下位にでもなろうものなら、これから始まる筈だった僕の輝かしい一日はそこで終焉を迎え、 ここから先の15時間何を心の支えとして生きていけば良いのですか?と悲しい詩を歌い出し、 薄幸を気取ってしまいかねません。薄幸は美少女であるからこそ絵になるのであって、 僕がいくら薄幸を気取ったところで、それは薄幸の何かこう汚らしいもの、でしかなく、 全てが台無しなのです。何らかの刑法にも引っ掛かるんじゃないでしゅか。これは本来「でしょうか」 とタイプされるべきものであり、事実自分も打ち間違いに気付き二度ほど打ち直しを試みたのですが、 その二回ともに「でしゅか」とタイプされ、最早運命であると結論付けるより他になく、これより先、 全ての「でしょうか」は「でしゅか」とタイプされるものとします。時に平成15年12月29日、 午後11時28分の事でした。

 さて、占いで最下位になってしまったばっかりに、法で裁かれ、法廷の場で何かこう汚らしいもの 呼ばわりをされる羽目になってしまった僕ですが、それでは幾ら五分の魂しかない人型の 下等生物と言えども可哀想との温情が働いたのでしゅか、こういった場合、同時に回避手段が 提示される事が殆どであります。例えば上で挙げためざましテレビの場合は「〜してみて!」や 「〜に気を付けて!」などアドバイスの形で、また他の多くの場合、ラッキーカラーやラッキーアイテム といった形で提示されるのです。ですが、最も恐るべき事にはその殆ど全てが荒唐無稽、実現不能、 お前急に美術館行けって言われて行ける訳ねーだろクズであり、そうそう赤いマフラーなんて持ってないよ バカであるのです。詰まる所、最下位とされたが最後、僕は、僕は、

 という事は、逆もまた然り。左様に占いに影響を受けやすい僕ならば、一位にでもなろうものなら 気分は高揚し、素晴らしい一日が開けるのではなかろうか、と思われる向きもあるかと存じますが、 ここで考慮しなければならない事は、高揚した何かこう汚らしいもの、は果たして罪ではないのかと言う点です。 また、もしそれが罪ではないとしても、法的に保護されていなければなりません。 高揚した何かこう汚らしいものが道をスキップしていた場合、硬くて尖った物が真っ直ぐに向かってくる 事態を避ける事は困難であり、それは多くの場合不幸な最期を迎えるでしゅ。高揚した何かこう汚らしいものも、 また悲運の定めにあるのです。

 斯様に、占いは一位になろうと最下位になろうとその結末は一様に悲しい色に染まる訳であり、 これが本当の、とまあこんな具合に最後に占いに引っ掛けて何か上手い事を言おうと思っていた訳ですが、 5日間考えてもびっくりするほど何も思い浮かびませんでしたので、不本意ではございますが、 ここで筆を置かせて頂きます。あけましておめでとうございました。



04/02/04

 こんにちは。気付けばもう二月。二月と言えば、節分です。さて、僕は日本の慣習伝統に詳しい訳ではなく、 またそれを調べるだけの興味もございませんので、節分の起源なんてものは勿論ながらまったくもって 存じ上げません。何であいつらいい気になって豆なんてまいてんのぐらいにしか思わない訳でして、 詰まる所、僕にとっての節分の全ては豆をまく事です。たった今、僕にとっての、と申しましたが、 僕の神がかり的な勘では、僕はオピニオンリーダーであり、常に大衆の代弁者、世論の申し子、 一般常識の塊のような気がしてならないため、大多数の日本人にとっても節分とは豆をまく事が全てです。 言い換えれば、豆がまかれた時それが節分なのです。勿論節分とは豆をまくだけではないと 仰られる方もおられる事と存じますが、どうぞ覚えておいてください。僕がオピニオンリーダーである限り、 貴方は異端なのです。時代が時代なら弾圧を受けていた事でしょう。何か凄い熱いものを押し付けられたり、 お風呂から出てきたらパンツが無くなっていたりしたかもしれないのです。今、何故かノスタルジーという 単語が頭に浮かんで参りましたが、それは心の深部に押し込めて、節分です。豆がまかれた時が節分で あるならば、慣習としての節分の起源とは別に我々の思う節分の起源が当然存在し、 まず第一にマメ科の植物は最初の哺乳類が誕生する以前からあった点、そして次にマメ科の植物の 繁殖は豆によって行われる点を考慮に入れれば、答えは明確です。節分の起源は、人類の誕生する遥か以前、 最初のマメ科の植物が生まれる数週間前、その種子、即ち豆が地表に落とされた時なのです。 仮にその豆がただ「落ちた」だけであるならば「まく」という能動的な行為とは言えず、 これは節分の起源とは成り得ませんが、その豆は繁殖という明確な意図をもってホストによってまかれたものであり、 これはもう節分以外の何ものでもありません。最初の節分は太古の昔、最初の豆が落ちた時だったのです。 さて、そんな生物史上最古の歴史を持つ節分でして、この伝統を鑑みれば節分が非常に 重要な儀式である事はあらためて説明するに及ばず、節分なくしては二月はないと言っても過言では ありませんので、残念ながら僕の二月はありませんでした。さようなら二月、 お前のそのとんがった所(28日までしかない所とか4年に一度とか?)嫌いじゃなかったよ…

 という訳でして明日から3月となります。が、しかしながらカレンダー上ではまだ2月は残っている事に なっておりますので、暦にずれを生じさせない為の方策として、明日2月5日の午前0時より 3月2日の午前0時までを3月1日とさせて頂きます。関係各位におかれましてはよろしくご対応ください。



04/03/01 (04/02/21)

 前回の日記にある通り、諸事情により例年より一月近くも早く3月1日を迎えてしまった訳でして、 その3月1日も今日で17日目に突入致しました。しかしながら、未だ唯の一人も僕に祝いの言を述べる者は 現れず、元来内へ内へと向かう傾向のある僕ですので、いつにも増して内へ内へのエネルギーを強めていった結果、 銀河系に新しくブラックホールが誕生する日も近そうです。こんにちは。都築何とかです。下の名前は既に ブラックホールに押し潰されました。このままでは全人類はおろか太陽系の全てが僕の下腹部に出現しつつ あるブラックホールに飲み込まれてしまう事は明白であり、逃れる手段は唯一つ、僕のブラックホール化現象を 阻止する他ございません。それでは何故僕はブラックホール化しつつあるのでしょうか。それを解明しなければ ブラックホール化を止める事はできず、3月2日の午前0時、世界は、終わるのです。

 さて、ところで話は全然変わりますが、高度知的生命体である所の人類にはその誕生日を祝うという 風習がございます。僕がもし誕生日に何か好きなものを貰えるとしたら、欲しいのは物ではなく、 ただ「おめでとう」という心からの気持ちそれだけであり、他には何もいりません。しかしながら、 残念な事に気持ちは目には見えませんので、それは非常に分かりづらいものであると言わざるを得ません。 もし折角の気持ちが伝わらなかったら、そんな悲しい事はないと言えるでしょう。ですから、 気持ちは分かりやすく目に見える形で伝えられるべきであり、そしてまたその形は誰にでも簡単に気軽に 表せる物であってはなりません。詰まる所、僕が欲しいのは高価な物という形で伝えられる気持ちです。 あくまでも欲するのは気持ちですが、その結果としてね、高価な物がね、手元にね、こうね。

 という訳で途中蛇足の段落を挟みもしましたが、兎角、世界の終焉は間近であります。 残す3月1日はあと1週間と少し、皆様のご健闘をお祈りしております。さようなら。



04/03/09

 こんにちは。前回あれだけ煽っておきながら、実際3月2日を迎えても一切何のリアクションも とらなかった事に関して、二、三のご説明させて頂きますと、第一に面倒臭かった、第二に飽きた、 第三に死んでしまった、とまあこのようなアクシデントに見舞われおった訳でして、どうにも 仕方がなかったのだと思います。死因は、コンビニのレジに商品を出した時店員から「こんにちは」 と言われたので「こんにちは」と返したその後ろを商品を搬送してきた業者の人が通って行った事による ショック死です。最後の言葉は「もう二度とあのコンビニには行かない」でした。お悔み申し上げます。



04/03/19

 ちょっとどうしても外せない用事がございまして、明日から二日ばかり更新する事が叶わぬ夢となりました。 二日間も更新できなくて、本当に申し訳なく思っております。ゴメーンナサーイ。



04/03/20

 「僕には苗字の異なる兄弟がおります。これは複雑な大人の世界の言葉で言う所の何とか違いに 当たる訳ですが、まあ態々隠すような事でもございませんので申し上げますと、結婚しただけです。 ですから何とか違いってのは筋違いとかまあその辺なんじゃないかと思いますので、よろしくどうぞ。 しかしながら、大人の世界の複雑さ加減は我々の想像を遥かに凌駕するレベルでございまして、 そもそもが僕は一人っ子であります。確かに冒頭で「僕には苗字の異なる兄弟がおります。」と 宣言しているにもかかわらず、僕には兄弟がいない。ここから導き出される答えは一つ、あっても二つ、 最初の僕と二回目の僕が別人であるか、考えにくい事ですが、僕がいきなり嘘を吐いたかのどちらかなのです。 それでは果たして僕は嘘を吐いたのでしょうか。「吐いてません。」という事で最初の僕と二回目の僕 (以下僕)は別人である事が証明されました。

 さて、「僕」とは一人称でありますから、最初の僕と僕とはそれぞれ当該文章をタイプした人間を 指していると考えられます。ここで問題となるのは、それらの文書をタイプしたのは間違いなく僕である、 詰まり一人しかいないという点です。最初の僕と僕が別人であると証明された以上、 一見これはあってはならない事であり、先の証明が否定されてしまったかのような印象を受ける事かと存じますが、 人を認識したらしめるのはその精神であるとするならば、問題は氷解致します。 最初の僕と僕は確かにどちらも僕ではありましたが、精神的な部分で異なっていたのです。 しかしながら、最初の僕と僕がどれほど精神的に異なっていたとしても、肉体的には同じである訳ですから、 急に兄弟が出来たりする筈はありません。そこで注目すべきは「苗字の異なる」という部分であります。 最初の僕は人類の全てを兄弟と表現したと考えるのが自然でしょう。人類皆兄弟という言葉もあるように、 この考え方自体はそれほど珍しいものではございませんが、しかしながら実際に他人を兄弟と呼ぶ事は 普通には有り得ないと言っても過言ではありません。また最初の僕は兄弟、即ち全人類は結婚していると言い、 そしてそれを筋違いであるとも言っております。これは正しく予言じみた何かに相違なく、 結婚とは即ち血痕であり詰まりは殺人や戦争を、筋違いとは筋を違えると痛いので詰まりは良くないって 事を指し示しておる訳で、簡単に要約致しますと「人が人を殺すのは良くないよね」 って事になるんじゃねーの?」みたいな事をしたり顔で言い出したので全力でぶん殴った。

10月全般     2004年春