静かの海


 

  真摯なまなざしに正面から踏み込まれる。
唇がやわらかく瞼におちて、絡め取られた指におちて。
一瞬後に力の限り抱きしめられた。

 

 徐々に外気にさらされていく身体に、大きな手が確かめるように触れてくる。
背中の下にある自分の衣服の感触がひどく非日常的で。重なってくる熱い身体とその重みが、愛しくて狂おしい。
低くかすれた声が耳元で繰り返し自分を呼んでいる。応えたいのに、息があがって乾いた吐息しか出てこなかった。
熱く濡れた感触がそこここにおちる。漏れそうになった声を飲み込めば、頭の芯が痺れて溶け出すような気がする。
 長い年月を共に生きてきて、それでも、こんなふうにお互いの体温を重ね合うときがくるとは思わなかった。
いつも傍らにいた、同い年の従兄弟。自分とよく似た相貌の、けれど自分とはまるで違う気性の従兄弟。
こんなに、溢れ落ちるほどいとおしいのが不思議なくらいだ。
 いつもの従兄弟からは想像もつかない性急なしぐさ、熱っぽくかすれた声。
生まれたときから知っている相手なのに、初めて見る人間のようで。
心許なさに、縋るものをさがして手を動かすと、察したように首に腕をまわしてくれた。
「・・・怖いか?」
せわしない呼吸の隙間に訊かれて、首を横に振る。
「怖く、ないよ」
そう、お前が怖いわけじゃない。この追い詰められるような、高みに持ち上げられるような感覚に心が追いつかないだけ。
 いつもなんだかんだと自分を優先してくれる従兄弟。かくいう自分もこの従兄弟には甘いのだが、それ以上に自分は甘やかされてきたのだと思う。身動きできないような重み、離さないと告げる強い腕にそれを知る。
目の前のその身体に縋りつくと、どちらのものかわからない速い鼓動が熱を煽る。
「_____っ・・・ラトリ、オ・・」
声は喉に絡まって、とぎれとぎれだった。
「・・オラトリオ・・」
宥めるように頬が摺り寄せられ、口付けがおりる。目元を唇で拭われて初めて、自分が泣いていることに気がついた。
 いつもはただただ優しい手が、いたわるように、そのくせ有無を言わせない強さで自分を抱いている。こんなふうに優しく奪われていくことも、奪っていくのがこの男だということも、はるかな約束だったように。
混乱と羞恥と、目も眩むような幸福感。身体の奥で強い力が明滅する。
もう、わけがわからない。わからない。
深く口付けられて目を上げれば睫毛が触れそうな距離で、金糸の隙間から暁色のまなざしが了解を求めてくる。うわごとのような微かさでかろうじて応えた。
 目を閉じていたいけれど、姿が見えなければ心細い。
熱い手に両脚を押し開かれながら、唯ひとつの救いのように名前を呼んだ。


 反射的に逃げかかった腰を押さえられて、より深く合わされる。堪えきれずに声を上げると、呼応したように従兄弟の身体が震えるのがわかる。
はねる背筋を何度も撫でてくれる手。
真っ白に灼けおちるような感覚に、爪の先まで染まる。
 自分を覆う何もかもが剥がれ落ちて、還っていく。この想いが生まれた場所へ。
もうやめてほしいと懇願したいのか、離さないでほしいと懇願したいのか自分でもわからない。
混乱した意識の隅で、かつて従兄弟と二人で海を見に行って、溺れかけたときのことを思い出した。


 10年近くも前のことだ。従兄弟と二人で海に行った。夏ももう終わりで特に泳ぎに行ったわけではなく、ただ人のひいた海が見たかっただけだった。
傾きかけた日差しはそれなりに暑かったが、それでも盛夏の狂気じみた暑さを思えば確かにもう夏は過ぎたのだという気がした。
 セルリアンブルーの空を映してうねる波は、荒れてこそいなかったがけっこうな高さで、砂浜を覆い隠してはひいていく。
砂浜を歩きながらぼんやり海を見ていたら、波をよけ損ねた。
一瞬、何が起きたのかわからなかった。ひやりとした水の質感が押し寄せ、全身を押し包んで、問答無用の勢いで海に引き込まれた。従兄弟の切迫した呼び声を聞いた気がしたけれど、波にかき消されて水の音ばかりが頭を圧迫する。
 泳げないわけではなかったが、咄嗟のことで手足が自由にならず、目がまわる。息が詰まり、平衡感覚をなくしてもがいたその時、強い力が腕を掴んで海から引き上げてくれた。従兄弟だった。


 あの、波にのまれる感覚。
絡めとられて、わけもわからず巻き込まれる。逆らいようのない引力。あの感覚と同じだと、白濁した意識の中で思う。
 けれど、あの時のようにそこから自分を引き上げる腕はない。
さらっていくのは、お前。
オラトリオ。お前が。
お前こそが、押し包み、連れ去る引力。
呼吸ごと、身体ごと自分をさらっていく絶対の力。
オラトリオ。
お前、が。


 中に挿れたまま、揺らされる。苦しげな呼吸が耳を打つ。
 しがみついていた手を放し、従兄弟の頬を撫でて、自分からキスをした。
触れ合わせた唇に、ようやく捕まえた言葉をのせる。
「・・・お前、が・・好きなんだ・・」
好き、と繰り返すと、暁色の瞳が見開かれ、いっそう強く抱きしめられ。
苦しいほどの囁きで、愛してる、そう聞いた瞬間何も見えなくなる。
甘い衝撃が背筋を駆け上がり、そしてゆっくりと、すべての音が遠ざかった。

 

 

 もつれあうようにして波の届かない砂浜へ座り込むと、温かい砂の感触が優しかった。
何事もなかったような、のどかな白い日差し。
「大丈夫か?」
全身ずぶ濡れの従兄弟が勢い込んで尋ねる。
「だ・・っいじょうぶ・・。ありがとう」
咳き込みながら答えると、溺れかけた恐怖よりも奇妙な昂揚感と安堵で笑いがこみ上げてきた。
「オラクル?」
気づかうように肩を掴んで、従兄弟が覗き込んでくる。
息が切れて、力が抜ける。無性におかしくて笑い出してしまった。従兄弟の肩に額を押し付けてくぐもるように笑う。
 従兄弟は一瞬絶句して、やがてつられたようにくつくつ笑い出した。
そのまま砂浜に倒れて、二人で抱き合って笑った。
時間が止まったような透明な空気とその向こうの空。
胸に響いてくる従兄弟の笑い声。髪から落ちる雫。
潮の匂い。
肩を抱かれて、首を引き寄せて。
濡れた額をくっつけあって、いつまでも笑った。

 

 

 目をあけると、鼻先が触れるほどの距離から従兄弟がこちらを見ていた。
「私、寝てた?どのくらい?」
「1時間くらいだな。」
困ったような甘い笑みで口付けられる。目を閉じてそれを受けると、目じりに溜まった雫が流れ落ちた。こんなに涙が出るのは両親が死んだとき以来だ。けれど辛いわけではない、哀しいわけでもない。器に入りきらない水が溢れるように、流れていく温かい雫。それを指先で拭ってくれながら、従兄弟が尋ねる。
「夢見てたのか?」
「うん、昔の夢。・・・お前と海を見に行ったときの。私が波にさらわれて、お前に助けてもらった」
「ああ、覚えてる。あの時は俺の方が死ぬかと思った」
言いながら額を触れ合わせる。くすくす笑うと振動でまた雫が落ちた。
 湿った金色の髪。潮の匂いがした気がして、深く息を吸う。屈託なく抱き合って笑った少年の日。
 あの頃に戻ったような。あの頃を永遠に失ったような。
死んでしまった愛しい人に再会したらきっとこんな気持ちだと思った。
目を伏せた従兄弟の顔を見つめると、緩やかな幸福感が胸を満たす。
いつでも余裕たっぷりのくせに妙に隙のない顔をした従兄弟の、甘えるような、安らいだ顔。
従兄弟が自分に見せるこんな表情も、幸せで。
 もぞもぞと擦り寄ると、従兄弟の長い腕が閉じ込めるように自分を包んだ。自分も、従兄弟の首を抱き返す。
「あんなコトまでしといてなんだけど、子供の頃に帰ったみたいな気がするな」
従兄弟の呟きに思わず目を見開いて、そして、うん、と頷いた。笑みが漏れた。
「なんか子供のお前を抱いてるみたいだ」
「うん。私も子供のオラトリオを抱いてるみたいな気がするよ」
お互いに声もなく笑いあって、布団を引っ張り上げる。
泳いだ日の夜みたいな温かい気だるさが全身を包む。
静かな呼吸を聞くともなく聞いていると、とろりとした眠気が漂い始めた。
呂律のあやしくなり始めた従兄弟の呼ぶ声が忍び込んできて、返事をしたが、その声は自分にすらよく聞こえなかった。

 そうして、寄せ合った身体が同じ体温になる心地よさに、二人一緒に眠りに落ちた。

 

 

2003.4.9


 

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