『コントラクト・キラー』

「コントラクト・キラー」は実にスタイルの重要さを
示してくれる映画である。

★★★★
1991/年 銀座テアトル西友 21:30


 「コントラクト・キラー」は実にスタイルの重要さを示してくれる映画である。武の「あの夏、いちばん静かな海」もそうだが、シナリオを読むことと映画を見ることという行為に何の関連もないのである。そこが「シラノ・ド・ベルジュラック」などの文芸大作との決定な相違点である。シナリオから飛躍しない映画は映画でない。”本が脚ち(たち)あがる”ことが不可欠。「ことば」は映画の敵であり、言葉以外の映画を支持することがぼくの使命である。ことばを使うのはいいが、言葉に使われる(支配される)映画は嫌いだ。

 しかも、カウリスマキはその様なスタイルを提示しつつも、完璧な映画を作ったりしない。彼の映画にはぼくらが入っていくことのできる余地が必ず残されている。完璧ではないのだ。だからこそ、題材との呼吸が合わぬ時は、我々を困惑させるような空虚さを示してしまうのである。(「マッチ工場の少女」)しかし、そのような不確定性は映画が生き物である以上必然であり、映画が生き物である証なのである。我々もそのことを当然のこととして受け入れている。「コントラクト・キラー」は映画の持つ可能性の域を余すことなく示す傑作である。