映画は決して教科書には成り得ない。というのが、ぼくの持論である。なぜなら、映画は映画としてしか成り立たず、日常生活とのつながりを断つことで、己のリアリズムを保つことができるからである。だからこそ、この映画を見て決して人生の貴さなどといった世俗的なことは学べない。しかし、そうつぶやきたくなるような静けさと、暖かさを持っている映画だと思う。そう、人がたくさん死に、家族が崩壊していく中で、明日に背を向けることなく、顔に微笑みを浮かべながら、明日に対峙する。その素晴らしさ、それが、この映画からは感じられる。
ショーン・ペンに対するイメージはマドンナの元だんなで、暴力沙汰によく巻き込まれるひものようなヤツといったものでしかなかった。その彼が撮ったこの映画では、画面からはバイオレントなシーンは削除され、映画は静かに進んでいく。これは意外だった。
現在、画面の映画に出会うことはほとんどない。映画である以上、映像中心に動いていくのが当然のように思えるが、いまでは、そのような映画に出会うのはまれである。今のアメリカ映画は、とくに、「ゴースト」以降、脚本中心の思考が強まっている。制作者は脚本に大金を投じ、演出家は脚本を画面に刻みこむことに腐心し、観客は画面の中に書き込まれた脚本を理解する、という図式が顕著である。ここでは画面の中でストーリーが展開されるのではなく、あくまで主体は映画の外にありつづけるのである。いい脚本を獲得することは、映画においてスタートであって、決してゴールではないのである。しかし、制作者はいい脚本によって、良作(アカデミー賞にノミネートされるような)が保証されるため、ますますこの傾向が強まっていくのかもしれない。そして、観客は映画を観ているのではなく、単に脚本を読んでいるにすぎないのだ。
しかし、「インディアン・ランナー」は画面の映画だ。ショーンのこの映画の中の人たちは、この映画の中でのみ存在感を持ち得るのである。それが、映画にとってのリアリズムだからだ。
映画自体が素晴らしいのとともに、画面の映画であることからもこの映画は徹底的に擁護されるべきであろう。映画が映画から離れているなかで、今多くの映画が失いかけている映画の本質を映画全体で示しているのである。