冒頭のシーンはすごくよく、海の上をカメラが流れ、視線を中に解放することで、頭をトリップさせてくれる。このように、ベッソンは所々いいショットがある。プールで、ジャックとエンゾが出会うシーン、大人になったエンゾを背中からとらえるショットも最高だ。
しかし、しかしだ、そのつなぎがまったくダメだ。決定的なのは人の描き方の才能を欠いていることだ。とにかく、人の顔のアップのみで映画が進むので、ひどく息苦しい。だから、ときたまロングで人をとらえたりすると(イルカを海に運ぶシーン)ほっとする。
そうした撮影方法以前に問題にしたいのは、あまりに凡庸な、反映画的態度だ。その態度とは、ほとんど映画が自分で描き尽くし、描くことができない部分を自然や動物に頼っている安易さのことだ。それが、その姿勢が人の描き方にあらわれる。この映画においては話し手がすべて正面から(バックからではないということ)映され、観客は顔の表情を確認しながら、映画は進む。決して、人の存在が画面に充満するような場面はないのだ。駆け足で映画は進む。そして、それを”言葉”がつなぐ、だからひとつひとつのシーンが希薄なのだ。(ジャン・レノをのぞいて)ジャン・レノと他の役者が決定的に違うのは、彼が”演技”をしていないことなのだ。
話がすべて画面上で語られてしまうのから、話が意外性がないまま進む。だから、プールに飛び込んで酒を飲むシーンはその意外性からも躍動感をもちえていた。そんなちょっとした意外性が他のシーンの凡庸さをきわだたせてしまう。
まず、エンゾが難破船のなかで潜水夫を救出するシーンです。あのシーンでは潜っている間に陸上のシーンを挿入すべきではなかった。ベッソンは陸上で不安そうにしている保険屋を観客に見せて、”エンゾの息がつづくのか”という不安感を観客に植え付けた。これではダメなのだ。あれは水のなかのカットだけをつなぐか、陸上のシーンだけをつないで観客が自ら”エンゾがこのまま息がつづくのだろうか”不安に感じるようにすべきだった。
あとひとつ、ジャックが雑誌で赤ちゃんの写真をみているシーンもそうだ。あのシーンも話し手を映すカットをつなぐ凡庸さが露呈していた。あの時は、赤ん坊をみるジャックの無表情な表情を映しつづけ、それにジョアンナの声をかぶせるべきだった。観客にとって、その声がジョアンナの声であるのは自明であるし、ジョアンナの声だけを画面に遊離させたほうが観客が彼女の気持ちにダイレクトのシンクロできたのではないだろうか。彼女の表情に説得されるのではなくて。
エンゾの弟がサングラスをかけただけで、あれほどの存在感を持ち得たことも上記のことからなのではないでしょうか。
たしかにあの映画は素材がいいのだろう。しかし、素材ではなく、どう描くかが映画を決定する最大の要因である。なぜなら、同じ素材を扱っても人によって描き方が全然違うから。クラシック音楽では原曲は一緒ですよね。芸術では何を描くかより、どう表現するかのほうが大切であるはずです。映画である以上は。小津の作品では、役者と筋がそれほど代わり映えがしないのに、あれほどまで高く評価されるのは小津の撮影スタイル、文体に対してなのでしょう。何を描いたかに目を奪われ続けているかぎり、映画はサブカルチャーから抜け出すことができないでしょう。(サブカルチャーはそれでよいことも多いが、−−−−次元が低いということ。)ぼくにこのように指摘されるのでは完成度は高くないんだなぁ。