この映画を観終わった時、ジム・ジャームッシュ、周防正行の名前が頭に浮かんだ。何がいいたいのかというと、映画技法に対する姿勢についてこの3人に共通するものを感じたのです。すなわち、”技法から、姿勢(心)へ”という正しい道をたどっているということなのです。
この3人、デビューからすごくスタイリッシュな映像を作っていた。例えば、ジャームッシュの『パーマネント・バケーション』。もうほとんど”小津”といいたくなるような作品。こちらが気恥ずかしくなるくらい”小津、小津、小津”している映画を撮っていた。そして、世界的に評価された『ストレンジャー・ザン・パラダイス』。1つの完結していた世界を作っていたし、楽しめたけど、どうも暖かみに欠けていた。次の『ダウン・バイ・ロー』では、その固さがくだけて人が動きはじめた。そして、『ミステリー・トレイン』からは、力みが消え、楽しい映画を撮っている。こういう彼の流れは「映画」よりもアートを志向する人にとっては不満だろうけど、映画ファンにとっては大歓迎だ。
周防正行、彼もそういう傾向がある。デビュー作『変態家族、兄貴の嫁さん』では、やっぱり小津、小津、小津だった。”パロディ”と言われることもあるが、この映画は本人が語っているように”真似”なのだと思う。そして、商業デビュー作の『ファンシイダンス』でも、まだその小津の呪縛から逃れることができず、ちょっと固い映画だった。しかし、その次の『シコふんじゃった。』では、オープニングからカメラが移動し、小津という形式の縛りからの卒業を宣言し、あんなに鮮烈な映画が出来上がった。彼がどこかで言っていた「小津からは形ではなく、精神を学んだ」ということなのだろう。
2人とも”形から心”という、結局人を感動させるのは心なんだという正しい道をたどった結果、このような作風の変化という形になって現れているのだろう。
前述の2人とは、エドワード・ヤンは少し違う。彼は『恐怖分子』ですでに独自の世界を構築していたし、『クーリンチェ殺人事件』もまぎれもない傑作だろう。しかし、彼はその自分自身から、より映画に向かって脱皮していった。前述の2人が、小津から脱皮したのに対して、”完成された”自分から脱皮するという離れ業を成し遂げたすごい人だと思う。
一方で、”完成された”自分”から脱皮するということは、下手すると「後退」という道をたどることになるかもしれない。冒険、挑戦なんだとも思う。例えば、ヴィム・ヴェンダースなどは『世界の果てまで』以降、だれも口にすらしなくなってしまった。だから、同じようなものを再生産したようなアートくさい映画が巷には氾濫しているのだろう。それはちょっとおもしろくない。
もう5年も前になる『クーリンチェ殺人事件』は4時間の長丁場でも非常に高いテンションを保っていた。傑作なんだと思う。でもこれや『恐怖分子』って”傑作っぽい傑作”なんだよね。ぼくは、この時点でエドワード・ヤンのことを”傑作ぽい傑作”を作り上げる作家と誤解してしまいました。すなわち、映画祭受けする傑作を作っていくのだと。
ところが、『エドワード・ヤンの恋愛時代』は、そういう”傑作”をはるかに越えた傑作だった。こういう現代コメディをみごとに仕上げることに、自分の才能、テクニックを駆使するエドワード・ヤンは、もう傑作しか作れないのではないか、観ているうちにそんな気すらした。
ただ、今までのような「いわゆるアジア的な雰囲気」を持っているわけではないので、映画祭で受けないのだとエドワード・ヤンが憤慨しているという記事が新聞に載っていた。でも、映画祭なんてそんなものだし、観客は彼の真の才能の発揮を迎え入れるだけの度量を持っているし、それが映画の目指すもののはず。
この”傑作ぽくない傑作”でまたもやエドワード・ヤンはホウ・シャオシェンの先を行った。ただ、ホウ・シャオシェンは『ナイルの娘』で失敗したが、とても人間とは呼べないほどの才能を持った彼のこと、きっと”傑作ぽくない傑作”を送り出してくれるだろう。『エドワード・ヤンの恋愛時代』は、傑作との出会いの喜び、またある映画作家の逆襲への期待を感じさせた。